ときどき日記


2019 5.6 闘い終わって・・・・・
 
 今年の春は、自分の時間を持つ暇もなく、時間に追われた日々を過ごしていました。ホームページの更新は2か月近くできていません。そして気が付くと、 ゴールデンウィークに突入し、それももう終わろうとしています。10連休の方もいらっしゃって、日本列島での人々の大移動を眺めていました。
 
 5月3日は、我が家の結婚記念日と同時に「憲法記念の日」でした。
 天皇の交代により、元号が代ってお祭り騒ぎをしている人々を眺めながら、国民の象徴ということを改めて考えられた方も多いと思いますが、やはり日本国憲法を巡る今の状況に私は危機感を募らせています。
 「戦争のなかった平和な平成という時代」と言われる方もいましたが、「平成が本当に平和な時代だったのだろうか?」と疑問がわいてきます。
 改憲派の人々は言います。
 「時代が変わっているのだからそれに合わせて憲法も変えるべきだ。」と。
 その言葉に流されてはいけないと考えます。
 日本国憲法は1947年戦争の反省の中から生まれました。だから今年で72回目の誕生日を迎えたことになります。平和主義・基本的人権の尊重・国民主権 が息づいています。そして何よりも憲法は国家権力の暴走を縛るものです。主役は国民です。今、憲法によって縛られている権力を持っている人たちが、自ら縛 りを緩め、憲法の意を解せず、憲法を変えようとしていることにとても危機感を持っています。
 憲法を変えるには、衆参国会議員の三分の二の発議が必要で、それが進むと次の段階で国民投票が行われます。その数は過半数を超えなければならないとさ れ、ハードルは高いのですが、今のように選挙の投票率が低く、政治に対する無関心な状況が続いている中で、果てしない不安を抱えてしまいます。
 
 多くの人たちに憲法に関心を持っていただくように活動していきたい。そして、これからの時代を生きて行く若い人たちに今よりもっと良い時代が来るようになることを希求しています。
 
 
 連休の間にやってしまおうと計画したことが19項目ありました。そのすべてをやり終えて、いろいろなことを一新して、心穏やかに新しい任期を迎える心の準備をしようと考えていましたが、仕事は何とか終えることができたのですが、心がなかなかついていきませんでした。
 
 私は、昨年の11月から半年間、選挙に突入していました。生活時間のほとんどが選挙準備にシフトしてしまうのですからそれは過酷なことで、強い精神力やいろいろなことを受け入れられる柔軟性を維持しなければなりませんでした。



 多くの方々の支援のお陰で、無事選挙を終えることができ感謝しています。
 体の疲れは、時が経てば癒していけるのですが、心が負った様々なことは時間では解決することはできませんでした。
 
 これからの私は、負託を受けた県民の皆様の期待に応えて行くことは明らかなことなのですが、心が何故だかすんなりとは前に進めませんでした。これからの 4年間をどのように生き、どのような価値観を大切にしながら前に進んでいくのかが私の課題でした。当確発表からそのことを考え始めたのになかなか明確な答 えを見出せなくなっていました。今言えることは、人のために生きよう。自分でやれることをやっていこう。評価や人の眼なんて気にせず、気負わずてらわず、 迎合せず、自分の心がビビビーと動くことに取り組んでいくことができればと願っています。4年間という時間はもしかしたらあっという間に過ぎて行くかもし れません。すでに一月が過ぎています。
 人のために役立つことをやっていこうと考える自分を支えてくれているのは、やはり人なのだと気づかされます。人との関わりの中で人は生かされるというこ とを何度も何度も選挙を通じて感じていました。決して一人では生きていけない。そして人との関りの中で人は、時に傷つくことはあっても、勇気をもらい、高 揚感や充実感や自己肯定感を感じることができるのだと。
恥ずかしいことですが、まるで、中学生や高校生が考えるような自己中心的で稚拙な哲学的なことを私は連休中ずっと考え続けていました。
 
 
 かつて、金池小学校と横瀬西小学校に勤めていた時に一緒に勉強したRちゃんとTちゃんが、上野と南大分でお店を開きました。二人とも小学生の時は個性が はっきりしていて結構手がかかる、目の離せないでも引き込まれてしまう魅力を持った子どもでした。高校を卒業していろんなことを経験しながらその子たちが 自分の夢を実現しようと懸命に生きてきた様を私は見守ってきました。
 どちらも焼き鳥や鳥料理が専門で、鳥が苦手な私は食べるものが限られるのですが、店に行くと、私には鳥料理以外のものを用意してくれます。いくつになっ ても可愛いい教え子がつくるものですから、どれもこれも美味しいのですが、二人が元気で働けますように。そしてこの店が多くの人に可愛がって頂けますよう にと祈るような気持ちになっています。
 


