2010.12.27 様々な出会い

 急に寒くなって、本格的な冬到来です。

 皆さま、お元気でしょうか。

 私は、大掃除もせず、美容院にも行けず、仕事のまとめと来春に向けての挨拶回りをしています。

 知らないお宅の玄関に立つということは、勇気がいるものです。時には、人格を否定されるような対応をされます。そんな時は、心がぺちゃんこになります。どうしてなのかしら・・・と考えるのですが、きっと思想的に違うのだと思います。そういう方々とお会いすると「私の家に来られた方には、丁寧に接しなければ」と思ってしまいます。

 嬉しい出会いもあります。

 大在でお会いした人の話です。あるお宅を訪問した時、庭にひもが張られていることに気づきました。何に使うのかしら。そう考えていました。そして、庭に立たれているその方の目が見えないことに気づきました。

 庭には、クリスマスローズや水仙やおもとがあるのに、草が生えていません。庭掻きのこととほんの少しだけ生き方のことをお話ししてくれました。私の手をしっかりと握りながらあまりにも優しく、淡々とした表情に何故だか涙が止まらなくなりました。

 どうしても、もう一度お会いしたくて、二日後に会いに出かけました。

 85歳の薬師寺さんは、以前は中学校の先生をされていました。45歳位から目がかすみだしました。夢の中では、はっきりと見える。奇跡が起きたと思うのに、夢から覚めるとがっかり。こんな状態では、退職しなければならない。そう思うと夜も眠れなくなりました。家族に心配をかけたくなかったので、できるだけ、隠していました。そうすると、ますます苦しくなる。自殺も覚悟したそうです。

 そんな時に奥さんがこう言われました。「事務員の仕事を見つけてきました。いつ辞めてもいいですよ。私が支えます。」と。薬師寺さんは、その一言で、「目が覚めた。その後、楽になれた。もう自殺は考えなくなった」そうです。

 名古屋に名医がいると聞き、春休みに出かけました。「今より見えだしますよ。」と診察を受け、49歳の時に手術を受けました。眼鏡をかけて、見えるようになったそうです。それから、6年後には、また、見えなりました。網膜が悪くなっていたので、再手術はできませんでした。

 その時「腹を決めた。」迷惑をかけるので、57歳で退職をされました。「心残りはなく、さっぱりとした気持ちで辞めました。」と言われました。

 

 「みかん作りをしよう!」と区画整理の後の畑に伊予かんを植えました。耕運機をかけていると、方向感覚がわからなくなる。ロープを張ってもうまくいかない。何かいい方法はないかと考え、溝を掘りました。その溝をたどって草取りをし、肥料を入れたそうです。

 兄弟や息子さんの手助けで、毎年コンテナ300箱の収穫があったそうです。

農協へ出荷し、畑に行くことが、唯一の楽しみになっていました。しかし、奥さんが悪くなって、みかんの木の予防ができなくなってからは、木も枯れてきました。私に「そろそろきつい仕事を辞めなさい。とみかんの木が教えてくれているのかも知れません。」今年の収穫は、15箱でした。

 それでも、家でじっとしていてはいけない。健康と気晴らしのために畑に行くそうです。畑に出かける時は、タクシーを使います。ワンメーターだそうです。

 私が、寒くないようにと部屋には電気ストーブを点けてくれていました。部屋の中は、きれいに整頓され、サイドボードのガラスも本棚のガラスも曇りはありません。家の中はオール電化で、時刻を教えてくれる腕時計をしていました。土曜日には掃除機をかける。三日に1度モップをかける。知識はラジオから得て、どこに何を置いたか頭の中に入れておく。夏物と冬物が分かるようなしまい方。サバを焼くのは8分。アジは7分でうまく焼けるそうです。スクワットや体操をして独自の健康法をあみだしていました。

