ときどき日記 2020 12.3 力のなさを感じます 急に寒くなりました。これが本来の寒さなのだとわかっていますが、朝の寒さ は堪えます。どんよりと曇った外の景色をぼんやりと眺めながら寒さ以上に言葉 にならない寂しさを覚えます。家族がいるので心の中で「私は一人ではない」と 思うのですが、「もし、一人暮らしだったら・・・・。」と思うと孤独のつらさ を考えてしまいます。 大学生の頃、夕方、街からバスに乗ってアパートに帰る時、雑踏の中で「私は 一人ぼっち」と家路を急ぐ人たちを眺めながらホームシックで心が押しつぶされ そうになっていたことが昨日のことのように思い出されます。 心と体の寒さを感じながら週のはじめの街頭演説に出かけます。 大分駅周辺では、職場に向かう人、学校に行く人が行き交い、バスを待っている 人もいます。駅周辺では、朝7時前からすでにお仕事にかかられている人も大勢 います。そんな人たちに頭が下がる思いで、「自分の弱さに負けてはならない。 」と言い聞かせています。 県下には虐待を受けたり、親がしっかり養育したりできない子どもたちが育つ 児童養護施設が9か所あります。多くの子どもたちがそこで仲間と一緒に保母さ んや職員の方々に守られながら家庭的雰囲気の中で3歳から18歳まで生活して います。 高校を卒業すると、施設を出なければなりません。就職する人がいます。奨学金をもらって専門学校や短大や大学に進学する人もいます。 現代は、多くの若者が結婚するまで親がかりの傾向ですが、彼らにはそれは期 待できません。もちろんこれまで関わってくれた大人たちが携帯でつながり、い ざというときには親身になって一緒に考えてくれますが、その大人たちも今関わ っている子どもたちがいますから、常に守られているわけではありません。 仕事についてからの悩みや困難やトラブルもあるでしょう。たった一人で社会 の中で生きている若者に「いつでも来てもいいんだよ。」と支える施設がアフタ ーケアセンターです。一人で頑張っている若者がやってきます。ゲームをしたり テレビを見たり何気ない会話をする中で心のバランスを保っているのだと思いま す。アウターケアセンターは、少ないスタッフで週に2回開設されています。 ただその運営は火の車でした。私は2か月前、その施設が企業の助成金を受け られるようにと応募のためのお願いの文章を書きました。幸いなことにその応募 が認められアフターケアセンターでは「これで何とか来年度の運営のめどがつい た」と喜んでいます。 全国で6か所しか認められず、まるで宝くじに当たるようなものだと運営者は 言われていました。金額にしてわずか30万円です。そのお金をいただくのにこ んな苦労をしなければならないことが残念でなりません。二人のスタッフは、も うお仕事を終えられた年金生活者です。若いスタッフは全くのボランティアで若 者たちを支えています。 私が伺った夜は、「今度のお休みにイルカ島に行こう!」と集まった若者と相 談していました。リクエストに応えて安い材料を購入して豆腐ハンバーグを作っ てもらっていました。 これからの社会を支える若者にもっともっと行政の支援が必要だと実感しています。 桜を見る会の前夜祭で安倍前総理が5年間で800万円を自身の事務所から補 填していたことが、話題になっています。安倍総理在任中には、国会で問題にな り「全く知らないことだ」と答弁していました。当時の菅官房長官は「全く問題 ない」といつも答弁していました。今回は、「秘書が勝手にやっていたから。」 ととぼけた話をしていました。菅さんも「安倍総理が大丈夫だと言っていたから 。」とまたもや逃げの一手です。こんな人たちに7年間も政権を任せていたのか と思うと情けなくなります。 こんな政府にコロナ対策ができるのか!外交ができるのか!と怒りもこみ上げてきます。 写真の犬は、「ココちゃん」です。 いつも伺う、器や「しばさん」のお店の隣のお店の前にちょこんと座っていまし た。「しばさん」には、何度となく通っているのに今まで気が付きませんでした 。一度お店に入りかけて「置物?」と思って戻ってみるとなんと実物でした。 お話を伺うとお天気の良い日には日向ぼっこをしながらじっと座って外を歩く 人を眺めているそうです。もう年を取っていて、おばあちゃん犬なのだそうです がチワワちゃんだから幼く見えます。あまりに可愛いので写真を撮らせてもらい ました。 コロナ禍の中で先の見通しや希望が持てない人が増え続けています。政治に期 待が持てない今の世の中。ココちゃんにはどんな風に映っているのかしらとふと 思います。 2020 11.1 今年もあと2か月 ついこの前まで、エアコンをつけていたのに朝、夕はすっかり寒くなってきま した。特に、毎週、週の初めに行っている大分駅前での街頭宣伝は、わずか40 分足らずなのですが、ビルの陰に立っているので、寒さを実感するようになりま した。「しっかり防寒しなければ・・・。」と思っています。月曜の朝から風邪 をひいては困りものです。 わが巨人軍が、昨夜2年連続38回目のリーグ優勝を決めました。 巨人ファンの皆様おめでとうございます! 我が家は、つれあいが熱烈な巨人ファンなので、ここ数日いつ優勝が決まるの かと気が気ではありませんでした。すでに優勝マジックがもうずいぶん前からつ いていたので、優勝は手中にあったのですが、その日がいつになるのかが問題で した。7月に混戦を抜け出て、首位に立ち連勝を重ねてきたのですが、この機に 及んで連敗が続いていました。 10月30日の試合も3回表にヤクルトに最初に点を入れられました。その裏 に岡本の逆転2ランで勝っていたものの5回表に同点。6回裏に1点を追加し、 勝ち越したものの、8回表にデラロサが出てきた時は、「ダメ!この人はダメ! 打たれる!」とテレビに向かって二人で叫んでいたのですが1点を追加され、ま たしてもヤクルトに同点にされていました。その後も坂本は打てず、頼みの岡本 も空振り、丸もだめでした。結局、ヤクルトと引き分けでしたが、セリーグ2位 の阪神も引き分けだったためその時、巨人の優勝が決まりました。 ホームで勝って、優勝を決められたら良かったのに・・・・。素人はそう思います。 優勝のアナウンスは、10回の試合途中でしたので、ヤクルトの選手や応援団の人たちにはとても申し訳ない気がしました。 今季は、新型コロナウイルスの影響で開幕が遅れたため、セ・リーグのクライ マックスシリーズは行われないそうです。巨人は、11月21日開幕の日本シリ ーズに出場します。パ・リーグ1位のソフトバンクと2位チームによるクライマ ックスの勝者と対戦します。私は、ソフトバンクに期待していますが、我が家に 落ち着いた日々が訪れるのは当分先のことになりそうです。 話は、がらりと変わります。 ずっとイライラしていたことを綴ります。 自民党の杉田水脈衆議院議員は、9月25日に行われた自民党内の性暴力に遭 った女性を支援する体制を話し合う合同会議の場で、「女性はいくらでもうそを つけますから」と発言しました。 