 

2019 3.15 あの日から
 
 また今年も3月11日を迎えました。
 東日本大震災から8年。あの時に映像で見ていた景色が何度も何度も蘇ってきて平常心を保てません。
 今週月曜日の街宣では、東日本大震災と福島第1原発事故に多くの時間をかけましたが、しゃべりながら涙が出てきました。
 
 津波は、家も車も防潮堤もすべてを奪いつくしてしまいました。モノだけではなく人間の命も。
 大震災の後、震災瓦礫の問題が起こりました。私は、「受け入れるべきではない。」と語り、文章にも書き、「非国民」だとお叱りを受けました。
 
 がれきと遺体が投げ出された道を、被災地の方々は歩かなければなりませんでした。水産関係の魚もすべて廃棄せざるを得ない中で、信じられないくらい大きなハエが飛んでいた様子もお聞きしました。
 
 宮城県、岩手県は8年と言う時間の中で、人々の復興への願いは強く、様々なインフラ整備が進んできています。
 放射能の心配は未だ払しょくできていませんが、福島県の「帰還困難区域」の解除はどんどん進んでいます。けれども、故郷に帰っていくのは高齢者が多く、 若い人たちは、すでに避難先での生活が続いています。福島県の楢葉町も富岡町も南相馬も広野町も双葉町も高齢者ばかりの地域になっています。
 身元不明の方が、2000人以上いらっしゃいます。魂の入っていない仏壇に手を合わせ、お墓参りをするなかで、見つけてあげられない苦しさとそのことを残された家族の中で、口に出せない葛藤にどれだけ苦しんでいるのかを考える時、なす術のない無力感を感じます。
 
 私たちに今できることは、あの震災を忘れない。そしていつ自分たちがそれと同じ境遇に置かれるかわからないということを自覚し続けることなのかもしれません。つらい現実です。
 
 先週の事です。
 夜、何気なく夕刊を読んでいて、1面の右端の写真に何故だか引き込まれました。Faceに出ている青年が幼なじみの顔を思い出させるのです。名字はその人と同じHさん。職業は美容師。
 幼なじみの彼は、小学校からの同級生でした。結構やんちゃで、ご家族や友人にかなり心配をかけた人生だったような気がします。食道がんで亡くなってもう10年が経つでしょうか。
 1度目の入院の時、お見舞いに行きました。離婚をして、一番下の高校生と一緒に暮らしていることや、その子のお弁当を毎朝作っていることを面白おかしく 語ってくれていました。長男が美容師になっていることもその時に聞きました。退院したと聞いた時は、「良かった!」会ったことはないけれど、「高校生が一 人残されなくて良かった!」と安堵したことを思い出します。
 
 その後、連絡が取れなくなっていましたが、私も仕事で忙しくしていました。
 ある日、突然、彼の弟のTちゃんから「兄貴が亡くなった。」とお電話をいただきました。その時は、葬儀から随分経っていましたが、携帯の中に私の番号が入力されていたので知らせてくれたのです。
 私が、知っている時のTちゃんは、まだ小学校の低学年でした。もう、自分でお仕事をしているそうで、40代になっていました。懐かしい話を随分しました。
 
 夕刊を見た時、もしかしたら、彼の息子さんかもしれない・・・・。そんな思いで、Tちゃんの携帯番号を入れていたので、メールを打ってみました。
 しばらくしてメールが返ってきました。そこにはこう書かれていました。
「そうです!ボクも今見ました。ありがとうございますね!」と
 その後、メールのやり取りをして
「兄貴のコトを憶えていてくれる方がいるのはうれしいです。ありがとうございます!」と締めくくられていました。
 
 幼なじみの彼は、私たち同級生の中では、忘れられない人でした。
 偶然に見た新聞でこんな連絡がとり合えるようになるなんて・・・。しみじみ感じていました。
 
 翌日、Tちゃんから写真が添付されてきました。それはセピア色で随分昔のものです。
 おばちゃんが当時勤めていた、別府の国立病院の庭で、親子3人が映っていました。幼なじみの彼は、まだ小学4年生くらいでした。
 
 すぐさま、お礼のメールを送りました。
「私は、彼の写真が1枚もなくて、何より大好きだったおばちゃんに写真であえて涙が出ます。」と
 Tちゃんはこう返信してくれました。
 「母も純子さんが大好きでしたよ。」と
 

 
 あの日から50年。大切にしていたい心の中の記憶です。人生はいつ終わりが来るのかわかりません。でも、いなくなった人の事を思い出しながら、みんながそれぞれの人生を大切に生きて行かなければならないと感じています。


