2008.6.22 初めての経験に四苦八苦
あっという間に梅雨が来てしまいました。
色づいたアジサイが雨に冴えています。でも、この蒸し暑さはたまりません。
5月から6月にかけて、毎週火曜日と水曜日は農林水産常任委員会の管内所管事務調査に出席していました。
私たちが訪ねる所は、山の中、リアス式海岸の外海、細い道を上ってやっと辿り着くユズ団地、ビニールハウスなど34箇所でした。
ずっと心に秘めていた有機栽培を支援したい。何代もかけて守ってきた山を大切にするには・・・と素人考えだけが先行していた私は、カルチャーショックを受けました。まだ思いをうまく伝えられません。というよりも自分の中で学んだことをまとめることができません。
でも少しだけ書きます。
吉野食品
誰もが知っている「吉野鶏めし保存会」です。20年前、余っている米を何とか消費拡大しようと婦人会の女性12人で始めました。5年間で借金を返済し、地域の活性化、地産地消、そして女性の起業の成功例でもあります。米を炊く、蒸す、鶏肉とごぼうを炊く、ご飯に混ぜ合わせる。一連の作業が衛生管理の下、見ていて飽きないほど見事に繰り広げられていきます。写真がないのが残念です。代表の帆足さんは、大病をされたそうです。設立当初の苦労話もお聞きしましたが、そんなこと感じさせないほどはつらつとされていました。
ちなみに私は、鶏肉をどうしても食べられないのですが、頂いた「鶏飯の素」はしっかり我が家の晩御飯になりました。
林業者の方の意見
・ 丸太の値段がまた下がった。行政は何しよんのか。
・ 輸入材は3割高いが、消費者はそちらを使う。
・ 森林所有者として所得が上がらないのが困る。農業をしながら何とかしのいでいる。
・ 森林環境税を使って植林をやって欲しい。
・ 国産材時代が到来しているが、単価が安すぎる。
・ 林道補修をして欲しい。
・ 大分式乾燥材は、評判はいいが生産が追いつかない。
・ 担い手の高齢化が深刻。
この言葉がずしりと来ました。
「森林は、投資すべきものではない。私の心の支えになっているのは森林を創っていること。」「県民に森林がどんなに大切かを知って欲しい。」
鳥獣被害
地域の学校がなくなり、元気な声が聞こえなくなり、若者が職を求めて町に出て行くとそこは自ずと「限界集落」になります。山の手入れが行き届かなくなり、今まで共生してきたシカやイノシシやサルが里に下りてきて甚大な被害が出ています。
国東の国見町赤根地区でその実態を見ました。せっかく植林した杉は新芽をシカに食われ、まるで盆栽のようになっていました。しいたけの原木として使われるクヌギも切った後に新しい芽が伸びるのですが、防護ネットを高く張り巡らさなければすぐにシカに食べられてしまいます。それだけでなくシカは、角を研ぐために杉やヒノキの皮も傷つけていました。
集落は、田んぼも畑も防護ネットで覆われていました。
シイタケ栽培
竹田郵便局を退職した井田さんは、3年前からシイタケ栽培をされています。4年前の台風で、大木が何本も倒れました。その木を使って作業場を建てたそうです。大分県では、安易に手に入るシイタケですが、春、菌を打ったものはふた夏過ごし、秋から発生するそうです。即ち成長に1年半かかります。クヌギや杉の木に菌を打ち込みます。その木から4年間、栽培できるそうですが、その後はだんだん採れなくなり原木を入れ替えなければなりません。今は、シイタケの値段が高く、原木も安く手に入るそうですが、それでもバイト代や乾燥のための重油代を引くと農家の手取りは少ないようです。シイタケが育つには寒暖の差が大きく、雨も必要だそうです。天候に左右される厳しい仕事です。ハウスではない天然のほだ場は理想的な環境のようでした。でも、この木を運ぶのにどれだけの重労働だろうと頭が下がりました。
重油の高等でビニールハウスでの野菜栽培や花作りはコストがかかって大変です。燃料代は高騰しても魚の値段には反映できず、イカ釣り漁業が一時操業ストップ。小麦と大豆のバイオ燃料への変更で、飼料代も高くなり牛を飼って生業にしている人たちも大変な打撃を受けています。
農業の再生、食料自給率アップが最大の課題です。戦後60年、農業従事者が安心して働き、生活が豊かになった時期はあったのだろうか。
文教委員会のようなイデオロギーの対立はありません。でも農家の人たちの汗と涙と叫びが聞こえてきます。
何を学べばいいのか。あまりにも厳しい現実に動けなくなっている自分がいました。
朝地の里の駅のしいたけ料理は、おいしかったです。
「原木どんこ寿司」は、少し強めの酢飯にしいたけがマッチしていました。これで1050円。近くを通りかかったら是非一度召し上がってみてください。
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2008.5.28 雨の体育祭と中学生の涙