 娘さん夫婦がずっと見守りをされていますが、「私自身が一人でやれる限りやる。」と言われていました。

 本当に優しい表情をしています。心の中が顔に表れるのだと思いました。

「人間は、自分が見えないのです。こういう経験をして自分が見えるようになったのかもしれません。」と。

そして、最後にこう言われました。「やっぱり見えた方がいい。買い物をしたい。菜っ葉を切ったり煮炊きをしたりしたい。」とも。

 お別れする時、「私が作ったみかんを持って行ってください。」と袋一杯いただきました。その日にお会いしたみんなに薬師寺さんのみかんをプレゼントしました。

 今年もいろいろな方に出会わせていただきました。感謝しています。

 来年はどんな出会いがあるのでしょうか。

 つたない「ときどき日記」を読んでいただいて本当にありがとうございました。皆さまにとって、来年が良い年でありますように。


2010.12.2 美恵さんのお芋

 昨年の3月に、ろう学校に勤めていた時に、幼稚部で一緒に学んだ美恵さんのことをホームページで綴りました。

 難聴である彼女は、当時、仕事上のことで悩んでいました。お母さんにそのことをお聞きした私は、矢も盾もたまらず、同僚の豊後大野市選出の玉田県議にお願いして、彼女の勤めている保育園に連れて行っていただきました。

 そこで、まるでお母さんのように子どもに接している美恵さんに再会しました。

 それ以後、彼女は元気で仕事ができているかしら・・・と案じていました。

 一昨日、たまたま保育園を訪れた玉田県議から、美恵さんが、子どもたちと一緒に掘ったお芋を届けていただきました。

 早速、議会で、レンジでチンして、みんなでいただきました。掘ってから少し時間が経っていたことも幸いしたのか、お芋は、ほくほくで、水っぽくなく、甘くておいしかったのです。

 口に入れながら、美恵さんが子どもたちと一緒に、イモ掘りをしている姿を想像していました。悩みは、小さくなっているかな。彼女の抱える「障害」は決してなくならないものです。それでも、元気で仕事を続けて欲しい。仲間を作りながら、「障害」とも一生付き合っていって欲しい。美恵さんのお芋は、私にそんなことを考えさせていました。

 龍馬は暗殺されてしまい、浅田真央ちゃんは、不調です。国会での補正予算審議を見る限り、野党は政府を攻撃する映像ばかりで、もっと他に話し合わなければならないことが、たくさんあるでしょう。と残念な気持ちになっていました。

 ちょうど一月前、東稙田小学校で「出前講座」がありました。僅か45分で県議会の仕組みや、議員がしている仕事を伝えることには、少々無理があるのですが、6年生は、日ごろと違う授業に興味しんしんで聞いてくれました。質問の時間が十分取れなかったのですが、後からたくさんの質問が届きました。子どもらしい思わず笑ってしまうようなものもありました。その中の一つに「議員をしていて、つらくなることは、なんですか。」と書かれていました。つらいことばかりですが、しばらく考えてこう書きました。「訴えても、訴えても理解してもらえず、願いがかなわないことです。」と。

誤解されたり本意が伝わらなかったりと苦しくなることもあります。でも、それに振り回されていたら、自分のやりたいこと、やらなければならない仕事ができなくなってしまいます。いろんなことを乗り越えて前に進まなければと自分に言い聞かせています。


2010.11.14 30回目の車いすマラソン

 今日、「大分国際車いすマラソン」大会が開かれました。

前日までの黄砂は、半端なものではありませんでした。選手に悪い影響が出るのでは・・・と心配していましたが、雨も降らず、マラソンにとっては、最高のコンディションだそうです。安心しました。

 私は、「日中友好協会」に入っています。

大分市の友好都市である武漢からそして、交流促進都市である広州から選手3名と監督2名がいらしていたので、前日に女性部がささやかな歓迎会を催しました。

 監督さんはお二人とも女性です。

通訳を介しながら僅かな時間でしたが、お互いに質問攻めで、通訳さんはゆっくりお食事をとれる状態にはならず、申し訳ないことでした。

 お二人ともお母さん監督です。「日本の女性は、年齢の高い人が若い人の仕事を奪っているのですか?」「働いていない女性も多いのですね。日本の女性が羨ましい。働かなくても夫の給料で生活できるのだから」「日本と聞いて何を連想しますか?」と尋ねると「さくら、着物」とかえってきました。広州の方は、辛い料理がお好きなので、慌てて豆板醤を頼みました。

 中国では、共働きが当たり前で、給料はそれぞれが管理するケースも多いそうです。話は、年金や社会保障にも及びました。中国では女性は55歳になってから年金が出るそうです。障がい者への手当や医療的ケアも行われています。

