ときどき日記


2012.3.31 議会終了

 第1回定例県議会が、3月29日に終了しました。

気がつくと、3階から見える城址公園の桜がいつの間にかほころび始めていました。

 最終日は、議会内の会派間の人事問題がなかなか進展せず、6時間半遅れての開会になりました。終了したのは午後9時前でした。

 最終日は、美術館の建設予定地の新たな土地取得の問題、「震災復興支援を継続・拡充する取組宣言決議」、そして新年度予算を決定する重要な日でした。それだというのに会派間のごたごたが世間をにぎわしてしまい、恥ずかしい限りです。

 1か月という長丁場には、慣れてきたものの、「震災復興支援」の中の震災がれき受け入れ問題は私たちに突きつけられた深刻な課題でした。

 この二週間、HPのアクセス回数が急激に増えていました。「平岩純子は、がれき受け入れに対してどんなスタンスなのか?」をお知りになりたい方が多かったのかもしれません。実際、何人もの方からメールやお手紙をいただきました。それにはきちんとお答えしてきたつもりです。

 他の党から出された決議文は、賛成できるものではありませんでした。

 私たちの会派では、この問題は「復興支援」と併せて「私たちにつきつけられた問題でもある」という立場に立って話し合い、がれき受け入れに反対している方々にもお会いし、修正案を作りました。その調整に長い時間をかけました。

 協議の最終日の朝には、もう一度決議文の取り消しを求めようかとの動きも模索してきましたが、議会内の会派の関係でそれはできませんでした。

 おそらくそこが、がれき受け入れに反対している方々の批判の的になっている点だと考えます。

 私は、一貫して、がれき受け入れには反対です。何故なら、

・復興支援=がれき受け入れと定義づけられていること。

・がれき処理は、まず第1に東京電力が負わなければならない課題であること。

・2300万トンのがれきのうち、400万トンとする理由が分からないこと。

・復興が進まないのは、がれき受け入れが決まらないからと捉えられることへの疑問。

・陸前高田市では、「自らの市で処理施設プラントを造る」とする案が国と県で門前払いにされたこと。(地元で行えば、雇用も生まれる)

・東北から日本中にがれきを動かすということは、CO2を撒き散らしながらの行為であり、明らかに環境汚染につながること。

・そのことによって、誰が利益を得るのかということ。

・がれき受け入れは、県が行うのではなく、自治体間のやりとりであり、県が強制できるものではないこと。

・そのことによって、万が一健康被害が出た時に、誰が責任を負うのかが明確でないこと。

・「がれきを受け入れるべき」「がれきは受け入れるべきではない」と国民の間に深刻な心の溝を作っている構図で語られていること。

 などなど、専門的な見地からはまだいくつも指摘をされていることがありますが、専門家ではないのですが私はこう考えています。

 「それなら、受け入れに反対しろ!」と傍聴席から大声が聞こえました。

がれき受け入れを心配し、反対している方々の涙も見ました。

 私たちは、被災地の復興を支援するというスタンスに立ちました。問題になっているのは、震災がれきが放射能に汚染されている可能性があるからです。  その上で一般廃棄物処理に対して、権限を持たない県が市町村に要請をするのですからがれき受け入れに際しては、「厳格な検査を実施し、安全基準をクリアしたものを前提とする」「住民理解」という文言でしばりをかけました。

 それでも、理解していただけない方がいらっしゃることも分かります。

私たち議員一人ひとりが、復興支援と大分県に住む人たちの安全のためにどう考え、行動するかが問われてくると重く受け止めています。

会派で、プロジェクトチームを立ち上げました。

これから被災地を歩き、被災地の皆さんの声をお聞きします。国の方針を冷静に受け止め、私たち自身が学習を深め、広域処理問題で明らかになってくる課題に向き合っていきます。そして、県民に対して行政が説明責任を果たすようにしていかなければならないと意思統一しています。


2012.3.8 あの日から一年

 2月28日の朝日新聞、プロメウスの罠(わな)を読んで、恐怖を感じました。1995年4月、青森県むつ市でのことです。使用済み核燃料がフランスで再処理されて送られてきました。送られてきたのは、「高レベル放射能廃棄物」プルトニウムだけでなく、再処理で発生する「ごみ」も含まれています。

 「輸送用キャスクに雨があたると、一瞬で水蒸気があがった。」と言う記事でした。キャスクに当たった雨が、一瞬で蒸発するということは、中はもっと熱いということです。中では、核分裂が続いているということです。何と恐ろしいことなんだと、驚愕しました。