暑くなってきました。皆様お元気でしょうか。
パンジーとビオラと忘れな草を未練たらたらで引っこ抜きました。
伸びきった水仙の葉は、来年のためにまだ切れません。でもゆりやスイトピーのいく手を阻むので結んでおきます。
ガーデニングまがいのことを始めてみて、やっと気づきます。一度にやってしまおうとするから焦りが生じるのだと。少しずつやっていけばいいんだと。
我が家の玄関は少しずつサフィニアに変わっています。春蘭の株分けも終えました。いただいたブーゲンビリアが赤い小さな花をつけています。これを大きく育てることが夢です。後は、ポーチュラカを空いているところに植え、思いもかけずこぼれ種で出てくる花を心待ちにしています。
今年は、9月に「おおいた国体」が10月には、「全国障がい者スポーツ大会」が行われる関係で、学校の運動会は5月が主流です。私の住む賀来小・中学校の体育祭(豊賀祭)が24日に行われました。また今年も雨です。赤いTシャツを着て真っ白のスラックスをはいた校長先生は「随分、悩みました。」とおっしゃっていました。
プログラムを変更しての開始です。賀来小・中は昨年から小・中一貫校になりました。1年生から9年生までいます。それに幼稚園生も加わり、年の差10歳の体育祭です。
昨年は、出張が重なり見ることがかないませんでした。だから今年は、とても楽しみにしていました。入学したばかりの1年生をここまで指導するのはどれほどのご苦労があったかしらと頭が下がります。グランドの中を小さな子と大きな子が動いています。子ども達は自然に重なり、また、離れていきます。不思議なほど違和感がありません。子どもには、それぞれの発達段階に応じた学習目標があります。それを達成させるには相当の話し合いが必要だったことでしょう。上級生の行動を見て、下級生は育ちます。下級生が理解できるように9年生はリードしなければなりません。見事でした。
でも、雨は無情です。
せっかく準備し、練習してきた競技ができなくなりました。「物言い」や判定に苦しむ場面もいくつもありました。雨のための打ちきりも実行委員会と紅白の団長と先生方が話し合って決定しました。涙を堪えきれずにマイクを握る実行委員長に胸が打たれました。私は、特別支援学校と小学校にしか勤務した事はありません。私の考えもしなかった対応の仕方を目の当たりにして、知らない世界がここにもあったと気づかされました。
高まった心を非情な雨にかき消され、子どもたちはどう心の処理をしたのだろうとずっと考えています。
でも子どもたちも先生もかっこよかったです。
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2008.5.15 ただいま病気と付き合っていく方法、模索中
ときどき日記を4月中に更新しようと願いながら連休も過ぎてしまいました。
皆さまは、お元気でいらっしゃいますか。
この2ヶ月、トキハ前で街宣をしていても、学校に伺っていても、会議に出ても、料理を作っていてもいつも母のことが頭から離れませんでした。片方の頭で後期高齢者医療制度や道路特定財源や成都の大地震を憂いながら、片方の頭では病院に行く段取りを考えていました。次々に来るご依頼やファックス、お手紙に向かいながら公務に穴を空けない様にするだけで精一杯でした。
くも膜下出血の手術の後、母は順調に回復する予定でした。でも年齢のせいか脳に水が溜まり、水頭症を患ってしまいました。定期的に脊髄から水を抜くと一時的に良くなるのですが、症状は厳しくなってきました。つれあいから「そんなに怒るな。」と注意されても「そんなお母さんじゃなかったでしょう。」と思う私は聞き入れられません。過去と現在が少し混乱した母との小さないさかいは日増しに増えていきました。このままでは看護している私たち二家族も行き着いてしまう。そんな思いもあって先生にシャントの手術をお願いしました。そして、母は、頭と鎖骨とお腹に穴を空け、定期的に水を腸に流す手術を昨日受けました。
もう一度だけ以前の母に戻れたらいいなと祈るしかありません。
私は、2ヶ月間決して泣きませんでした。きっと良くなると信じて生きてきました。でも、少し疲れてしまいました。そして家族に重病人が出て、あらためて気づきます。日本中でどれだけ多くの人たちが突然の事故やがんや難病や認知症と向き合って生きているのだろうか。日々の暮らしを続けながらほんの小さな喜びに胸を震わせ、過去の幸せだった日々を想って暮らしているのだろうかと。
母は、死んだわけではありません。
「純子、ありがとう。苦労かけたね。」と以前の優しい母に戻って、言わせたいと願っています。だから、「お母さん、病気としっかり付き合っていこうね。」と母の寝顔を見ながらつぶやいています。
