2011.3.21 人と人が支え合って

 地震発生から今日で10日目です。

 私の頭の中に、いつも4つの光景がフラッシュバックしています。

 凍てついた町にうちあげられた船。まるで木の葉のようにくるくる舞いながら濁流に呑みこまれていく自動車。がれきで塞がれた道路。屋根だけ残った家。

 夢であってほしいと、まだどこかで願い続けている自分がいます。

 ある全国組織の労働組合が、選挙の応援をしてくださることになり、事業所ごとに挨拶をさせていただいています。引っ越しで忙しい時期です。地震の影響で荷物をお預かりできるか難しい問題もあり、みなさんぴりぴりしている状況なのに、静かに優しいまなざしで私の話を聞いてくださいます。

 ある時、委員長がこう言われました。「うちの関係者で、死者18名。行方不明者30数名・・・・」その言葉を聞いた時、これは現実なんだと実感せざるをえませんでした。

 今大切なことは、国道4号から先の道路をもっともっと通れるようにすること。そして、必要な物資が被災されている方々に届けられる状況を作り出すこと。そのためには、運搬するトラックの帰りのガソリンを確保できること。寒さの中で耐えていらっしゃる方々や医療的ケアが必要な方々が、2次的被害に遭わないようにすること。そして、被災地以外に住む人たちは、買いだめをしないことではないでしょうか。

 人は、弱い存在です。弱いからこそ、支え合って強くならなければならない。

そして、その絆の中には、振り込め詐欺も泥棒も女性に対するレイプも入り込めない状況を作り出していかなければならないと思います。

 私は、毎朝、登校する子どもたちを見ています。

小学生のランドセルは、少し軽そうに見えます。きっと、1年間のうちに体が成長したからでしょう。中学生は、みんな、大きなリュックを背負っています。

中には、教科書やノートがぎっしり詰まっているのでしょう。みんな家族に送り出され、友だちと語らいながら学校に向かっています。「きっと春休みが楽しみなんだろうな。」そう思います。

 被災地には、ランドセルも教科書も宝物も失った子どもがいます。行くはずの学校は、避難所になり、送り出してくれるお父さんもお母さんも亡くした子どもたちが大勢います。

 東北地震の死亡者7000人以上、行方不明者18000人以上と報じられています。誰が一人ぼっちになったのか、どの子が孤児になったのかいまだつかめない状況です。

 きっと、厚生労働省が、「それぞれの県で子どもたちを受け入れてください。」と言ってくると予測しています。

 子どもたちは、今は避難所にいて、多くの犠牲者と暮らしながら気を張り詰めています。でも、大分に来る時には、一人ぼっちです。全てを失い、残っているのは成育歴だけです。不安をいっぱい抱えた子どもたちを襲うのは、絶望感であり、無気力感であり、怒りかもしれません。

 短期的な支援ではなく、長期的なはいつくばるような血のにじむような支援が必要になってくると考えます。

子どもたちが「生き残って良かったんだ。」そう思える日がくるまで、みんなで支え合うことのできる状況を作り出していきたい。そう願っています。


2011.2.27 あの美しかったクライストチャーチが

 夜中のニュースで驚きました。

 22日、ニュージーランドの南島、クライストチャーチでマグニチュード6.3の地震が起きました。富山の外国語専門学校の生徒さんや付き添いの先生が被災し、倒壊したビルの下敷きになり、取り残されていました。

 日を追うに従って、救出された人や遺体を収容したという情報が流れています。安否確認ができないご家族の方々の不安や焦りは、計り知れないものがあります。閉じ込められた人の救出は、72時間が境になると言われていますが、その時間は、すでに過ぎてしまいました。

 クラウストチャーチを訪れたのは、6年前です。秋でした。日本の裏側なので、ニュージーランドは、春真っ盛りといった季節でした。

 緑が溢れ、路上にはゴミ一つない美しいまちでした。公園やグラウンドは、行政の責任で全面芝生が管理されていました。大聖堂だけが大きくそびえ立っていたことを思い出します。