2019 2.8 どうしてSOSが届かない
 
 節分が過ぎました。中国の春節を祝う人々の移動が始まっているのか、大分でも来日されている人の姿を駅前で多く見かけるようになりました。
 私は、せっかく豆まきをしようと買っておいた豆をまくことを忘れてしまい、がっかりです。教え子のセブン・イレブンに行き、恵方巻をごっそり買い、みん なに「今年は東北東らしいよ!」と分けてあげたのに、自分は1本も食べず、豆もまいていないのですから、自分の中の悪い鬼は出て行かず、「良くないよな あ。」と反省することしきりです。
 
 
 千葉県野田市で小学4年生の心愛さんが、実父からの虐待で尊い命を落としてしまった事件が連日のように報告されています。
 無意識のうちにテレビのチャンネルを切ってしまいます。
 あの細い、少し前歯の欠けたような少女の姿を見ることができないのです。
 (少女は、小学校で一緒に勉強したSちゃんに似ていました。Sちゃんは、事情があっておばあちゃんとお兄さんと暮らしていました。決して裕福ではなかっ たけれど、おばあちゃんの愛情を受けながら明るく育っていました。当時住んでいたアパートは、駅周辺の開発で取り壊わされ今どこに住んでいるのかわかりま せん。12年前電話が掛かってきて、高校を卒業して電機メーカーに就職したことを知りました。すぐにその店に会いに行くと、彼女がてきぱきとお仕事をして いる姿に感動しました。もう31歳になっているはずです。)
 
 2017年11月、学校が児童にとったアンケートの中で「お父さんからいじめられています。」「なぐる、ける、くびをしめられる、げんこつで10 回・・・・。」赤裸々に記されたアンケート。担任は、驚いたと思います。沖縄から転校してきた少女です。「先生、どうにかなりませんか。」と書かれていま した。そこには、正直な切実な思いが込められていたと思います。
 すぐさま、彼女は、児童相談所の審議を経て、一時保護されました。
 
 そのことに激怒した父親は、学校と教育委員会に抗議をし始め、恫喝をしています。これに恐怖を感じた教育委員会は、一時保護するに至った心愛さんのアンケートのコピーを渡してしまいました。
 
 私は、これまで活動してきた中で、保護所の関係者から子どもを引き離された親は、不思議なほど自分がやっていた虐待を認めず、子どもを取り戻そうと必死になると聞いてきました。保護所の建物の周りをうろつくこともしばしばです。
 ですから、保護所は建物内の奥まったところに位置し、外側から自由に出入りができない仕組みになっています。
 
 学校教育関係者は、いつもモンスターペアレントの対応に苦慮しています。何とかこの場を抜けきりたいと考える瞬間も多くあるのも事実だと思います。そもそもそれは穏やかに過ごす学校の現場に最もふさわしくない光景です。
 
 しかし、そのアンケートを虐待している父親に渡したら、虐待はもっと陰湿になるかもしれない。虐待がエスカレートするかもしれないと考えなかったので しょうか。児童相談所や警察や弁護士へ相談し、どんなことがあっても虐待の危険がある親に対して毅然とみんなで対峙する。そのことは、児童虐待防止法にき ちんと明記されているのに・・・・。そこに今回救えるはずの命が奪われた原因があります。
 
 心愛ちゃんへの暴力を見ていた母親も逮捕されました。
 彼女は、夫からのDVを受けていたと報じられています。
 精神的にも肉体的にも、夫からの暴力で支配され、コントロールされていたのだと考えます。心愛さんへの虐待を止めようとするとますます激しくなる。そんなことも背景にあったのではないかと思いました。
 
 児童相談所は、昨年2月、心愛さんが書いた「お父さんにたたかれたのは、うそ。」「じそうの人にあいたくない。」と言う文章に疑いを持っていたそうで す。父親に強制的に書かされていたのではと疑いながら、少女の一時保護を解除してしまいました。心愛さんは、また暴力の中に置きざりにされてしまいます。 児童相談所は、学校での面会しか行わず、家庭への立ち入り調査をしていません。ここでまた救える命が救えなかったのです。
 
 
 児童相談所の業務は多忙を極めています。一人のケースワーカーが抱える案件は多く、大分でも虐待通報はゆうに1000件を超えています。
 学校もいつも何かに忙しく、子ども一人ひとりとしっかり向き合い、子どもの変化を見逃すまいと願ってもそんな時間も作れないような状況かもしれません。
 
