ときどき日記


2014.6.27 「ゆふわく」のご案内とご寄付のお願い
 
 午後から、文教警察委員会があります。議会中は、ストレスがたまり、自分がどんどん消耗していく気がしますが、文教委員会では、特にそう思います。
 現場の願っていない教育施策がどんどん導入されていきます。どんなに話し合っても、イデオロギーの違う議員さんを相手に、意見を伝えることの虚しさをこ れでもか、これでもかと感じますが、私の言っていることは、決して間違っていない。と自分に言い聞かせて臨もうと思います。
 
 今年も、福島の子どもたちを湯布院に呼んでの保養プログラム「ゆふわく」を実施します。昨年は、思いもかけない方々からもご寄付をいただきました。感謝 しています。おかげで、成功させることができました。今年で4回目になりますが、年を追うごとに子どもたちの状態が厳しくなっているようだと関係者は言わ れています。
 小学校1年生は、原発事故が起こった時は、3歳か4歳でした。物心ついた時から目に見えない匂いもしない「放射能」の存在を意識しながら生活してきた子 どもたちです。周囲の大人の言動を見ながら「放射能」を心で感じながら生きてきたからかもしれません。自分の言葉で表現できないきつさを抱えながら生活し ている子どもたちだと思います。
 「震災から5年がめどだ」とも言われますが、自然の中で古いお寺に寝起きしながら、思いっきり遊ばせてあげたい。それが私たち実行委員会の願いです。
 私は、今年の事務局長をしています。1週間ごとの実行委員会で、だんだん今年の実像が見えてきました。忙しくしていますが、これを乗り切って、無事に子どもたちを送り届け、義父と実母の初盆を済ませなければ今年の夏は終われません。
 もし、ご理解いただけると幸いです。


2014.6.13 なくならない痛み
 
 母の葬儀をした「風之荘」で「物故者慰霊祭」が行われました。
 葬儀の後、社長さんから丁寧なご招待のお便りをいただき、この日を何故だかとても待ち望んでいました。妹と二人して参加しました。
 玄関を入っていく時に、納棺の儀式をしてくれた納棺士の方にお会いし、あの日の光景が思い起こされ、二人して「あの時、シャンプーしてもらって嬉しかっ たね。」と語り合いました。3月11日にお世話になったスタッフの方たちに再びお目にかかることができ、改めて感謝の言葉を伝えることができました。
 会場に入ると、「ゆかり」というテーマで正面は見事な花で飾られていました。昨年の4月から今年の3月までにご葬儀をされた850名あまりの方々の名前 が、掲げられていました。バイオリンとチェロとピアノの演奏の中を、一人ずつ献灯します。あの時は、無我夢中で涙が出なかったのに、今日は、ゆっくりと母 のこと、この3か月の様々な出来事を想い出し、涙が止まりませんでした。
 萬壽寺の佐々木住職が、「縁」と言うテーマでお説教してくださいました。大切な人を亡くしてからの月日は、みんなそれぞれでしょうが、今の自分の生き方を考える時間を与えていただきました。
 雨も上がり、全員で白い風船を空に離しました。小さく小さくなっていくそれをいつまでも見守りながら、心が少しずつ癒されていくと感じました。
 

 
 6月2日から4日まで沖縄に行ってきました。観光ではなく、基地とオスプレイの調査です。「沖縄の痛みを分かち合いましょう」と基地分散が言われ、日出 生台での米海兵隊の演習も継続的に行われていますが、オスプレイが日出生台にやって来るのでは…という不安もあります。そこで、沖縄の基地対策と現地調査 ということになりました。
 
 膨大な量の話を伺いましたが、現地の状況を中心にお伝えします。
 知事が、辺野古沖のV字型滑走路を認めた途端に、オスプレイはいつも平気で飛ぶようになったようです。歩いているとすごい轟音が聞こえてきて、上空を飛んでいるのが分かりますが、びっくりして見上げているのは、県外の人ばかりかもしれません。


普天間飛行場
基地を取り囲むように民家や公共施設があります。周りには、15の小・中・高・大学があります。ラムズフェルド元国防長官が「よくこんなところで事故が起 きないな。」と言ったそうですが、以前、沖縄国際大学に飛行機が落ちた記憶は、私たちの中に残っています。事故は、いつも基地外で起こります。
 現在、12機のオスプレイが配備されています。配備後、低周波の問題も起きています。



