ときどき日記

2013.9.28 施設への入所

 「まだまだ暑いですね。」が人と会って交わす枕詞になっていますが、それでも朝、夕の涼しさを感じる今日この頃です。

 私は、血圧が145まで上がってしまい、今年の夏の慌ただしさゆえ、仕方ない事かもしれないとこの一月半を振り返っています。

 9月24日、母をこれまでデイケアでお世話になっていた緑が丘の宅老所「うさぎとかめ」に入所させる朝のことでした。部屋の中に置かれた衣類や寝具を見て、母は「私もう帰って来れないのね。寂しい。」と涙ぐみました。「うそでしょう!」「この1か月ずっと話し合ってきたでしょう!」「お母さんは、あんたちが一番良い方法を決めてねって言っていたじゃない!」そう心の中でつぶやきました。昔のことはいくらでも覚えているのに最近の事はすぐに忘れてしまう。認知症特有の病気がそうさせているのだとは分かっているのですが、何だか自分が悪いことをしているような気になってしまいました。

 別府の母は、5月から妹宅と我が家を私の仕事に合わせて、行ったり来たりの生活を続けていました。

朝起きた時や昼寝から目覚めた時「ここはどこかなあ?」とよく聞かれました。

「ようく周りを見て。」「お母さんの家はどこだったっけ?」と尋ねてようやく「ああここは、敏朗さんと純子の建てた家。」と気づきます。そして必ず「私ここにいてもいい?」と聞いてきました。

 「いつまでもいていいよ。」とその都度答えていましたが、姉妹で話し合って母を入所させることにしました。それを決めた後の時間、私の心は揺れ続けていました。在宅で頑張っている方はたくさんいます。ましてや徘徊や暴言もなくいたって介護しやすい母ですので、親戚のおじさんやおばさんはきっと「もっと頑張れ純子」と言われたと思うのですが、母中心の生活は私の仕事に影響していました。

 お昼ご飯を準備して、朝、家を出ます。置手紙をしてはいるものの夕方になると不安がっているのでは・・・仕事もそそくさと家へ帰ります。電気もつけずにテレビを見ている顔を見てほっとしたら、面倒くさがるのを説き伏せて、入浴。食事、就寝まで目と心が離せませんでした。夜の会合には一切出られませんでした。

 介護1の認定が下りた段階で、「ここが一番安心」と妹と決めた施設への入所の手続きに入りました。評判の良い施設です。今を逃したら、いつ空きが出るかわかりません。

 ケアマネさん、施設の方とお話を進め、20枚以上の書類を読んで署名捺印、持っていく荷物の準備に忙殺され、24日の朝の私の頭の中はもう何も入らないというくらいいっぱいいっぱいでした。

 2階の陽当りの良い個室が母の部屋になりました。荷物を収め、家族写真を置いて1階に降りてみると母は少し不安そうな顔をしていました。

 「頑張ってね」と言って別れる時、涙がこぼれそうでした。でもこれで終わりではありません。これからいろんなことが起きると覚悟しています。今日から新しい始まりなんだとも思いました。

 まだ4日しかたっていないのに「どうしているかなあ?」といつも考えます。

「夜は、トイレを間違えて他の入所者の方の部屋のドアを開けて迷惑をかけていないかしら・・・」「失禁して迷惑をかけているのでは・・・・」と不安に思います。

 我が家の床の間の前にはまだ四十九日を迎えていない義父の祭壇が置かれています。その前に布団を敷き、その部屋は母の部屋になっていました。その布団が仕舞われると、また夫婦二人だけの生活にもどりました。何だか広い。と感じます。体の小さな母ですが、大きな存在だった。母中心の生活だったんだと振り返っています。

 母がいる間、我が家の食事は規則正しく充実していました。食卓に上がるおかずの品数は多く、塩分も控えめでした。

 二人だけになると手抜きをしている自分がいます。

 昨日は、入所後の母の生活を、施設の方とケアマネさんと私たち姉妹で話し合う日でした。初日こそは、落ち着かない様子だったようですが、施設の方や入所者の方に親切にされ、今は、落ち着いています。私たちの姿を見て、「あんた、来たん!」とびっくりした顔をしました。しばらく話をして、今日は泣かずに帰ることができました。