 あの立派なシンボルの大聖堂が、崩れ落ちていました。クライストチャーチ市は、2回にわたる徹底的な行財政改革を行い、市役所の庁舎も簡素なものでした。市民の意見を多く取り入れ、会議はすべてオープンにしていることを学びました。

 ニュージーランドもオーストラリアも移民政策を取っていて、街を歩けば、ここがどこの国なのか分からなくなるほど、たくさんの人種で溢れていました。

 そんな中に日本人もいました。東さんは、大学を卒業してやってきました。市の行財政改革について教えてくれました。家田さんは、ワーキング・ホリデーで来た後に、市職員に正式採用されました。佐藤さんは、日本の大学で考古学を勉強した後、ワーキング・ホリデーでやって来て、イギリス人と結婚していました。

タクシーの運転手さんは、20年前、レバノンから来たと教えてくれました。ホテルの部屋の掃除に来てくれた青年は、2年前上海から来たと言っていました。

 異国の地で、たくさんの苦労をされてきたでしょうに、誰もが愚痴も言わずに、生き生きと笑顔で、今、自分たちが住む町の素晴らしさを私に語ってくれていたことが忘れられません。

 ニュージーランドは、春の中で、パンジー、桜草、ぎぼうし、西洋しゃくなげ、山ぼうし、ハナミズキ、忘れなぐさ、チューリップ、ポピー・・・・春に咲くすべての花が咲き乱れている様子に声を失いました。緑の中に家々が美しく、一際目を引いたのは、チャイニーズ・チューンの目も覚めるようなピンクでした。

 一人でも多くの方々が、救出されることを願ってやみません。


2011.2.9 鳥インフルエンザ

 その電話は、深夜11時50分にかかりました。

「何が起こったんだ!」とすでに寝ていた私たちは、不安にかられました。

飛び起きたつれあいは、足をつってしまいました。

我が家は、高齢者を佐伯と亀川に抱えています。真っ先に両親のことが頭をよぎりました。恐る恐る電話に出たつれあいは、「ファックスだ・・・」と言いました。

(どこから?誰から?)とますます不安にかられました。

 鳥インフルエンザ発生の一報でした。

それ以後、プレス発表の度に、報告は随時届いています。

 初期対応が迅速でした。死んだにわとりから陽性反応が出てすぐ、知事指導のもと殺処分が決められました。その時点で、県庁の職員の方は、すでに現地にいて、ショベルカーでの穴掘り、そして埋却は、7時間後には、完了していました。徹夜作業をされました。

 6年前の九重の民家で飼われていたチャボの鳥インフルエンザの教訓が生かされていました。一気に封じ込めをしたから、他に飛び火していないのだとわかります。

 私は、偶然にも処分をしている場所の地域に行かなければならない用があって、近くを通りかかりました。パトカーが赤色灯をつけて待機していました。職員が畜産業者の車を消毒していました。その近くには、県職員を運ぶためのバスも待機していました。ことの重大さを目と体で体感しました。

 一説によると、日本海側の大雪で、渡り鳥は太平洋側に多く飛来しているとか。新燃岳の噴火で、こちらの方に飛来しているとか。いろいろ語られています。

 いずれにしても、これ以上の被害が出ないことと、風評被害が起こらないように気をつけなければなりません。

 私は、鶏肉が苦手です。

 子どもの頃、田舎で、お客さんが来るたびに祖母が鶏を絞めるところを見過ぎたせいかもしれません。文鳥やインコを飼っていたせいかもしれません。

 それでも、カラス以外の鳥は大好きです。今の時期、我が家の庭にも色の美しい鳥たちがつがいでやってきます。日中人がいなくて、犬や猫もいないので安心して地中のえさをついばんでいます。見ていて飽きません。

