ときどき日記/バックナンバー 2003年 6月・5月・4月

2003.6.22「お葬式と福祉と青リンゴ」

 議員になってお葬式へ出席する機会が増えました。今日のお葬式は私の故郷、亀川(別府市)の方でした。亡くなった方の娘さんは今、学校関係者で、私の高校の先輩でもあります。右田葬祭所に着くと7年前、ここで父を見送ったことをいやでも思い出し、涙が出てきます。
 時として議員は代表焼香ということで特別な所に座らされます。この慣習だけは止めてもらいたいと切に願っています。
 喪主の方は小さい頃から知っている人です。お経を読んだお坊さんは同級生。弔辞を読まれたのは文房具店のおじさん。戦後の焼け跡からがんばってきたなあという文章にはこらえきれなくなりました。幼い頃のこと、父のことなどが走馬灯のように頭の中をくるくる回っていました。

 式を終え、小学校に通うために毎日渡っていた橋を過ぎた所で車が止まり、雨の中でうずくまっている人の所に寄っている人たちを見かけました。
 ぶつかった!? 私もすぐに車を止めてかけ寄ってみるとお年寄りが横たわっていました。たずねてみると、雨の中、買物に行った帰りに転んだそうです。袋の中には、牛乳・みかん・お茶・トマト・メロン・ちくわが入っていましたが、牛乳の箱はやぶれ、食品は牛乳で濡れていました。手にはカットスイカを持たれています。3人がかりで何とか起こし、リュックの中に買った物をつめました。気丈にも一人で歩いて帰ると言われます。それでみんなは安心して帰っていったのですが、私は何だか心配でその場を離れられません。杖(つえ)をつき、カサをさしてカットスイカを手にさげ、重いリュックを背負って歩き出した途端にまた転んでしまいました。「奥さん、やっぱり無理です。この雨だと滑りやすいから、どうぞ私に家まで送らせて下さい」と頼んで車に乗ってもらいました。「すぐ近くです」と言われましたが、走ってみるとよくぞこの距離を雨の中、杖をつき出かけたものだと感心してしまいました。
 80才になるそうです。昔、保健婦長をなさっていたとか。今は独り暮らしだそうです。息子さんは県外の丸食に勤めているとか。それであんな遠くの丸食まで行かれたんだということが理解できました。

 少子高齢化が社会問題になっています。その問題を行政の人たちが話し合っている時、「元気な年寄りでなくてはいけないのか? 年寄りは病気になっちゃいけないのか?」と憤りを覚えることがあります。
 あのおばあちゃんの姿は10年後の母の姿でした。そして30年後の私の姿です。ヘルパーさんに頼らず生きていきたいと言うおばあちゃんに「尊厳」という言葉を教えられた気がします。「あなたにお礼がしたいわ」と言っておみやげをくれました。青リンゴとオロナミンCと大福もちとドラ焼きでした。

 家に帰って机の上にいただいた4つの物を並べ、いつまでも眺めていました。


2003.6.8「初めての視察」

 議会には6つの常任委員会(総務企画文化警察・商工労働観光企画・土木建築・福祉保健生活環境・農林水産・文教)があります。
 私は教員だったので文教委員会に属すると予想していたのですが、そこはイデオロギーの対立がひどく一年目の私では大変だろうと私が属する会派(社会県民クラブ)の先輩の助言で福祉保健生活環境委員会に入りました。

 その委員会の県内視察が6月3日・4日にありました。宇佐・中津・日田・玖珠の各地方振興局に伺い、所長さんをはじめとするトップの人たちから話を聞くということです。
 学校に勤めていた頃、文教委員会の学校視察が何回かありました。その日の朝、子どもたちを使って清掃をさせたり、「指導案を提出しなさい」「服装もきちんと!」と言う校長に対して私たちは、「日頃の様子を見てもらえばいいじゃないですか」「特別なことをして忙しくさせないで!」と文句を言っていました。そんな私が逆に視察に行くというのですから、複雑な心境です。
 黒塗りの車が玄関に着くと所長以下がお出迎えです。会議室の白い布をかけられたテーブルに着くとさっとお茶が出てきます。敬語を使った説明が続く中で、次にコーヒーが出されます。この厚い資料を作成するために県職員の方々がどれだけ時間をかけてきたのだろうと考え込みます。私の友人はある教育事務所に勤めていますが、2ヶ月前から資料を準備し、所長の話す原稿を書かされたと言っていました。
 各地域の福祉関係のことがわかり身につまされる思い出、お話をお聞きしました。
 そしてもう一つ驚いたことは、議員の方たちはその資料を自分では持たないのです。会が終了すると議会事務局の方がサッとその資料を取りに来ました。私は「自分の物は自分で持ちますから」とお断りしました。
 こんなふうに驚くことばかりの日々を送っています。

 6月6日、有事関連3法案が可決し、むなしさと憤りを覚えています。ただ6月8日に大手公園で働く人たちと反対の集会をし、デモ行進をした時だけは、心が落ち着きました。苦しい時を過ごしていますが、ネバーギブアップでがんばります。


