ときどき日記/バックナンバー 2005年 4月・5月・6月

2005.6.12 住みよい街は自分たちでつくりたい!

 春の花が終わりを告げ、よそのお宅ではペチュニアの白や紫が咲き誇っているというのに、我が家はまだそこまでいきつきません。来週末には何とかしなければとあせるばかりの毎日を過ごしています。皆様お元気でしようか。

 5月29日に賀来で県政報告会を開かせていただきました。日曜日で田植えの準備などでお忙しかったでしょうに90人もの人が来てくださり感謝の気持ちで一杯です。準備段階から支えてくださった方も何人もいて私は、この方たちがいらっしゃるから仕事ができるんだとしみじみ考えました。本当にありがとうございました。

 議員になってから一番足繁く通ったところは、県の道路課と大分土木事務所です。そのほとんどが県道と国道に関することです。
 東野台の自治会長からお話があったのは、6月に入ってすぐのことでした。医大バイパスの法面の上に団地は建てられています。その法面には、山を開発した時のままの林が残っています。台風の時は、けやきが大きく揺れ、家ごとひっくりかえるのではないかと思うほどだそうですし、折れた竹は歩道をふさぎ、自転車の通行にも不自由していて、私も気になっていました。雑木林から出てくるヘビも住民には不安材料でした。一部分住民の方が、草を刈り、紫陽花を植えているところもありました。
 次の日、写真を持って道路課を尋ねました。県下には、県が草刈をしなければならない箇所は、かなりの数あるということでしたが、植えられた紫陽花を見て、きれいな道を保ってくれていることに感謝もされました。
 翌日には、係りの方が見に来てくださり、その翌日には、もう伐採工事が始まりました。延べ3日間かけての仕事でうっそうとしていた林がすっかりなくなりました。素早い対応に感謝申し上げます。近所の方が見守ってくださったり冷たい飲み物を出してくださったりしていました。医大の坂を通る時、どうぞチラッと見てください。
 自治会長さんと「紫陽花を植えましょう」「秋にはコスモスが咲き乱れるようにしたいですね」と話しました。ボランティアでそういうことをやっていきたいと心密かに考えています。

国道の木々


土木事務所の作業




2005.5.14 夜道で出会ったものは…

 5月10日、夜のことです。
 行政視察で他の議員さんとの考え方の違いが浮き彫りになり、へとへとになっていました。食事に出ようとつれあいと車で家を出たのは、9時を少し回っていました。
 医大の坂を下りていくと、車が数珠つなぎになっています。(また交通事故なんだな)と思い、とろとろと従っていました。3台前の車の先の道路に何かが横たわっているように見えます。上りの車も下りの車もそれを見ながら徐行運転していました。(なんなんだろう)と助手席から伸び上って見ました。そして「お父さん。人よ!人が倒れている!!」「そんなばかな!!人が倒れているのにみんな止まらないのか!!」「見てきて!」そんな会話の後、つれあいが車を降りて見に行くことにしました。

 「人じゃない。鹿だ!鹿が倒れている!!」驚いた顔でつれあいが戻って来ました。鹿にあたらないようにそっと車を運転し、その先のちょっとした道に停車して、急いで現場に戻ってみました。
 本当に鹿です。鹿が首をまっすぐに立て、ちょうど中央線の所に足を折り曲げるようにして横たわっていました。角があるのでオスでしょう。もう大人のようでした。迷い鹿が道路に出てきて、車にぶつかったようです。ついさっき私たちの横を通ったバイクに乗った青年が、どうしたものかと思案顔で立っていました。携帯から110番通報すると、すでに通りがかりの人から連絡があったようで警察官がこちらに向かっているとのことでした。このままだと鹿が危ない。私たちは、鹿を取り囲むようにして道路の真ん中に立つことにしました。





