2006.6.26 自分の目で見て、自分の頭で考えて
屋根にたたきつける雨音で目が覚めました。雷の音が鳴り響き、子どもたちの登校が心配ですぐにテレビをつけました。もしかしたら登校時刻を遅らせるテロップが流れるかもしれないと思ったからです。でも流れませんでした。稲光の中、傘を差しながら登校するのはどんなに怖かっただろうと1日心配していましたが、事故の知らせはなくほっと一安心しています。
普段なら(ホームページに書こう!)と感じることが1つや2つあるのですが、ここ1ヶ月、個人的にもあまりにつらいことや元気が奪われることが続き、そんな気持ちになれませんでした。
テレビのワイドショーに対して腹を立てています。秋田の事件が起きるとずっとその報道ばかりでした。事件の悲惨さはわかります。許せません。でも毎日毎日朝から同じ場面ばかり見せつけられ、異常なほどの感情移入をしたレポーターを見たくはありませんでした。
奈良の事件も同じです。問題は、少年と同じような状況に置かれた子どもたちが今現在、この国には大勢存在しているということではないでしょうか。他人事ではありません。
自己を見つめ、自分の考えをきちんと語ることができる。他を受け入れ、自己との比較ができる。そんな当たり前のことができない高校生を創り出していく教育制度が恐ろしくてなりません。学力をつける前に民主的な市民となりうる学習をさせるところが高等学校ではないのでしょうか。そして何よりも家族の愛情でこんなにも元気が出る。生きる勇気が湧いてくる。そんな素朴な家庭が存在しなかったのかと感じてしまいます。
私は愛国心を強要されたからではなく、純粋にサッカーワールドカップ・ドイツ大会を見ました。日本の選手の活躍を期待し応援しました。マスコミはまたしても大騒ぎでした。オーストラリアには負けたけれど、クロアチアには勝てる。ブラジルに2対0で勝てば、決勝トーナメントに進めるとレポーターや解説者が囃(はや)したてました。でも負けた途端にジーコ批判が始まりました。その報道を見ながらメディアリテラシーをつけなければ日本では生きていけないとつくづく感じています。
7月に富山のグループホームに見学に行ってきます。お年寄りと「障害」を持つ人と幼い子どもたちが一緒に生活する施設です。全国一斉学力テストをしないと宣言した愛知県の犬山市にも行ってきます。その時には、元気を取り戻して報告したいと願っています。
2006.5.30 「母の日」と「教育基本法」
5月14日は「母の日」でした。
私は母になれなかったので、つれあいは不憫だと思っているのか「だいたい日本人は○○の日と作りすぎる。商業ベースに乗っている!」と朝から文句を言っていました。
つれあいの母と実の母と二人が健在です。日頃は心配ばかりかけているので元気な姿を見せることが一番の親孝行かなと考え、佐伯と別府に帰りました。
別府の私の母は、20歳で結婚をして21歳で私を産みました。11月が来たら73歳になります。外面が良かった亡き父は、家ではずっとワンマンでしたので母は大変な苦労をしていると子どもながら気づいていました。私たち3人兄弟は、一度も母にぶたれたことも激しく叱られたこともありません。優しく穏やかな母でした。そんな母のDNAは残念ながら妹にしか受け継がれていません。いつも誰かのために生きてきたような母で、法事などで親戚のお年寄りが集まると「先になったら町子さんに看てもらいたい。」と真顔で言っていたのを子どもながらに感心しながら聞いていました。
母は、少し足腰が弱っています。階段の上がり降りが心なしかおぼつかないのです。これがよそのおばちゃんだったらさっと手を出し、支えてあげられるのに実の母にはどうしてもそれができませんでした。だんだん年老いていく母を見たくない。認めたくない複雑な心の私がいました。
学校には、お母さんと一緒に暮らしたい、お母さんが恋しいと願いながらそれが叶わない子どもが何人もいます。福祉の場面で「ひとり親助成事業」が組まれます。特に一人で子どもを育てているお母さん方は、経済的にも厳しい状況に置かれている・・・と話し合われますが「母子家庭だけではないですよ。父子家庭も大変です。」と言わずにはおれません。
子どもたちのためにと様々な施策が行われ、子どもたちのためにと数々の教育改革が日替わりメニューのように出てきています。でもその改革には、現場で子どもたちと生活を共にしている人たちの意見は、まったくといってよいほど反映されてはいません。その改革の向こうに子どもたちの笑顔や目的を持って生き生きと活動する姿は見えてきません。改革の最たるものが教育基本法の改悪です。88パーセントの人が、教育基本法を読んだこともないそうですが、国民の関心が高まる前に法案を通してしまおうとする政府の態度に怒りを覚えながらこの1ヶ月間、街頭演説をしたり座り込みをしたりしながら過ごしました。