 2月24日に原発の放射能から逃げて大分県に来ている方々と意見交換会を持ちました。参加者は、10名でした。

 Oさん夫婦は、千葉の館山から来ています。6歳と5歳と3歳の子どもさんがいます。元コンピューター技師です。「福島がやばい!」と感じた頃、子どもも鼻血が出始めました。県庁に問い合わせたら「入れますよ」と言われたので、農家になることを決めて大分に来られたそうです。子どもたちが被曝していることが心配だとお父さん。最後は涙声でした。

 Iさんは、子ども二人を連れて、湯布院に避難されています。今やるべきことは給食のこと。震災がれきは、行政は「低レベルで安全」というけれど、佐伯の西嶋市長に「これからも受け入れないで!」と激励の電話をかけたそうです。

 Sさんは、千葉の柏市から大分市に来ています。柏市は、ホットスポットでした。春休みに地震が止まらなかったことをきっかけに、単身赴任で大分に来ていた夫のところに子どもと避難しました。ご夫婦とも福島県のいわき市出身です。「国はいわきは大丈夫というけれど信用していない。給食の食材が心配。一人だけお弁当を持たせるのも可哀そうかと思う。大分の人は、食に対する危機感が無い。大分市の医療費助成がもっと高くならないか・・・・。」

 10人がそれぞれの気持ちを伝えてくれるのですが、胸が苦しくなります。

ヒステリックな親と思われていること。子どもだけ連れて避難しているけれどわがままな母親と烙印を押され、しゅうとや夫が子どもを連れに来る。母親は直感で危険を感じ逃げようとするけれど、父親はそれをとどめようとする現実。死産やアレルギーの子どもが増えている現実。子どもの病院、仕事、住居、家のローン、家財道具がそろわない、お金が底をつく、市と県の連携の悪さ・・・

 もともと住んでいたところを捨てて逃げてきているのですから、課題は山積しています。国や文科省がどんなに「人体に影響を与えるレベルではない」「安全である」と言っても、安全であると言われた原発神話を信じさせられそしてそれが崩れたのですから、福島やそれに近い所に住む人たちほど信じられないのは当然のことです。

 

 大分県と各市町村では、被災者の公営住宅の入居を1年から2年へと延長することを決定しました。ちょっと安堵されたかもしれません。

 数々の問題に私たちはどう向き合い、県でできることは何かを考えていかなければなりません。

 東日本大震災から1年が過ぎようとしています。

 1年前の3月11日の日のことが、次々に思い出されます。

「忘れない」ということが、出発です。これからもずっと支援し続けていくために。

何も悪いことをしていないのに、たまたま東北に住んでいたために降りかかった災難を受け止めなければならない人たちがいるということを。そして、それは明日私にも訪れることかもしれないということを。

お願い

もう使わなくなった学制服(男子用)がありましたら、譲ってください。

津波の力は凄まじく、本当に何もかもなくなってしまったそうです。お金さえあれば手に入るのかもしれませんが、そのお金にも不自由している子どもたちがいます。ましてや替えのズボンなど買うゆとりがありません。

 昨年、学生服を仙台に送る活動をした私のかつての保護者の方に今年も依頼が来ました。そのお母さんの知り合いには、昨年の段階で声をかけているので、もう提出していただく学生服がありません。

私は、新学期になったら各中学校や生徒会、PTAにお願いしようと考えています。とりあえず、入学式に間に合うように1つでも2つでも集めることができればと願っています。もし、ご協力していただける方がいらっしゃいましたらご連絡ください。


2012.2.21 もうじき春が来る 

 自治体議員団の会議で、中津に泊っていました。

朝食の時、「雪がすごいな・・・・」とみんなが話しているのを聞いて、外に出てみるとななんと吹雪いていました。

 また、寒波到来です。天気予報を見ると雪マークが続いています。

 先週の北海道の雪は、すごかったです。

 室蘭から帯広まで列車で移動しましたが、駅のホームも牧場も道路も白一色でした。小川も凍っていました。白樺の木だけが黒い幹を出して立っている様子は幻想的でもありました。家々の屋根だけは、室内が暖かいせいでしょうか雪が余り積もっていません。

