2010.9.20 ここにもあった私の原点

 先週の金曜日に大分県立中央高等学校(定時制)の体育大会が行われました。

私は、この日を楽しみにしていた一人です。若い人たちが思いっきり笑い、はじけて、体を動かしている姿を見ることは、ドラマを見るより心地良いからです。

 夕方、5時50分が開会式でした。早めに行って、校長室には入らずにグランド(大分商業高校と共用)で待っていました。こんなに広い空を久しぶりに見ました。空には秋を想わせる雲が広がり、その中に飛行機雲が交差して伸びていました。体育館からはバレーボールとバスケットボールの練習をしている商業高校生の掛け声が聞こえてきます。ブラスバンドが各々練習している音は耳に心地よく、向こうでテニスボールを打つ音がリズムに乗って聞こえてきます。こういう音が私の心を落ち着かせてくれます。

 振り返ってみると自分の現体験も含めて、41年間、学校と関わりを持って生きてきました。ですからそこにつながるものから眼をそむけることができなくなっている自分に気づきます。

 体育大会のもう一つの楽しみは、生徒の里親をされているOさんに会えることです。一緒に授業参観をして総会に出たのは、4月のころでした。その時、聞いた彼女の里親経験と子どもの様子に引き込まれました。ですからその後のお話しが聞けることを楽しみにしていました。

 中央高校は、今年の入試から募集停止になっているので、2、3、4年生しかいません。総勢78名が紅組と白組に分かれて競技します。

 開会式では、それぞれのいでたちの生徒が揃いました。中学校で使っていたバスケットボール部のTシャツを着ている少女がいたり、タオルをかぶっている青年がいたりします。今はやりのレギンス姿の女生徒もいました。小学校のように「前に倣え」はありません。

 9種目の競技が行われましたが、殆どの競技に生徒が参加するので、競技時間よりも準備のための待ち時間の方がずっと長くなります。

 突然ハプニングが起こりました。障害物競争でゴールに走りこんできた少女が泣き出しました。しばらくすると仲間が何かを探し始めました。彼女が腕にしていた数珠が切れてしまったようです。競技に支障がない時間、数珠玉探しは続きました。私たちも加わります。数珠は、白と黒の玉で、同数なければなりません。涙が止まらない彼女を励ましながらみんなで数珠探しが始まりました。そして、「ありがとうございました。玉が見つかりました。」と放送がありました。

 

 Oさんの育てている青年は、5か月前よりもっといい顔になっていました。

自分に自信を持ち始め、自尊感情も高まり、周りで起こるいろいろなことに余裕を持って過ごせるようになってきているのではないかしら・・・と感じました。

 競技中は、Oさんに目をやり、競技がすむとOさんのところに来て、お茶を求めたりコメントを伝えたりしていました。一般的に見れば、おおよそ青年がするしぐさでではありません。多くの子どもが小学生の時に経験してきたことです。彼は、Oさんという本当に自分を理解し、支えてくれる人を通して育ちなおしをしているのだと気づきます。

閉会式で教頭先生がこうあいさつされました。「明日から3連休で本当に良かったです。」と。そう言われるほど先生方の活躍も素晴らしかったです。

 全力で走る姿、声を掛け合う姿、思いやる姿、喜び合う姿、教師と生徒が信頼し合っている姿、ここに教育があると感じました。体裁や目に見える成果を求める教育が否応なしに大手を振ってまかり通っている今、こういう姿を多くの教育委員会幹部に見て欲しいと願わずにはいられません

 デジカメを忘れていて、写真が出せずに残念です。

翌日は、我が家で焼き肉パーティーを催しました。

大人に連れられて、4人のちびっこがやってきました。それぞれに個性があって、そのしぐさや発想や話し方、興味の持ち方や行動を見ているだけで、私の心は豊かになれました。

 何よりも子どもを肯定すること。それだけで子どもはぐんぐん育つ。その思いを強くしました


2010.9.2 まだまだ暑い日が続いています。

 今年の夏の暑さは、いかんせんやり切れません。

私は、洋服を大事に着るほうですが、5年間、夏の時期を支えてくれたワンピースを1枚捨てました。首の後ろに汗をかきすぎてひどい状態になっていました。クリーニングに出したら、来年も着られるかしら・・・と一瞬考えましたが、ハンガーに掛けるのも辛くなるくらいのシミでした。