2003.5.19「辺見庸さん」


 辺見庸(へんみ よう)さんが好きです。ナイフのように鋭い切り口に接するたびに胸がスカッとし、熱いものがこみ上げてきます。その辺見さんが集会に来て講演すると知ったときは夢ではないかと思いました。
 5月10日講演の前、辺見さんが私の一つおいた隣りにかけました。胸が高鳴っています。左を向いてじっと見ていたいけれど、ちらっとしか見る勇気がありません。トレードマークの帽子をかぶったまま、黒ずくめのまま、話が始まりました。
 よく通る適度に低い言葉が私の胸にストン、ストンと落ちてゆきます。
 3月20日の米英合同軍による侵略。大量破壊兵器も生物兵器も見つかっていないのに、殺りくは行なわれていく。さらに復興という名のもとに侵略が忘れられていく。そしてこの侵略が正当化されることによって、また次の戦争が起こる。圧倒的に強い者によって歴史が塗りかえられていく。今の世の中は高度に技術化された野蛮な社会。世の中が大きく右にうねっている。そのまっただ中にいたらそれは見えない。愛国心に三段階の評価をつけるなどとは、10年前は考えられなかった。タカ派的発言をすれば票が集まるなんて、なんて世の中だ! 有事法制が通るかという時にマスコミが追いかけているのは白装束集団。etc…

 この4日後に有事関連3法案が修正合意され衆議院特別委員会を通過しました。
 この時ばかりに有事法制を成立させようとする一連の動き。軍事攻撃が何をもたらすのか、日本はアメリカに追従せず、軸足をしっかりアジアに置き、平和的外交に何ゆえ力を入れようとしないのでしょう。
 子どもたちが大きくなったときに、「大人は、どうしてこうなることがわかっていて、あの時あんな法律を許したの?」そう言われないように私たちは一人ひとりの声を伝えていかなければなりません。

 余談ですが、辺見庸さんと食事をする機会を得ました。目の前の人は写真とは違って笑顔も似合います。右よりの人から身の危険さえ感じる日々だそうです。辺見庸さんの安全と活躍を祈らずにはいられません。


2003.5.7「健ちゃんのこと」

 選挙が終わって、20日がたつというのに、いまだ落ち着きを取り戻せません。家に来るたくさんの郵便物や原稿・講演会の依頼に身を縮め、お世話になった方々へのあいさつ回りも思うようにいかずあせっています。

 そんな中でやっと横瀬西小の子どもたちの家へ行くことができ、ほっとひと安心しました。

 学校を退職する時に「先生は、俺らと一緒に勉強するよりほかに何の仕事がしたいんか!」と怒った男の子がいます。私が一番手をかけ、私と一番けんかをした子どもでした。退職して2カ月たった頃、その健ちゃんがしばらく登校をしぶっていたと人づてに知らされました。「平岩先生がおらんのに学校に行ってもつまらん。俺は学校に行かん」と言っていたと聞かされた時、たまらない気持ちになりました。それはもしかしたら教師冥利(みょうり)につきる言葉かもしれませんが、私は健ちゃんがふびんでした。すぐにでも彼の家にとんで行きたかったけれど、それをしたら自分の中で押さえていた気持ちが全部出てきてしまいそうでできませんでした。それで電話をしてみました。お母さんが出て「もうあきらめたみたい。先生のことはもう言わなくなったのよ。でも時々テレビで政治家の人が出ていると、平岩先生はこんなことをするのかな?ってたずねるのよ」と教えてくれました。

 そしてやっとおととい、健ちゃんに会いに行くことができました。投票日の時彼は「選挙に落ちたら俺は平岩先生を許さん」と言っていたそうです。6カ月ぶりに会った彼は一回り大きくなっていました。日頃はあまりしゃべらないのに学校のこと、野球のこと、友だちのこと、勉強のことをずっと語ってくれました。私たちは「夏休みにまた会おうね」と言って握手をして別れました。

 私の心の中でようやく一つの区切りをつけることができました。

 教育基本法が改悪されそうです。義務教育費国庫負担金が削減されそうです。東京の品川区では学力テストの結果を中学校ごとの成績で公表するようです。福岡では同和教育研究協議会に対する小・中・高校教諭の派遣を取りやめることが公表されました。教育をめぐる状況はますます厳しくなってきていますが、子どもたちを守るためにがんばらなくてはならないと自分にムチ打つ日々です。



2003.4.18 「ありがとう、ありがとう、ありがとうございます」


 4月13日の夜、当落が判明するのは、夜中だと思っていました。テレビを見る勇気はなかったので、家の中の片づけをしながらウロウロしていましたが、何気なくテレビに目をやった時に、“平岩純子当確”というテロップが飛び込んできました。身体が震えました。それ以後のことはまるで夢の中に居たようで、どんなお礼の言葉を述べたのかもしっかり覚えていません。とにかく、共に選挙をやってきた仲間や友人や親戚の人たちが涙ぐみながら喜んでいた顔を覚えています。

 私のスケジュールは、4月13日までしかありませんでした。心も身体もとにかく“当選を果たすこと”その目的のためだけに5カ月と13日間を過ごしてきました。
 4月14日以降、私の生活は一変しました。道を歩いていて、自転車に乗っている人に声をかけられます。食事に行くと、そこでまた励ましの言葉をいただきます。スーパーのレジでお金を払っていて、視線を感じるなと思い、振り向くと人が見ています。これは大変なことになったと気づきました。今は私らしくいよう、自分らしさを見失うな、と言い聞かせる毎日です。

 4月16日に当選証書授与式がありました。46人中、女性は3名でした。
 マスコミの方たちに「トップ当選した感想は」「議員バッチをつけての感想は」とたずねられます。2万という数字が出たのは、働く仲間や先輩の方々や親戚の人や友人、そして私が出会った多くの方々ががんばってくださった成果です。バッチに対する権威というものは私にはありませんが、支持して下さった多くの方たちの願いや思いをしっかり受け止めていかなければならないと考えています。

 “これからが大変ですね”と皆さんがおっしゃいます。本当にそうなんですね。心と身体を立て直し、がんばらなくてはと自分に言い聞かせています。
 でも新人です。どうぞ、どうぞ、これからも私のことを支えてください。
 本当にありがとうございました。

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