2005.12.27 新しい年こそ「愛の年に」
今年もあと5日になってしまいました。
私は12月21日に宮崎・鹿児島の研修から帰ってきて今年最後の原稿書きに追われています。大掃除もお正月の準備も手付かずで少々焦(あせ)り気味。いつもなら母が来て自然と新年を迎える準備にかかれるのですが、その母も埼玉の弟のところに行ったきり。今年は二人だけのお正月です。まあいいか。と手抜きを決め込んでいます。
今年の世相を象徴する漢字は『愛』でした。テレビで清水寺の貫主様が画く様子を見ながら「どうして?そうじゃないでしょう!」と一人つぶやいていました。
だって今年ほど人の命を軽視した事件に心を痛めた年はなかったからです。アスベスト問題もきちんと整理されないうちに発覚したのは、耐震強度偽装問題です。コスト削減で生き残りや利益をあげるためだけに躍起になっている一部の建設業界の実態が明らかになりました。関係者の言い分は食い違い、責任の擦り合いをしている姿はおぞましい限りでした。簡単に偽装を見過ごしてきた民間検査機関の問題もクローズアップされています。国会での様子を見ていたマンション住民の人たちは一体どこに怒りを向ければ良いのでしょう。一生一代の買い物であるマイホームの夢が無残にも突き崩されて行く様は他人事では済まされません。
広島、栃木では下校途中の小学一年生が 京都では六年生が尊い命を奪われました。毎日と言って良いほど何の罪も無い幼い子どもの命が大人によって奪われています。競争だけを強いられる大人社会は完全に二極化されてしまっています。追い詰められた人々の想像を絶する行動だけが顕著に表れているようでなりません。だから私は、今年の漢字は、『怨』『疑』『悲』と想像していました。
『愛』という字には、「世界に愛があふれて欲しい」そんな願いが込められているのでしょう。政治の世界に期待はできないので自分たちの力で愛と優しさのある社会にしていくしかないのでしょうか。
我が団地では、「東野台の子どもを守ろうよ!」と高齢者を中心に下校時のスクールガード運動が始まりました。子どもたちが学校を出る時刻に合わせて中尾の細い通学路を歩きます。帰ってくる子どもたちは私たちに「ただいま帰りました。」と笑顔を向けてくれます。たすきをかけているので車に乗っている人も会釈をしてくれたり、わざわざ窓を開けて「お疲れさん」と声をかけたりしてくれます。毎日は無理でもウォーキングや犬の散歩の人たちが時間を下校時に合わせてくれるよう呼びかけています。決して大きな運動にならなくてもいいんです。みんなで支え合えることが少しずつ広がっていければと願っています。
日曜日に安東ふさよし市議が毎年行っているふれあいハウスのもちつきに出かけました。今年は最愛の瞳ちゃんが亡くなったので中止にすると思っていましたが、瞳ちゃんを偲(しの)ぶ会にしようと関係者が考えて実行されました。
久しぶりの好天に恵まれ、三々五々仲間が集ってきます。火を起こす人、杵をつく人、丸める人、食べる人、うんちくをたれる人、飲む人、子どもたちも自由に走り回っていました。
もちつきの準備をされたおつれあいの玲子さんはどれほど大変だったことでしょう。でもいつも笑顔で人に接してしている姿に頭が下がります。
何度も死と向かい合い、あのか細い身体のどこにそんな強靭な魂が宿っていたの、と思えるほど瞳ちゃんは最後まで精一杯生きぬきました。私たちに生きることの素晴らしさを無言で教えてくれていました。そして瞳ちゃんを支えてこられたご家族の大きさ温かさをふれあいハウスに集う仲間はみんな知っています。今日は瞳ちゃんの同級生や最後まで支えてこられた病院関係者の方々もいらしていました。そこには『愛』があふれていました。
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もちをつく つれあい |
つたない「ときどき日記」を読んで頂いて本当にありがとうございました。
どうぞ良いお年をお迎えください。
2005.11.27 「木の香りの家」に癒されて
東野台に家を建てて、もうじき6年になります。
家を建てる際に、今まで見てきた中で一番素敵だと感じた家に住んでいる気心の知れた教え子のお父さんにお願いしようと思いました。
建てるにあたって設計士のお父さんから条件が出されました。「もう住宅展示場を見に行くのはやめてください」、そして「二人の生活様式を細かく書いてください」「こんなだったらいいなと思うことを半年間書き留めて置いてください」。その3つです。
