2008 12.23 年の終わりに 

12月19日は、2年後に開校予定の単位制高校(仮称)の起工式がありました。

 前夜から体調が悪くなり、その日の朝ももどしていた私は、「直前になってキャンセルしては迷惑がかかる」と判断してたくさん着込み、胃薬を飲んでハンドルにしがみつきました。

 予定地では、知事をはじめ多くの関係者が集まり、雲ひとつない晴天を喜んでいらっしゃいました。おごそかに式が始まり、「ご起立ください」「ご低頭ください」「ご着席ください」と繰り返す中でだんだん立っていられなくなる自分がいました。(どうしよう。ここで倒れては大変なことになる・・・)不安と焦りの中で体中の血液が胃に集中していることがわかりました。学校に勤めている時、「具合が悪くなったら倒れるまで我慢せずにその場に座りなさい」と養護の先生が子どもたちに言っていたのを思い出しました。幸いにもお隣は、よく知っている県議さんです。いすに掛けた私にすぐ気づいてくださり後ろの席へと同行してくれました。後ろにいてもめまいは治まりませんでした。冷たい風にあたろうとテントの外に出ました。県の車の運転手さんが冷たいお茶をくださり、一口飲んで正気に戻れました。式典は1時間近く行われました。わたしのせいで工事がうまくいかなかったらどうしようなどと考えながら、担当の方のうまい計らいで、知事挨拶の直前に席に戻ることができました。倒れたり救急車を呼んだりしなくて幸いでした。担当の方はずっと私に付き添ってくださり車のUターンまでしてくださいました。

 それから3日間、ずっと寝付いています。

 食べ物は受け付けず、ポカリスエットを水で薄めて飲んでいます。そして「今年最大の失敗だ。」と落ち込んでいます。どんなに体調が悪くても人前に出ればしっかりしていられたのにどうしたんだろうと考えあぐねています。

前日に食べた掻き揚げそばは少し重かった。その日の夜のとろろ汁も今考えればさらさらと食べ過ぎた。

 甘え過ぎていたお花のT先生のあまりに突然の葬儀と大好きだったY元教頭先生の突然の死も耐え難いものでした。

 第4回定例県議会は、17日に終了しましたが、県教委の汚職事件の原因追及や今後の財政状況への議論は深まらないままでした。終盤には、キャノンやキャノンマテリアルの非正規雇用労働者の解雇問題が起こりました。県も各市町村も緊急な雇用対策や住宅対策を打ち出しました。しかし、行政が会社に対して踏み込んだ態度を示せないことも不満でした。緊急に動くはずの政府は、第2次補正予算案を年明けに出すという始末です。先輩議員がこう言われていました。「麻生総理は、目の前の火事をみながら、『この火事を消すぞ!消すぞ!』」と叫んでいるだけだ」と

 私の病状は、胃腸炎ですが、思いや願いと行動が伴わない自分に対する腹立たしさが最後になってこんな形で現れたのかもしれないとうつらうつらしながら考えていました。何があっても平常心で支えてくれるつれあい、心配そうに覗き込む妹、おじやを作ってくれた隣の奥さん・・・幼い頃、毛布に包(くる)んで病院に運んでくれた父のことも思い出していました。

 約束していた仕事を6つもお断りしなければなりませんでした。つくづく思います。今年もどれだけたくさんの人に心配をさせ、迷惑をかけ、支えていただき、過ごしてきたことかと。本当にありがとうございました。

 

 今は、ゴルゴ13が不覚にも傷を負い、完治するまでじっと隠れているような、傷ついた野生動物が自己治癒力でじっとしているような状況です。私は、布団で寝ることができるけれど、20代30代の若者が、所持金も少なく、路上で朝を迎えることの不条理を思います。

自分がやりたいこと、やらなければならないこと、そしてそのハードルがどのくらい高く、何が障害なのかも少しずつ見えてきました。

来年は、もっと元気になってこれまで以上に丁寧な仕事をしようと考えています。つたないときどき日記を読んでいただきありがとうございました。

日本という国が本当の意味で豊かな国になりますように。

2009年が皆さまにとってよい年でありますように。


2008 12.1 “ご縁”があって つながって

 季節通りに寒くなってきました。

皆さまお元気でしょうか。

義父は「インフルエンザの予防接種をしてきたよ」と電話で伝えてくれます。

少しでも私たちに迷惑をかけまいと一人でがんばる85歳の姿を頭の中に描いては胸がいっぱいになります。

 「ホームページの更新、もう少しやった方がいいですね」といつもお世話になっている方に告げられました。本当にその通りです。私は、心にビビビーと感じる時、しかも躁(そう)状態の時にしか「ときどき日記」を更新してきませんでした。いいアドヴァイスをいただいて感謝しています。