ここは、格納庫はなくて整備場だけですが、そこからPCBを含む有害物質が出ています。
基地のある嘉数高台から、いつも普天間飛行場を見下ろすのですが、この地は69年前、沖縄戦の激戦地でした。海上から54万人体制のアメリカ軍のうち、 18万人が上陸しました。迎え撃つ日本人は11万人。多くが学徒動員で駆り出された人たちです。勝てるはずもありません。しかし、首里城を守るために普天 間は砦だったそうです。軍は、住民を避難させず、一家全滅した人々も多くいました。4月の終わりにこの地はつぶされましたが、沖縄戦は、8月まで続き、み んな南へと逃げて行きました。
そんな話を、伺っているそばに、米海兵隊の若い兵士が大勢やってきました。
上官がしきりに説明していました。私たちが伺った話とは逆の視点で、「ここからアメリカ軍の勝利が始まった」と言っているようでした。


 
嘉手納基地
 4000メートル滑走路が2本あります。極東最大の軍事基地です。24時間整備していていつでも出動できるようにそして訓練のため、エンジン音は、台風 の時以外は鳴り響いています。騒音計で測ってみると、最高85デシベルを示しました。年間、206万回の離発着があるそうです。爆音だけではなく、嘉手納 でもあらゆる犯罪が起こっています。



 爆音の中で生活しているので、悲しいくらいの生活環境です。防衛局は、「防音工事をしているでしょう。」と言われます。確かに部屋を閉め切るため、クーラーの設置もされていますが、それは税金です。住民が払う電気代は高い時は、8万円にもなるそうです。
 爆音差し止めの訴訟団長さんは「政治家は、嘉手納基地は、抑止力の基地というけれど、訓練のための基地です。」と言われました。
 訴訟を起こすと「お金が欲しいんでしょう。」と思われるけれど、そうではない。人間らしい生活を取り戻したいだけなのだと思います。子どもたちは、生ま れてずっとこの爆音の中で生活しています。この街を出て、初めて静かな生活があることを知ります。話を聞きながら堪えられない気持ちになりました。
 
辺野古の海
 4年前に来た時には、なかったのに頑丈なフェンスが浜にできていました。その上には有刺鉄線が張り巡らされ、監視カメラも設置されていました。フェンスの向こうは、米軍基地です。海から水陸両用車がサンゴ礁を踏み潰しながら上がって来て、訓練をしているそうです。
 これから、ボーリングを7月から打つと政府は言っているようです。「18年間、まだ海には手を出させていない。世論が止めてきている。」とおじいが言いました。「今年、政府が攻撃してくると思うが、がんばる。」とおばあが言いました。
 ここにV字型滑走路を造ることは、移設ではなく軍港基地になると思いました。


 
沖縄本島で唯一残されたやんばるの山に入りました。そこにヘリパットが2箇所作られています。その日は、雨も降っていて、飛行は見られませんでした。「ハブに注意」と言われました。藪の中にはマングースを採る仕掛けがたくさんありました。
 
 「1度依存してしまうとそこから抜けられなくなる。基地の問題は、政府がお金を出してくれるから、抜けられなくなる。法外なわいろから抜け出せない状況 を国が作ってきた。」と沖縄国際大学の前泊教授は言われました。それは、原発が誘致された地域も同じです。振興策と言う名目で、貧しいところだから、それ がないとやっていけないと思わされてしまう。
 米軍が、世界中の兵隊をグァムやハワイに撤収しているのに、沖縄の基地は、少しも少なくなっていません。むしろ、日本中に基地を拡大しているように私には見えました。
 稲嶺名護市長は「辺野古の問題は、喫緊の課題。これができたら、100年は負担を子や孫に課すことになる。でも、それを決めるのは私たち。次の世代に引き渡す責任がある。」と伝えてくれました。
 
 帰りの飛行機の中で、何だか足がむくんできました。
 ソニックに乗っているときは、パンパンになっていました。
「エコノミック症候群かしら・・・」と思っていましたが、家に着いた時には、自分の足ではないように腫れていました。きっとやんばるの森で何かにかまれたのでしょう。
私の足は、抗生物質で治りますが、沖縄の痛みは治りません。福島の痛みも治りません。

2014.5.30 またやってしまった!
 