「こんな景色をもう滅多に見ることはできないだろうな。」と窓に張り付いて見続けていました。北海道の列車の窓は、二重になっていました。

 北海道へは、「シップ・リサイクル」と「障がい者及び障がい児の権利擁護条例」と「北の屋台」の調査で出かけました。報告書を作り続けたので、もうここでは書きません。

 札幌に帰ってくると、雪は路肩に集められ、車がふだん通りに走っています。

もちろんスタッドレスのタイヤですが、私だったらあんな風には運転できないと思います。雪道を歩く経験に乏しい私は、靴の上に「コロバンド」という滑り止めをつけて歩いていました。

 札幌に帰って来て、タクシーの運転手さんに教えていただきました。

北海道では、土木・建築関係者は冬の間仕事がありません。ですから除雪作業は、それぞれの会社が除雪車を持っていて、仕事をするのだそうです。春になると消えた路面標示の焼き付けや道路整備が仕事になるそうです。

 今回の調査では、急病人が出てかなり慌てました。吹雪の中を転ばないように気をつけながら薬局へと走り、急変するのではないかしら・・・と夜も眠れませんでした。これからは、「保険証を持って行きましょう!」と声をかけなければなりません。

 公立高校の志願状況が発表されました。周辺部の普通科高校は、軒並み定員割れを起こしています。高田も国東も佐伯鶴城も森校も安心院も由府校も臼杵高校もそうです。県の肝いりで、総合学科に編成しなおした三重総合、福祉学科や農業科を今後設ける大分南も大分東も定員を満たしていません。

 大分市への一極集中は、数年前から顕著に表れていましたが、あまりにも極端な状況を深刻に受け止めています。大分市内の高校では、あまりに多くの生徒が落とされ、周辺部の高校は、来年度もこれまで以上に「がんばれ!結果を出せ!」と成果が求められることになります。

 

 私の出身校の別府青山高校には、

「教えるとは、共に希望を語ること。学ぶとは、誠実を胸に刻むこと」というルイ・アラゴンの詩の一説が刻まれています。

 学ぶということは、知識で一杯になったり、受験に受かったり、偉くなることではなく、思いやりや優しさや誠実さなど人として生きていくうえで大切なものを自分の胸に刻むことだと思います。

 現行の教育制度が、本当の教育に立ち戻ることができるようにしなければならないと悩み続けています。

 一昨日、一緒に仕事をして退職された校長を囲む会を持ちました。

 私は、今年幹事でした。もう18年目を迎えています。

 I校長先生は、素敵な人です。現職の時、いつもこう言っていました。「お前たち、なんでも好きなようにやれ。自分の思い通りにやっていい。何があってもおれが責任をとる。」と。校長会がある時も「僕が行って何かが変わるか。何も変わらないだろう。だから私は、学校にいる。」と子どもと教職員と学校にいました。

 当時、私は、障がい児学級の担任でした。隣のクラスの子どもが、学校帰りに毎日トラブルを起こしていました。スーパーで万引きしたりラーメン屋さんで無銭飲食したり。ほとほと困り果てた私たちは、子どもに対してかなり心情的に圧力をかけていたのだと思います。そこを校長にこっぴどくしかられました。私たちが指導方針を変えてからトラブルは減っていきました。

 校長と教頭は仲が良く、私たちは、授業を終えて、二人のいる職員室に帰ることが楽しみでした。学級で起こった些細なことや子どものことを伝えあうことが何よりも有意義な時間でした。教職員としていつもアドレナリンが全開だったその時のことを それぞれ学校は変わったけれど、今も宝物としてみんな生かしています。

 そんな当たり前の学校現場に早く戻さなければならないと思います。

 日差しや光や空気が少しずつ変化してきました。

 春が来ることを。誰の元にも春が訪れることを願っています。


2012.2.2 こんなままではいけない。

 仕事が一段落して何気なくテレビをつけました。
 テレビでは、国会中継が放映されていました。八ツ場ダムの計画続行についてどこの会派の人かわからないけれど、やけに気取って国土交通大臣と総理にたたみかけるように質問をしていました。
沖縄防衛局長の市長選挙への政治的介入や消費税問題、これからの年金問題、震災復興、原発依存・・・課題はたくさんあります。これからのことを考えると残りの人生の方が少なくなった私でも苦しくなります。

 しかし、国会での論議は、話し合いではありませんでした。ただ、相手を攻撃するだけの論議でしかありませんでした。仕立てのいいスーツを着て、そんな会話ばかりやっている人たちを国民はどんな気持ちで眺めているのかなあと思います。野党は攻撃するばかり、与党は足元がおぼつかなくてよろよろ状態。