 でも、尊い命が、自ら発したおとなへのSOSにしっかりと応えられなかった。
 それ以後、心愛さんは、アンケートに真実を書くことはありませんでした。もしかしたら「大人は私を助けてはくれない。」と学んだのかもしれません。
 
 この事件は、ニュース報道だけではなく、ワイドショーも連日取り上げています。この放送を見た子どもたちは、どんなことを感じているのかしらと考えると、恐ろしくなります。
 
 
 2年前、東京都目黒区で起こった5歳の少女の継父からの虐待死「パパ ママゆるして」を世間は忘れた訳ではないのに。



 あの時の少女は、結愛ちゃん。今回の少女の名前は心愛さん。どちらも「愛」という漢字が名前に付けられています。
 きっと生まれてきた時は、誕生を喜び、愛される子に育ってほしいと願いが込められていたのだと思います。
 
 経済的に厳しく、ストレスを抱える大人は、時として、弱い立場にいる人に暴力という形で向かうと言われています。
社会の有りようにも大きな原因があると思いますが、子どもに大声でひどい罵声を浴びせている声を耳にしていた人がいます。泣き叫ぶ子どもの声を聞いていた人がいます。勇気を出して、関わることができれば・・・・。
 子どもがSOSを出さなくても安心して生きていける社会をみんなで築いていかなければならないと心が折れそうになりながら思っています。
 
 

2019 1.22 許せないのです
 
 つれあいに送ってもらって、旗開きの会場であるOホテルに向かっている途中の事です。
 大道トンネルに入ると、右側車線はかなり混んでいて車は前に進みませんでした。つれあいが
「誰かが大声を出している。」
と言いました。私には、その声は聞こえませんでした。
「あっ!おじさんが降りてきた!」
とまたつれあいが、今度は大きな声を出しました。おじさんは、私たちの後ろを走っている車の運転手のようです。おじさんの車は軽トラック。その後ろにプロ パンガスを運んでいるトラックが止まっていました。軽トラックのおじさんは、車から降りて後ろのトラックの運転手に何やら抗議をしているようでした。
 車が動き出すと、またつれあいが
「あっ!軽トラックがバックしだした!! ぶつかる!!」
と言った瞬間、ガシャンという音が聞こえました。意図的にバックして後ろのトラックにぶつけたようです。
 私は、怖くなりました。2台の車の間に何があったのかはわかりませんが、軽トラックのおじさんの怒りだけが見えているような気がしました。つれあいは、軽トラックのナンバーを携帯に入力していました。
 トンネルから出ると軽トラックは、車線を変更して走り去っていきました。
 これがあおり運転なのかしら・・・。あの軽トラックが私たちの前を走っていて、何らかのことが起きたら、私たちがトラックの運転手のような目に遭っていたかもしれません。
 
 人の心に余裕がなくなり、すぐに切れてしまう若者が起こす事件がいつも報道されます。「誰でも良かった」と後になって犯人の言葉が伝えられます。富山で 交番を襲い、ピストルを奪って警察官を銃撃した事件。原宿で無謀運転をして人を跳ね飛ばした事件。巻き添えを食った人は、とんでもなく迷惑な話で、到底許 せないことですが、こんな「誰でもよかった殺人」が起きるこの国はどうなっているんだ。若者が自殺願望すれすれのところで事件を起こすこんな短絡的な事象 が報じられるたびに、いつも苦しくなってでもどうすることもできずに見ている自分の無力さを感じます。
 
 経済連の中西会長は「原発はもう無理」と公に発言していたのに、それが一転して「原発はどんどんやるべき」と言う恐ろしくなるようなことを記者会見で発 表しました。東京電力福島第一原発事故後、長期間停止している原発について「再稼働をどんどんやるべきだ。」と述べたのです。
「この人は、あの原発事故から何を学んだのだろうか」と私は心臓が飛び出しそうでした。
 3000億円もの損失を出し、イギリスへの原発輸出を断念した日立の責任者である中西会長です。呆れてしまいました。
 未だに故郷を離れている福島の人々の苦しみを感じないのでしょうか。
腹が立ってきます。
 国策で原発を推進しておきながら、事故が起こるとその責任を取るどころか
税金を使って電力会社を救済する。そして被害者である住民を守ることもせず「帰還」を強要する国。
 
 
 沖縄では、普天間米軍飛行場の移設計画を巡る県民投票を実施しないと5つの市が表明しています。沖縄県選出の国会議員が、保守系議員に入れ知恵をし、ま るで圧力をかけるような動きも報じられています。怒りがわいてきます。同時に民主主義を冒涜するような一連の動きに恐怖すら感じます。
 移設問題について県民が意思を示す「県民投票」を5つの市の住民は意思表示できないのです。それは民主主義の破壊です。
 
 衆議院も参議院も数の上では、どんなことが起ころうと自分たちの理論を通すことができるからといって、民意を踏みにじり、力でねじ伏せようとする国のやり方を私は到底許すことができません。
 
 

 児童養護施設「森の木」の玄関前にある花壇です。
 11月に子どもたちが苗を植え、ずっと咲き続けているそうです。
 光の中にほんの少しだけ春を感じる瞬間があります。
 「主権在民」が春と一緒に訪れるといいなあと心に刻んでいます。
 

2019.1.6 ボーっと生きてんじゃねーよ!
 
