2009.6.27 ちょっといい話

 私が、いつもお肉を買いに行くのは、賀来の「河野精肉店」です。

6年前、親戚のおばさんから紹介されて以来懇意にさせていただいています。

お肉の質がよく、以前、我が家で焼肉パーティーをした時には、一口食べた友人が「うめー!この肉うめー!」と絶句したほどです。店内には、肉の流通過程が明記されていて、トレーサビリティーも完璧で、安心して買うことができます。水曜日は、お惣菜の日で、八宝菜や酢豚、お煮付け、コロッケ、サラダなどが並び、働く主婦の強い味方でもあります。しかし、すぐに売切れてしまって、夕方行く私の手にはなかなか入りません。美人でしっかりもののお母さんと頼もしいイケ面の二人の息子さんで経営されています。

 先日のことです。「今日は、夏ばて気味だから、韓国風焼きうどんにしよう。」そう決めて、牛肉のミンチを買いに行きました。お店の閉まるぎりぎりの時間でした。包んでもらう間、立ち話をしていると、奥の方から「ギャーギャー」と泣き声が聞こえました。「アヒル飼ってるの?」と訊ねると「違うの。ねこ。」とのこと。聞くと、息子さんが高速道路の橋げた上付近のちょっとした引っ掛かりのところで鳴いていたねこを見つけたそうです。ぐったりしていてアリもたかっていたそうです。想像するだけでも恐ろしくなる光景です。このままにしておけば死んでしまうと思い、拾ってきたそうですが、水も飲まずただ鳴くばかりだとか。「見てもいい?」と訊ねると「見ないほうがいい。」と言われました。お肉をもらって帰りながらそのままにしておけば、きっとカラスに見つかり餌食になっていただろうなあ・・・。と重い気持ちになりました。

 次の日は、有り余る有機野菜のにんじんとたまねぎを何とか処分しなければと考え、カレーにすることにしました。議会を出る時刻が遅くなり電話で牛肉の注文をしました。店でお肉を受け取ろうとした時に、「ほら見て!」と奥さんが子猫を抱いてきました。昨日のねこです。死にかけていた子猫が抱かれています。床に下ろすとヨチヨチ歩きます。「生き返ったの!」と驚きました。ミルクを少しずつ飲んで元気になったそうです。改めて生命力というものを感じました。「この人があんたを助けてくれたお兄ちゃんよ。」と名前もない小さな命に語りかけました。

 子猫が捨てられていた所は、ねこが行くようなところではないそうです。きっと誰かが捨てていったのでしょう。人間の身勝手な行動に腹が立ちました。

 以前、動物愛護に取り組んでいた友人からこんな話を聞いたことがあります。飼っていた犬に飽きたら、簡単に処分する所に持ち込む飼い主が大勢います。犬を係りの人に手渡す時に「首輪は返してください。」と言って首輪だけ持ってしゃあしゃあと帰っていくのだそうです。

 命が軽んじられる事件が毎日のように起きています。でも、世の中にはこんな優しい人がいる。改めてそう思いました。

 母が、くも膜下出血で倒れ、2回の手術をして、1年が経ちました。本人は当時の記憶もなく、思い出したくないような様子なので、私たちはあまりそのことにはふれずに、一人暮らしの母を見守っています。

 先日、母の大切な友人が転んで骨折をしました。妹と母は、早速お見舞いに出かけました。その病院は、母が入院していた病院です。退院以来、外来には行くものの入院病棟には足を踏み入れてはいません。

 外科病棟で看護師さんに声をかけられたそうです。「遠嶋さん!こんなに元気になって!」とその看護師さんは涙をぽろぽろ流しながら元気になった母の姿に感動されていたそうです。それを見ていた妹も泣いてしまったとのこと。

 1年前の病院でのことを思い出します。食事の介護、トイレの付き添い、リハビリでの励まし・・・どれだけお世話になったかわかりません。退院の時、しっかりお礼を言ったけれど、元気になった母の姿を主治医以外に見せてはいませんでした。皆さんお忙しいだろうと思って遠慮していました。