 乳がんを患いながら「いのちの授業」を続けてこられた山田泉さんが亡くなりました。ちょうど彼女の映画の最終日のことでした。

 昨年の秋、私は豊後大野のエイトピアで山田さんの講演を聴きました。その後、仲間内の会食会にも参加させていただきました。山田さんも私も勤務する地域は異なっていましたが、根っこは同じ元教職員。その会では、山田さんが私のことを知らないということで盛り上りました。彼女は再発したことが嘘のように元気いっぱいで、思いっきり感じていることを吐き出していました。そのエネルギーに尊敬とも憧れとも焦りとも表現しがたいものを感じながら私は1年間を過ごしてきました。

 葬儀では、200人入る会場に600人以上が弔問に来られたそうです。

山田さんの身近な存在で「いずみちゃん、這ってでもいのちの授業に行きよ」と励ましてきたMさんのことが気がかりでなりませんでした。二日前、Mさんは、自分に言い聞かせるように静かに心境を語ってくれました。

山田さんの授業を受けた多くの子どもたちと同じようにMさんの心にしっかりと山田さんの願いが息づいていることを確認できて、少し穏やかな気持ちになれました。ご冥福をお祈りしています。

出前県議会、出前講座が続いています。これは、県議会の広報活動の一環です。議員が地域や学校に出かけて行き、それぞれの地域でがんばっていらっしゃる方のご意見を伺ったり、児童・生徒・学生に県議会のことを知っていただいたりする活動です。どちらかというと議員さんにはあまり好評ではありません。「忙しいのにそんな票にもならないところに行って・・・」と陰口も聞こえてきます。でも私は結構楽しんでいます。

佐伯や宇佐や日田の出前県議会では、県庁の中にいては気づかないことをたくさん教えられました。苦しくなるほどの課題もいただきました。何よりも参加者の方々が自分の住む地域をどれほど愛しているかを知ることは感動です。「マンネリ化してはならない。」と言い聞かせながら司会をしています。

先週、出前講座で小学校にお邪魔しました。6年ぶりの授業です。緊張と興奮で数日前から落ち着けませんでした。議会の内容は、小学生には難しいものです。私たちは行政用語にどっぷりと浸かってしまっています。それをいかにわかりやすく伝えるかが問われます。

その日の子どもたちは、恵まれた環境にいるのか押しなべて、静かに聴いていました。しかし、質問コーナーになると鋭い本質を突く質問が次々に出てきました。「学校のすぐ近くに携帯電話基地局が建っています。本当に安全なのでしょうか?」「これまで議会の話し合いで、悩んだり決断するのに困ったりしたことは?」等など。

私は、自分の子ども時代や教員になった初めの頃に比べて今の子どもたちは可哀想だと思ってきました。子どもたちが何とか現実に折り合いを付けて生きていかなければならない状態を憂(うれ)いでもいました。(でもそれって勝手な思い込みかもしれない。そうじゃないんだ。子どもはすごい。)と目を覚まされた気がしました。だからこそこの子どもたちがまっすぐに伸びていけるような支援をしていかなければならないと気づきます。

昨日は、団地の「芸能演芸文化祭」がありました。ご挨拶もなく見ていられるというのは、最高です。みんな知っている人ばかりです。口を大きく開けて歌う1年生と照れながらも並んでいる6年生の対比がほほえましく、日舞の美しさ、カラオケや手品では演技者の個性に溢れていて「何と素晴らしい団地なんだ・・・」と思っていました。

 「時間が余りそう。平岩さん飛び入りで参加して!」公民館長の指示が出ました。

人前で歌うなんて。しかも私が歌うのはカラオケ教室の先生が南春夫の「俵星玄暮」をおおとりで力いっぱい歌った後です。でもぐずぐず言ってはいられません。「青い山脈」をキイが合わないまま歌いました。「何てひどい団地なんだ」と思いましたが、みんなが一斉に手拍子をしてくれていました。館長さんは「団地はひとつのファミリーです。」とお話して会は閉じられました。

何となくいい気分になってその日の夜、初めて参加した「認知症と支える家族の会」の反省会で「サザエさん」を3人で歌ってしまいました。コーラス部に入っている人と元幼稚園の先生にリードされ最高に良い気分でした。

いろいろな所で出会った方々とのご縁を大切にして、師走を向かえようと思っています。


2008.11.3 小さな運動会

 おとといまで、島根県に出張していました。

夕方、5時を過ぎるとあたりは暗くなり、「秋の夕はつるべ落とし」とはよく言ったものだと実感して帰ってきました。

 朝、晩寒くなってきました。じりじりと暑かった夏に郷愁を覚えてしまいます。皆さん、体調を崩されないようにしてください。

 10月28日に社会福祉センターの「一時保護所」の運動会がありました。

三日前に入所した子どもや一ヶ月近くいる子どもまで、4歳から高校2年生までの子どもたちが赤・白・青の組に別れて運動会をします。それぞれの組に団長がいて模造紙に書かれた団旗もあります。今年で3回目です。