この発言が報じられ、インターネットで広がり、抗議の声が上がりだすと、当 初発言を否定していた杉田議員は、「改めて関係者から当時の私の発言を精査し た結果、同上の発言があったことを確認したので、ブログの中でお詫びする」と 投稿しています。それ以上の説明も謝罪もありません。そもそも自分の発言を覚 えていないなんて考えられません。 自民党は、ブログでの説明で幕引きを図りたい考えで、党幹部は「謝罪したか らよいのではないか。党で今何かすることは考えていない」と語っています。 杉田水脈議員の発言は、性暴力根絶に向けて懸命に取り組む運動を後退させか ねない重大な問題であり、明らかにヘイトスピーチだと思います。 杉田水脈議員は、2018年にも月刊誌に「子どもを造らないLGBTの人は生産性がない」と寄稿し物議を醸しだしています。 衆議院本会議でも、選択制夫婦別姓の必要性を訴える国民民主党の玉木代表に 「だったら結婚しなくていい」というヤジを飛ばしたと指摘されています。 杉田水脈議員の発言は、性暴力に苦しみながらも前を向こうとする人たちにと って耐えがたい言葉です。性暴力被害に対する疑いのまなざしが向けられること で、当事者が声を上げられない現状があることを国会議員でありながら学んでい ないのでしょうか。 暴力に苦しむ女性たちを支えるフラワーデモには、全国の人たちから13万筆 以上の署名が集まり、それを自民党本部に届けましたが、事前に連絡がなかった からと受け取りを拒否されています。国会の周りを取り囲むデモが行われていま す。 差別発言を繰り返す議員を糾弾するだけではなく、その周りにいる声を出さな いけれど同調している人たち、そして、一人ひとりの心に潜む差別意識をも私た ちは、考えていかなければならないと思います。 これで終わりにはさせられません。被害者が泣き寝入りし、責められ、声を上 げても無駄だと思わされる社会を止めていかなければなりません。 私たち「立憲ネットおおいた」では、杉田水脈議員に対して発言の撤回、謝罪、議員辞職を強く求めています。 あらゆる差別と暴力に関して、私はいろいろな場所で声を上げ続けます。 一人ひとりが尊厳を勝ち取る日まで。 2020 10.8 父の故郷 安心院 朝、夕はすっかり涼しくなりました。あの暑かった夏を懐かしく感じています。 県議会が終了したその日の午後から学習会で宇佐市に出かけました。 父は、安心院の出身です。一人っ子でした。旧制の宇佐中学に進学して師範学校を出てから、田舎には帰らず、別府で教員になりました。祖父母は寂しかったのでしょうか、休みのたびに孫の私を迎えに来て、私は親や兄弟と離れて父の故郷である安心院で過ごすことばかりでした。 宇佐新庁舎と宇佐市の状況 市町村合併から17年が経過しています。老朽化した市役所は、機能的で開放的な新しい庁舎に生まれ変わっていました。 どこの自治体でも社会保障費が上がり、人件費をできるだけ抑えながら厳しい財政運営を余儀なくされています。人口減少も大きな課題です。宇佐市でも自然 動態(出生―死亡)をできるだけ縮小し、社会動態(転入ー転出)でプラスをめざし、様々な子育て支援や移住政策に力を入れています。 是永市長は「以前は、給付型の施策はなかった。互助会がそれを担っていたが、今は市の行政がやらなければならない。県下の自治体は、競うように施策を打ち 出しているが、本来国がやるべきことだと思う。地方も頑張っているが県も地方のことを理解してほしい。」と言われました。 特徴的なものをお知らせします。 水田大区画化とスマート農業の導入 広大な平野に恵まれた宇佐市では、昔から水田農業が盛んにおこなわれてきました。しかし、農業従事者の高齢化や離農、TPP合意による農産物の関税撤廃など、農業を取り巻く社会状況も変化しています。 農業担い手の圃場が分散していることや農地区画が小さいこと、用水路の老朽化や農道が狭いことを解決するために、農地を集積し、2年前から老朽化した施設などの更新や次世代につなぐ農業構造の基盤をつくるため国営かんがい排水事業に取り組んでいます。 小さな田んぼを集約して大区画化された農地にパイプを埋め込み、地下水位制御システム(フォアス)を導入しています。それにより水管理が簡単になり、通水状況が改善され米作にかかる作業時間も驚くほど短縮されたそうです。 「農道が広くなり、大型機械が利用でき、用水管理もパイプラインになったことで手間が省けるようになった。パソコンやスマホから圃場の状況を管理することができ、トラクターの自動運転で作業の精度や効率も上がった。」と専業農家の方が言われました。 平和ミュージアムの完成が待たれます 掩体壕 宇佐市には太平洋戦争中、海軍航空隊が置かれ、実践訓練を行っていました。 しかし、アメリカの空襲を受けるようになった戦争末期には、特別攻撃隊の基地になり、多くの若者が特攻隊として南の空に飛び立っていきました。 設置された碑には戦争が終わる数カ月前に飛び立っていった若者の名前が記されています。日本中から集められていたことがわかります。 宇佐市には掩体壕(人や飛行機などを敵の目から隠すための施設)をはじめ空襲の跡が残る爆弾池など戦争遺跡が残っています。資料と戦争遺構で構成する「平和ミュージアム」が完成し、「平和の大切さと命の尊さ」を多くの人たちに考える場所になってほしいと願いました。 安心院複合支所は快適空間 安心院複合支所 鏝絵 安心院地域複合支所は、今年の3月に開所されました。 町有林を79.1%活用して造られました。市民が訪れやすく便利で安全で効率的に連携する施設をめざし、観光協会と土地改良区と農業公社と公民館が入っています。 木造づくりなので中に入ると木の香りに癒されます。緊急時の避難所にもなります。安心院は鏝絵が有名です。今は、鏝絵を造れる左官さんはいらっしゃらな いそうですが、鏝絵(こてえ)は安心院に住む人々にとっては慣れ親しんだ風景の一部だと思います。来年「鏝絵サミット」が予定されているそうですがどうぞ 無事に開催できますようにと願っています。 ラウンドアバウト ラウンドアバウト ラウンドアバウトは環状交差点と言われるものです。ニュースで安心院の町中でラウンドアバウトの社会実験が行われていることをお聞きになっている方もいらっしゃるでしょう。私は、以前ポーランドで見ていて、「不思議な交差点だ」と感じていました。 ラウンドアバウトは、道路が集まる交差点で、信号機を置かず車の動きを導入するものです。車は、侵入する時に一旦停止はしません。ウインカーも出しません。時計回りで移動しながら出ていく時にウインカーを出します。 これにより信号待ちの時間がなくなります。侵入する時に車は徐行しますので交差点内の走行速度は30Km以内となります。土木事務所の担当の方は「ラウンドアバウトは折り合いの道づくり」だと言われています。 歩行者は、ラウンドアバウトの外に引かれた横断歩道を渡ることになります。 災害時停電などの時も有効です。