 多くの患者さんに接する多忙を極めた看護師さんが、母の名前まで覚えていてくれ喜んでくださった。その光景を私は見ていません。頭の中で想像するばかりです。

仕事柄、いろいろな方のお世話をします。あの優しい看護師さんのような気持ちで仕事をしなければと自分に言い聞かせています。



2009.6.16 ひとり一揆を始めた人がいます

 梅雨に入ったと気象台の発表があったものの、雨が降りません。空梅雨(からつゆ)なのでしょうか。

 小学校に伺うと、プールからは元気な声とホイッスルの音が聞こえてきます。私の住む地域でも田植えの風景が広がっています。田んぼに張られた水を見るだけで、何故だか心が落ち着きます。これが日本の原風景なんだと農業の苦労も知らずに勝手に思っています。

 麻生内閣支持率が、また下がりました。政局も慌しくなってきました。破れかぶれ解散がすぐにも起きそうな感もしています。

 国と地方の借金をあわせると800兆円を超えています。政府は「100年に一度」の危機を乗り越えるためには経済政策だと、大盤振る舞いの補正予算を組みました。高速道路の1000円乗り放題も、定額給付金も子ども手当ても選挙を見込んでのような気がしてなりません。借金は、いつか国民が払わなければなりません。消費税増税が待っているのでしょうか。

 国民の関心事は、医療、介護、年金、福祉、教育、子育てだと思うのですが、そんなことと遠い所での主導権争いに辟易してしまいます。天下りも世襲制も許せませんが、懸命に働き、税金を納め、つましく生きている国民が本当に安心して暮らせる国にしていけるリーダーは一体誰なのでしょうか。

 今朝もワイドショーは「鳩の乱」を報じていました。

私たちは、マスコミ報道に振り回されずに、しっかりと自分の意思を持たなければならないと感じます。

県教委の汚職事件から1年が経ちました。この1年間に起こったことを思い出しています。昨年の6月13日、私は4月に先生になったばかりの人たちと会っていました。採用されるまでにそれぞれかかった時間の差はありました。新採用の先生たちは、始めての職場での戸惑いや不安をかかえていました。でもそれ以上に希望に燃えていました。先輩たちは彼らを宝物のように思い、見守っていました。しかし翌日の14日を境に彼らの人生は一転しました。

 事件後、県教委は、教員を排除したPT(プロジェクトチーム)を立ち上げ、2ヶ月と2週間で報告書と計画書が提出されました。それ以降、学校の現場はPTの改革に振り回され続けています。

 「私たち大人は何をしてきたのだろうか。」「民主的な国民を育ててきたのだろうか。」「子どもの叫びに耳を傾ける施策を考えてほしい。」「育ちの現場の荒れを救ってほしい。」「具体的な制度が必要なんだ。」そんな怒りを込めてかつての同僚は、静かに「ひとり一揆」を続けています。

 2ヶ月ほど前に、庭の端っこにタチアオイの苗を6株植えました。ちっとも大きくなりません。「あんたたちは、私みたいね。」とぶつぶつ言いながら毎日水をやっています。よそのお宅のものは赤やピンクや白い花を咲かせています。道路の端のものはまるで雑草のようにぐんぐんと伸びています。我が家のものは、小さくて強い風が吹くとちぎれてしまいそうです。

 今日から第2回定例県議会が始まりました。いつものことながら戦々恐々としています。でも私も「ひとり一揆」を始めようと思います。「どんな風にも負けないぞ。」と自分に言い聞かせています。



2009.5.26 ぺちゃんこな心がふくらんだ打田十紀夫ライブ

 イデオロギーの違いがあることは、もう十分わかっていることなのに、仕事を終えた時、くたくたになっていました。というよりも心がささくれ立ってしまっていました。そんな中で、深刻な課題もいくつか抱えていました。

 一昨日は、養護学校と地域の小・中学校の運動会で、感激しながらも孤独を感じていました。運動会というのは、僅か7時間の中に緊張、笑い、涙、感動にあふれています。子どもたちのがんばりやひたむきさ、アクシデント、支える教師集団のチームワークを惚れ惚れとした気分で眺めながら、(学校っていいなあ。私もあの集団の中に入りたい。もう一度先生になりたい・・・)そんな風に感じると、何故か心はぺちゃんこになってしまいました。