 道路工事の交通指導しているSさんに「大丈夫ですか?」と尋ねたら「日ごろから鍛えているから、まだ大丈夫。」と真っ黒に日焼けした笑顔が返ってきました。日ごろ鍛えていない私は、夏の間は、何とか踏ん張れたものの、これからきつさが襲ってくるのだろうと覚悟をしているところです。

 熱中症で搬送されるのは、外で働く人の次に室内にいるお年寄りが多いと報道されています。

8月になって、別府の母を家に連れてきました。いつもいつも様子を見に帰れないからです。二十日間我が家にいて、私が出張の多い時は、妹の家にお邪魔して、1か月近くになりました。「私は、もう帰ろう。」が母の口癖になってきて、我が家が恋しいようだったので、火は使わないことを約束して、妹が送って行きました。

 クモ膜下出血を患った後遺症なのか、老いのせいなのか、近頃の母は、記憶力がかなり低下しています。判断力が弱くなり、健康な人なら何でもない、身の回りで起こることをうまく対処できずにパニックに陥ることがあります。

 妹と母と相談してこれまでお世話になった老人会を脱会することを決めました。老人会行事に参加することが、母の心の負担になっていると判断したからです。

 後日、別府に帰り、老人会でお世話になった方や役員さんにお断りをしに出かけました。「今年いっぱいいて、参加できるものだけ出たら。」と優しい言葉をかけていただきました。役員さんから「お母さんが一度話したことを忘れていることがよくありました。その時は、もう一度お話ししていましたよ。」と告げられた時、(ああ、母の状態がわかってくれていたんだ。)と頭が下がりました。その日からこう考えています。元気なお年寄りだけではなく、弱い立場のお年寄りも支えられる老人会組織を作るにはどうあればよいのかしらと。

 9月1日から新学期が始まりました。

 小学校では、9月25日に運動会が行われるところがかなりあります。もう練習が始まっています。夏休みに野球やサッカーで外に出ていた子どもと涼しい部屋の中でゲームをして過ごした子どもとでは、練習にも差がでてしまうんだろうなあと心配しています。

 外で遊ぶ子どもを、とんと見かけなくなりました。でも、こんな子どももいましたよ。夏休みに学校の様子が知りたくて、大分市内59校にお邪魔をしてみました。学校には、大きな木がたくさんあるので、必ず子どもたちが蝉取りをしている場面に遭遇しました。「みてみて、こんなにとれたよ。これは、あぶらゼミ。これは、にいにいゼミ。くまゼミもあるよ。」と誇らしげに見せてくれました。先々週は、右手にも左手にもトカゲを握って離さない子どもにも会いました。こんな子に会うと「大きくなってね。逞しくなってね。」と祈るような気持ちになってしまいます。

 民主党の代表選挙が世間を騒がしています。

県民クラブは、民主党系と社民党系の合同会派なので、かなりの情報が入ってきます。選挙後のごたごたが起らなければ良いけれど・・・と願っています。

 昨年の8月30日、私たち国民は、政権交代という歴史的な転換を起こしました。日本が新たな一歩を踏み出したはずでした。私は、新首相には、新自由主義的な教育観と決別し、新たな社会観に基づいた教育観を示していただきたいと切に望んでいます。


2010.8.6 平和を願う日に出会ったメロンパンの少女

 「ときどき日記、もう少し更新した方がいいですね。」とお叱りを受けそうなくらい、のびのびになっていました。

 「書きたいなあ」と、思う瞬間が、2度ほどありました。

 1度目は、青森県の八戸市民病院に伺って、ドクターヘリの実態をお聞きした時。2度目は、わが身に起こった医療ミス騒動。でも、あれこれ逡巡しているうちに、時は過ぎてしまいました。

 毎日、猛暑が続いています。皆さんはどう過ごされていますか。

私は、毎日流れる汗を感じながら、「新陳代謝が良いことは、何より大切なことだ。」と自然に身を任せています。緊急避難で、母が来ていて、「昼寝をするのに蝉の鳴き声がうるさいね。」と言いました。長い棒を持って庭に出て、ハナミズキとヤマボウシの木をたたいてみました。何匹もの蝉が四方八方に飛んでいきます。でもすぐに戻ってきて、蝉しぐれは、一向に止みません。「お母さん、この先、何回夏を過ごせるのかわからないよ。せいぜい夏を感じたら。」とかなり辛辣なことを言ってしまう娘です。