導入のための用地買収の必要がありません。 視覚障がいの方にもわかるような配慮もされています。 社会実験中、数件の事故はあったそうですが、ラウンドアバウトに慣れていないために起こったそうです。 10月から本格工事に入り県下に広げていきたいそうですが、まだ先は見えていません。 「あそこにしてほしいなあ。」「あそこが最適では・・・。」と私は秘かに思いを巡らせています。 何十年かぶりに東椎屋の滝に行ってみました。 子どもの頃は、祖父母の家から友達と一緒にスイカを抱えて滝まで遊びに行っていました。「こんなに長い道どりだったかなあ。」と懐かしく思い出していました。 2020 9.22 お茶入れ シルバーウイークで4連休の方も多かったのではないでしょうか。 私は、初日は街頭演説をしました。 2015年9月19日の未明、いわゆる「戦争法案」が参議院で可決されました。あれから4年がたちますが、私たちはあの悔しさを忘れない」という思いで、毎月19日の日に街頭から訴えをしてきました。 政治家が、国民をなめた政治をしないようにこれからも続けていきます。 二日目は、別府霊園にある実家のお墓参りに行きました。 大分市の西の端にある我が家から別府霊園までは、別大国道経由よりも挟間を抜け、志高湖の横を通り塚原を通った方が渋滞もなく、信号も少ないので早く着くことができます。 しかし、その日はいつもと違っていました。城島高原に行く車がとても多く、私たちがそこを通る時、すでに渋滞が発生していました。帰りに通ると、渋滞はさらにひどくなり2kmは続いていたのではないでしょうか。 ずっと自粛を求められていた人々が、動き出したと感じました。すれ違う車のナンバーを助手席からずっと眺めていたのですが、熊本、福岡、北九州ナンバー が三分の一を占めていました。中には、宮崎、鹿児島、愛媛ナンバーもありました。「みんな動いているんだ!!」と改めて感じさせられました。 話は、がらりと変わりますが 県議会では、本会議とは別に常任委員会が行われます。6つの委員会に議員が分かれてそれぞれに参加し、議案を審議し、報告を受けます。 その委員会の時に、必ずお茶が出されます。議会がある時に、臨時的に雇用された女性の方たちが、お茶を入れ、話し合いをしている私たちの後ろから茶たくに置かれたお茶をそっと出してくれます。 初めて議員としてその委員会に参加した時に、私は驚いてしまいました。 「何?!」 他の議員さんたちは、入れていただいたお茶を話の途中に飲まれるのですが、私はどうしても飲むことができませんでした。 女性である私が、特別に議員だけに入れてもらったお茶をみんなの前で飲むことがものすごく不自然なことに思えました。 お茶は、議員だけに出され、説明をしている職員の方には出されません。傍聴者やマスコミの人が見ている前で、今の時代に女性がお茶を入れて出すという光景がものすごく不自然に思えてなりませんでした。 そのことをずっと考えながら、昨年から会派代表者会議に出させていただいているので、今回、勇気を出して「もう委員会でお茶を出すことを辞めにしませんか。どうしてもお茶を飲みたい人は、マイボトルを持参したらどうでしょう。」と提案してみました。 全国の議会を見ても、お茶くみは廃止されるところが出てきています。 議会中に臨時で雇用される方々の仕事を否定しているのではありません。彼女たちの仕事は、書類の整理や会派を訪れた訪問者への接待、事務的補助などがあり、その中のお茶入れだけをジェンダーの視点に立って辞めませんかという提案です。 結論として、お茶入れは、今議会の委員会から廃止されることが決まりました。 しかし、マイボトルは、不必要なものを持ち込むことが禁止されている議会会則に照らし合わせて却下されました。その代わりに、委員会室の外にお水を用意するので必要な人はそれを飲むようにしましょう。と決まりました。 私としては、女性のお茶入れについて会派ごとにいろいろな意見を出して話し合ってもらいたかったのですが、そんな機会には恵まれませんでした。 この胸の中にいつももやもやしていた気持ちを勇気を出して伝えるのに18年もかかったことになります。同時に慣例として行われていることにはおかしなことがいくつもあることを感じています。 安倍内閣から菅内閣に交代しました。 安倍総理は「すべての女性が輝く社会に」と繰り返してきましたが、「女性活躍」とは程遠い社会が目の前にあります。 働く女性の賃金は低く、不安定な非正規雇用の割合は高すぎます。指導的立場の女性割合を3割とは程遠い現実です。 菅政権は、安倍総理の敷いた路線を継承していくと公言されていますので、第3次安倍内閣にならないように願っています。そのためには、私たち女性が声を出していかなければならないのだと自分に言い聞かせています。 2020 9.8 台風一過と台風一家 子どもの頃、「台風一過」と言うのを「台風一家」と思っていて、いったいどんな台風なのだろうかと思っていました。 台風の時期になると「伊勢湾台風」というそれがものすごく大きくて、大変な被害を出した台風だと報道されていたり、当時の映像が流されていたりした記憶 があります。だから、台風が行き去り、大人たちがほっとしながら後片付けをしている中で、「台風一過」という言葉を聞くと、今度の「台風一家」はあの伊勢 湾台風よりも大きな台風だったのだろうかと本気で考えていました。 台風10号は、過ぎ去りました。皆さんご無事でしたでしょうか。 気象庁の報道官が、マスクをつけて、汗をかきながら「身の危険を感じる台風」だと何度も説明している姿を見て、皆さん様々な備えをなさったと思います。 我が家でも、つれあいは、三日ほど前から大型台風に備えて準備をしていました。私は、彼が毎日のようにホームセンターやスーパーで買ってくる防災のための準備物や備蓄できる食料品のレシートを見ながら「はい、ありがとうございました。」とお金を渋々渡していました。 緑色のガムテープのことを養生テープというのだと知りましたが、それをいくつも買ってきました。我が家は、2階には雨戸があるのですが、1階にはありま せん。大きな窓ガラスが6枚と玄関や別の部屋のものを入れると6枚。その12枚は、強風が吹くとどこかから飛んできたもので割れる危険性があります。初め て養生テープを米印に貼りました。 庭の木は、2本しかありませんが、それも風にあおられて根こそぎ倒れては大変だと、しっかりと支えが施されました。 玄関周りに置いてある植木鉢は、一か所にまとめられ、物干し竿も脚立もひもで硬く結わえられました。 「食料品はあるの?」と聞かれ「食品倉庫の中にカップ麺が2つ。ラーメンもあるよ。お米があるから大丈夫!」というのですが「停電になったらお米は炊けな いんだよ!」と言われ、スーパーに買い出しに行ったのですが、駐車場にはいつもよりずっと多くの車が止まっていました。パン屋さんのパンもスーパーの菓子 パンも一つも残っていません。改めて皆さん事前準備されていることを知りました。 