国会審議を見ていて、どうして各党はもっと教育に精通している人を質問者に立てないのかしらと不思議です。小泉首相の答弁は相変わらず口からデマカセでした。特に今回盛り込もうとしている「愛国心」については、「内心の自由を侵すものではない」と答弁していました。そんな言葉を信じるほど私たちは愚かではありません。1999年の「国旗国家法」成立以来、日本中の学校で何が起こったか。今、東京や広島で何が強要されているのか。福岡で愛国心の評価をしようとしたのはすべてそこに端を発しています。
教育の憲法とされてきたものを私たちは59年間守り続けてきました。変えさせずにきました。今が正念場だと焦りの中で行動してきましたが、アメリカでの首脳会談を実現したい首相は、今国会での成立を断念し、この法案は継続審議になりました。これから秋までに大きな世論のうねりを起こさなければなりません。たとえ私の願いとは違う方向を向いているとしても、負け戦ではなく、勇気ある闘いをしていかなければならないのだと考えています。
前文と僅か11条からなる小さな小さな教育基本法。平和を作り出すには教育の力をもってしなければと明記されています。教育の憲法と尊ばれてきた教育基本法です。もしも教育基本法をお読みになっていなかったらどうぞ一度だけ読んでみてください。
教育会館から若草公園まで歩きました 5月28日
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2006.05.08 結婚記念日の憲法記念日にこだわっています
5月3日の『憲法記念日』は私たち夫婦の『結婚記念日』でした。
25年前の5月3日は朝から小雨が降っていました。大分のホテルで式をあげるのに別大国道が大渋滞をしていて、今は亡き父が親戚や招待した人が無事に集まることができるのかしらと心配していた姿を思い出します。
『憲法記念日』に結婚式を挙げることにかなりこだわってきました。お客さんにはゴールデンウィークの中日で大変な迷惑でしょうが、私はどうしてもこの日がふさわしいと考えていました。でもその時は、25年後にこれほどの憲法論議が起こることになるとは夢にも思っていませんでした。
今年も僅か3000人を対象にした世論調査の結果が新聞の一面に出ました。憲法を変えたほうがいいと思っている人が5割を超え、特に三十代の女性に多いということはショックでした。しかしそのうちの7割は憲法も前文も読んだことはないとのこと。何なんだ一体それは!
9条の2項をとってはならないと考えている人が6割以上いることに少し安堵(あんど)しましたが、『平和憲法』が切り刻まれることに耐えられません。これまでタブーとされてきた憲法論議がどうしてこんなにも加速度的に行われるようになったのでしょうか。改憲論者はもうアメリカから押し付けられた憲法だからとは言いません。グローバル化の中での日本の戦略が主流です。そして今行われている日米再編軍備が改憲の大きな位置を占めているのでしょう。
『憲法』は国民が制定し、公権力を持った人たちが間違った方向に行かないように縛っていくものです。しかし、憲法草案は、国民を国家が縛ろうとしています。そして政府は、通常国会を延長してでも国民の思想を統制するために『教育基本法』を変えようとしています。
みんなぼやぼやしてはいられません。国民一人ひとりの力量が試されています。
5月7日に医大道路ののり面にさつきの苗を200株植えました。昨年、雑木林を県が伐採してくれて以来、のり面に面して家を建てている甲斐さん、橋本さん、森下さんが次々に出てくる竹を根気強く取り除いてくれていました。秋にはコスモスが咲きました。アジサイも育っています。今後何を植えるか3人が思案の末ご尽力してくださり、市から無料でさつきの苗をいただくことができました。
前日は夜中まで大雨でした。少しでも土が湿っているほうが作業はやりやすく、根つきもいいので(あめあめふーれふーれもっとふれ)興奮して眠れませんでした。
10人で作業開始、つれあいはこの日のために5000円もする鍬を買ってきていました。粘土質の土ですが、昨夜の雨のおかげで順調に作業が進みます。掘った穴に苗を置き、土をかぶせ、足でしっかりと踏み固めなければなりません。(お願いだからしっかりついてね。)長靴を履いた46キロの体が踊ります。
斜面での作業でしたが1時間20分で終了。服も顔も泥だらけになりながらみんなの笑顔が素敵でした。
奥さん方が旬の食材を用意してくださり森下さんちの駐車場でミニ反省会。いろいろな職業の方がいます。長い人生を歩んできた方もいます。
こんな当たり前の幸せを大切にするために、私は、連休明けから活動を開始します。
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2006.4.9 元気もらった、拓郎コンサート!