 しかしこのままでは、渋滞はひどくなるばかりで、鹿も私たちも道路の真ん中にいるのですから危険です。鹿を道路の端に移すことにしました。(暴れないでよ)と祈りながらそっと鹿の体に手をかけ、抱きかかえるようにして押してみました。骨折しているとばかり思っていた鹿は、押されながらよろよろと立ち上がり、道路の端に移動しました。その後、青年の友人たちも合流し、10人ほどで警察が来るのを待ち続けました。会話するなかで、青年たちが医大の学生であることを知りました。鹿の足にはところどころ血が滲んでいます。目の回りにも血が見えます。「痛いだろうな」「がんばれよ!」と誰かが声をかけます。時間がとても長く感じました。
 「医大生は、治療できないの?」「まだできません。」なかなか警察の車は見えません。「ちょっと写真撮ってもいいかな。」と遠慮がちに携帯を取り出す学生がいます。「いいんじゃない。こんな機会めったにないんだから。」と私たちは、気を紛らわせます。
 鹿とコミュニケーションはとれません。何人もの人間に囲まれて怯えているようにも見えます。そのうち道路ではまだ危険だ。歩道に移そうということになり、さっきの要領で鹿を移そうとしたその時、驚いた鹿は、反対側に飛び出してしまいました。「キャァー!!」悲鳴を上げながら見守る私たちの前で、2台の車が間一髪で通り抜けていきました。その拍子で歩道に上がった鹿は、草むらの端っこに立っていました。そして、突然、夜の闇の中に消えていきました。
 「ばかやろー!帰って来い!」と学生たちが闇に向かって叫びますが、二度と鹿の姿は、見えませんでした。
 その直後、事故処理車が赤色灯を回しながらやっと到着しました。ことの顛末を話すと、大分南署のおまわりさんは、ほっとしたような表情で「そうですか。逃げていったんですか。いやあ、みなさんありがとうございました。」といわれました。

 翌日は、行政視察で大分南署を訪れました。昨夜の話をすると、署長さんはたぬきやいのししではなく、鹿が賀来に出たということに驚いていらっしゃいました。

 治療しなくて大丈夫だったかしら。と今でも心配になります。でも他の議員さんから引き取り手がない場合は、始末されていたよ。といわれると、あの時別れていてよかったのかもしれないとも考えています。
 そして医大の学生さんたちは、今時の格好をしていましたが(いいとこあるじゃん)という思いにさせてくれました。

 開発が進み、鹿やさるやいのししの住処を人間が荒らしてしまい、里に下りて来て、農作物被害が出ている状況は十分承知していますが、もし賀来で鹿を見かけたら、そしてそれが怪我をしていたらあの時の鹿です。守ってあげてください。



2005.5.6 反日渦中の上海を訪ねる

 4月25日から28日まで中国の上海、杭州に行ってきました。カルチャーショックを受け、帰国して5日も経つというのにまだ頭の中でうまく整理できていません。
 中国への研修は、連合議員懇談会で行くことになっていました。しかし、反日のデモが続く中で、「どうして今、行く必要があるのか」と言った意見が出され、直前まで論議を重ねました。私は、今だから行きたい。一人ででも行きたい。と願っていました。結果として何人かの議員さんがキャンセルし、総勢13人の旅となりました。

 大分と上海を結ぶ中国東方航空が今年から復活しています。大分県は、空港使用料などの免除をしていますが、搭乗率は芳しくありません。私たちの乗った278便には県の職員研修団39名が一緒でした。
 1時間30分で着陸する予定でした。しかし、上海空港(浦東)は天候不順で着陸できず、杭州空港に着きました。機内で待たされること3時間。「ご迷惑をおかけしています」「今、燃料補給をしています」といったきり十分な説明はありませんでした。明日の朝早く、杭州に来ることになっている私たちだからここで降ろして欲しいと交渉するのですが、返事は「ノー」。上海に引き返し、出国手続きができたのは、夜中でした。帰りの便でも、「管制塔の指示が出ませんので1時間30分遅れます」とアナウンスがあったきり待たされました。サービスや定刻が当たり前の日本人には拷問のような時間でした。でも、帰ってきてJR西日本の1分30秒が許されなかったことから起こった無残な事故を考えると、その落差に複雑な思いがしています。