 夕方のことです。

 仕事の帰りにスーパーに寄りました。今夜の献立は、イカと豆腐のチャンプルとなすのホワイトソース焼きと決めていました。

 そのスーパーは、入ってすぐの所にパン屋さんがあります。パンも買わなければと、あれこれ見た後、食パンの6枚切りとぶどうパンをトレイに入れてレジに並びました。少し離れた所に、4、5歳くらいの少女が立っていました。おかっぱ頭で、色の白い子でした。レースのついたワンピースが良く似合っています。私の近くに移動してきた少女は、手にメロンパンを一つ持っていました。「メロンパン、メロンパン、メロンパンが食べたいの・・・・」とはっきりした声でおしゃべりしていました。私は彼女の愛らしさに引き込まれ、思わず「メロンパンが好きなの?」と訊ねていました。少女は、それには答えず「でもお金がないの・・・」とおしゃべりしました。「お母さんにお金もらわなければ」とまた私は、少女に語りました。その直後、彼女はメロンパンを持って、スーパーの中を走り始めました。「メロンパンが食べたいの。お母さん、メロンパンが食べたいの。お金をちょうだい。・・・・」と澄んだ大きな声が店内に響き渡っていました。

 私が、レジを離れ、チーズを探している時に、彼女は、レジで店員さんにお金を渡していました。写真に撮りたいような瞬間でした。

 こんなに子ども子どもした子に久しぶりにあったなあとなんだか嬉しくなりました。

 買い物を終えて、車のドアを開ける時、少女とお母さんが、歩いて帰っているところを見かけました。少女は、スキップしています。「あの子がメロンパンを食べるところを見たいなあ。」と思いました。

 デンマークに「森の幼稚園」があります。国内に50か所あるそうです。

子どもたちは、朝、集合場所に保護者に連れられてやってきます。そこからバスに乗って森の中に入っていきます。森全体が、幼稚園なのです。朝、10時から午後3時まで、子どもたちは、思い思いに遊びます。入園した頃は、昆虫や小さな生き物に触れなかった子どもたちが、大きなカエルを見つけて手にとって観察します。カエルに話しかけながら、「おうちにおかえり。」と小川に置きます。ミミズを見つけると、先生が土の入った観察ケースを持ってきます。

 日本では、図工の時間しか、使わせてもらえない小刀を持って、小枝を削いでいます。大きな丸太を金づちを振りおろして、細かく砕いています。

 子ども同士のけんかが起こります。でも先生は、何もしません。友だちがやってきて、仲裁しながら、ぶつかり合いながら、心の葛藤をしながら、子ども同士で解決していきます。

 家から持ってきたサンドウィッチが、お昼ごはんです。それを包むものには、アルミホイルやラップは使いません。誤って落としても、自然にかえるものしか使用しません。

子どもたちは、森の中の幼稚園で3歳から5歳まで過ごします。雨の日も雪の日も夏の日も森が子どもたちを育ててくれます。

 デンマークでは、『小学校に上がる前の子どもに、文字を教えてはならない』という法律があるそうです。

 良い市民になるためには、良い子ども時代を過ごさなければならない。と言われていました。

 羨ましくてクラクラしてきそうです。

 平和を願う日に感じたことです。


2010 7.13 吉田忠智さんと言う人

 6月からときどき日記が更新できていません。

 議会の後、疲れが出てしまい、気力が萎えていました。病院に通いながら参議院選挙の運動をしていて、あっという間に時が過ぎていました。

 先輩の吉田忠智さんが、昨日の午前3時10分、見事に比例で当選されました。

近頃、こんなに嬉しいことはあったかしら・・・と考えています。ですから今日は、吉田さんのことを綴ろうと思います。ご本人に許可を得ていませんのでもしかしたら「削除しなさい」とどこからか命じられるかもしれませんが。