 そんなことやっている場合ではありません。
 被災地では、家族を失った子どもたちが、歯を食いしばって頑張ってきたけれど、たくさんの心やさしい大人たちとの関わりの中で、やっと自分の言葉で語り始めた。素直に涙を流し始めたと聞きます。今まさに苦しみの淵に立たされている人たちのことを常に念頭に置き、これから多額の借金を抱えても逃げだすことのできない、正規労働の道すら与えられない若者たちの未来を考えていかなければならないと思います。

 ポピュリズムの名を借りて、人々の感情や情緒に訴えかける政治手法が横行しています。視聴率が高くなるためなら何でも良しとするマスコミ報道がそれを助長し、国民はあおられています。
 古いファッショと新しいファッショが合流し、民衆を扇動して自分たちのイデオロギーを有利に進めようとする動きが如実に表れてきました。メディアリテラシーに乏しい日本人は、また流されてしまうのでしょうか。
 
 大分県下のある市では、教育長の一声で、歴史的背景や様々な意見がある「日の丸」が、なんの論議もなく学校現場で常時掲揚されるという事態が生じています。昨年の3月に始まった一連の学校教育の目的から逸脱した教育行政の動きを情けなく落胆し、憤っています。このままではいけない。何をするのか。それをじっと考えています。

 こうしている間にも現在進行形で被爆し続けている人たちがいます。
 首相の福島原発収束宣言は、国民の側に立つものではなく、日本の経済輸出を守るためのものなのでしょう。
 何の罪もない人たちが、自然災害と政・財・官の誤った施策のせいで起こった人為的な災害で苦しんでいるということに思いをはせなければならないと考えます。国が頼りにならないのなら自分たちでできることをやり続けましょう。


 今朝から雪が降っています。
 一昨年末に雪が降った時、こう思いました。「雪だけが平等に降り積もる。」
 しかし、そうではありませんでした。東北、北日本では、雪のために苦労を強いられている方々がたくさんいます。雪下ろしで亡くなる方まで出ています。
仮設住宅で寒さと闘っている人もいます。

 
 
 新しい年からもう一月が過ぎてしまいました。
 心ある人たちと「新たな一歩」を踏み出しましょう。

2012.1.19 圧巻だった熊谷守一展

 今週の日曜日につれあいと「熊谷守一展」を見に北九州まで行ってきました。

 「熊谷守一」を知ったのは、我が家を建ててくれた設計士のYさんとE画廊のOさんの影響です。

 妥協を許さず、世俗的な生活から離れ、売るためではない絵を描き続けた熊谷守一と言う人に魅かれました。画壇の仙人と呼ばれています。その絵は、小さな草花や虫や鳥や猫をシンプルに赤い線で囲み描いています。物の形を究極まで突き詰めるとこのように描写されるのかもしれないと思います。その画風は「モリカズ様式」とも呼ばれ、だれも追随することはできません。

 6年前に大原美術館で「陽の死んだ日」を観た時、その場を離れられない衝撃を受けました。私たちは、2年前、東京の熊谷守一美術館を訪れています。

 熊谷守一の作品が130点以上一度に観られることは、この先めったにあることではありません。

 北九州市立美術館は、小倉北区の森の中にありました。美術館までの坂道には、両端に彫塑が並んでいました。森をそのまま美術館にしたような大きな建物で、入ると大きな像が3つ建っていました。「バブルの時に建てられたんだろうか。」と思えるような建築物で、外からエスカレーターで入ります。

 でも、熊谷守一展はその場所ではなく、別館の方でした。別館は、そこから車で20分ほど行ったところの小倉駅前の繁華街にある「リバー・ウォーク」という建物の5階でした。美術館らしさはなく、ただ絵を観ることができるスペースがあるだけです。

 多くの観覧者がいました。初期の作品は、風景画や人物像もありましたが、熊谷守一らしさが発揮されているのは、やはり晩年の作品です。

 どうしたらぶどうがこんな形になるんだろう。どんな発想でバラの花がこんな形になるんだろう。色使いも独特のセンスで、私たちの想像を超える配色にまた引き込まれます。その色彩感覚と対象物を徹底的に見つめ続けて描かれた作品の多くは4号板に描かれています。

 迷いながらでも遠くまで来て良かったと思いました。

 作品の多くが、天童市美術館からの出展でした。「どうして山形県の美術館がこんなにたくさん所蔵しているのかしら」と不思議に思って調べたところ、山形県出身の村山祐太郎と言う人が、貧しい生活から財をなし、収集した物を死後美術館に寄贈したのだそうです。