 たくさんの方にお世話になりますが、頑張っていこうと思います。

 私と妹のやることを理解し、一緒に生活してくれたそれぞれのつれあいにも感謝しています。

 埼玉の弟に電話すると「俺も早く会いに行きたい。」と言っていました。

 早くその日が来ることを願っています。

 私的なことばかりを綴ってしまいましたが、平岩純子、明日から仕事全開です。


2013.9.10 いつの間にか夏が行ってしまいます。

 ときどき日記が、20日以上、更新できていませんでした。深く反省。

 ときどき日記を綴る時は、一番自分と向き合える時間なのですが、それが確保できていなかったのかもしれません。

 今年の夏は、尋常ではない暑さに苦しみましたが、それ以上に厳しい現実と向き合わなければなりませんでした。義父の死もそうでした。そして、お世話になったSさんが急逝されたことは、今でも受け入れられない現実です。

 Sさんは、初めて選挙をした時に、総合選対委員長を務めてくれました。おおらかで、太っ腹で、包み込むやさしさを持っていました。何もかもが初めての私を励まし続けてくれました。そのおかげもあって、私は初当選を果たすことができました。選挙後、すぐに転勤が決まり、単身で、鹿児島へ赴任していかれました。

 会派の研修で、鹿児島に行った時には、みんなでお会いして、懐かしい話で盛り上がりました。鹿児島は、離島も多く、お仕事は多忙を極めているようでしたが、持ち前の明るさで慣れない土地で仕事に前向きに取り組んでいる姿に逆に励まされました。

「もう大分に帰って来て欲しい。」と願っていた矢先、赴任先の宮崎で帰らぬ人となりました。単身赴任生活は10年にも及んでいました、53歳でした。

 もう一度あのタフガイに会いたいなあ・・・。と思います。

 8月23日〜25日まで、京都に勉強に行ってきました。

 一人旅は、久しぶりです。名古屋と東京なら何とか一人で歩けますが、関西方面は全くと言ってよいほど頭の中に地図が入っていません。行き先は、伏見区と左京区なのですが、まるでわかりません。ひやひやドキドキの三日間でした。

 夏休み中で新幹線は混雑していました。私の席に酔っぱらったおじさんが座っていたり、車掌さんを呼び出すアナウンスがひっきりなしにあったりでした。

 さすが、日本一の観光都市京都。一目見て観光客だとわかる人が街中にあふれていました。駅も地下道もデパートも人、人、人です。

 バスは市内220円です。後から乗り込み、降りる時にお金を払います。次のバス停の予告の時に、必ず近くのお寺や観光地の詳しい説明がアナウンスされます。それも日本語と韓国語と中国語で。

 残念なことに、観光する時間は取れなかったのですが、バスに乗っているだけで「ここが浄土宗の総本山、知恩院か!」等、観光気分に浸っていました。

 訪れたのは、京都市立白河支援学校です。そして全国政策研究集会に参加しました。支援学校へ事前にお電話した時に教頭先生から「バス停から、わかりにくい所なんですよ。」と言われていました。覚悟はしていましたが、本当にわからなくなってしまい、道を歩いている人に尋ねました。優しいおじさんは一緒に歩いて学校まで連れて行ってくれました。

 研究集会は、龍谷大学のキャンパス内でしたが、説明書に書かれていた駅から徒歩5分は嘘です。ここでも迷っていると、龍谷大学の大学院生が連れて行ってくれました。

 

 白河支援学校は、高等養護学校です。中学校の支援学級からの入学生が多く、高校生だけの学校です。校長先生は私のHPを読んでいてくださり、同じような思いを持つ者同士話が弾みました。子どもたちが自立して職業を身につけていくためには、様々な取り組みが必要ですが、白河が取り組んでいるデュアルシステムについて丁寧に教えていただきました。

 子どもの持つ「障害」や個性だけでなく、いろいろな支援を必要としている家庭があります。それもひっくるめて、学校と地域が連携して子どもを育てていかなければならないと思います。共生社会のメリットは、お互いにとって「いいね!」だと校長先生は言われました。

 校舎は、廃校になった小学校を利用しているので、かなり老朽化していましたが、実践やめざすものは、最先端を行っていると感じました。

 屋上で野菜を育てています。とうがらしや米なすなど京野菜も所狭しと植えられていました。




 全国政策研究集会では、教育制度を中心に学びました。

 これまでの教育改革は、地域の形を壊し、子どもたちからやる気を奪ってきたように思えます。それでも子どもが一生懸命耐え、教職員が授業研究を懸命にやってきたから、日本の教育は壊れないでいたのだとわかります。

