2013.8.2 福島の子どもたちと過ごした5日間
ものすごい猛暑に疲れてしまいますね。
先々週は、宮城、岩手、東京にいて、気温が20度〜24度で過ごしやすさを感じていました。一昨日まで、湯布院で寝泊まりしていました。朝、夕の風が涼しくて久しぶりに夏の優しい風を感じていたのに、大分に帰って来てこの暑さは堪えられません。
皆さんお元気でしょうか?
2011年3月11日以降、地震と津波と原発の恐怖を知るうちに、福島のこどもたちの健康被害と外で活動できない現状が気になってしょうがありませんでした。まだ、汚染されていないであろう大分の地にたとえわずかな時間だけでも呼んで、思いっきり体を動かす活動をさせてあげたい。甲状腺に溜まったセシウムを抜く活動がしたいと思い続けていました。最初は県議の仲間とそんな活動が組めないかしらと模索しましたが、私を含めてみんな忙しくしています。その考えは無理だと気づきました。一昨年から「わくわく湯布院」を行っている実行委員会に参加させていただいてようやく実行できました。
子どもたちは、南相馬市、いわき市、郡山市と住むところはばらばらでしたが、実行委員会のメンバーのつてで、参加者を募りました。子ども25人、引率者8人が新幹線で大阪に来て、大阪南港からフェリーで航路別府に到着したのは、7月27日の朝でした。
乗客がどんどん降りてくるのに、福島の子どもたちはなかなか降りてきません。一緒に活動して気づいたことですが、おそらく荷物の整理に時間がかかっていたのだと思います。荷物の整理にとてつもなく時間がかかる子どもたちでしたから。
お迎えの後、チャーターしたバスで花菱ホテルに行き、そこで朝食バイキングとお風呂を済ませ、高崎山へ。サルと目を合わせないことやちょっかいを出さないこと、ビニル袋を持たないことを約束して、指導員さんの説明を聞きました。サルが広げた足の間を通ると良いことが起きると言われると、みんな足を広げていました。途中から雲行きが怪しくなり、雷の音も聞こえてきました。急きょ「うみたまご」に入場することを決めました。(入場料が高いので今年は諦めていたのですが、雷に遭っては大変です)。
薄暗い館内で自由にさせると、私たちはまだ子どもたちの顔を十分に知らないことに気づきました。それからは集合をかけるためにスタッフは汗だくでした。引率のお母さん方は疲れ切っていました。中止だと聞いていたイルカショーがあるということで、屋外に連れ出してみると、ほとんどの親子連れがカッパを着ているのに、私たちの子どもたちだけが着ていませんでした。「どうしてカッパを着なかったの?」と後から尋ねてみると「だって100円だって言われた。」100円を渡していなかったことを反省。いるかの水しぶきを思いっきり浴びた子どもたちは大喜びでしたが、びしょぬれでした。
その後、ドライブインで昼食をとって、海地獄と山地獄を見学して湯布院の見成寺(けんじょうじ)にたどり着いたのは、午後三時を過ぎていました。
「ゆふわく」が初めての私は、このお寺でどんな風に過ごすのかしら?食事は?遊びは?お風呂は?寝る時は?と考えていましたが、お風呂以外は、全てお寺の中で完結しました。お風呂は、クアージュという公共の温泉に2班に分けてスタッフが自家用車でピストン輸送です。
広いお堂の端には、子どもたちとスタッフ用の貸布団が積み上げられています。
境内の中と外でボール遊びがすぐに始まりました。4つのグループはいつの間にか解体され、子どもたちは自由に遊びまわります。教員のDNAが抜けきらない私は、けがをさせてはいけないとついつい子どもを管理しようとしてしまうのですが、それをしてはいけないことだと気づきます。お布団の上には上がらないだけが私との約束です。
ボール遊びをする子、オルガンを弾く子、漫画を読んでいる子と自由に好きなことをしていました。歓声を上げて動き回る子どもたちを見ていて、私は教員時代こんなに子どもたちを遊ばせることができていたかしら・・・と胸がちくりと痛みました。