 今回の訪問先は、杭州市人民政府外事弁公室と上海人民友好協会と上海日本人学校です。
 何より聞きたかったことは、反日感情のことでした。聞く対象によって少しずつ違いが見られました。
 政府の役人は、「皆さんの訪中を熱烈歓迎します。デモで中日間に影響が出ていることが残念です。私たちとしては、目にしたくない出来事でした。近代史で不愉快なことが起こりました。歴史を忘れることはできませんが戒めとしていきたいと思います。今後、中日の友好が進まないという理由はありません。関係者の努力により最近のマイナス的なできごとを消すことができるでしょう」。
 中国のガイドさんは、「デモのテレビ放送はない。若者がネットワークで集まった。出稼ぎに来て十分な賃金をもらっていない人たちも加わった。国は、日本と友好したい。日本の対応を求めている。中国は、和平と発展をめざしている。ジャカルタでの胡錦濤と小泉さんに笑顔はなかった。これを笑顔にしていかなければならない。日本人は、中国に来ても日本人社会の中だけで生活していて本当の地域の人と交流できていない」と手厳しい。
 昨年から上海に留学している甥の言葉は、衝撃的でした。彼が住んでいる揚浦区は、日本人が少ない地域です。「中国に住む日本人は、一度は中国を嫌いになると思う。どこかで日本人をばかにしている中国人がいることは確かだよ。でもデモがあった翌日、中国の友人はごめんねと言ってくれた」。突出したエリートと低階層者をいやおうなしに見せつけられ「小日本人(シャオリーベン)」と呼び捨てにされた経験から傷つきながらも、中国という国を理解したいと焦り、自分の居場所を探し、自らを支えようと苦悩している若者の姿がそこにはありました。
 時刻が守られない、貧富の差、外貨を落とせといわんばかりの売り子さんの執拗な対応に正直ストレスを感じました。成熟(?)した国で、何不自由なく暮らしているのが日本人なのかもしれません。日本では、はっきりとものを言わないことがおくゆかしいことと評価されますが、外国では、優柔不断と受け取られ、まずいことだとも感じました。国レベルでの交流、民間レベルでの交流をもっともっと広げていかなければならない。だって日本は、アジアの国なんだから。今はそう思っています。


中国のガイドさんと甥の敬輔くん



上海友好協会で



上海日本人学校

 私の友人たちも世界各国の日本人学校に赴任しています。日本人学校ってどんなだろうと興味津々の訪問でした。
 高級住宅の一画に建っています。入り口は、頑丈な鍵が掛けられ、守衛さんがいました。

・ 小学部50学級1771名、中学部10学級375名で合計2146名。
・ 冷暖房完備の教室、体育館、屋内プールと恵まれた教育施設が整っています。
・ マンモス校であるため、来年度浦東地区に新校舎を建築予定。
・ 入学資格は、日本国籍を有している子どものみ。
・ 職員は、教頭2人体制で警備員が17名もいて総勢135名。
・ 公立ではなく、私立的扱い。文部科学省、外務省の指導は受けていますが企業の援助、寄付で成り立っています。
・ 日本の学習指導要領を基に、新しい学力観に基づいた教育課程を組んでいて、「総合的な学習」では、現地理解教育・国際理解教育を行っています。
・ 教科書は、日本で扱われているシェアの高いものを使っています。
・ 保護者負担は、月に16000円ほど(企業負担)
・ 給食はなく、毎日弁当と水筒持参。
・ 送り迎えは、保護者責任。

 学校の中も、学級での様子も日本の学校とまったく変わりません。
 2000名以上の子どもがいて、不登校傾向の子どもは、1名だけだそうです。子どもの数がどんどん増えているので、1クラスが40名以上になったりしています。中国人のガイドさんは「信じられない!1クラスは、27名ぐらいでないと!!」と興奮して訴えていました。同感です。