金曜日の段階で県内のすべての学校は、台風が最も大分県に近づくであろうと予測されていた月曜日の休校が決まっていました。 時間の経過とともに、交通機関やコンビニや商業施設のお休みも発表されていきました。 「なし農園も風で落ちることを見越して早く収穫するかもしれないね。もしかしたら、今頃、売っているかもしれないよ。」と210号に車を走らせ、庄内なしをゲットしました。 団地には、一人暮らしのお年寄りが何人もいますが、子どもが遠くに住んでいて、大きなものを動かすことが困難な方のところだけ様子を見に出かけました。「もう準備はできましたか。困ったことがあったらお電話をくださいよ。すぐに来ますからね。」と別れてきました。 私たちは、どんなに風が強くてもここで頑張るんだと心に誓い、台風情報をずっと見ていました。南大東島、鹿児島と北上してくる台風を見ながら大分に来る頃には、915hPaという数字が少しでも大きくなっていることを願い続けました。 夜12時過ぎ、雨戸を閉めた2階の寝室に上がり、雨の音を聞いていたのですが、そんなに激しくはなりません。深夜放送のテレビを見ながらいつの間にか私は眠ってしまいました。 朝、起きると大分を暴風に巻き込みながらも台風は対馬のほうに去っていました。吹き返しの風は強かったですね。交通機関は止まっています。甚大な被害がなく安心しました。 住民への避難要請は多くの自治体が出していました。皆さんやはり7月豪雨の記憶があるので、早めに避難所へ行かれる方も多かったのですが、コロナウイルス感染症を考えて、密を避けホテルへ宿泊される方もいてどこのホテルも満室となっていたようです。 県からのお知らせによると、けがをされた方が2名。建物被害が4件。国道・県道被害は少し出ていますが、河川の氾濫や土砂災害がなくてほっとしています。停電が5000戸以上起こっていますので早急な復旧を願っています。 7月の大雨豪雨で被災した地域がまた災害に遭ったらどうしようと気が気ではありませんでしたが、それはなく安堵しています。 でも、これからまた台風が来ることが予測されます。皆さんもお気を付けください。 我が家の木もこのままにしておこうと思います。 2020 8.17 人と人がつながって平和を築いていくしかない 一昨日、シネマ5で映画を見た後、「ご飯を食べて帰ろう!」ということになりました。府内町は休んでいるお店もありましたが、行きかう人は、若者ばかり で「やはり皆さん家にこもっているんだな。」と感じました。昔からあるとんかつ屋さんに入りましたが、ご飯もお味噌汁もカツも大盛でした。出された物を残 さない主義の我が家は、必死でそれに立ち向かい、まるで拷問みたいにそれを完食しました。ですから今日は、少しもお腹がすきません。暑さのせいで水分ばか り摂っているので胃もなんだかおかしいみたいです。 お盆休みが終わりました。帰省する人も少なく、家には教え子と親戚の甥っ子たちが訪れたくらいで静かなお盆でした。 いつも初盆のお参りは、体力と能力を考慮して「お会いしたい人、行きたたいところ」と決めており、それでも20軒以上はあるのですが、今年は7軒だけでした。家族葬が増えて、葬儀に参列する数も減っているからなのかもしれません。 8月12日に伺ったお宅は、なかなか見つからず。目の前のお寺さんにお聞きしてやっと家を見つけました。狭い道を通っていくと、玄関は開いているのです が、何度声をかけても誰も出てこられません。中を伺うと、すぐそこに仏壇があり、お飾りもしてあったので不法侵入でしたが、勝手に上がってお参りし「S先 生、お久しぶりです。あんなに若くしていなくなって・・・・。」と心の中でお話してきました。 2軒目は、マンションです。部屋番号を押すのですが、ここも返答はありません。携帯にかけてみると、お墓に行っているとのことで、「明日の午前中にまた来ますね。」と話して電話を切りました。 3軒目は、ピンポンを押しても壊れているのか返答がありません。お寺さんが来ているようで中でお話している様子がわかります。その時、仏教ではなく神道 だったことを思い出しました。手を打つ音や神主さんの声が聞こえてきます。「待っていましょう。」と決めて、外にずっと立っていました。「Mちゃんは、い つもこの風景を見ていたんですね。」と青々と生育している田んぼの風景を見ていて涙が出てきました。 その後は、順調に回ることができました。1軒1軒のお宅で亡くなった方のことを語り合い、家族がどんなふうに暮らしてこられたかを垣間見ることができ、 教えられ、考えさせられることもたくさんありましたが、「何だかいつもと感覚が違うなあ」そんな違和感を持っていましたがようやくわかりました。 初盆のお参りの時は、毎年学校が夏休みになっています。私がお参りするところは学校関係者が多いのですが、今年はコロナウイルスの関係で、休校が続き、再 開した学校はまだ夏休みにはなっていません。ですからいつもと違う雰囲気の中で回っていました。「こんなことは今年で最後であってほしい。」と願っていま した。 8月6日の広島に原爆が落とされた日。8月9日の長崎に原爆が落とされた日。8月15日の敗戦記念日は私にとっては「平和を願う日」です。 40年前、作家の早乙女勝元さんに平和講演会の後、「ベトナムのダアーちゃん」の絵本にサインをいただきました。その時に「平和は歩いてやってこない」と書いていただいた言葉を毎年思い出します。 戦争の記憶がある方、戦争で大切な人を亡くされた方、いろいろな形で戦争と向き合ってこられた方がいますが、皆さん「平和」の尊さを口にされます。「絶 対に戦争をしてはならない」と言われます。戦争体験者が少なくなり、約8割の人には戦争の経験がありません。だから、「戦争中に起こったことを継承してい かなければならない。」と口々に言われますが、私はなんだか戦争に近づくきなくさいにおいをここ数年感じてきました。 そう考える背景には、こんな政治家の発言や日本で起こっている出来事があります。 ・婚姻・家族における両性平等の規定は、家族や共同体の価値を重視する観点から見直すべきである。 ・国民主権・基本的人権の尊重・平和主義この3つをなくさなければならない。 ・自衛隊が海外で戦争に参加し、自衛隊員の死傷者が出れば、自衛隊の志願者が減り、徴兵制となる。 ・現代のハイテク化した戦争では、徴兵制は不要。子どもでも女性でも3日もあれば、軍人として利用できる。 ・冷戦後、アメリカの仮想敵は中国。中国の潜水艦を太平洋に出さないために九州・沖縄・台湾・ボルネオへの封じ込め作戦のため、与那国島、石垣島、宮古島、沖縄本島、奄美大島、九州各県に配備されていく自衛隊。 こんなことが、「戦争のできる国」に近づいているのではと不安は増長されます。 誰もが、平和に生きていくことを願っていますが、対話で平和を築くのか武力で平和を守るのかと分かれています。 戦後75年、日本の国民は、誰も戦争で命を落とすことはありませんでした。 戦後75年、日本の国民は、誰も武力で他国の人を殺すことはありませんでした。 