 つれあいと、「ブリック・ブロック」での打田十紀夫さんのライブに出かけました。私は、初めてです。4本のギターを持ち替えながらブルースやラグタイムのインスツルメンタルを弾きます。今年、50歳。痛風が出るのでプリン体の多いビールは控えていると口では言っていました。一部聞いたことのある曲もありましたが、殆どが知らない曲でした。曲と曲のあいだのおしゃべりは、終始プロレスと崇拝するジャイアント馬場さんのことばかりです。これが結構面白い。小学生の頃から、ドロップキックにはまっているようです。ホームページを見ると、巨匠ステファン・グロスマンとアメリカ、フランスツアーをしたことと同じレベルで、ドロップキックに打ち込む姿が紹介されています。東京工大を中退してギター弾きになるほど「ギター命」の人なのでしょう。

 アロハシャツを着て、ちょっぴり太っていて、ラフないでたちからは想像もつかない繊細で心に染み入る生ギターサウンドにすっかり魅了されました。私は、ギターは弾けません。つれあいに「同じように弾ける?」と聞いたら「無理!」と一言。

 「さくら」の曲中での輪唱のアレンジは、ギターの弾けない私でさえも声が出ませんでした。

本物は、すごい!と感じた時、ぺちゃんこな心はどこかに去って行きました。

打田さん、ありがとう。また、来年お会いしたいです。




2009.5.17 「九州ヘラルド」が思い出させてくれたこと

 春に活躍した花たちに感謝しながら、少しずつ花壇とアプローチを夏向きに変えています。土を振るいにかけ、消石灰と腐葉土を混ぜながら「うーん、最高!」と至福の時を感じています。久しぶりの雨に助けられました。

 5月13日に「九州ヘラルド」にお邪魔しました。そこでは、じゅうたん専門のクリーニングを行っています。上戸次にあります。

 前回の出前県議会で、女性ばかりの意見発表を聞きました。「九州ヘラルド」にお勤めの小野さんの話は、私の感性にビビビッときました。従業員の殆どが障がいのある人たちということでした。時間が足りずに「いつか必ず伺わせてください。」とお願いしていましたが、4カ月たってようやく実現しました。

「九州ヘラルド」では、私たちがクリーニング屋さんに出したじゅうたんのクリーニングを一手に引き受けています。

 

 会長の高橋さんからお話を伺いました。

みずほ学園の人たちとクリーニング作業をしたところ、真面目に働く様子に驚いた高橋さんは、昭和60年から本格的に障がいのある人たちと向き合うようになったそうです。

冬場の就業時間は、9時から16時、夏場は、8時30分から18時です。運び込まれるじゅうたんのクリーニングだけではなく、出張してホテルや施設の床に敷かれたじゅうたんのメンテナンスも行っています。

すべての作業過程で、障がいのある人たちが作業をやりやすいようにといろいろな工夫がされていました。

配達されたじゅうたんは、まず、傷がないか、色が出ないかを丹念に調べます。素材に合わせて、異なる方法で洗います。



それを8時間かけて乾燥させ、ごみや塵を掃除機で吸い取り、巻いたり折りたたんだりして、ビニールで包み、棚に収めます。

 

 みんながそれぞれのバーコードを持っていて、誰がその仕事をしたのかが履歴でわかるようになっています。障がいのある人にとって、伝票に書き込むという作業がいかに難しい作業であるかが、初めはわからなかったそうです。失敗を繰り返しながら、何年もかかってタッチパネルのコンピュータ入力が開発されていました。最終段階では、機械をじゅうたんに貼ったバーコードに当てます。するとそれぞれの店別の置き場所のランプが点滅し始めます。ランプの点滅している場所に運んで収めれば、間違いが起こらず安心して作業ができるようになっていました。



そこで働く人たちは、近くのグループホームや三重や臼杵から通って来ています。過疎化の中で、路線バスの回数が減らされているので、実習生の受け入れは、就業時刻を変更して行っているそうです。