 しかし、人口が多いので、働く上での競争が激しく、そのプレッシャーはとても大きいと言われていました。日本の就職難と同じように、学校を出ても就職が難しいとお聞きしました。

 選手団の林有福(リン・イォフー)さんは、17歳の高校生でした。車いすマラソンを始めて、まだ3か月だそうです。リンさんのお顔を見て、びっくりしました。小学校に勤めていたときに、一緒に学んだ「克ちゃん」にそっくりなのです。

 会場には27人の人がいましたが、みんなの顔を眺めながら、誰が日本人で誰が中国人なのかわからない状況です。それくらい私たちは、似ていました。

 政局は、尖閣諸島問題やビデオの流出問題で揺れています。肝心の予算審議はできず、仮想の敵が作られていっているようで、悲しいと感じていました。

 民間レベルでの交流を続けていかなければならないと強く感じました。

「かっちゃんにそっくりのリンさん」

中村裕博士が提唱された「障がい者の社会参加」が幾多の困難を乗り越えて30年も続けられてきました。今年は、24の国の人たちが参加され、総勢350人という世界大会になりました。

「竹町で行われた開会式」

フライ選手の優勝は、かないませんでしたが、同じスイスのフグ選手が月桂樹の花をつけていました。

中国の3人の選手も見事にハーフマラソンを完走していました。リンさんは、34位でした。

たくさんのボランティアに支えられた「車いすマラソン」

来年もどうぞいらしてください。


2010.10.30  姪の結婚

 急に寒くなってきました。

 昨日まで、仕事で福井と大阪に行っていました。

 福井の気温は、7度。今週の月曜日まで、大分の気温は23度位あったのでその落差はかなり厳しかったです。

 前回のときどき日記を書き終えたあたりから、パソコンの動きが鈍くなっていました。嫌な予感はしていたのですが、その予感は的中し、またしても強力な「トロイの木馬」に侵されていました。ウイルス対策をきちんと設定していたにも関わらず。「どうしてまた、家のパソコンなの?」と絶望感に陥っていました。

その修理に時間がかかり、しばらくパソコンが使えませんでした。古いパソコンが2台あります。文章は打てても、メールやインターネットは使えませんでした。先週ようやく治って帰ってきました。スキャナーを徹底してやっていますが、正直なところ「またやられたらどうしよう・・・」とひやひやしながらこれも綴っています。

 先々週、姪の結婚式がありました。

 10年ほど前、姪が、予備校に通うために我が家で一緒に暮らしたことがあります。

 予備校に入学する時期と言うのは、とてもばたばたしています。みんな大慌てで、次の目標に向かって歩み出すわけですから、落ち着いて住居を見つけるという作業はなかなかできません。

 我が家は、将来親が同居できるようにと造っていましたので、空いている部屋がありました。そこに姪がやってくることになりました。

 結婚して20年近く、二人だけでのん気に暮らしているところに姪が入り、3人の生活がスタートしました。

 安易に考えていた生活は、結構大変でした。姪は、朝、なかなか起きることができません。時間に追われる生活をしていた私たちは、かなりストレスを感じ始めました。生活様式も物の考え方もましてや年代も違います。3人はときどき衝突しました。それを言葉でうまく伝えられない分、お互いのストレスは溜まっていきました。

 私と姪とは血のつながりがありません。よけいにものが言えなくなりました。

そんな微妙な関係がつらくて、つれあいが1日だけ家出をしたことがあります。

「あんたの甥っ子たちにもそんな風に感じる?」と投げかけられたこともありました。血のつながった妹と弟の子どもだったら、私は、はっきりと辛口の意見を言っていただろうと思います。

 センター試験を受ける頃は、実家に帰ってそこから県外に出かけていたので、我が家にいたのは僅か8ヶ月でした。でも、その時のことを思い出すと、私の心はチクリと痛みます。

 そんな経験をしているので、今だったらどんな子とでもうまくやっていけそうな気もしています。振り返ってみると、私が大人になりきれていなかったせいなのだとわかります。

 姪は、無事大学に合格し、大阪へと旅立って行きました。卒業後も大阪で就職し、職場で出会った人と、10月24日に結婚式を挙げました。

 白無垢姿の姪は、雪の精のように見えました。

 ドレスの姪は、誰よりも美しく見えました。

私に寄せられたメッセージには、あの3人の生活について書かれていました。

 「みつきちゃん、あなたは、じいちゃんとばあちゃんに溺愛されて育った人です。愛されるということを知っている人です。だから、今度はあなたが出会った人たちを幸せにしてあげてね。」と祈るような気持ちで式に参列していました。

 子どもが生まれなかったので、私は親にはなれませんでした。

 でも今、娘を嫁がせた母親のような気持ちになっています。


2010.10.2 インフルエンザ!