 急に暑くなりました。
一昨日は、仕事で日田に行っていましたが、大分市とは異なるむっとした暑さを感じました。こんな中でも高校生たちは、自己実現めざして教室や実習室やビニルハウスの中で頑張っていました。彼ら彼女らの「こんにちは!」と返してくれる爽やかな笑顔に癒されます。
 
 大分市内の中学校の体育祭は、終了したようです。日焼けした先生方のほっとした顔を見ていると、大成功だったことが伺えます。
 近頃は、小学校でも春に運動会をするところが、ぽつぽつ出始めています。
養護の先生に伺うと「残暑の中で、熱中症になる子どもが多いんです。春の方がまだ子どもの体への負担は小さいですよ。」と教えてくれました。小学1年生がいかにうまく参加できるかが鍵だと思います。でも、完ぺきさを求めず、できしこでもいいよなあ。と思います。
 
 私の住んでいる地域の賀来幼・小・中学校の体育祭もこの前の日曜日に行われました。毎年感じるのですが、年の差10歳の体育祭をよくぞここまで仕上げら れるものだと感心してしまいます。教師主導ではなく、実行委員会と応援団が良く動き、競技を進めています。競技内容の工夫と子どもが主役、そしてそれぞれ の学年に合った目標がよくわかります。入学したての1年生は、先生の注意や管理がどうしても出てしまうのですが、そんな光景はほとんど見られません。学校 生活を始めてまだ2か月の子どもたちが、全体で集合した時に地面にお絵かきするのではなく、上級生の動きをよーく見ています。
 障がいを持っている子どもさんもいますが、担任だけでなく、他の先生方の励ましも温かいです。
 今年は、リレーのバトン渡しが、見事でした。良くここまで練習したなあと頭が下がる思いでした。
 閉会式で保体部の実行委員長さんが、全校生徒に感謝の言葉を述べましたが、感極まって泣き出してしまい、話は先に進めませんでした。それを励ますあちこ ちからあがる同級生の声。その光景は、最後まで応援し続けた保護者や地域の方々の感動を呼びました。低学年の子どもたちはまだ理解できないかもしれないけ れど、それを見ることに意義があるのだと思いました。



 その日は真夏日でした。私はテントの中にいたにも関わらず、暑さでへとへと。同年齢の教職員が定年まで勤めることができない理由の一つが分かったような気がします。
 
 
 
「何回目?」「この車に替えてから多いよな!」とつれあいの声に小さくなっています。
 T中学校で、バックしていて大きな石の花壇に車をぶつけました。
その日、学校は振替休日で、いつもと違う所に車を止め、校長先生にお手紙を書き、郵便受けに入れました。バックしてUターンして戻ろうとしている時に、体 育館からこちらを見ている人がいることに気づきました。(お休みなのに、部活をしてるんだ。)と考えながらバックミラーに映ったその人がN先生だとわか り、ちょっと見ている間に車は後ろに進んでいました。ガーンという大きな音がして、初めて自分が花壇に車をぶつけたことに気づきました。慌てて駆け寄るN 先生。
 二人して、車の後ろを見るとへこんではいません。傷はついていますが「大丈夫!車は消耗品だから・・・」なんて強がりを言ってお別れしました。
 
 そして、冒頭のつれあいの言葉となった次第です。先週は、W中学校のプランターをひっかけていました。購入してまだ1年数か月なのに自損の事故は5回。
「忙しいことは理由にならない。」「集中していないからでしょう。車を運転する時は、考え事をしちゃだめだ。」といつも言われてきたのにその注意は生かされていませんでした。
私は、小さな事故のたびに「お年寄りを轢いたのではなかったから良かった。」「自転車の高校生を巻き込んだのではないから・・・」などと、言い聞かせてきました。でもこれが現実なら確実に5人は犠牲者を出したことになります。
 私の車は、後ろにものがあると「ピーピー」と鳴って知らせてくれる衝突防止センサーがついています。そのセンサーも壊してしまいました。
 今日、ディーラーに持って行って調べてもらい、見積もりもしてもらいました。頭を上げることができないくらい落ち込んでいます。自分に係る負荷を受け入れることもできません。
 今は、車を運転することがとても怖い状況です。

2014.5.7 震災からもう3年、まだ3年
 
   「ときどき日記」が「めったに日記」になってしまいました。
 「更新してるかな?」と思ってアクセスしていただいた方にはひたすら謝らなければなりません。申し訳ありませんでした!
 