「17時以降の生活態度がしっかりしていなければ、仕事を続けることは難しい」

「今の、親御さんも先生も鍛え方が足りません。」

「我々は、躾はしませんよ。」

と高橋さんは、はっきりと言われました。

 私は、19歳からずっと何らかの形で障がいのある人たちと関わってきました。最終的な目標は、それぞれに異なりますが、その人なりの「自立」のはずでした。しかし、いつの間にか「支援」のウエートが大きくなっている自分に気づかされました。

 高橋さんは、こうも言われました。

「彼らは、何も要求しません。何も文句を言いません。」

「自ら働くことと、働かされることは、違います。」

「知ることと理解することは、違います。」

 休憩室で業者さんに注文したお弁当を私たちは一緒に食べ、テレビを見ながら雑談をして昼休みを過ごしました。午後、1時前に誰からともなく仕事は再開されました。共同の作業の中で、気がついた人がじゅうたんの端を広げたり一緒に運んだりと阿吽(あうん)の呼吸で作業は続きました。私は、邪魔にならないように固唾(かたず)を呑んで見ていました。そこには、仕事に自信と誇りを持ったプロがいました。そして、その人たちを厳しくも愛情を持って寄り添う人たちがいました。

 じゅうたんのクリーニングは、これから本格的に忙しくなります。みんなが元気に働くことができますようにと願いながらお暇(いとま)しました


2009.5.6 風薫る季節の中で

 我が家の裏、正確には買い物道路を挟んだ所に「藤田療術院」があります。かなり有名で、福岡や佐伯等からも患者さんがひっきりなしに訪れています。

 私は、10年以上前、右足が上がらなくなったことがあります。保護者に紹介されたK先生にマッサージと針で良くしていただきました。以来、ひどくなる直前まで我慢をし、K医院に通っていたのですが、そこも大変評判が良く、予約はなかなか取れませんでした。体をほぐし、楽にしてくれる先生を必要としている時に、裏の藤田先生に出会いました。なにせ藤田療術院の駐車場から我が家の庭は丸見えです。

 ゴールデンウィークは、休みだろうと諦めていると、先生の車が駐車場に止まっていました。草取りをしながら見ていると珍しいことに患者さんの車がやって来ません。(これはチャンスかもしれない!)そう思って、受話器を握りました。

「診ましょう。」の一言を聞き、財布だけ握り締めてサンダル履きで出かけました。歩いて2分です。

 私の足は、左側が右より短くなっているそうです。それで、右側にかかる負担が大きく、歩き過ぎると右側の肩から腰、膝までしびれたような症状がでることが、わかりました。肩の筋も随分張っていました。

 2ヵ月前、マッサージが上手な人に揉んでもらった時に、「あんた、憑かれちょん。二人の人が、憑いちょん。」と指摘されました。「お葬式に行くことが多いからかなあ。」と話すと「憑かれることは、悪いことじゃあない。払ってあげよう。」と霊を払ってもらいました。もちろん無料で。治療の最中にその話をすると、先生は、笑いをこらえながら聞いていました。

 すっかり体が楽になり、感謝しての別れ際、先生がこう言われました。「霊は、憑いていないでしょうが、佐伯と別府が、肩にかかっているんでしょう。しっかり支えなければならないのだから。」

 私は、「認知症の人と家族の会」に入っています。議員としての勉強と母がくも膜下で手術をしてから「認知症」は遠くない存在だと考えたからです。ここでの学習は尊いものです。脳血管障害を患った人に認知症が出やすいことや

認知症の初期症状がうつ病と間違われやすいこと。何より何年もアルツハイマーの配偶者の方を抱えている方々のお話や看取りを終えた人の話は、想像を絶するものがあります。毎回息を呑みながら、涙を流しながら、でも勇気をもらっています。何よりも勉強になります。

 別府の母は、体に不自由はなく、一人での生活に戻っています。しかし、記憶力が弱くなっています。疲れやすく、少し意欲の減退も見られます。病気の後遺症なのか、加齢のせいなのかはわかりません。そんな母との付き合い方を半年かかって覚えました。