 玉入れやリレーのほかにフラフープやバッテイングやバレーボールのパス、筋肉トレーニングの成果などを発表する一芸披露もあります。参観者は、センターのケースワーカーさんや職員の方々だけです。

 4歳の女の子は、みんなの前に立つと恥ずかしくて体が動かせず職員の方に抱かれていました。これまで安心して大人に甘えることができなかったのかもしれません。ネグレクトや虐待を受け続けてきた子もいます。校内暴力で警察のお世話になった子もいます。保護されて初めて安心して眠ることやごはんを食べることができる。そんな当たり前の生活がやっとできるようになった子どもたちが多いのだと教えられます。大人社会の格差は、恐ろしいほどに広がり、そのしわ寄せは、自分ではどうすることもできない子どもたちを襲っています。  でも、友達を励まし、歯を食いしばってバーベルを上げる子どもたちの姿は何よりも愛らしく、そして尊く見えました。

 5年間、一時保護所に通った日々の中でいろいろなものを見てきました。昼食のコロッケが飛び交ったり割られたガラス窓の写真を見せていただいたり・・・心を落ち着かせる術を持たない子どもたちの心の叫びを職員の方々は長い時間をかけて正面から受け止めてきました。

 僅か2時間だけの小さな小さな運動会。子どもたちにとっては、今まで経験した中で一番小さな運動会だったことでしょう。

 でも愛情と自信に満ちた運動会。職員のチームワークがまばゆいばかりに発揮された運動会。小さなグランドの中で競技する人と応援する人の心がひとつになった運動会でした。

「あの子は、学校に戻れるだろうか」「あの子は、お母さんと一緒に暮らせるようになるだろうか」と不安はよぎります。

 恥じらいや無邪気さや歓声や歯を食いしばる子どもたちの姿から、私は、たくさんの感動と勇気をもらいました。


2008.10.21 感動をありがとう

 「秋田国体」からあっという間の1年間でした。いろいろなことがあったけれど、私は議員として何ができたかしら…と考えながら「おおいた国体」開会式を迎えました。

 ときどき日記がめったに日記になっていました。

ご無沙汰してすみません。

 この4ヶ月間は、心ここにあらずでした。

朝、お化粧して家を出るまでは元気はあるのですが、外では気を張ることばかりで、家に帰るとふにゃふにゃになっていました。

 私は、料理を作ったり家の中をぴかぴかに磨いたり洗濯をしたりとそんなことが大好きな人間でした。家事と仕事を両立しながら気持ちのバランスをとってやってきたつもりです。でもそのどちらもうまく回転していませんでした。おいしいものも作らず、落ち込んだ私と生活する家族は大変だったと思います。

「君は、教育の問題を一人でしょっている気持ちになっているから悪いんだ!」と先輩に叱られもしました。

 この4ヶ月の気持ちに少し整理をしながらこれから何をなすべきかを考えています。闘いは、これからも続きます

 さて、国体に戻ります。

会場も風土も気候を違うのに、私は秋田にいるような気分でした。昨年の感動を心の中で呼び戻していました。

 歓迎演技やボランティアのあいさつは感動でした。選手団が、入場行進して進むと最後のコーナーでは各県の応援幕が張られ、選手団の歓声が一際大きく聞こえてきます。その瞬間が一番好きでした。そして、最後は、すべての横断幕ががんばれ大分に変わりました。圧巻でした。

 障がい者スポーツ大会では、12年前いっしょに勉強したK君が炬火ランナーを務めました。

12年前の6月1日の交通事故、深夜に及ぶ手術、ICUに通った日々、意識が戻った瞬間、すべての機能を失いゼロから出発したあの日からの日々・・・。どれだけ苦労を重ねたか計り知れないK君と家族のできごとが走馬灯のように頭の中を駆け巡り、私は尋常ではいられませんでした。(大丈夫、がんばれKちゃん。落ち着いてKちゃん・・・)彼は、堂々と立派に仕事を務めることができました。

 2日間、卓球と陸上競技の応援に行きました。M君が、400mで堂々の金メダル。Kちゃんは惜しくも銀メダル。でも、Kちゃんのこれまでの人生こそが金メダルだと思えました。

 ガールスカウトとボーイスカウトが少ない人数でフル活動をしている姿が印象的でした。42年前の1巡目国体の時、私はガールスカウトで競輪のお世話をしました。小学校6年生でした。

 選手団、役員、ボランティア、競技支援員を務めた高校生、駐車場係りさん

すべての人たちのあたたかい笑顔と優しさにあふれる大会でした。

人は、つながって生きている。そんな感動が残った大会でした。

この感動をめじろんとともに宝にしていきたいと素直に思っています。