 絵を観ると心が豊かになります。いつまでも好きな絵が頭の中に残っています。

先週芸術会館で開かれている展覧会に行きましたが、あまり感動しませんでした。そのチケットは当日1200円でした。熊谷守一展は、800円でした。この違いは何なの???と思います。

 大分県は、今、新美術館建設にかかっています。美術館は建物で勝負する場所ではありません。そこで何を観ることができるかが大事なのではないかしら・・・・。と疑問を抱かずにはいられません。


2012.1.10 あけましておめでとうございます。

 新年明けましておめでとうございます。

 今年の幕開けは、曇り空で初日の出を見ることはかないませんでしたが、

寒かったけれど穏やかな幕開けでした。

 皆さんは、どのような三が日をお過ごしだったでしょうか。

 私は家事に追われていました。つれあいは、「ミスターもち」と呼ばれるほどのお餅好きです。暮れからいくつおもちを食べただろうか?と数えてみたところ、僅か4日間で、22個食べていました。お雑煮には、必ず4個要求されます。全国餅協会があるとすれば表彰ものです。いろいろ作ることが面倒になった私は、最後は「今夜はお雑煮定食です!」と宣言していました。

3月11日の東日本大震災を経験して、当たり前だと考えていた生活が、決して当たり前にはできなくなる。ということを学びました。ですからお餅を好きなだけ食べられる生活は、幸せなことなのだと思います。

 昨日は、成人式でした。

 横瀬西小学校で担任をした子どもたちも成人式を迎えています。

13年前、入学式のときに握ったみさきちゃんの手があまりに小さくて、この小さな人たちをしっかり守らなければ・・・と感じたことがつい昨日のことのように想いだされます。あき君が集合写真に写るのを嫌がって、時間がどんどん経って行くのに、誰も文句を言わずに待っていてくれたあの時の包容力のある保護者の方々。あき君をひざに抱いて写ってくれたしょうちゃんのお母さんの笑顔。・・・

 何人かの子どもたちの家に電話をしてみましたが、みんなそれぞれの道を歩み始めていました。

 バブルが崩壊した後に生まれてきた子どもたちです。

 高度経済成長のよき時代は、みんなずっと前の大人たちが経験してしまい、厳しい時代をこれから生きていかなければならない若者たち。

1000兆円にものぼる国の借金と社会保障費のためにがんばらなければならない若い世代。就職の厳しさ、労働の過酷さ、貧富の差、そして終息しない原発事故。

 それでも自分を見失わないで前に進んでほしい。人生って結構楽しいものなんだと思えるような経験をして欲しいと願わずにはいられません。そのためにも私たちがもっともっとがんばらなければならないと痛感しています。

 今年も我が家に可愛いお客さんが来ました。

 まひろちゃんは、もうすぐお兄ちゃんになります。「赤ちゃんどこにいるのかな?」と聞くと、お母さんのおなかではなく、自分を指さしていました。ピアノにさろうとして「だめよ。」と止められたら「しらん」と応えていました。

 この子たちが安心して大きくなっていけるようにたゆまぬ努力をしましょう。

 今日、トキハ前でビラ配りをしました。ビラ配りをすると、心はちょっぴり荒みますが、信念を持ってやっています。

お知らせ

「教育公務員の在り方を考える会」学習会

2008年に発覚した県教委教員採用汚職事件で、21人の新採用者の採用取り消しが行われました。採用を取り消された21人のうち2人が県及び県教委に対して訴訟を起こしています。2年半が過ぎました。

 「教育公務員の在り方を考える会」は、2人の訴訟を支援するとともに、広く教育課題について研究と学習を深めてきました。

 今回の学習会では、係争中の裁判の報告、オウム真理教を題材にしたドキュメンタリー映画『A』の製作者であるドキュメンタリー作家の森達也さんの講演を通して今回の問題について明らかにしていきたいと考えています。

 

日 時 2012年1月21日(土)14:00〜16:15

場 所 大分文化会館 大ホール

内 容 @裁判についての報告

     A講演  講師 森達也さん(ドキュメンタリー作家)

     「管理統制が厳しく進行する社会

             〜教育はどうあるべきか」

今年もマイペースで、やりたいこと、やらなければならないことを明らかにしながら前を向いて歩んでいこうと考えています。どうぞ宜しくお願い致します。

皆様にとって良い1年となりますように。