私たちは、夢中でレポートを作り、ちょうど6カ月後に宿題を提出しました。それから半年後にA案B案C案の設計図が出来上がりました。今度はそれを3カ月かけて検討しました。どれも捨てがたく、ずいぶん悩みましたが紆余曲折を経てA案に決めました。持っていく家具や本の大きさ、冊数、衣類の量まで調査され9カ月後に二人にぴったりの格安で木の香りのする家が完成しました。
出来上がって3年くらい家を見せてくださいとたくさんの人が来られました。私たちにとって我が家は宝物でした。外でどんなにつらいことがあっても一歩家の中に入れば、癒(いや)されてきました。
そんな大好きな家でしたが1つだけ問題をかかえていました。大雨や台風のときに時々東側の廊下の壁に水が伝います。そのたびに調査をしてコーキングなどの補強をするのですが、忘れたころにまた雨漏りがします。
始めのころは、きれいな漆喰に水の線ができることが耐えられなかったのですが、5年も経つと不思議と平気になります。それでも「もしも雨水が屋根裏で広がり、木材が腐ったりするとまずいことになる」と話し合い、11月25日に雨漏り徹底調査が行われました。大工さんが廊下の天井をのこぎりで切り、穴を開けました。見ていられません。屋根に上って上からホースで水をかけ続けます。「わかった。ここだ!」設計士さんの一声でいとも簡単に原因解明。屋根と屋根のつなぎめから水が伝わっていました。久しぶりに見た屋根裏の木は、6年前建てたときと変わらずきれいなままでした。
庶民にとって家というのは、一生一代の大きな買い物です。誰もが夢を描き、自分の力で宝物を手にします。今話題になっている耐震強度偽造は言語道断。建築物の耐震化は、安全に暮らすための土台です。それを根底から突き崩すことを1級建築士が繰り返し行っていたというのです。人として決してやってはならないことです。大きなビルやマンション、どれだけの人々の夢を壊し、恐怖に追い立てていることでしょう。自らのプライドを失い、丁寧な仕事よりいい加減に仕事をしてより早く、できるだけ多くの仕事をこなす。安全性を無視した業界全体の無責任な連鎖に腹が立ってなりません。
戦後60年、日本は世界中のどこの国よりも素晴らしい発展を遂げたかもしれません。でもその発展に人々の心が伴っていなかったのではないでしょうか。金儲け、能力主義、成果主義、コスト削減。そんなものばかりに流れ、文明は発達したものの文化はどこかに置き去りにされている気がしてなりません。大切なものをどんどん無くしていく大人たちは子どもたちの目にどんな風に映っているのでしょうか。
今日、講演会で佐高信さんは、こう言われました。
「改革というものは、人を生かすもので 人を殺すものであってはならない。」
2005.11.4 失敗、失敗、ドジな私
10月に2週間程、「寒いっ!」と感じたもののまた高気圧がぶり返し、11月だというのに信じられないくらい暖かい日が続いています。皆様お元気でいらっしゃいますか。
我が家の庭は、夏の花が枯れ、秋の花が盛りを過ぎたまま、一言で言うならば荒れてしまっています。早く抜いて天地返しを!と気持ちはかなり焦(あせ)っているのですが時間がとれず、この暖かさにかまけてしまっています。店先のパンジーには決して目を合わさないようにしています。
「昨日の晩ご飯に何を食べましたか?」アルツハイマーの検査にそんな項目があるかどうかは知りませんが、食べることだけが楽しみな私は、即座に答えることができます。でも、「昨日、どんな仕事をしましたか?」と問われたら思い出せません。これってアルツハイマーの初期症状かな?
この1ヶ月は、慌ただしく過ごしてしまいました。DV被害者支援のことで行政への働きかけ、和み空間、フラッグショップ、電磁波の学習会、循環型農業、小学校での授業参加、夜は県政報告会と学習会、時間に追われながら、どれも中途半端になってやしないかと不安です。自分にあった仕事の方法が未だ見つからず、そのせいか、失敗をしました。
失敗1
かつて一緒に働いた先生が『霊山青年の家』に勤務しています。大分市の行革のなかで青年の家が廃止される前に、ゆっくりお会いしようと道順を教えていただき、田尻から登っていきました。進むに従って道は先細りになっていました。左は崖っぷち、右側はこの前の大雨で何カ所も明らかに土砂崩れのあったと思われる箇所。道を間違えた?と不安に思いながらもUターンすることもできず、カーブではクラクションを鳴らし続け、対向車に合図しながらひたすら走り続けました。1時間後に着いたところは『霊山青年の家』ではなく、『県民の森』の池の畔(あぜ)でした。なしか!