 朝、夕だけ秋が近くまで来ているような気がします。

 パソコンを打つために2階に上がって、カーテンを開けると、ハナミズキの葉がいつの間にか紅葉していました。「あの暑い夏を耐え、枯れずに、よく頑張ったね。」と褒めてあげたい気分で眺めています。

 先週の土・日は『高齢社会をよくする女性の会・IN別府大会』が行われました。私は、この会の副実行委員長をしていました。2年前から準備を始め、やっと本番を迎えました。

 『高齢社会をよくする女性の会』は評論家の樋口恵子さんを理事長とするNPO団体です。これまで介護保険の導入も国に働きかけて実働させてきた組織です。毎年、持ち回りで各県が全国大会を開いています。

 2年前、大分の会の事務局長が「2年後に大分で全国大会を持つ」と半ば渋々引き受けて帰って来た時、大分の会員は、10名足らずでした。私たちは、まず、人の輪を作らなければと行動が始まりました。事務局長が駆けずりまわり、30以上の団体が会に名前を連ねてくれるようになり、実行委員会形式をとりました。平均年齢を出せば、60歳を超える集団です。話し合いは決して平坦なものではありませんでした。話し合いは、いつも行きつ戻りつしました。

 女性のパワーはあるものの、お金がありません。おばちゃんパワー全開で、広告を取り、協賛金を募り、多くの企業、団体・個人の方々のご協力で何とか開催の目処が立ちました。

 おばちゃんたちは、携帯のメールは打てても、パソコンのエクセルは使えません。そこを補強してくださったのは、大分大学のSさんでした。M先生にもご尽力いただきました。お二人がいらっしゃらなかったらこの会は、成功しなかったと思います。

 ビーコンプラザのホールが一杯になっているのを見て、胸がいっぱいになりました。私たちは、この会をただの打ち上げ花火にだけはしてはならないと思っています。

 翌日の分科会にも多くの参加者があり、会は無事終了しました。たくさんの方々に陰になり日向になりご心配やらご助言をいただきました。心からお礼申し上げます。表の華やかさとは裏腹に舞台裏は大変でしたが、それも勉強になりました。

 翌日からは、公務に戻り、決算特別委員会に出席していました。珍しく咳が出ていました。以前のように長引かせたくなかったので、夕方I病院に時間ぎりぎりに、駆け込みました。風邪だと診断され、お薬をいただきました。足に痛さを感じていましたが、二日間、ヒールの高い靴を履いて仕事をしたせいだと考えていました。体の節々の痛みはジワリジワリと広がっていました。翌日、痛みはさらにひどくなり、わき腹やふくらはぎといろんな筋肉が痛み出しました。つれあいが体に触って「何だ!これは!熱がある!」もしかしたらインフルエンザかもしれない・・・とまた、I病院へ。

 検査の結果、インフルエンザと判明しました。熱は、38度9分が続き、歩くのがやっとの状態でした。幸いにもタミフルが効き、二日目には熱が下がりはじめました。朝、昼、晩、4〜6種類もの薬を飲み続けました。「私は、だれからうつったのだろう。」と振り返りながら「私は、誰かにうつしてしまったのではないかしら・・・・」と心配になりました。

 幸いにも周りの人は、誰もまだインフルエンザには罹っていません。いちばん身近にいるつれあいに症状がでなければいいけれどと、案じています。

 昨年、あんなに流行った時には、罹らなかったのに、未だ流行っていない今、どうしてなんだ?と考えています。

 インフルエンザは、これから流行るそうです。皆さんもどうぞお気を付けになってください。

 休んではならない決算特別委員会を4日も欠席してしまいました。

 月曜日からまた復帰します。