 庭に鳥の羽が落ちていることが、よくありますが、決して拾わないようにしています。

 この前、O小学校でびっくりしました。

 玄関先のプランターに植えられた葉ボタンを、ムクドリが一心不乱に食べていました。「こらあ!!」と言って追い払いましたが、7羽が慌てて飛び立ちました。プランターの周りは、鳥の糞でいっぱいでした。葉ボタンは、見るも無残な有様でした。

 鳥が食べるものがなくなって、もしくは、「これもいけるじゃない。」とパンジーやアネモネの花を食べ始めたらどうしよう。と考えてしまいます。


2011.1.24 いつもと違う世界にドギマギ、でも癒されて

 尋常ではない寒さに震えています。

外でお仕事をされている人たちに頭が下がります。

大道陸橋の撤去作業がいよいよ始まりました。周辺の混雑を体験しています。

警備の人は、24時間体制で働いていらっしゃいます。時給は決して高くはないとお聞きしました。こんな人たちにこそ、労働の対価を払うべきだとずっと思っています。

 先々週の吹雪には、驚きました。

4月の県議選に向けて、ちょうど市街を歩いていた時のことでした。ある程度の雪は覚悟していましたが、前が見えないほどの猛吹雪にびっくり。日常ではない雰囲気の中で、一緒に歩く仲間は、興奮していました。私は、彼らが風邪をひいてはならない。滑ってけがをさせてはならない。と不安になりました。「しばらく車の中で雪が小ぶりになるのを待っていましょう。」と声をかけるのですが、誰も足を止めようとしませんでした。

 私は雪と涙でぐちゃぐちゃになりながら、支えられていることに感謝していました。

 わたげ28号ができあがり、お届けをしています。

 K保育園に伺いました。無認可でやっていますが、子どもに対する目が優しく、うんと遊ばせ、情緒面の成長を優先させているので大好きな保育園の一つです。お天気がいい日は、近くの公園に出かけます。私が伺った日は、お昼寝が終わり、おやつを食べた後のようでした。先生の周りで本を読んでもらっている子がいます。あやとりに夢中になっている子もいます。大きな子は、別室で何かを描いたりゲームをしたりしています。雄叫びをあげている子もいます。4年前から伺っていますが、もう私の知っている子は殆どいません。

 「だれのおむかえ?」と尋ねられました。「だれのおむかえでもないのよ。」と答えると「だれ?」と尋ねてきます。「純子さんでーす」と言うと「ふーん」と言う顔をしています。

 子どもは安心感からか、体に触ったり寄り添ったりします。この感覚が大好きです。「よんで」と小さな絵本を持ってきます。何度も読んでもらっているので子どもたちは話の筋道を知っています。そのページを読み終わらないうちに次々と小さな手が出てきてページはめくられていきます。

 まだ9カ月の赤ちゃんがいました。大きな子どもの様子をじっと見ていて、私の顔を見ても泣きません。うんと食べる。しっかり眠ることができる子どもは、初めて預けられても親離れが良くて、手がかからないのだと先生は言われます。

 掃除機をかけている最中に、全ての電気が消えてしまいました。保育園は、古い民家なので電圧が高すぎて、ブレーカーが落ちたようです。子どもたちが一斉に声を出し始めました。「ギャー、ギャー、ギャー」とまるでスリルを楽しんでいるようで、大笑いです。その声は、電気がつくまで続きました。でも、外を歩いている人がいたら、びっくりされたと思います。「この保育園、虐待?」と思われたのではないかと・・・。

 私にとっては、何よりも癒しの時間でした。

 全国的なタイガーマスク現象で、児童養護施設への優しさが伝えられています。これが一過性のものでないことを祈りたいです。でもこの運動は、国を動かしました。厚生労働省は、全国の児童養護施設への予算を100億円計上すると言っていました。