たくさんの方にご心配をおかけしました。たくさんのアドバイスもいただきました。「私にできることがあったら何でも相談してね。」と専門家の方からも声を掛けていただきました。どれだけ心強かったかわかりません。そのたびに元気が出ました。別府医療センターのドクターや看護士さんやリハビリの先生方の優しく適切で献身的な看護体制には言葉で言い尽くせないほど感謝しています。どうぞこれからも病気の母を抱える私たちを支えてくださると幸いです。
母のことと区別しながら仕事をしっかりやっていかなければなりません。でもこの2ヶ月、私が感じたことや経験し、学ばせていただいたことを役立たせなければとも考えています。
次回は、管内所管事務調査の報告を綴りたいと考えています。
どうぞ皆さま、お元気でいらしてください。
2008.4.10 さくらの蜂蜜と救われたいのち
明け方、夢を見ました。
つれあいと私は、バスに乗っていました。次のバス停には、今年の春、中学・高校を卒業した子どもたちが大勢バスを待っているのが見えます。○○ちゃんがいる!○○くんもいる!進学のお祝いが言える!いっぱい話ができる!と大喜びをしている私。でも子どもたちは、そのバスには乗って来ませんでした。路線が違っていたのです。夢の中で泣いていました。そして目が覚めました。
1月に、卒業する子どもたちを訪ねました。3月に高校受験に失敗した子どものうちにだけ行ってみました。その後、合格した子どもたちにお祝いの電話をかけなければと思っていた矢先に母が倒れ、それっきりになっています。そのことがずっと頭から離れないのでしょう。
それは突然やってきました。3月17日の月曜日、予算特別委員会の準備をしていた朝、珍しく妹からの携帯電話が鳴りました。「姉ちゃん、お母さんが救急車で運ばれた!」お母さんが?救急車で?そんなはずない。だって前の日に私は一緒にいたんだから。別れ際の母を思い出しながら、どうして?運ばれたって一体どこへ?と必死で考えます。どうやって調べたのかつれあいからの電話で別府医療センターだとわかりました。「落ちついて行けよ!」先輩に言われながら別府へと車を走らせました。
救急外来で横たわっている母は、昨日までの母ではありませんでした。声をかけると微かに反応はするものの意識は朦朧(もうろう)としています。それから何が起こったか。あの日の出来事は、映画のワンシーンのように残っています。これまで生きてきて最も恐ろしい瞬間でした。
入院の書類を書いている私に、MRIの後、医者はこう告げました。
「脳内出血を起こしています。くも膜下出血です。かなり重症です。」
一瞬、何を言われたのかわかりませんでした。そんなことと一番縁遠い所にいる母だと思っていたからです。妹が泣き出しました。その姿を見て、「私が泣いちゃいけない。」そう自分に言い聞かせていました。
次の日の手術。ICUに通った時間。個室に移ってからの日々。親戚にいつ告げるべきか。きょうだい3家族でどう看護に取り組むか話し合ったこと。・・・
時々、ドキュメンタリー番組で病気の記録を書いている家族を見ますが、そんなことはできませんでした。ただ「生きていて欲しい。お父さん、まだ迎えに来てはいけませんよ。」とひたすら祈るばかりでした。私たちには泣くゆとりすらありませんでした。
母は、別府で一人暮らしをしています。3人の子どもは倒れても誰も気づきません。たまたま、その日の朝から、お風呂の改修をすることになっていました。その業者さんが見つけてくれました。そして救急車を呼んでくれ、すぐに病院に運ばれて命が救われたのです。
手術して今日で、23日目です。熱が出たり、声が小さくなったり、とんちんかんなことを言ってみたりと日々様々なことが起こります。それを、家族で笑いながら語り合える瞬間、幸せだと感じます。先のことを考えると悩みはいくらでも作れます。でも、救っていただいた命です。大切に守っていかなければと話し合っています。
たくさんの方に病気のこと、家族のあり方、看護の仕方を教えていただきました。良いと言われることは、何でもやっています。
今回は、カンボジアの報告を書く予定でした。でも、行くことはかないませんでした。そのことを母に告げると、「私が、足をひっぱったのね。」と言われました。カンボジアには行けなかったけれど、母の病気のおかげで、家族の絆は強くなりました。そしてもうひとつ。この3週間、公務もなく、病院にも行かない時間は、ひたすら庭の手入れをしていました。そうしている時だけは不思議と心が落ち着きました。だから、我が家の庭はとてもきれいになりました。
今年の春、母と一緒にさくらの蜂蜜を買いました。食糧倉庫を開けるたびに目に飛び込んできます。でもどうしても開けることができません。「お母さんが本当に元気になったら一緒にパンに塗って食べよう。」と心に決めています。