 吉田さんを初めて見たのは、10年前のことです。その時、吉田さんは、21年勤めた県庁を退職し、県議選の補欠選挙に出馬していました。今まさに選挙車両が出発する、その直前の出陣式が吉田さんの住む団地の下の空き地で行われていました。「選挙に出る人はこんなにも悲壮感漂うものなのか」と思いました。吉田さんは、口を真一文字に結んでいました。傍らには、おつれあいの節子さんが、涙を流しながら立っていました。節子さんは、お母さんの形見の洋服を着ていました。私は、その時初めて「吉田忠智」と投票用紙に書きました。

 吉田さんは見事に当選され、県議会議員になりました。

 人生とは、不思議なものです。わたしもその2年後に、県議選に出馬することになり、皆さんのお力で県議になることができました。

 私は、吉田さんと同じ会派に所属しました。教員であった私は、教育のことなら人よりはわかるつもりでしたが、その他のことはズブの素人でした。行政のことも農業のことも商業のことも福祉のことも何もわかりません。しかし、世間の人は私を一人前の議員として扱ってくれます。私のところにも、少しずつ依頼や相談が持ち込まれました。私は、パニックに陥りました。その時助けてくれたのが吉田さんです。「そのことは、○○部の○○課がいいでしょう。」「それは、○○課の○○さんがエキスパートです。アポをとってあげましょう。」

仕事の手順を一から教えていただきました。うまくいった時は、自分のことのように喜んでくれました。愚痴もいっぱい聞いてもらいました。私には、なくてはならない人。それが吉田忠智さんでした。

 「来年の参議院選挙に出馬しようと思っています。」と打ち明けられたのは

昨年のことです。私は心の中で「ダメ!絶対ダメ!」「いや!」と叫んでいました。私には、絶対必要な人なのです。加えて、吉田さんは、バランス感覚があり、行政手腕に富み、何よりも優しい人柄は県議会の中にはなくてはならない人でした。どんなに汚い言葉を、どんなに意地悪な言葉を言われても、優しい正論で返すことができる人でした。

しかし、吉田さんがこれまで議会の中で訴えてきたことを思い起こしてみました。行財政改革が進む中での官と民の役割。憲法教育。非正規労働者の問題。過疎化が進む中での公共交通の役割。中小企業の金融対策。農業の振興。福祉介護者の待遇改善。地球温暖化。若者が希望の持てるための施策。・・・・男女共同参画についても早くから訴えていました。

県議の仕事をしながら執行部に懸命に訴えても、国の段階で取組んでいただかなければどうしょうもないという壁を感じていらっしゃることもわかりました。

私は、こう考えました。県にとって大事な人だからこそ国にとっても大切な人になるのだろう。そして、私もそろそろ自立しなさいと言われているのだと。

昨年の9月から、吉田さんは、全国のあいさつ回りに出発しました。1日のどこかでときどき吉田さんのことを思っていました。(今日は、どこを歩いているのだろうか。)木枯らしが吹きつける日は、(厚手のコートを着ているかしら。)と心配になりました。

見ず知らずの人の前で、1日に何度も同じような挨拶をしなければならないことは、大変なことです。

大分に帰ってくると、私たちのところに顔を出してくれました。「岩手に行ってきました。」「新潟に行ってきました。」「昨日は、佐賀でした。」「明日から沖縄に出かけます。」絶対に大丈夫だなんて保障はどこにもないのです。ただひたすら明日を信じて歩むだけの生活。そんな過酷な日々を送りながらも、吉田さんは、以前の温厚な吉田さんそのままでした。横から見る頬は、少しこけていました。

お話しが上手になっていました。吉田さんの訴える国づくりは、順序を踏んで、説得力があり、とてもわかりやすい内容でした。自然と涙が出ました。ひとまわりもふたまわりも立派になった吉田さんがとても輝いて見えました。

当選が決まった時のテレビに映った吉田さんのことば。「嬉しいです。嬉しいですね。」それがすべてを物語っていました。

参議院の任期は、6年間です。私たちのためにきっといい仕事をしてくださることでしょう。7月30日が臨時国会と報じられています。当選できたという安堵感はあるものの、またこれから慌ただしい日々が続くことでしょうが、2月から歩き続けてきたおつれあいの節子さんとせめて1日ゆっくりされてほしいと願っています。吉田忠智さん、おめでとうございます。長い間、本当にお世話になりました。ありがとうございました。