ときどき日記/バックナンバー 2002年 12月・11月

2002.12.13「ロウバイが咲いた!」

 
花が好きです。土に触れ、花を育てていると幸福だと感じます。幼い頃から父の傍らにいて土いじりをしていたせいかもしれません。「これはドクダミ」「これはクコの実」と教えられました。
 私が子どもだった頃、育てていた真紅のビロードのようなバラの花は、二回の転居の時にも植えかえられ、今も母が大事に守っています。子どもの頃はサクラの木やイチジクの木に登って遊んでいました。
 家を建ててから、ガーデニングというものに少しずつはまってきました。うちの庭は、1丁目界隈ではベストスリーに入ると自画自賛していました。でも、忙しいということを理由にはしたくないので、寸暇を見つけては春の種をまき、球根を植えました。それも自分の好きなものだけスイートピー、わすれな草、水仙、カスミソウ、チューリップ、ビオラ、三色スミレ、サクラソウ、ユリ…。こぼれ種でマーガレットもスノーボールも咲くはずです。
 そんなわけでよそのお宅に伺うと、どうしても庭木や花に目が向いてしまいます。「ゼラニウムの白は珍しいですね」「冬でもナスタリチュームは咲くんですか」「こんな和ランは見たことがないです」「この芝生の手入れはどうされていますか」庭をほめられて悪い気がする人はいません。しばらく花談義をして、ナスタリチュームの種をわけてもらったこともあります。(ヤッター?)

 久しぶりに少しだけ時間ができたので、家の中に飾っておいたサフランの球根を庭に植えかえました。芝生の上に落ちた葉っぱを拾っていて、黄色い花に目が届きました。「あっ!ロウバイが咲いている!」感激です。3年前、大好きなロウバイの木を植えてみましたが、なかなかうまくつきませんでした。できるだけ肥料を与え、夏の暑い日も枯らさずに水をやってきました。今年は葉がやけに多いなと思っていましたが、葉がすっかり落ちた後、小さな黄色の花が咲いています。もっと小さなつぼみもぎっしりです。やっと咲いた。よくぞ咲いた。あなたのことは絶対大事にすると心に誓い、何度も何度も甘く優しい香りをかぎ続けています。


2002.12.4 「穴子丼(あなごどん)」


 街で仕事があったので、あい間にデパートの地下でチキンバーとちくわの磯辺揚げと穴子の天ぷらを買いました。買い物なんてめったにできないので、衝動買いです。でも夕飯の時はさすがに揚げ物ばかりなので、穴子は冷蔵庫の中にそのままにされました。
 次の日、その穴子があることを思いつき、「そうだ穴子丼だ!」とさっそく料理にとりかかりました。調理法はいたって簡単。親子丼の鳥肉のかわりに穴子の天ぷらが入っているだけです。そしていただきます。いつもなら「もうやめなさい!」と言われるほどおかわりをする夫が、一膳食べてはしを置きました。「もういいの」と声をかけると、「うん。いまいち」と小さい声。自慢ながら食べ物のことで文句など一言も言ったことのない夫の口から出た「いまいち」。私は大ショックでした。しかし確かにあれはまずかった。今思い出しても胃が気持ち悪くなる代物でした。

(夫より)私は、穴子丼に対して罪をきせるつもりはもうとうありません。が、見るからに肉系の丼であるはずの食感を期待していたのに、スカスカ、サッパリ系の少々生臭っぽい食感とのギャップに思わず驚き、瞬間的にそのギャップを埋められず、つい「本音」が出てしまったのです。最初から「穴子」だとわかっていたら、「さすがやっぱり穴子丼はおいしい」と言って食べたはず……。(苦しい言い訳)


2002.12.2 「ALS患者郵便投票訴訟」

 一週間程前の出来事です。ある学校におじゃまして、ごあいさつを終え、車に乗り込もうとしていると一人の先生が駆けつけて来ました。そして、こんな事ができるといいなあと、次のような話をしてくれました。