 子どもたちが生まれてきて良かったと思えるような社会にしたいです。


2011.1.7 今年の幕開け

 新年明けましておめでとうございます。

 かなり、気合を入れて新しい年を迎えようと考えていました。しかし、世の中の規制緩和は、ますます激しくなり、私が子どもだった頃のお正月のイメージとはかけ離れたものになっていることに今更ながら気がつきます。大型スーパーは31日の深夜まで開いています。元旦には、郊外の量販店に、福袋を求めた買い物客が押し寄せています。働く人は、一体、いつ大掃除をし、おせちを作ればよいのでしょうか。親が忙しく働いている中で、淋しい思いをしている子どもたちも大勢いるのでは・・・そんなことばかりを考えていました。

 昨年の清水寺の貫主様の発表した漢字は、『暑』でした。残暑もかなり厳しかったのに、そんなことも忘れてしまいそうになるくらい寒い幕開けでした。

 私の住む団地も、31日から雪が降り始め、翌日は、一面の雪景色になっていました。雪を眺めながら、「雪だけが平等に降り積もる」と思いました。

 

 31日の夜、おそばを茹でようと、棚から大きな鍋を取ろうとして、誤って落としてしまいました。頭でキャッチしてしまい、こぶができました。

 佐伯の義父は、近所に住む姉の家で年越しをすると聞いていたので、「そろそろみんなが、揃っている時間かしら」と、夜8時過ぎに姉の家に電話をかけました。何度コールしても誰も出ません。姉の家は、5人家族です。「一人もいないなんておかしい!」「お父さんに何かあったのかもしれない!」と不安が募ります。しかし、応答はありません。つれあいが、姉の携帯に電話して、父がトイレから出られなくなってしまい、家族総出で、父の家にいることがわかりました。父は、体も頭もいたって元気なのですが、膝と腰がとても弱くなっています。トイレに入ったものの動きが取れなくなり、そこで寒さで震えていました。その日は、姉が泊ってくれ、次の日からまた元気になりましたが、かなり焦りました。いよいよ来るべき時がやって来たような気がしています。

 翌、元旦には、泊りに来ていた母が玄関を開けた途端に、しめ縄のだいだいと裏白が落っこちてしまいました。

 悪いことは重なるものです。私は、ご飯茶椀を毎月換えて楽しんでいるのですが、「4月10日まで頑張ろう」と、願いを込めて用意していたさくら模様の茶碗を母が洗っている時に、流しで取り落してしまい、それを欠かしてしまいました。「純子ごめん。」と情けない顔を見ると、文句も言えませんが、泣きたい気分でした。その日は、妙に落ち着けず、テーブルに指を挟んでしまい、薬指の痛みは、未だにとれません。

 「大事な時期なのに、私はこんなことで大丈夫かしら?」一抹の不安を覚えていました。

 でも、いいこともありました。

 Tさん一家と大阪から帰省していたFさんが来てくれました。サプライズです。佐伯でもらってきたおはぎが1つだけ残っていました。「超甘党のFさんなら食べてくれるよな」なんて思っていたら、そこに現れたわけです。Tさんちの眞宏ちゃんは、もうすぐ2歳になります。この前家に来た時は、寝返りがやっとできていたのに、人見知りをせず、にこにこと良く笑います。とにかくよく動きます。いい表情はいっぱいするのに、シャッターチャンスがつかめません。テレビの後ろに行って何かやろうと悪戯そうな顔をします。ガラスに映る自分の姿を見て「バイバイ」と声を出します。子どもの成長をみんなでかみしめました。

 製薬会社に勤めるFさんは、「子宮頚がんワクチン」接種が正式に認められたので、忙しいそうです。収益が働く人に分配されるともっと良いのですが。

 Tさん夫婦は、年末に新居を購入していました。すぐにでも新居を見に出かけたいところですが、4月まで我慢をしようと考えています。

 今年も予期せぬことが起こるのでしょうが、いろいろな人に出会いながら自分の弱さに負けずにやっていこうと思います。

 皆さま、どうぞよろしくお願い致します。