安倍総理が願っている憲法改正国民投票には850億円の費用が掛かるそうです。そのお金を医療や介護、教育に使うべきではと願います。 東日本大震災から9年。いまだに故郷に帰れない人が4万人以上います。しかし、まるであの大震災はなかったかのような政府の対応には、絶望に近いものを感じています。 国会軽視の現政権を冷静に見つめながら、私たちは、これから育っていく子どもたちに不安のない、本当に平和な世の中を手渡していかなければならない。 だからこそ教育が大切なのだと静かなお盆の中で考えていました。 2020 7.27 豪雨災害から2週間 私が住んでいる団地の中にパン屋さんがあります。若いご夫婦が一生懸命作るパンは人気があり、店内のテーブル席は、医大の学生さんや近所の主婦層を中心 にランチも賑わっています。私は、冷凍庫の中に食パンが少なくなると不安になるので、定期的に行っては食パンや大好きなガーリックパンを仕入れています。 週末に伺った時に店先に学校で育てられていた朝顔が置いてありました。きっと今年1年に入学したHちゃんが育てていたものを学校から家に持って帰ってきたのでしょう。 今までなら、この時期は、学校ではPTAを終え、終業式も終え、子どもたちにとっては、楽しい夏休みになっているはずなのにコロナウイルスの影響で、休 校が続き、その補充のために夏休みがかなり短くなっています。大分県下で一番短い学校は夏休みが9日間というところもあります。 教育課程を終えなければならないことや学ばなければならないことを放っておけないことは理解できますが、子どもたちが楽しみにしている行事もプールもなく、知識だけを教えられることが優先されてしまうのではと不安を覚えます。 友人の子どもは、今年1年生に入学しました。毎朝「国語と算数ばっかりでいやだ。」と登校を渋るのだと言っていました。 学校でも先生方が様々な工夫をしながら子どもたちと活動していると思いますが、学ぶ目的や学校の意義を大人は論議していかなければならないとずっと考えています。 津江に行ってきました 県民クラブで日田学習を終えて帰ってきた翌日から、豪雨が日田地域を中心に襲いました。 伺った地域や、写真に収めた場所、ゆったりと流れる川や手入れが行き届き見事に育っていた杉の山々が、無残な姿で報じられるたびに言葉にならない苦しさを覚えていました。 災害が発生すると、政治家と名がつく方々は、すぐに現地に赴きます。それは意義があることだとは思いますが、予算の執行権を持っている知事や大臣が行く のと私たちが行くのとは少し違いがあります。災害直後に伺うと、土木事務所の方や自治委員さんに迷惑が掛かり、作業を止めてしまう恐れがあるので、私たち 議員はしばらく現地に入ることを辞めています。 しかし、県議会で行われている「災害危機管理対策協議会」での話し合いの中に、学校関係の報告が見られないので、県下で最も課題が生じている日田市の津江小・中一貫校に伺うことにしました。 津江小・中一貫校は、7年前に地域の学校の統廃合により津江小・中学校にできました。いろいろな地域からスクールバスで5ルートを通って子どもたちが通ってきます。小・中合わせて70名以上います。 伺った時、体育館には、14世帯の人が避難所生活を余儀なくされていました。学校に通う子どもたちも二人いました。避難所は、冷房設備がなく、かなりの暑 さです。設備の整った避難所に替わることを行政は指導していますが、皆さんは「自宅が近くにある所にいたい」とここにとどまることを希望されています。様 々な要望が届き、後日大型の冷房設備や洗濯機などが設置されるようになりましたが、それまでの2週間以上、大変な時間を過ごされてきました。避難所生活は 長期化すると予想されます。 校長先生にお話を伺いました。 ・7月7日から休校していた。再開できたのは、7月20日 ・家が壊れた子どもが二人いる ・家が住めなくなって転校した子どももいる ・幹線道路が寸断され、う回路を通ってくる子どもが多いがスクールバス は大きくて通らないので、保護者の送迎に頼らざるを得ない。 ・中学3年生が11名いるが、進路に向けての不安は大きい ・授業確保のため7コマ授業をしているが、子どもの精神的負担は大きい ・7月21日から県からSC(スクールカウンセラー)が派遣され、 子どもたちの心のケアにあたっている ・クラスの中には、何も不安がなかった子どもと、かなりの 恐怖を感じて過ごしてきた子どもが存在している 災害当時、テレビや携帯電話、インターネット、防災無線など避難情報を伝える危機が一切使えなかったそうです。山間部の情報支援が脆弱なことを教えられ ます。安全を確保できる通学路や子どもたちが心にためてしまったいろいろな思いを吐き出すことが何よりも大切なのではと思います。 帰りに被害が大きかった天ヶ瀬地区に伺いました。 テレビの映像では、伝えることができない現実を見ました。 土砂が、こんなところまで押し寄せてきたこと、土台が失われた家屋、外れてしまった鉄橋、そこら中に漂うにおい・・・・・。2週間前までは、いつも通りのにぎやかな生活があったのに。 こんなことが、何回も何回も繰り返されている現実を目の前にして、無力さを感じます。自殺者が出るのではとずっと心配していましたが、ボランティアの人 たちの存在が被災された人たちの心を前に向かせているのだとわかります。ボランティアの人たちにただただ頭が下がります。私がボランティアに行っても、力 が足りず、かえって迷惑をおかけするだけだと思い、申し訳ないのですが寄付をすることにしています。 「コロナとの共存」「経済の再生」と叫ばれ、GoToキャンペーンが行われています。 日本の感染者数は3万人を超えました。東京の感染者は、300人前後でこのところ推移しています。各県の感染者もクラスターの発生で止まることはなく、先の見通しには厳しいものがあります。 経済は、人々が幸せになるためにあるべきではないでしょうか。「命を守る経済」を重視してほしいと切に願います。 コ・ロ・ナという字を組み合わせると「君」という漢字になると短歌を詠まれた方がいるそうです。 4連休の後、また子どもたちは学校に通います。 2020 7.7 地元愛にあふれていた中津江村 線状降水帯の大雨は、球磨川流域に大変な被害をもたらしています。八代では、橋が流され、人吉では堤防の決壊で市内は浸水しています。お亡くなりになった方、心肺停止で助け出された方、行方不明の方が多数出ていて言葉になりません。 昔、川辺川ダムの現地調査で球磨川が急峻な川であり、幾度も水害に見舞われていたことを学びました。 家族で訪れた人吉盆地の温泉旅館は、お風呂が自慢の宿でした。風に吹かれて堤防沿いを散策しましたが、旅館は堤防の下に建っていました。おそらく甚大な被害に遭っているのだと想像し、あの美しかった風景を思い出して胸がつぶれそうなです。 水が引かなければ救助活動や片付けもできないのだと思いますが、今夜からまた大雨が予報されています。