 彼女のお父さんは70才です。8年前に全身の運動機能が徐々にまひする難病「筋委縮性側策硬化症(ALS)」になり、病気と闘っています。若い頃から山登りが大好きで、2回も遭難しかけたほど元気だったそうですが、今は寝たきりの生活でお母さんが24時間介護をされています。食事もできなくなり、栄養食をチューブで胃に流し込んでいるそうです。そんなお父さんは投票に行けない。人手もお金もかかり、危険を伴う投票所への移動など、絶対無理なのです。そんな人たちが自宅で家族が代筆する投票を認められるようになればいいのに、ということでした。

 ALS患者の方々のことが新聞やテレビで報じられるのを何度も見ていました。しかし投票のことまで考えたことはありませんでしたので、私は衝撃を受けました。そしてお父さんがどんな思いでこの8年間を過ごされてきたのか、またご家族の苦労を思う時、胸が締めつけられる思いでした。
 その後もずっと先生と話した時の情景を思い出していましたら、3日後の新聞に次のような記事が載りました。
 ALS患者郵便投票訴訟「制度の不備、違憲」「患者らが選挙権を行使できる制度が設けられていなかったことは違憲状態に当たる」と制度の不備を東京地裁は認めたという記事でした。
 現行の制度が最も重要な基本的人権の一つである選挙権の行使を身体的条件によって奪っていたということ、そしてALS患者の人たちがその谷間にいたということを再認識させられました。

 先生のお父さんとご家族の苦労はこれからも続きます。もっともっと支援の体制をつくっていかなければならないと胸に深く刻みました。


2002.11.24「世界に目を向ける子どもに」

 家に帰るとポストの中に手書きのビラが入っていました。「1日に30,000人の子どもが死ぬって知っていますか?」と題が書かれ、子どもたちに予防接種を受けさせてあげるため、飢えから救うためにユニセフ募金にご協力くださいという内容です。
 賀来小学校の6年1組の子どもたちが総合的な学習の時間に調べ学習をしたその発展で行動を起こしていました。
 いいなあ、とつぶやいていました。そして教員時代に2年生の子どもたちと「アジアの国の子どもたち」というテーマで勉強したことを思い出していました。

・フィリピンのスモーキーマウンテン
・マニラではミサの日に5、6才の女の子が香りのいいサンパギータの花輪を売り、1日にやっと5ペソ(100円)をかせいでいる。
・マニラのジプニーのうしろにはぶら下がるように子どもたちが乗り、ものすごい排気ガスをすっている。
・ストリートチルドレン
・バンコクのかみそり工場で働く少年たちの収入は月に3,000バーツ(3,000円くらい)etc

 世界に目を向ける子どもたちに育ってほしい。日本からすぐ近くにある貧しいアジアの人たちを見下すのではなく、理解してほしい。そんな気持ちで子どもたちと学習したことがよみがえってきました。
 さっそく賀来小学校の子どもたちに手紙を書こう。わずかばかりの寄付を届けよう。子どもたちがんばれ! おばさんも応援しています。


2002.11.22「Tさん」

 退職のあいさつをするために養護学校で一緒に勉強したTさんの家をたずねてみようと思い立ち、地図を見ながらやっと家を探し出しました。私と勉強した時は、小学部の1年生。目のくりくりした可愛らしい男の子でした。お母さんは毎日、バスを使って幼い弟を乳母車に乗せ、学校に通って来ていましたが、Tさんはもう20才を過ぎています。
 ピンポーンと鳴らすと「ハイ」と男の人の声。「平岩です」と答えるとドアが開き、たくましく成長した人がそこには立っていました。
 「Tちゃん、覚えている?」とたずね、思わず手を差し出すと、「ひらいわ先生あがる!」と握手したままの手をぐいっと引っぱられ、引きずられるままに居間まで通されました。
 「ひらいわじゅんこ先生すわる!」と言われ、「すわっていい?」「すわっていい」「お母さんは?」「いない」そんな会話をしばらくしました。
 その日はお父さんとお母さんにメモを残して帰りました。

 15年もの歳月が過ぎていたことも忘れるほど、私は昔に戻っていました。ほんわかした気持ちで帰路につきましたが、私はTさんの個性を知っていたから、少しも違和感を覚えなかった。しかし、何も知らない人があんなふうに接しられたら、怖ろしかったかもしれないと考えました。ハンディがある人が皆と同じように社会の中で生活をし、まわりの人がその“個性”を知り、理解しているとそれは何でもないことなのに・・・とあらためて社会の壁を感じてしまいました。