つれあいの親友であるよっちゃんは、堅い職業についていますが無類の音楽好きです。ジャズ、ロック、ポップス、クラッシックと何でも好きで「第9を歌う会」にも入っています。最近ではつれあいとギターは乗り越えられないので、誰も手をつけていない古楽器(リュートなど)をやろうと目論んでいます。
そんなよっちゃんから「たくろうのコンサート行く?」と夜遅く電話が掛かってきたのは1月前でした。売り言葉に買い言葉(この表現は適切ではないけれど)その時のノリで「うん!行く!!」と返事をしていました。
たくろうとは吉田拓郎のことです。正確に言うと34年前、一世風靡したあの吉田拓郎です。私たちはどちらかと言うとその当時はオフコースに傾いていて鈴木さんと小田さんの織り成す都会的なメロディーに夢中でした。でもその前からスターであるたくろうは別格でした。肩で風切る勢いがありました。当時、たくろうのコンサートのチケットが手に入るなんてありえなかったし、まず大分になんか来るはずもない。ましてやフォーク・ジャンボリーの行われるつま恋(静岡)に行くこともなく、たくろうはレコードとカセットテープだけの人でした。それでもたくろうの歌はメジャーなものなら全部私たちは歌えます。
4月6日、6時10分にいいちこグランシアターで待ち合わせをして、チケットを受け取りました。このチケットをゲットするためによっちゃんが3時間電話をかけ続けたなんて知りませんでした。開場を待っている人のほとんどは40代50代。知っている人に何人もお会いしました。みんな生のたくろうに会えるのです。
34年前は、生ギターでしたが、ストリングスや管楽器も携えた23名のバンドでした。しかしたくろう節はそのままでした。3時間歌うと言っていましたが本当に3時間歌いっぱなしでした。歌い続けても声は変わりません。つれあいは、「コンサートではキイを1度下げている」と専門的なことを言っていましたが、もうそんなことはどうでもいい状態。私たちの席は前から26列目(オペラグラスを持っていくべきだった!)声を張り上げ、ギターを弾くたくろうの顔は、はっきりとは見えないのですが、34年前のたくろう節は健在でした。今の歌は良く知らないけれどたくろうの昔の歌は、歌詞が字余りなものが多く、それで今と昔の比較をしていました。30年以上たっても今に通用するのは、やっぱり素晴らしい曲だからだと思います。
がらっぱちのたくろうも4月で60歳。還暦です。私の周りは60代の人が大勢いらっしゃいますが、「本当に60歳?」と信じられません。
芝居でも音楽でも変に力が入りすぎていると見る人は終わった時に感動よりも疲れを感じるものです。たくろうのコンサートにはそれがありませんでした。自然体でした。
たくろうは、3年前、肺がんの手術を受けました。だから昔のたくろうより痩せていました。(コンサートツアーができるくらいだから大丈夫だよね。)とみんな心の中でそう思いながら声に出す勇気はありません。アンコールの後、深々とお辞儀をしたままのたくろうの姿が今も瞼に焼き付いています。
「よっちゃん、今回も素敵なステージをありがとう。」
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