子どもたちと引率者とスタッフも入れると食事は、常に45食は準備しなければなりません。真宗大谷派のそれぞれのお寺の坊守(ぼうもり)さんと檀家の奥さん方が作ってくれました。ハンバーグ、スパゲッティ、カレーライス、デザートと子どもたちの好物が毎回並びます。地元で採れたお野菜の漬物やサラダも並びます。食事の準備も後片付けも大変なことでした。「福島のものは食べられないからね。」と引率者の言葉に現実の厳しさを知らされます。
お味噌汁をひっくり返したり、生卵をテーブルの上に落したりと毎回アクシデントが起きます。
よく食べ、よく遊び、よく寝る子どもたちは、滝遊びをし、湯布院の夜市に出かけ、肝試し(お寺なので不便しません)をし、プールに入り、湯布院小学校の児童クラブと交流をしました。自己紹介で「福島ってどんなところ?」と尋ねられた時、小さな声で「放射能がある。」と答えたのは辛かったです。
夜は、興奮していてなかなか寝てくれません。でも蚊帳の中に押し込むと不思議なことにいつの間にか寝息を立てていました。よそではなかなか寝付かれない私も、湯布院にいる間は、爆睡しました。


いよいよ明日は、湯布院とお別れです。その夜は、ささやかなお別れ会。玉の湯さんと亀の井別荘さんから豪華なオードブルが届きました。もちろん食事スタッフが作ってくれた団子汁やおにぎりやお野菜や果物も並びました。
今回「ゆふわく」を盛り上げてくれた人々の中にAPUの学生さんや卒業生がいました。彼らがお別れ会で歌った歌や楽器の演奏は心にしみわたりました。ベトナム、インドネシア、韓国、メキシコの若いお兄ちゃん、お姉ちゃんに子どもたちは、夢中でした。学校だったら嫌でも話を聞いてくれる私は、子どもたちの眼中には入りません。歳のいった私は、おばちゃんです。困った時や許可を得る時だけ「おばちゃん、純子さん」と言って近寄ってきます。
最終日は、朝10時30分にお寺を出発して、一路ハーモニーランドへ。私は、20年ぶりのハーモニーランドです。
一番手のかかるトラブルの多い子どもたちチームを、熱中症にかからないように水分補給をさせながら炎天下で見守ることは大変でした。
別府観光港にバスは到着し、夕食を済ませたらいよいよ乗船です。1年生の好規くんが「帰りたくないなあ。」と言いました。
フェリーのデッキに子どもたちが出てきて、岸壁にいる若いスタッフとエール交換が行われました。それを見ていて年寄りスタッフたちは涙ぐんでいました。蛍の光が流れ、たくさんの紙テープが降りてきます。その一つ一つを拾いながら、みんな涙が止まりません。だんだん小さくなっていく船を見ながら「恭介、野菜食べろよ!」「孝太郎、物をなくすなよ!」「勇斗お金使うなよ!」と叫び続けていました。
お母さん方は、福島の厳しい現状を語りませんでした。でもそれでいいんです。子どもたちの弾ける笑顔を見て、憧れの湯布院散策をしていただければ、と私たちは考えていました。引率の育成クラブの指導員さんからは、津波で家が半壊した人の境遇と原発のせいで自宅を出て仮設に入っている人の境遇の違い等を知らされました。
泣き虫な子、神経質な子、ずる賢い子、おっとりしている子、弾丸のように動き回る子、いろんな個性の子どもたち。でもそれが子どもなんだと思います。
「ゆふわく」の最中に、団地のお祭りがあって一時帰省しました。団地の小学生たちが舞台でビリーブを歌いました。
「大分の子どもと福島の子どもとどこが違うのかしら・・・」と考えながらその歌声を聴いていました。
子どもに違いはないのです。どこに住んでいたって子どもは同じです。どの子も大切に育てられ、自分の夢を実現させる権利を持っています。
ただ、親御さんが「福島で生きる!」そう決めた子どもたちです。福島の地を離れない子どもたちです。
「ゆふわく」から3日が過ぎるのに、まだ子どもたちの声が聞こえてくる気がします。あの子どうしているかなあ。と子どもたちの事ばかり考えています。
福島の子どもたちに幸あれと願っています。
今回、たくさんの方々にご寄付をしていただきました。本当にありがとうございました。皆さんのおかげで「ゆふわく」を無事に終えることができました。
感謝しています。そして無償の愛を注ぎ込んだ心優しいスタッフの人たちと出会えたことも幸せでした。
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