2002.11.15 「アッタマにきたぞ!」

 私が養護学校に勤務していた頃に一緒に勉強していた彼女は小学生でした。歩くことができずに当時は訪問教育で勉強していました。当時から彼女は好奇心おう盛で、何でも見たい、どこへでも行きたい人で、私たち訪問部は限られた時間のなかで、アフリカンサファリに出かけたり、やすらぎ(大分市いこいの家)に出かけたりしていました。

 久しぶりに会った彼女はすっかり大人になっていましたが、相変わらずの大きな瞳はキラキラと輝き、よく笑う以前のままの少女でした。
 仕事を持ち、電動車椅子を使って、電車に乗って出かけ、講演会は何十回とやってきたそうです。あらためて彼女の“生きる力”に敬服しました。
 しかし、家から車で5分とかからない近くの駅まででも電動車椅子では1時間30分もかかるということでした。
 大きな駅でもエスカレーターは一つしか見たことがないのでたずねてみると、たいていは駅員さんが車椅子ごと何人かでかかえて運ぶんだそうです。でも人が足りなかったりすると厳しいことを言われるそうです。とくに親が一緒にいない時などは、「あんたの親はいったい何しよんの!」「お父さんはどうしてこんの」「家の電話番号は何番か」。どうして彼女が駅でこんな質問に答えなければならないんでしょう。車椅子で駅を利用する人が少ないからそんな論理が通用するのでしようか。それともそんな考えが横行(おうこう)しているから車椅子を使う人が駅を利用できないのでしょうか?


2002.11.13 「働く女性の実態」

 結婚生活をだれもが続けられるわけではありません。私の知り合いの女性は子どもが小さかった頃に離婚をし、一人で子どもさんを育てました。その息子は今はコックになり修業を積んでいると目を細めて教えてくれました。
 彼女は今までパチンコ屋さんのお金を交換する仕事をしてきました。見せてもらったその部屋は、3畳くらいのたたみの部屋でエアコンと冷蔵庫、トイレがついていました。ここで朝11時から夜10時までを過ごします。
 「お金をかえる人は機嫌よく来るんでしょう?」とたずねると、「そうでもないんよ。それまでたくさんのお金を使っているから、パンと投げつける人もいるんよ」と教えてくれました。「買い物は?」「朝ちょっとだけ時間があるから、その時にすませるの」、「休みはちゃんとある?」「月に3日だけ。歩合とかいろいろ考えると、休まない方がいいんよ」と教えてくれました。

 私の今まで勤務していた状況とはあまりに違っています。
 別の女性は「来月から来んでいいわ」と突然解雇を言い渡されたそうです。同僚から「何かあったん?会社は新しい人を募集しよんで」と言われた時の彼女の気持ちを考えると、私の方が怒りがこみ上げてきます。
 何が男女共同参画社会だ!女性の置かれている地位や就労の実態はあまりにひどすぎます。


2002.11.4「桜」

 私の名刺には、桜のマークが入っています。「何の花が好きですか」と聞かれ、即座に「サクラ」と答えました。どうして好きなのかわかりません。もしかしたら春に生まれたせいかもしれません。桜が大好きなのですが、教職員には桜の咲く頃が一番忙しく、25年間ゆっくり桜を眺めている機会には恵まれませんでした。

 そんな訳で私の名刺の桜がとても気に入っていました。しかし、訪問したお宅で「サクラかね。サクラは散るで」と言われ、アッと思いました。「でもサクラ咲くとも言いますが」と答えると、「う〜ん。でもサクラは散るな。奥さん、あんた梅にすれば良かったのに。梅は強いで」。その日の夜は(梅なのか・・・)といろいろ考えました。

 でも今はこう思っています。桜の花は確かに散ります。でもその花の後、若い芽がしっかりと出てきます。待ってましたとばかりに若芽が吹き出してきます。そして春は必ずやってきます。私は、その春を待ちます。

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