 佐伯の義父は、しっかりしているのですが、腰と足が弱り、昨日トイレで転びました。つれあいが、大慌てで手すりをつけました。

 食事の準備が大変だろうと、我が家で作ったおかずを冷凍できるものはすべて冷凍し、2週間に一度運んでいます。

 少しずつ少しずつ、老いが忍び寄ってきています。でも、そのことを恐れずに、いろんな人の知恵や手を借りながら私たちは介護と向き合っていきたいと考えています。

 介護保険制度の問題や課題をたくさん伺います。富める人も貧しい人も大きな施設も小さな宅老所も誰もが安心して使え、働ける場所にならなければなりません。そして、嫁や娘を介護で縛り付けることから解放する設立の趣旨を生かしていかなければなりません。

 清水ゆきこさんの死が、無念でなりませんでした。

 何だか暗い話になりました。明日からまた、みんな仕事が待っています。

ぼつぼつ歩いていきましょう。


2009.4.4 私が生まれた日 

 我が家の花壇もだんだん彩(いろどり)が良くなってきました。

昨年、枯れたと思っていたギボウシやオダマキが顔をのぞかせ、「早く大きくなるのよ。」と毎日声を掛けています。頂いたネモフィラだけは、植え方が甘かったのか二つに分けた一つが何だか弱っていて罪悪感を覚えます。

 モッコウバラとスイトピーが同時に咲いてくれると大満足なのですが、命あるもの私の思い通りにはなりません。

 ここにその花たちを載せたいのですが、雨で写真が撮れません。それで、今一番気に入っている写真を載せます。

 花の話題ばかりですみません。今日だけは、お許しください。

 今日は、私の誕生日なのです。55年前、別府の亀川で産湯につかりました。

母は、初産で二日間、陣痛に苦しんだそうです。やっと生まれてきた女の子は、仮死状態で泣きもせず、誰もが死を考えたそうですが、幸いにも取り上げてくれたお医者さんの力で生き返りました。あの時、仮死状態が長く続けば、私には脳性まひが残っていただろうと思います。その時のことを祖母と親戚のおばさんに繰り返し伝えられ続けた私は、自覚はないのに頭の中にその時の映像を描き続けてきました。

 生まれてくるのに時間がかかった弱い女の子は、小さな頃は虚弱児で、病院と縁が切れませんでした。肺門リンパ腺という病気にも罹りました。当時は、抗生物質のストレプトマイシンが特効薬だったそうですが、主治医の渡辺先生はその強い薬を私には使いませんでした。薄給の教員には大変な負担だと考えてくれたからかもしれません。大学生になってその薬の後遺症で難聴になったという人に何人もお会いしました。ここでも私は、助けられました。

 子どもの頃、渡辺医院の調剤室で遊んでいた記憶があります。

 ツベルクリン反応は、中学生になるまで陰性でした。あの頃の小学校の朝礼は、今のように「体育座り」ではなく、「休め」の姿勢で立っていました。校長先生の話はとても長く、ときどき貧血で倒れていました。毛布でぐるぐる巻きにされて父に抱かれて入院したことがあります。病院は、いつも私を楽にしてくれる場所でした。今でも、病院のにおいの中にいると落ち着きます。

 

 「私、55歳になった!」とつれあいに告げると「いい数字だ。」とだけ返ってきました。きっと松井投手の背番号を思ってのことでしょう。

 母からは、「あんなに体の弱かった子が、ここまで生き延びて。」としみじみとした電話がかかってきました。

 祖父は、68歳で亡くなりました。父は、65歳で亡くなりました。その二人の気質や体質を私が一番受け継いでいます。だから私は、きっとこの後そんなに長く元気ではいられないような気がします。

 ですから今朝、こう決めました。

自分の信念のままに生きていこう。相手の求めるジェンダーに合わせずに生きていこう。人を見下したり、軽視したり、自分の考えを押し付けたりする人を認めない自分でいよう。私を必要としている人のために生きていこう。と

 でも、「憎まれっ子、世にはばかる」かもしれませんね。