 明けましておめでとうございます!
 皆さん、ご家族お揃いで楽しいお正月を迎えられましたでしょうか?
 我が家は、いつも二人ボッチですが、私たちには甥っ子や姪っ子が7人います。その子たちが親になり、孫のような子どもは、現在9人です。遠くに住んでいる子には、会えませんが、我が家にやって来てくれると結構にぎやかになり、嬉しい限りです。
  
 昨年の暮れには、東北や北海道に大雪が降り、また一昨年のような豪雪で大変なことになるのでは・・・。と随分心配しました。
 
 大分では、暮れもお正月も寒かったけれど、雨も雪も降らずに助かりました。
 我が家では、毎年元旦の午前中に、賀来神社にお参りに行くようにしています。しかし、毎年長蛇の列ができていて、本殿にたどり着くまでにかなりの時間が かかっていましたからそれを回避しようと、今年は除夜の鐘が鳴りだしたらすぐに出かけることにしました。ところが、やはり同じように考える方が多かったの でしょうか、賀来神社にはすでに長蛇の列。若い人が大勢でした。
 昨年までのお札や破魔矢を処分してもらい、新しいものを頂きました。
 今年は、選挙の年です。「頑張りますからどうぞ無事に当選できますように・・・・・。」と祈りました。
 
 
 今年のおせちは、N県議がご紹介してくれた割烹「平松」さんにお願いしました。素材にこだわっていて、それはそれは美味しく、つれあいをうならせていました。


 
 今年は、紅白歌合戦を、年賀状を書きながらということは、何とか回避できましたが、テレビを見ていて違和感を覚えてしまう場面がありました。
 
 嵐の皆さんが、福島県の飯館村に行った場面を放映していました。
 東日本大震災の後、福島原発事故が起き、放射能の影響で、第一原発のある大熊町から周辺の市や町の住民が避難しなければならなかったことは、7年10か月前のことだとみんな知っています。
 飯館村も強制避難の地域でした。原発事故が起きる前まで、飯館村は、日本で最も美しい村であり、お嫁さんが元気な村だとも言われていました。
 映像は、飯館村を愛し、故郷を忘れられないと戻ってきた人たちの願いや笑いや交流するおじさんやおばさんの姿が映し出しされ、感動的にまとめられていました。
 人が生まれ故郷を愛することも、そこに愛着を抱くこともあたり前のことですし、十分理解できます。でも、「それを美談でまとめてはいけない。」とテレビを見ながらひとり重たいものを感じていました。
 帰還する人々の生活と放射能問題はきちんと分けて科学的に考えなければならないといつも思ってきました。
 楢葉町も富岡町も双葉町も南相馬市もみんな飯館村のような形で帰還政策の象徴になってきました。そのことに違和感を覚えざるを得ないのです。
 
 福島の子どもたちに小児甲状腺がんが多く出ていますが、政府の検討委員会は、中間とりまとめの中で、甲状腺がんの多発は「放射線の影響とは考えにくい」と報告し、決してその説を曲げようとはしません。
 
 傷ついた福島に人々が帰ってきて、絆を深めながら故郷の復興に力を合わせて生きて行く。それは見ている人の心を揺さぶります。「福島がんばろう!」とエールを送りたくなります。
 
 でも、私は、決して忘れません。国策で原発を推進しておきながら、原発事故の責任をとるどころか、次々に避難区域を解除して「帰還」を強要する国のやり 方を。税金を投入してまで加害者である東京電力を救済するやり方を。国民の原発再稼働反対の声は高まっているのに、原発を輸出しようとする国のやり方を。
 
 
 まるでなかったことのように帰還政策がどんどん進められ、福島の抱える深刻な問題から目をそらせられる。そのことが恐ろしいことだと思いました。
 2020年の東京オリンピックの時には、「福島は復活しました。」とアピールしたい政府の考えが見え隠れしています。
 
 マスメディアの言うことだけを信じていてはいけない。チコちゃんではないけれど「ボーっと生きてんじゃねーよ!」と自分に言い聞かせています。
 



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●2018年7月〜12
12.4 いつの間にか師走!
11.6 いつの間にか
10.18 駅ピアノ