上海日本人学校の教室


5年生と


司書はいなくて、お母さんのボランティア


体育の授業



 雑誌やニュースで見る上海は、都会でした。現実の上海は、上へ上へと伸びるビル群の間に古い家々が取り残されているように建っていました。車と自転車と人々は、朝5時を過ぎると同じ道路を動き出します。信号は、あって無き物。いたるところでクラクションが鳴り響き、「横断歩道、みんなで渡っても怖い!」と感じました。
 一人っ子政策で、おじいちゃんおばあちゃんお父さんお母さんなど6人の大人に宝物のように扱われている幼子をたくさん見かけました。小さな皇帝たちは、今後、どんな国を造っていくのでしょうか。


動き出した杭州の街


絹織物工場で


高速道路のパーキングエリアで


古い街がビルにかわっています


 5月3日は憲法記念日でした。改憲、創憲、加憲、護憲と様々な意見が繰り広げられています。時代が変わったのだから。護憲はダサい。改憲が新しい。といった世直し論的な発想に流されてはいけません。憲法は、その国の国民のめざすべき方向が記されるものです。九条を変えることでどれだけ多くのアジアの人々に不安を与えているのかということを、私たちは、もう一度立ち止まって考えなければならないと痛感しています。



2005.4.15 政治が民衆を分断している

 2005年度は、中学校の教科書採択の年です。年が明けてから文部科学省の驚くべき方向転換姿勢と歴史教科書の記述のことがずっと気になっていました。
 予想した通りに検定を通過した教科書からは、従軍慰安婦や強制連行という記述が後退した形になっていました。議会にいてもよく耳にする言葉ですが「日本の教科書は自虐的過ぎる。これでは、日本の国を愛する子どもが育たない。」という一部の勢力の意向が強く反映され、教科書会社が検定を通りやすくしたためであり残念でしょうがありません。

 そう憂(うれ)いでいた時に、中国で激しい反日デモが起きました。
 日本大使館や日本食レストラン、日本から進出している企業にその矛先(ほこさき)が向けられ、石や生卵を投げつけているデモ隊の様子がこれでもかこれでもかと放映されていました。
 笑いながら石を投げ、その人を拍手喝さいで迎え入れている群集の行為は決して許されることではないと思います。
 でもなぜそういう行為に訴えるのかということを私たちは、冷静に考えなければならないと思います。デモ隊の多くは、学生、農民、低賃金労働者だそうです。中国では、日本以上に人々の格差が広がっています。日本をターゲットにしながら中国政府に対する不満も訴えているのかもしれません。

 アジアの人々の感情を逆なでするような小泉さんの靖国参拝、竹島や尖閣諸島の領土問題、東アジアの天然ガス田開発、歴史教科書の記述、日本の国連安保理への参加と、問題点はたくさん挙げられます。
 私は、ここで政府が、うんと踏ん張ってきちんとお互いが納得いくように、両国の国民がもっと近づけるような外交上の話し合いをもってもらいたいと強く願っています。1995年の村山談話は生きています。それを絶対に無駄にしてはならないと思います。

 ある知人は、自身のミニコミ誌の中で「中国や韓国の民衆から見れば、過去の忌まわしい戦争で多くの人々の命を奪い、国土を蹂躙(じゅうりん)した国が、心にしみるような反省の言葉を一度たりとも口にせず(少なくとも両国の民衆はそう思っている。そのことが大事なのだ)、他国の戦争で思わぬ復興と発展を遂げるや、新たな指導者然としてふるまうことが、許せないにちがいない」と書かれています。

 私は、どうして今、日本が国連安全保障常任理事国にならなければならないのかわかりません。グローバル化の中で日本は、アジアの人たちと手をつないで生きていかなければ生き残れないことは明らかなことです。アメリカ一辺倒ではなく、まずアジアに目を向けなければ。これから育つ若い人たちが正しい歴史を学び、そこから民族や国を越えて共に生きていこうとすることが今、一番求められているのではないでしょうか。

 妹の息子が昨年から上海の大学で学んでいます。日本をたつ前に、「お互いの国の間で過去に何があったのか。きちんとした認識を持っていなければだめだよ」と伝えました。安全に生活できているのか気になります。今彼が何を考えているのか。そしてマスコミで伝えられていることが本当なのか自分の目で確かめるために4月25日から上海に行ってきます。私の見てきたことをまたお知らせします。


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