そこに住む方々の絶望を思うとき、どんな言葉をかければよいのか見つかりません。 コロナウイルス感染症の影響で学校の休校が続いていて、ようやく学校再開にこぎつけたのに、被災地では学校生活も中止せざるを得ない状況だと思います。これから避難所生活の中で暑さと闘いながら3密にならない状況を確保しなければならないのだと推察しています。 県民クラブでは、大分県下の地域の状況を学び、県政に生かすことを目的に年に数回、地域学習会を持っています。 第2回定例県議会が終了した翌日、7月2日〜3日にかけて「県民クラブ地域学習会IN日田」を行いました。 テーマは 1、中津江村の地域振興 2、山林の状況と木材市場 3、日田彦山線の抱える課題 4、防止教育 「中津江むらづくり役場」 中津江村では、2年前から住民が主体となって過疎、高齢化に対応した新たな組織を立ち上げて活動しています。 5つの部会(学ぶ、くらす、まもる、つくる、つどう)では、「何かみんなが困っていることはないだろうか」と日中の仕事を終えてから集まり活動しています。 一時は人口が7000人いたのですが、今では735人。学校も津江の小・中一貫校にスクールバスで通います。高齢化率は52.2パーセント。今後20年 間で人口は353人減る予想です。でも、数字だけに目をやるのではなく、どう豊かに暮らしていけるかをみんなで考えています。基本理念は、「みんなで楽し く、足りないものは自分たちで」 日田市からの事業費は700万円。そのほとんどが人件費になります。 移住者はいるけれど、なかなか地域になじめず出ていくこともあります。 行政用語でいえば、限界集落なのかもしれませんが、中津江振興協議会の会長さんや事務局長さんの表情には悲壮感はありません。生き生きと語られるその話 についつい引き込まれていきます。10年後の姿をイメージしながら大好きな故郷をいかに守っていくか、そしてそこに全体を見渡しながらいい意味のリーダー がいることの重要性を教えられます。小さいころから知っている者同士だからいろいろなことを進めるのにやりやすいこともあるようです。何よりも住民に周知 され、住民の心のよりどころになっているのが「中津江むらづくり役場」 のようです。 「断固山を守る・田島山業(株)」 現在の木材産業が置かれている状況は厳しいものがあります。戦後一貫して杉・ひのきが植林されてきました。その木が70年経って伐採の時期を迎えていま す。しかし、木材価格は安く、木を伐りだして得た収入からそれらにかかる経費を引くといくらも残りません。外国産に押され、パネル工法が広がり木材需要は 衰退しているのが現実です。ですから、木が育つ間に行う下草狩りも枝打ちも行われず、国土の70パーセントが山林の日本ですが、山は放置されている状況で す。伐採してもそのあとに植林することはせず、山林女子という人も出てきていますが、現実には山に関わる仕事を生業にしている人の数も減っています。 田島山業は、木材の需要開拓による多角化と、生産過程の「見える化」に積極的に取り組んでいます。 地域一体の山を保有し、鎌倉時代から山業を生業にしてきました。木材市場に木を出さず、伐採して丸太は時間をかけて天然乾燥し、製材業者に直販していま す。その木だけを使った住宅を大手建設会社とともに手掛け、「CLT(木材の繊維方向が直角になるように張り合わせて作る木材工法。とても頑丈です。ドイ ツで始まりました。残念なことに時間と費用が掛かるのでまだ日本では広がってはいません。)」を使った日本初の高層マンションを仙台に建て、2019年 「ウッド・デザイン賞」のデザイン賞と特別賞を受賞しています。 50年物の杉がそびえたつ山の中で木漏れ日を浴びながらお話を伺いました。 田島社長は言われます。「林業とは、山に木を植え、育て、伐って売る、そしてまた植える」を繰り返す仕事です。植えた当初、5〜10年間は下草を刈り、 木材品質を保つために枝打ちを行い、さらに大きくなるまでに除間伐を10年に1回程度行います。その間、約40年から50年。どんなイノベーションが起こ ろうとも、この期間が極端に短くなることはありません。」と。 膨大な手間ひまをかけて育てた木を販売するのは、植えた人ではなくその子どもや孫です。山を育てるとは次世代につなぐ壮大なスパンをかけた先行投資なのだと改めて教えられました。 私の家は、木造です。20年前に建てました。1階の腰板と床はヒノキ、2階の床は杉の木です。20年経っても木の香りがします。雨が降った後、お天気になると未だに木がしなる「ピシッ、ピシッ」という音に驚かされます。 でも、設計士さんと大工さんに任せて、「この木はどこから来たのかな?」と考えたことはありませんでした。 私たちは、今後「森を守るためにどうすればよいか」を地域に生きる人間として考えていかなければならないと思います。 「日田彦山線」 2017年7月の九州北部豪雨で被災した日田彦山線は、添田駅(福岡)〜夜明駅(大分)の29.2キロメートルの不通が続いています。 この3年間、JR九州、関係県、地元の話し合いが続いてきました。鉄道での復旧なら年間1億6千万円の地元負担を求めるJR九州の強い姿勢に押されて、 行政と沿線住民はようやくBRT(廃止や災害により廃線になった地域の鉄道路線をバスが走れるようにし、鉄道代替バスを走らせること)による復旧を決めま したが、過疎化の中でどうしたらそれぞれの生活が成り立っていくのか、住民個々の不満は地域ごとにことなりくすぶっています。 現在は、代行バスが走っています。あくまでも鉄道での復旧を願っていた住民の方がいます。BRTに切り替えたほうがよいと判断した住民の方がいます。 BRTに変更したときに、今ある鉄橋の撤去を求めています。以前の豪雨で鉄橋の橋げたに流木がかかり、水があふれだした経験でそう考えます。 勉強不足ではありますし、地域の厳しい実情を軽々に語ることは今はできません。 地域づくり、山を守ること、日田彦山線そしてここには書きませんでしたがカリキュラムに防災教育を取り入れた昭和学園の取り組みを会派で問題共有しながら学習し、地域の方々にとってどうすることが良い方向に向くのかを考えていこうと思っています。 バックナンバーはこちらに移動しました ●2020年1月〜6月6.20 子ども 6.3 大切にしたいこと 5.5 何をしなければならないのか 4.12 システム手帳が真っ白 3.28 コロナ?! 2.25 本当におそれるものは 2.2 気温差23度の旅 1.17 もの言う大人でいたい ●2019年8月〜12月 12.29 暗中模索の中でも人とつながって 11.27 中津は元気だ! 11.1 ラグビーワールドカップの余韻 10.6 この道もある。あの道もあるよ。 9.13 静かな秋が訪れるはずなのに 8.31 全日本少年野球大会 8.6 風蘭とシステム手帳 ●2019年1月〜5月 5.6 戦い終わって・・・ 3.15 あの日から 2.8 どうしてSOSが届かない 1.22 許せないのです 1.6 ボーっと生きてんじゃねーよ! ●2018年7月〜12月 12.4 いつの間にか師走! 