9.14 おくすり手帳が手放せない
8.18 湯平に泊まりに行こう!
7.31 北海道は20度だった!
7.13 誰にでも起こりうること

●2018年1月〜6月
1.13 ローマ法王のカード
2.6 ぼつぼついこか
3.18 思いやることと忖度すること
3.31 桜の花をゆっくり愛でることができましたか
4.18 大分セブンス
5.7 たまには精進料理
5.31 保健室の先生  
6.15 いつになったら幼子の命が救えるのでしょうか


●2017年7月〜12月
12.29 胸が痛みます
11.26 442号は、みんなで取り組んで
11.5 誇りある青春
10.13 NO MORE VIOLENCE
9.19 2年前の今日「戦争法案」が強行採決されました
8.27 今年の夏は
7.15 災害発生から11日
●2017年4月・5月・6
6.21 ひと休みして考えよう
5.27 本当に良いものを食卓に
5.6 6年目のフクシマ
●2017年1月・2月・3
3.29 なかなか訪れない春
3.4 とっても近い国「台湾」
2.12 災害の大きな爪痕
1.21 健康でいることのありがたさ
1.3 穏やかな年の初めに
●2016年10月・11月・12
12.12 この痛みはなぜ?
11.5 あらゆる暴力がなくなることを願って
10.18 どうしても許せません
●2016年7月・8月・9
9.24 厳しい現実 ―台風16号被害―
9.7 行く夏
8.21 なつやすみ
7.26 分断されていく人々のこころ
●2016年4月・5月・6
6.30 今の平和をわざわざ壊しますか?
6.7 新しい判断
5.6 地震?!
4.9 見えにくい子どもの貧困
●2016年1月・2月・3
3.13 あの日から5年
2.23 スローフードと空き家対策
1.31 選ぶことのできない世界
1.15 4本のイヤダ!
●2015年10月・11月・12
12.23 来年こそ民意を反映させることに努めましょう
11.26 暴力の根絶を
10.25 カレーライスとCLT
●2015年7月・8月・9月
9.23 許せない暴挙を前にして
9.6 北陸への視察
8.6 フロイドの深層心理
7.21 民意の拡がり
7.7 子ども最善の利益とは
●2015年4月・5月・6月
6.8 あきれている。でもあきらめない。
5.14 不条理の中で
4.1 みんなに春が来ますように

●2015年1月・2月・3月

3.5 控訴に憤りを覚えます
2.14 鬼は出て行ったかしら?
1.16 T先生を偲んで
1.6 猛吹雪の中で


●2014年10月・11月・12月
12.17 現実を受け止め、諦めない
11.19 民意と政権のねじれの中で
10.29 子どもって
10.6 教えるとは、希望を語ること
   学ぶとは、誠実を胸に刻むこと
●2014年7月・8月・9月
9.16 二人三脚でやっていくしかないかな
8.9 福島の子どもたちと過ごした1週間
7.14「えば」のようにしぶとく行きましょう!
●2014年4月・5月・6月
6.27 「ゆふわく」のご案内とご寄付のお願い
6.13 なくならない痛み
5.30 またやってしまった!
5.7 震災からもう3年、まだ3年
4.2 母がいなくなって

●2014年1月・2月・3月
3.3 スリランカに行ってきました。
2.1 想像力と思いやりのない人は・・・・
1.13 介護の行方は・・・・・

●2013年10月・11月・12月
12/28 静かな年の瀬に
12/18 お気に入りのホテル
12/7 久しぶりの別府
11/14 結婚式
11/5 秋の三連休
10/19 どんな秋が来るのかな・・・
●2013年7月・8月・9月
9/28 施設への入所
9/10 いつの間にか夏が行ってしまいます。
8/17 お父さん、ありがとうございました。
8/2 福島の子どもたちと過ごした5日間
7/15 ただ今、奮闘しています!
●2013年4月・5月・6月
6/11 福島の子どもたち保養プログラムにご協力を
5/7 「風化しないことを願う」と言われた日
4/18 佐高 信(さたか まこと)がおもしろい
4/7 来年の還暦までどうしよう!?
●2013年1月・2月・3月
3/16 ありがとうRUPO
2/16 諦めない
1/31 左に偏っている?
1/10 今年の運は・・・