 学校でしか学べない子どもたちが大勢います。安心して生活できる安心感と基礎基本が大切なのだと思います。

学校に多様なものさしがなかったら、生きづらい子どもたちが増えていきます。誰もがハッピーにならなければ・・・と考えます。

 京都から帰って来て、10日以上もかかってようやく報告書をまとめました。

いつもなら、帰って来てすぐにできることにこんなに時間を要しています。

「平岩純子、なにをだらだらしているんだ!悩んでいる時間があったら、さっさと体を動かせ!」と自分に腹を立てながら夏の終わりを過ごしていました。

 「あまちゃん」のドラマの中で、鈴鹿ひろ美役の薬師丸ひろ子が、女優を続けようかと悩むあきに向かって語る場面があります。「向いてないけど、がんばりなさい!」と今は、そんな心境です。

私は、AKBではなく、AKY(あんまり空気を読まない)でやっていこうと考えています。


2013.8.17 お父さん、ありがとうございました。

 8月10日の事です。前日に、お世話になった方が、宮崎で亡くなったとお知らせをいただきました。ご葬儀は、竹田で行うと知り、つれあいと一緒に車で出掛けていました。家を出て、挟間に入ったところで、つれあいの携帯に多くの着信が届いていることに気づきました。佐伯のお姉さんからでした。(療養のために入院しているお父さんが悪いのかしら・・・。)不安に思いながら、電話をしてもつながりません。何軒かかけるうちにやっと甥っ子につながり、義父の容体が悪いことを知らされました。お医者さんが言われるには、「今日か、明日まで持つかわかりません。」ということでした。

 足腰は弱くなっていた父ですが、ずっと一人暮らしをしていました。なかなか帰れない私は、おかずを作っては、冷凍にして2週間に1度、つれあいが運んでいました。電話ではいつも「純子さん、おかずが美味しいよ。ついついご飯を食べすぎるよ。」「病院の定期検診で、どこも悪いところはなかったよ!」と嬉しそうに語っていました。

5月になって、食が進まなくなり、自分から「入院しよう。」と言い出しました。だんだん暑くなる時期です。そのほうが私たちも安心でした。いろいろ検査をしてもらいましたが、内臓はいたって元気だということにほっとしていました。90歳になるのに介護認定も受けていないので、この際、病院で介護認定の審査もしていただくといいね。と姉弟で話し合っていました。

 最初は、点滴だけだったのが、流動食を食べさせていただけるようになり、最近は自分でご飯を食べることができるようにまでなっていたので、急な容態の変化は信じられないことでした。横たわる父の血圧はどんどん下がっていきます。「耳だけは聞こえているよね。」と信じて声をかけ続けましたが、翌朝早くに帰らぬ人となりました。

 お寺さんも見えてくださり、その日のうちに通夜ができ、次の日には葬儀。誰にも迷惑をかけずに、父は静かに旅立ちました。つれあいの会社にだけお知らせをし、親戚の方々やお友達にだけ来ていただきましました。

 母の時同様、潮谷寺の和尚さんの御詠歌は、その場にいる人たちの涙を誘いました。

 友人のMさんとAさんは、釣り仲間です。その方々が、魚釣りの時の私たちの知らないエピソードを語ってくれました。80歳を迎える前に、自分の船を手放しましたが、父の趣味は釣りでした。その腕は、まるでプロのようでした。私は、結婚してから佐伯に帰るたびに、魚がこんなにおいしいものだと教えられました。父の釣り上げたイサキ、タイ、ゼンゴ、キス、カマス、そしてモンゴイカはいつも絶品でした。姪たちは、「小さい頃、じいちゃんは、漁師さんだと思っていた。」と言いました。

 マニュアル車を運転し、(事故に遭ったらどうしよう。)と心配でしたが、その運転免許証も「90歳になるからもう返上しよう。」と言ってくれた時は、正直ほっとしました。

 母が亡くなって7年間。ずっとお位牌を守ってくれていました。その父を姉夫婦がいつも支えてくれていました。「おいちゃんには、随分と世話になった。」と親戚の人たちが言ってくれるのを聞きながら、父は決してお金持ちではなかったけれど、良い人づきあいをしてきたんだと分かりました。その人づきあいは、これからは、喪主であるつれあいが続けていかなければなりません。