11.6 いつの間にか 10.18 駅ピアノ 9.14 おくすり手帳が手放せない 8.18 湯平に泊まりに行こう! 7.31 北海道は20度だった! 7.13 誰にでも起こりうること ●2018年1月〜6月 1.13 ローマ法王のカード 2.6 ぼつぼついこか 3.18 思いやることと忖度すること 3.31 桜の花をゆっくり愛でることができましたか 4.18 大分セブンス 5.7 たまには精進料理 5.31 保健室の先生 6.15 いつになったら幼子の命が救えるのでしょうか ●2017年7月〜12月 12.29 胸が痛みます 11.26 442号は、みんなで取り組んで 11.5 誇りある青春 10.13 NO MORE VIOLENCE 9.19 2年前の今日「戦争法案」が強行採決されました 8.27 今年の夏は 7.15 災害発生から11日 ●2017年4月・5月・6月 6.21 ひと休みして考えよう 5.27 本当に良いものを食卓に 5.6 6年目のフクシマ ●2017年1月・2月・3月 3.29 なかなか訪れない春 3.4 とっても近い国「台湾」 2.12 災害の大きな爪痕 1.21 健康でいることのありがたさ 1.3 穏やかな年の初めに ●2016年10月・11月・12月 12.12 この痛みはなぜ? 11.5 あらゆる暴力がなくなることを願って 10.18 どうしても許せません ●2016年7月・8月・9月 9.24 厳しい現実 ―台風16号被害― 9.7 行く夏 8.21 なつやすみ 7.26 分断されていく人々のこころ ●2016年4月・5月・6月 6.30 今の平和をわざわざ壊しますか? 6.7 新しい判断 5.6 地震?! 4.9 見えにくい子どもの貧困 ●2016年1月・2月・3月 3.13 あの日から5年 2.23 スローフードと空き家対策 1.31 選ぶことのできない世界 1.15 4本のイヤダ! ●2015年10月・11月・12月 12.23 来年こそ民意を反映させることに努めましょう 11.26 暴力の根絶を 10.25 カレーライスとCLT ●2015年7月・8月・9月 9.23 許せない暴挙を前にして 9.6 北陸への視察 8.6 フロイドの深層心理 7.21 民意の拡がり 7.7 子ども最善の利益とは ●2015年4月・5月・6月 6.8 あきれている。でもあきらめない。 5.14 不条理の中で 4.1 みんなに春が来ますように ●2015年1月・2月・3月 3.5 控訴に憤りを覚えます 2.14 鬼は出て行ったかしら? 1.16 T先生を偲んで 1.6 猛吹雪の中で ●2014年10月・11月・12月 12.17 現実を受け止め、諦めない 11.19 民意と政権のねじれの中で 10.29 子どもって 10.6 教えるとは、希望を語ること 学ぶとは、誠実を胸に刻むこと ●2014年7月・8月・9月 9.16 二人三脚でやっていくしかないかな 8.9 福島の子どもたちと過ごした1週間 7.14「えば」のようにしぶとく行きましょう! ●2014年4月・5月・6月 6.27 「ゆふわく」のご案内とご寄付のお願い 6.13 なくならない痛み 5.30 またやってしまった! 5.7 震災からもう3年、まだ3年 4.2 母がいなくなって ●2014年1月・2月・3月 3.3 スリランカに行ってきました。2.1 想像力と思いやりのない人は・・・・1.13 介護の行方は・・・・・ ●2013年10月・11月・12月 12/28 静かな年の瀬に12/18 お気に入りのホテル12/7 久しぶりの別府11/14 結婚式11/5 秋の三連休10/19 どんな秋が来るのかな・・・ ●2013年7月・8月・9月 9/28 施設への入所9/10 いつの間にか夏が行ってしまいます。8/17 お父さん、ありがとうございました。8/2 福島の子どもたちと過ごした5日間7/15 ただ今、奮闘しています! ●2013年4月・5月・6月 6/11 福島の子どもたち保養プログラムにご協力を5/7 「風化しないことを願う」と言われた日4/18 佐高 信(さたか まこと)がおもしろい4/7 来年の還暦までどうしよう!? ●2013年1月・2月・3月 3/16 ありがとうRUPO2/16 諦めない1/31 左に偏っている?1/10 今年の運は・・・ ●2012年10月・11月・12月 12/27 吉田ばあちゃん12/10 教育公務員のあり方は・・・・11/26 地方自治に必要なこととは・・・11/15 水素水にはまっています。11/4 思いのある人、熱く語る10/9 いろんなことがあった1週間 ●2012年7月・8月・9月 9/27 校歌が歌えた!9/4 夏が終わっていきます。8/19 再び東北へ8/6 暑さの中で7/22 もしも・・・はありえない7/10 デンマークの報告E ●2012年5月・6月 6/22 東北に行ってきました6/9 デンマークの報告D5/28 デンマークの報告C ●2012年4月・5月 5/20 デンマークの報告B5/12 デンマークの報告A5/6 デンマークの報告@4/25 無事に帰ってきました。4/11 春の光の中で ●2012年1月・2月・3月 3/31 議会終了3/8 あの日から一年2/21 もうじき春が来る2/2 こんなままではいけない。1/19 圧巻だった熊谷守一展1/10 あけましておめでとうございます。 ●2011年10月・11月・12月 12/29 感謝12/10 師走に突入11/25 ほっとしたこと、楽しかったこと11/16 カーネーションがおもしろい10/27 「チェルノブイリ・ハート」を観てください10/16 気になること ●2011年7月・8月・9月 9/19 今年の夏は8/17 片山さんありがとうございます。7/31 夏、真っ盛りです。7/3 元気をもらいました ●2011年4月・5月・6月 6/14 「マルモのおきて」がおもしろい5/22 初めての大役に・・・4/29 闘い終わって・・・ ●2011年1月・2月・3月 3/21 人と人が支え合って2/27 あの美しかったクライストチャーチが2/9 鳥インフルエンザ1/24 いつもと違う世界にドギマギ、でも癒されて1/7 今年の幕開け ●2010年10月・11月・12月 12/27 様々な出会い12/2 美恵さんのお芋11/14 30回目の車いすマラソン10/30 姪の結婚10/2 インフルエンザ! ●2010年7月・8月・9月 9/20 ここにもあった私の原点9/2 まだまだ暑い日が続いています。8/6 平和を願う日に出会ったメロンパンの少女7/13 吉田忠智さんと言う人 ●2010年4月・5月・6月 6/13 カツオのたたきがない!5/27 牛を食べるということ5/9 ゴールデンウィークに感じたこと。