●2012年10月・11月・12月
12/27 吉田ばあちゃん
12/10 教育公務員のあり方は・・・・
11/26 地方自治に必要なこととは・・・
11/15 水素水にはまっています。
11/4 思いのある人、熱く語る
10/9 いろんなことがあった1週間
●2012年7月・8月・9月
9/27 校歌が歌えた!
9/4 夏が終わっていきます。
8/19 再び東北へ
8/6 暑さの中で
7/22 もしも・・・はありえない
7/10 デンマークの報告E
●2012年5月・6月
6/22 東北に行ってきました
6/9 デンマークの報告D
5/28 デンマークの報告C

●2012年4月・5月
5/20 デンマークの報告B
5/12 デンマークの報告A
5/6 デンマークの報告@
4/25 無事に帰ってきました。
4/11 春の光の中で
●2012年1月・2月・3月
3/31 議会終了
3/8 あの日から一年
2/21 もうじき春が来る
2/2 こんなままではいけない。
1/19 圧巻だった熊谷守一展
1/10 あけましておめでとうございます。

●2011年10月・11月・12月
12/29 感謝
12/10 師走に突入
11/25 ほっとしたこと、楽しかったこと
11/16 カーネーションがおもしろい
10/27 「チェルノブイリ・ハート」を観てください
10/16 気になること
●2011年7月・8月・9月
9/19 今年の夏は
8/17 片山さんありがとうございます。
7/31 夏、真っ盛りです。
7/3 元気をもらいました
●2011年4月・5月・6月
6/14 「マルモのおきて」がおもしろい
5/22 初めての大役に・・・
4/29 闘い終わって・・・
●2011年1月・2月・3月
3/21 人と人が支え合って
2/27 あの美しかったクライストチャーチが
2/9 鳥インフルエンザ
1/24 いつもと違う世界にドギマギ、でも癒されて
1/7 今年の幕開け

●2010年10月・11月・12月
12/27 様々な出会い
12/2 美恵さんのお芋
11/14 30回目の車いすマラソン
10/30  姪の結婚
10/2 インフルエンザ!
●2010年7月・8月・9月
9/20 ここにもあった私の原点
9/2 まだまだ暑い日が続いています。
8/6 平和を願う日に出会ったメロンパンの少女
7/13 吉田忠智さんと言う人
●2010年4月・5月・6月
6/13 カツオのたたきがない!
5/27 牛を食べるということ
5/9 ゴールデンウィークに感じたこと。
4/23 セブ島
4/1 気がつけば春
●2010年1月・2月・3月
3/4 別れ
2/19 Tさんお世話になりました。
2/1 先輩に励まされて
1/16 油断大敵
1/4 若者たちに魅せられて

●2009年11月・12月
12/22 年の瀬に 人生は一期一会と 想い出し
12/2 ナショナル・ミニマムの水準を下げないで
11/13 朝、一便に乗るためには・・・
●2009年10月
10/28 欧州旅行記C
10/16 欧州旅行報告記B
10/8 欧州旅行報告記A
●2009年7月・8月・9月
9/21 欧州旅行報告記 @
8/10 暑中お見舞い申し上げます。
7/19 野菜を求めての旅
●2009年4月・5月・6月
6/27 ちょっといい話
6/16 ひとり一揆を始めた人がいます
5/26 ぺちゃんこな心がふくらんだ打田十紀夫ライブ
5/17 「九州ヘラルド」が思い出させてくれたこと
5/6 風薫る季節の中で
4/4 私が生まれた日
●2009年1月・2月・3月
3/26 どうしても賛成できませんでした
3/9 現場に宿る神様
2/12 こわしたくないもの
1/30 つかの間の休日に
1/8 
厳しい幕開けの中でもほっとする瞬間

●2008年10月・11月・12月

12/23 年の終わりに
12/1 “ご縁”があって つながって
11/3 小さな運動会
10/21 
感動をありがとう
●2008年7月・8月・9月

9/9 上海、北京、ロンドン、 でも私の体は帯状疱疹
8/2
 ばあちゃんたちの「葉っぱビジネス」はものすごい!
7/11
 お伝えします「大分県教員採用試験贈収賄事件」
●2008年4月・5月・6月

6/22 初めての経験に四苦八苦
5/28 雨の体育祭と中学生の涙
5/15 ただいま病気と付き合っていく方法、模索中
4/10 さくらの蜂蜜と救われたいのち
●2008年1月・2月・3月

3/16 いつまでも見守りたい子どもたち
2/10 魔法の一言
1/14 子どもたちを見つめながら春を待ちます

●2007年10月・11月・12月

12/21 静かな時間(とき)もいいものです
12/1 秋は来たのかしら
11/3 20回目のお誕生日おめでとう
10/22 「いぶりがっこ」と「きりたんぽ」の秋田へ
●2007年7月・8月・9月