いつの間にか雨が降り始め、辺りはもうとっぷりと暮れています。ガソリンもあと1目盛りしかありません。今来た道を帰る勇気は私には残っていませんでした。たまたまドライブに来ていた方に「私は、大分に帰りたいのですがどうすればいいんでしょうか?」と泣きそうな顔で尋ね、教えられたアスファルトの道を下りました。20分後には野津原の『しあわせの丘』に出ました。あれから2週間が経ちますが、未だにどこを走ったのかわからずにいます。
失敗2
新しい「わたげ(県政報告)」の出だしの文面に「沈丁花の香りが・・・」と書きました。本当は、金木犀と書かなければなりませんでした。沈丁花は、春の花です。誰からも連絡がありませんが、よく読んでくださっている人は平岩純子は無知だなーと気づいているはずです。
失敗3
JPUの学習会に呼ばれていきました。人を介しての要請ですが「去年のような段取りでいいから」と言われ、県政報告をするつもりで出かけました。私が1番に着いたので、いす並べを手伝っていると係の人がやって来て横幕を張り始めました。その幕に書かれている文字を見てびっくり「男女共同参画・・・」(えっ!今日は男女共同参画の話しをするの?)それからはパニックです。主催者が私のことを紹介してくださっている間も焦(あせ)りの中で話の組み立てを考え直していました。何を言ったのか支離滅裂でした。1時間たって話を終えましたが、主催者は1時間30分の予定を組んでいたのかもしれません。人を介して話をしてはならない。心底そう思い、反省しました。次の日にお菓子を持って謝りに行きました。
こんなに失敗ばかりしていてよくぞ交通事故を起こさなかったものだと悪運の強さに自分ながら感心しています。
クリスマスのイルミネーションが飾られ始めました。でもまだ師走ではありませんね。今は、霜月です。今年も後2ヶ月もっと慎重に過ごさなければと言い聞かせています。みなさんもどうぞお気をつけください。
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「見つけよう〜仕事、夢、自分」の授業。久しぶりの学校でドキドキしました。子どもたちは、今時の子です。しっかりしています。可愛くて可愛くて。 |
2005.10.2 そっと、教師や議員から離れてみた夜
議員になって2年5ヶ月が経とうとしています。「もう慣れましたか」と聞いてくださる方もいますが、いっこうに心が慣れません。(私は、こんなに軟弱な人間ではなかった。一体どうしてなんだ)とこの半年間悩み続けていました。
教員をしている時は、金曜の夜が楽しみでした。その日のうちに家の事も来週の授業の準備もして翌週に備えていました。時間なんて関係ありません。子どもの事で何かあったら夜中まで動いていました。お父さんやお母さん、おばあちゃんと話をするのが大好きでした。いつも子どもが私を夢中にさせてくれていました。
心にかかる(もや)の原因の1つは、県教委の打ち出す数々の教育改革かもしれません。でもどんな逆境でも弱音を吐かなかったのに。(どうしてこんなに元気が出ないんだろう)その理由が地域の小学校の運動会に行ってわかりました。
議会人は、年4回の議会のサイクルで動いています。でも私は、1週間のリズムで動こうとしていました。学校の1、2、3学期のサイクルでいようとしていました。自分でも気づかない心の奥深くで魂が揺り動かされていたのだと思います。
運動会のピンと張り詰めた空気、音楽、子ども達の頑張る姿、協力し合う姿、歓声は教師としてのDNAを呼び覚まします。来賓席に座っていながら気がつくと私は、教師としての目で子どもたちを追い、励ましの声を発していました。でも私は、その学校の教師ではありません。非常に理解のある地域の方でしかないのです。自分の置かれている位置を嫌がうえにも思い知らされました。「あなたは、もう先生ではないんです。あなたは、議員なんです。」2年前、Yさんが言ってくれたことばを思い出していました。
運動会ではいつもドラマが生まれます。負けた応援団長が必死で涙を堪(た)えている姿、勝った団長が感極まっている姿。本当に頑張ったからこそ感じるものでしょう。それが人々の心を打つのです。そしてそこまで寄り添い関わってきた校長を中心にした教職員集団。そのチームワークが子どもたちを成長させているのだとわかります。評価システム、学力テストの公表、そんなものに振り回されないしっかりとした集団の存在を見た時、涙がこぼれました。
私は、もう学校には戻れない。でも私ができる最善の方法で、子どもを主体とした子どものための教育改革に取り組んで行かなければならないと自分に言い聞かせていました。
22日には、ニ豊学園の運動会があります。26日には、ゲストティーチャーとして学校での仕事も待っています。子どもたちと関われる時間を大切にしながら議員としてやっていこう。運動会のあった夜、独り、静かにそう思っています。 |