 大分に帰ってくると、父がいなくなったという気がしません。電話を掛けるとその向こうにいるような気がしてしなりません。

 「親父は小さい頃は、怖かった。」とつれあいは言いましたが、私には優しいやさしいお父さんでした。

 お父さん、32年間、お世話になりました。ありがとうございました。

 暑さは、まだまだ続きます。皆様、どうぞご自愛ください。


2013.8.2 福島の子どもたちと過ごした5日間

 ものすごい猛暑に疲れてしまいますね。

 先々週は、宮城、岩手、東京にいて、気温が20度〜24度で過ごしやすさを感じていました。一昨日まで、湯布院で寝泊まりしていました。朝、夕の風が涼しくて久しぶりに夏の優しい風を感じていたのに、大分に帰って来てこの暑さは堪えられません。

 皆さんお元気でしょうか?

 2011年3月11日以降、地震と津波と原発の恐怖を知るうちに、福島のこどもたちの健康被害と外で活動できない現状が気になってしょうがありませんでした。まだ、汚染されていないであろう大分の地にたとえわずかな時間だけでも呼んで、思いっきり体を動かす活動をさせてあげたい。甲状腺に溜まったセシウムを抜く活動がしたいと思い続けていました。最初は県議の仲間とそんな活動が組めないかしらと模索しましたが、私を含めてみんな忙しくしています。その考えは無理だと気づきました。一昨年から「わくわく湯布院」を行っている実行委員会に参加させていただいてようやく実行できました。

 子どもたちは、南相馬市、いわき市、郡山市と住むところはばらばらでしたが、実行委員会のメンバーのつてで、参加者を募りました。子ども25人、引率者8人が新幹線で大阪に来て、大阪南港からフェリーで航路別府に到着したのは、7月27日の朝でした。

 乗客がどんどん降りてくるのに、福島の子どもたちはなかなか降りてきません。一緒に活動して気づいたことですが、おそらく荷物の整理に時間がかかっていたのだと思います。荷物の整理にとてつもなく時間がかかる子どもたちでしたから。

 お迎えの後、チャーターしたバスで花菱ホテルに行き、そこで朝食バイキングとお風呂を済ませ、高崎山へ。サルと目を合わせないことやちょっかいを出さないこと、ビニル袋を持たないことを約束して、指導員さんの説明を聞きました。サルが広げた足の間を通ると良いことが起きると言われると、みんな足を広げていました。途中から雲行きが怪しくなり、雷の音も聞こえてきました。急きょ「うみたまご」に入場することを決めました。(入場料が高いので今年は諦めていたのですが、雷に遭っては大変です)。

 薄暗い館内で自由にさせると、私たちはまだ子どもたちの顔を十分に知らないことに気づきました。それからは集合をかけるためにスタッフは汗だくでした。引率のお母さん方は疲れ切っていました。中止だと聞いていたイルカショーがあるということで、屋外に連れ出してみると、ほとんどの親子連れがカッパを着ているのに、私たちの子どもたちだけが着ていませんでした。「どうしてカッパを着なかったの?」と後から尋ねてみると「だって100円だって言われた。」100円を渡していなかったことを反省。いるかの水しぶきを思いっきり浴びた子どもたちは大喜びでしたが、びしょぬれでした。

 その後、ドライブインで昼食をとって、海地獄と山地獄を見学して湯布院の見成寺(けんじょうじ)にたどり着いたのは、午後三時を過ぎていました。

 「ゆふわく」が初めての私は、このお寺でどんな風に過ごすのかしら?食事は?遊びは?お風呂は?寝る時は?と考えていましたが、お風呂以外は、全てお寺の中で完結しました。お風呂は、クアージュという公共の温泉に2班に分けてスタッフが自家用車でピストン輸送です。

 広いお堂の端には、子どもたちとスタッフ用の貸布団が積み上げられています。

境内の中と外でボール遊びがすぐに始まりました。4つのグループはいつの間にか解体され、子どもたちは自由に遊びまわります。教員のDNAが抜けきらない私は、けがをさせてはいけないとついつい子どもを管理しようとしてしまうのですが、それをしてはいけないことだと気づきます。お布団の上には上がらないだけが私との約束です。

 ボール遊びをする子、オルガンを弾く子、漫画を読んでいる子と自由に好きなことをしていました。歓声を上げて動き回る子どもたちを見ていて、私は教員時代こんなに子どもたちを遊ばせることができていたかしら・・・と胸がちくりと痛みました。

 