4/23 セブ島4/1 気がつけば春 ●2010年1月・2月・3月 3/4 別れ2/19 Tさんお世話になりました。2/1 先輩に励まされて1/16 油断大敵1/4 若者たちに魅せられて ●2009年11月・12月 12/22 年の瀬に 人生は一期一会と 想い出し12/2 ナショナル・ミニマムの水準を下げないで11/13 朝、一便に乗るためには・・・ ●2009年10月 10/28 欧州旅行記C10/16 欧州旅行報告記B10/8 欧州旅行報告記A ●2009年7月・8月・9月 9/21 欧州旅行報告記 @8/10 暑中お見舞い申し上げます。7/19 野菜を求めての旅 ●2009年4月・5月・6月 6/27 ちょっといい話6/16 ひとり一揆を始めた人がいます5/26 ぺちゃんこな心がふくらんだ打田十紀夫ライブ5/17 「九州ヘラルド」が思い出させてくれたこと5/6 風薫る季節の中で4/4 私が生まれた日 ●2009年1月・2月・3月 3/26 どうしても賛成できませんでした3/9 現場に宿る神様2/12 こわしたくないもの1/30 つかの間の休日に1/8 厳しい幕開けの中でもほっとする瞬間 ●2008年10月・11月・12月 12/23 年の終わりに12/1 “ご縁”があって つながって11/3 小さな運動会10/21 感動をありがとう ●2008年7月・8月・9月 9/9 上海、北京、ロンドン、 でも私の体は帯状疱疹8/2 ばあちゃんたちの「葉っぱビジネス」はものすごい!7/11 お伝えします「大分県教員採用試験贈収賄事件」 ●2008年4月・5月・6月 6/22 初めての経験に四苦八苦5/28 雨の体育祭と中学生の涙5/15 ただいま病気と付き合っていく方法、模索中4/10 さくらの蜂蜜と救われたいのち ●2008年1月・2月・3月 3/16 いつまでも見守りたい子どもたち2/10 魔法の一言1/14 子どもたちを見つめながら春を待ちます ●2007年10月・11月・12月 12/21 静かな時間(とき)もいいものです 12/1 秋は来たのかしら 11/3 20回目のお誕生日おめでとう 10/22 「いぶりがっこ」と「きりたんぽ」の秋田へ ●2007年7月・8月・9月 9/23 大事なものを忘れないで 8/22 不器用に、でも誠実に 8/6 「いのちが一番」いつまでも 7/5 「見事な蘭」を見て、「いのち」を考えます ●2007年4月・5月・6月 6/20 もっと怒ってもいいですよね! 5/22 とても大切な「頭の片隅」 5/5 「母というものは」 4/24 庭の花に癒されて ●2007年1月・2月・3月 3/20 出会いと別れ、新しい旅立ち 2/13 夕餉(ゆうげ)に豆乳を飲みながら 1/31 家族葬にして良かったですか 1/6 静かな年の始まりです ●2006年10月・11月・12月 12/19 甘いおこわと教育基本法 11/26 子どもたちが私のエネルギー 10/30 やりました!団地の「竹宵まつり」 10/8 団地サイズの竹宵をします! ●2006年7月・8月・9月 9/18 無くしてからは遅いのです 9/7 やっと「吉永小百合朗読会」に行ったよ! 8/11 「言葉で勝負!」できたか不安? 7/18 「富山型デイサービス」と「犬山プラン」 ●2006年4月・5月・6月 6/26 自分の目で見て、自分の頭で考えて 5/8 結婚記念日の憲法記念日にこだわっています 4/9 元気もらった、拓郎コンサート! ●2006年1月・2月・3月 3/31 まだ見ぬあしながおじさん 3/7 ときめき「15才の春」 2/23 あきらめきれない数珠の紛失 2/2 悩み続ける「私の子どもたち」 1/5 四苦八苦純子、今年も頑張ります! ●2005年10月・11月・12月 12/27 新しい年こそ「愛の年に」 11/27 「木の香りの家」に癒されて 11/4 失敗、失敗、ドジな私 10/2 そっと、教師や議員から離れてみた夜 ●2005年7月・8月・9月 9/12 私たちに問われているものは? 8/10 永六輔さんが読む“反戦の詩” 7/23 人工林と流木と鉄砲水 ●2005年4月・5月・6月 6/12 住みよい街は自分たちでつくりたい! 5/14 夜道で出会ったものは… 5/6 反日渦中の上海を訪ねる 4/15 政治が民衆を分断している ●2005年1月・2月・3月 3/31 県議会・県警・子どものまわりは花曇り 3/18 レッテル、はる人、はがす人。 2/22 それでもクロッカスは咲いてくれました 〜大分市議選を終えて 1/17 「高校再編」の民意はどこに? 1/1 2005年「命」を考える ●2004年10月・11月・12月 12/2 何故もめる?議員定数問題1 11/29 初めての海外視察 ニュージーランド・オーストラリア 10/25 子ども達は輝いています ●2004年7月・8月・9月 9/24 ゆらいでいる、気候も人の心も 8/24 それぞれの夏〜イラク・アテネ・そして私 8/2 「子どもの未来・障害者の生きがい」を訪ねて 7/20 帯状疱疹快方へ、でもつれあいは熱中症! ●2004年4月・5月・6月 6/30 退院しました!〜県立病院の勤務実態観察記 6/17 帯状疱疹と闘っています 5/31 どげぇなっちょんの? 5/6 つかの間のひとりごと 4/12 私の甥っ子たちの春は… ●2004年1月・2月・3月 3/26 子どもたちは守られていますか? 3/3 幸せな2日目の休みの日に 2/12 心やさしきチャンピオンたち 1/18 雪の下の小さな花たち 1/6 子ども達が大切にされる世の中に ●2003年12月・11月・10月 12/1 視察報告「少しずつ、見えなかったものが見えてくる」 11/17 議会を家庭で傍聴できたらいいな! 10/26 「教育」はだれのもの? 10/4 びっくり視察報告記「ごみもいのちもリサイクル」 ●2003年9月・8月・7月 9/28 励まされています 8/10 風化させてはならない記憶 7/23 やっと夏が来た ●2003年6月・5月・4月 6/22 お葬式と福祉と青リンゴ 6/08 初めての視察 5/19 辺見庸さん 5/07 健ちゃんのこと 4/18 ありがとう、ありがとう、ありがとうございます ●2003年3月・2月・1月 3/28 愚かな戦争に反対します 3/22 “食育”に取り組んでみたい 2/07 ただただ感謝の日々 1/27 二人のおひな様 1/13 ゴミの出し方とカラスの生き方 1/15 新しい年、新しい生命の重みを受けとめて ●2002年12月・11月 12/13 ロウバイが咲いた! 12/04 穴子丼(あなごどん) 12/02 ALS患者郵便投票訴訟 11/24 世界に目を向ける子どもに 11/22 Tさん 11/15 アッタマにきたぞ! 11/13 働く女性の実態 11/4 桜
3.5 控訴に憤りを覚えます 2.14 鬼は出て行ったかしら? 1.16 T先生を偲んで 1.6 猛吹雪の中で