9/23 大事なものを忘れないで
8/22 不器用に、でも誠実に
8/6 「いのちが一番」いつまでも
7/5 「見事な蘭」を見て、「いのち」を考えます
●2007年4月・5月・6月

6/20 もっと怒ってもいいですよね!
5/22 とても大切な「頭の片隅」
5/5  「母というものは」
4/24 庭の花に癒されて
●2007年1月・2月・3月

3/20 出会いと別れ、新しい旅立ち
2/13 夕餉(ゆうげ)に豆乳を飲みながら
1/31 家族葬にして良かったですか
1/6 静かな年の始まりです

●2006年10月・11月・12月

12/19 甘いおこわと教育基本法
11/26 子どもたちが私のエネルギー
10/30 やりました!団地の「竹宵まつり」
10/8  団地サイズの竹宵をします!

●2006年7月・8月・9月

9/18 無くしてからは遅いのです
9/7 やっと「吉永小百合朗読会」に行ったよ!
8/11 「言葉で勝負!」できたか不安?
7/18 「富山型デイサービス」と「犬山プラン」
●2006年4月・5月・6月

6/26 自分の目で見て、自分の頭で考えて
5/8 結婚記念日の憲法記念日にこだわっています
4/9 元気もらった、拓郎コンサート!
●2006年1月・2月・3月

3/31 まだ見ぬあしながおじさん
3/7 ときめき「15才の春」
2/23 あきらめきれない数珠の紛失
2/2 悩み続ける「私の子どもたち」
1/5 四苦八苦純子、今年も頑張ります!

●2005年10月・11月・12月

12/27 新しい年こそ「愛の年に」
11/27 「木の香りの家」に癒されて
11/4 失敗、失敗、ドジな私
10/2 そっと、教師や議員から離れてみた夜
●2005年7月・8月・9月

9/12 私たちに問われているものは?
8/10 永六輔さんが読む“反戦の詩”
7/23 人工林と流木と鉄砲水
●2005年4月・5月・6月

6/12 住みよい街は自分たちでつくりたい!
5/14 夜道で出会ったものは…
5/6 反日渦中の上海を訪ねる
4/15 政治が民衆を分断している
●2005年1月・2月・3月

3/31 県議会・県警・子どものまわりは花曇り
3/18 レッテル、はる人、はがす人。
2/22 それでもクロッカスは咲いてくれました
    〜大分市議選を終えて
1/17 「高校再編」の民意はどこに?
1/1 2005年「命」を考える

●2004年10月・11月・12月

12/2 何故もめる?議員定数問題1
11/29 初めての海外視察 ニュージーランド・オーストラリア
10/25 子ども達は輝いています
●2004年7月・8月・9月
9/24 ゆらいでいる、気候も人の心も
8/24 それぞれの夏〜イラク・アテネ・そして私
8/2 「子どもの未来・障害者の生きがい」を訪ねて
7/20 帯状疱疹快方へ、でもつれあいは熱中症!
●2004年4月・5月・6月
6/30 退院しました!〜県立病院の勤務実態観察記
6/17 帯状疱疹と闘っています
5/31 どげぇなっちょんの?
5/6 つかの間のひとりごと
4/12 私の甥っ子たちの春は…
●2004年1月・2月・3月
3/26 子どもたちは守られていますか?
3/3 幸せな2日目の休みの日に
2/12 心やさしきチャンピオンたち
1/18 雪の下の小さな花たち
1/6 子ども達が大切にされる世の中に

●2003年12月・11月・10月
12/1 視察報告「少しずつ、見えなかったものが見えてくる」
11/17 議会を家庭で傍聴できたらいいな!
10/26 「教育」はだれのもの?
10/4 びっくり視察報告記「ごみもいのちもリサイクル」
●2003年9月・8月・7月
9/28 励まされています
8/10 風化させてはならない記憶
7/23 やっと夏が来た
●2003年6月・5月・4月
6/22 お葬式と福祉と青リンゴ
6/08 初めての視察
5/19 辺見庸さん
5/07 健ちゃんのこと
4/18 ありがとう、ありがとう、ありがとうございます
●2003年3月・2月・1月
3/28 愚かな戦争に反対します
3/22 “食育”に取り組んでみたい
2/07 ただただ感謝の日々
1/27 二人のおひな様
1/13 ゴミの出し方とカラスの生き方
1/15 新しい年、新しい生命の重みを受けとめて

●2002年12月・11月
12/13 ロウバイが咲いた!
12/04 穴子丼(あなごどん)
12/02 ALS患者郵便投票訴訟
11/24 世界に目を向ける子どもに
11/22 Tさん
11/15 アッタマにきたぞ!
11/13 働く女性の実態
11/4 桜