 子どもたちと引率者とスタッフも入れると食事は、常に45食は準備しなければなりません。真宗大谷派のそれぞれのお寺の坊守(ぼうもり)さんと檀家の奥さん方が作ってくれました。ハンバーグ、スパゲッティ、カレーライス、デザートと子どもたちの好物が毎回並びます。地元で採れたお野菜の漬物やサラダも並びます。食事の準備も後片付けも大変なことでした。「福島のものは食べられないからね。」と引率者の言葉に現実の厳しさを知らされます。

 お味噌汁をひっくり返したり、生卵をテーブルの上に落したりと毎回アクシデントが起きます。

 よく食べ、よく遊び、よく寝る子どもたちは、滝遊びをし、湯布院の夜市に出かけ、肝試し(お寺なので不便しません)をし、プールに入り、湯布院小学校の児童クラブと交流をしました。自己紹介で「福島ってどんなところ?」と尋ねられた時、小さな声で「放射能がある。」と答えたのは辛かったです。

 夜は、興奮していてなかなか寝てくれません。でも蚊帳の中に押し込むと不思議なことにいつの間にか寝息を立てていました。よそではなかなか寝付かれない私も、湯布院にいる間は、爆睡しました。




 いよいよ明日は、湯布院とお別れです。その夜は、ささやかなお別れ会。玉の湯さんと亀の井別荘さんから豪華なオードブルが届きました。もちろん食事スタッフが作ってくれた団子汁やおにぎりやお野菜や果物も並びました。

今回「ゆふわく」を盛り上げてくれた人々の中にAPUの学生さんや卒業生がいました。彼らがお別れ会で歌った歌や楽器の演奏は心にしみわたりました。ベトナム、インドネシア、韓国、メキシコの若いお兄ちゃん、お姉ちゃんに子どもたちは、夢中でした。学校だったら嫌でも話を聞いてくれる私は、子どもたちの眼中には入りません。歳のいった私は、おばちゃんです。困った時や許可を得る時だけ「おばちゃん、純子さん」と言って近寄ってきます。

 

 最終日は、朝10時30分にお寺を出発して、一路ハーモニーランドへ。私は、20年ぶりのハーモニーランドです。

 一番手のかかるトラブルの多い子どもたちチームを、熱中症にかからないように水分補給をさせながら炎天下で見守ることは大変でした。

 別府観光港にバスは到着し、夕食を済ませたらいよいよ乗船です。1年生の好規くんが「帰りたくないなあ。」と言いました。

 フェリーのデッキに子どもたちが出てきて、岸壁にいる若いスタッフとエール交換が行われました。それを見ていて年寄りスタッフたちは涙ぐんでいました。蛍の光が流れ、たくさんの紙テープが降りてきます。その一つ一つを拾いながら、みんな涙が止まりません。だんだん小さくなっていく船を見ながら「恭介、野菜食べろよ!」「孝太郎、物をなくすなよ!」「勇斗お金使うなよ!」と叫び続けていました。

 お母さん方は、福島の厳しい現状を語りませんでした。でもそれでいいんです。子どもたちの弾ける笑顔を見て、憧れの湯布院散策をしていただければ、と私たちは考えていました。引率の育成クラブの指導員さんからは、津波で家が半壊した人の境遇と原発のせいで自宅を出て仮設に入っている人の境遇の違い等を知らされました。

 泣き虫な子、神経質な子、ずる賢い子、おっとりしている子、弾丸のように動き回る子、いろんな個性の子どもたち。でもそれが子どもなんだと思います。

 「ゆふわく」の最中に、団地のお祭りがあって一時帰省しました。団地の小学生たちが舞台でビリーブを歌いました。

「大分の子どもと福島の子どもとどこが違うのかしら・・・」と考えながらその歌声を聴いていました。

 子どもに違いはないのです。どこに住んでいたって子どもは同じです。どの子も大切に育てられ、自分の夢を実現させる権利を持っています。

 ただ、親御さんが「福島で生きる!」そう決めた子どもたちです。福島の地を離れない子どもたちです。

 「ゆふわく」から3日が過ぎるのに、まだ子どもたちの声が聞こえてくる気がします。あの子どうしているかなあ。と子どもたちの事ばかり考えています。

 福島の子どもたちに幸あれと願っています。

 今回、たくさんの方々にご寄付をしていただきました。本当にありがとうございました。皆さんのおかげで「ゆふわく」を無事に終えることができました。

感謝しています。そして無償の愛を注ぎ込んだ心優しいスタッフの人たちと出会えたことも幸せでした。


2013.7.15 ただ今、奮闘しています!

 猛暑が続いています。

 皆さん、熱中症対策は十分でしょうか?私は、水分は取りすぎるくらい摂っているのですが、あせもがおでこにできてしまいました。

 消防署に勤めている甥っ子に聞いたところ、やはり熱中症で搬送される人が増えているようです。

 前回、「福島の子どもたちを湯布院に呼んでの活動にご協力を!」と呼びかけたところ、多くの方々からご寄付をいただきました。職場で声を掛け合ってカンパしてくれたり、集会でカンパ袋を回してくださったり、1週間分の売り上げを寄付してくださったりと本当に感謝しています。何とか予定のお金も集まりそうですので、計画は実行できます。ご協力本当にありがとうございました。

 議会で忙しくしていたら、ときどき日記を一月更新できていませんでした。

 猛暑の中、別府の母を一人で置いておけなくて、我が家に連れて来ています。

80歳の母は、何も起こらなかったら、平均的老婦人でいられたのですが、くも膜下出血を患った後、厳しい状況です。優しい性格、穏やかな気質はそのままなのですが、記憶力が乏しくなっています。

 先日も私が炊事をしている間、大好きな大相撲名古屋場所を見ていました。「郷土出身力士嘉風は勝った?」と聞いたところ、しばらく考えて「忘れた」の一言。「ありがとうね。」「迷惑をかけるね。」と気遣いの言葉は出るのですが、自信がなく、自分で判断することができにくく全ての面で依頼心が増しています。

 朝ごはんを食べたら昼ご飯をお皿にもって、メモを渡して出かけます。ピンポンが鳴っても出ない。電話がかかって来ても取らなくて良い。が約束です。

夕方が近づくと、大丈夫だったかしらと不安になります。慌てて家に帰り、顔を見て一安心といった生活が続いています。私の家と妹の家と半月ごとに行ったり来たりなのですが、あまり別府の家への執着がなくなっているので、助かっています。そして何よりも両家のつれあいの理解がそれを助けてくれています。

 別府の介護認定は厳しいようで、母はいつまでたっても要支援2のままです。

「大分だったら確実に介護2は認定されるよ。」と専門職の人に言われます。要支援のままでは、週2回のデイサービスに通うことしかできず、家族には厳しい現実です。

いつかは、施設的ケアがみんなにとって、良い環境になるのだと思うのですが、その時期はいつなのか。大分に住民票を移したほうが良いのか。私たちは、夏の間にその結論を出さなければならず、毎日悩む日々です。

 追い打ちをかけるように、佐伯の義父が入院しました。90歳という高齢で、一人で頑張ってきましたが、もう一人暮らしはできなくなっていました。病院にいる時のほうが安心なのですが、口から食べることが難しくなり、主治医から胃ろうを勧められました。いろいろな情報を集めて、体験談をお聞きして、それはやらないことをつれあいと義姉とおじが決めました。勇気のいる決断でした。佐伯の事は、姉夫婦にお世話になりっぱなしで申し訳ない気持ちでいっぱいです。

 母は、自分の僅かな年金と父の遺族年金があるので、経済的に不自由はないのですが、兄弟が少なかったり、子どもが遠くに住んでいたり、介護度が高かったり、経済的に困窮していたりともっともっと厳しい状況の方々が大勢いるのだと考えています。

 そんなわけで、ただ今、介護と選挙に明け暮れています。母の状態は、少しずつ厳しくなりますが、選挙は良い結果が出るといなあとひたすら願っています。

 先日、仲間と集会の後、カレー屋さんに行ってお昼ご飯を食べました。カウンターの隣に障がいを持つ人が座りました。常連さんなのかメニューを指さして注文していました。偶然にも一緒にいた仲間の学校時代の教え子でした。軽度の知的障がいと言語障がいを持っているのだとわかりました。

 私は、いつも還元水素水のペットボトルを持ち歩いています。お金を払って出ようとすると、その教え子の人が言葉にならない声を出しながら、私のペットボトルを持って追いかけてきてくれました。はじめて大切なペットボトルを忘れて帰ろうとしていた自分に気づきました。

 その時の光景をときどき思い出します。めっちゃくちゃに暑くて厳しい現実の中で生きていますが、何だか清々しい気持ちになります。

 次回は、「ゆふわく」の紹介ができるといいなあと考えています。