 ゴールデンウイークはどうされていましたか。子どもがいないので孫もいない、親もいなくなったので母の日の準備もできない私は、「この束縛されない時間 に仕事だ!」とひたすらデスクワークと家の中の整理に励んでいました。でも、日頃サボっていたつけは大きく、まだ少し残っています。
 
 
 4月24日から26日まで福島県いわき市に行っていました。昨年と全く同じ時期です。世の中が「復興、復興」と声高らかに言っている中で、原発関連はどうかしら?と考えていました。
 私は、「福島原発情報連絡センター」という地方議員で構成された組織に入っています。その総会が福島県いわき市で行われました。
 いわき市議の佐藤和良さんのご尽力で様々な事実を学ぶことができました。
 
 事故以前から原発問題に熱心に取り組んでこられた佐藤市議だからこそでしょう、福島県庁から2時間もかけて生活環境部の職員の方がわざわざ説明のために来てくれました。
 除染対策、地域防災計画、食品測定、甲状腺測定、避難者支援、保養の受け入れ状況、市民活動と短い時間の中で多くの事をお伺いしました。


 
 3年経って、福島も少しずつ復興していると思わされてきましたが、状況は決して改善されてはいないと感じました。世の中だけが風化しているのかもしれません。
 行政の方からの報告は、「3年の間に考えられることをやれるだけやった」というものを感じました。どれだけ多忙を極め、疲労してこられたのだろうと頭が 下がります。けれども、行政の方の説明と市民団体の行っている調査結果には大きな差も見えました。このことが、子どもを育てている母親たちの不安をさらに 大きくしているのではないかしらと思います。
 例えば、「全国で子どもを対象にした保養プログラムを実施している数はどのくらいありますか?」と尋ねたら「20団体くらいでしょう。」と県教委の方は答えられましたが、そんなことはありません。私たちが把握しているだけでも、200団体くらいは存在しています。
 市民測定室の「たらちね」では、全国からドクターの有志の方が来て、直接保護者立会いの下で、甲状腺検査をしていると昨年お伝えしました。行政の測定 は、技師が行いますので、2か月後にしか結果は伝えられません。「たらちね」では、即、保護者に子どもの状態を伝えることができます。B判定(5.1mm 以上の結節や20、1mm以上ののう胞がある)が多いのだそうです。3年間、外活動してきた子どもたちに多く見られるということは、匂いのない、目に見え ない放射能の怖さを知らされます。
 「初期被曝を追及するママの会」の方がこう言っていました。
「いわきは線量が低いので、初期被曝と言う言葉を知らない人が多い。文科省の大丈夫と言う考え方に慣らされてしまっている。安全神話は崩れたのに、また、傷ついている。」
何よりも福島の農産物が残っているので、米飯を中心に子どもたちに学校給食で食べさせようする行政に不信感を抱いていました。追加被曝をさせたくないと考えている母親たちの想いは、もう2度とこのような惨劇を起こしてはいけないと考えている私たちの願いと重なりました。
 
 
次の日に現地調査を行いました。
収束作業労働者、除染作業労働者の代表の方にお話を伺いました。
・震災後、港で働く日雇い労働者の仕事がなくなった。休業補償もなかった。それで多くの人が、除染作業にかりだされていった。250mm〜400mm被曝している。その管理がずさん。
・特殊勤務手当10000円が出されていない。
・作業員の雇用は、ピラミッド型になっていて、土木作業現場と同じように7重、8重構造の下請け作業でつくられている。
・多重請負を知られたくないので、企業の労災隠しが今でも多い。
・偽装契約が行われている。作業員を紹介した人が一人につき1000円ずつ給料からピンハネしている。
・ある労働者は、最初に農家の廃屋に連れて行かれた。その後、キャンプ場のバンガローに入れられ、寝袋で寝ていた。300円ピンハネされ、1日100円のまかない料理を食べさせられ体を壊した。
・やくざが金銭問題などを抱えた訳ありの人を全国から集めている。最初は仕事をさせず、生活のために謝金をさせ、それを賃金から支払わせる仕組みになっている。
・最初は、「放射線管理手帳」も与えられなかった。
  等々
 
 耳を覆いたくなるような話でした。あまりの不当な労働のために、会社を告発する人は、すぐに辞めさせるそうです。除染作業員は、東北出身者やこれまで原 発関連作業員として働いていた人が、半分ぐらいだそうですが、全国から若い人も高齢者も女性も来ているそうです。これから、除染作業員の人たちの被曝が大 きな問題になると思います。胸が痛くなります。私たちは何をしなければならないのでしょう。
 
 楢葉町は、帰宅が許される地域になりました。国が作る「中間処理施設」の話は、住民の反対でなくなりました。日中は住民の立ち入りが許されています。で も、子どもを連れてくる人はいません。昨年は、セイタカアワダチソウが生え、田畑にはぎっしりと除染した黒いウレタンの袋が並んでいましたが、それも少な くなっていました。山肌を削り取った除染の後が見えます。


 地図上は、楢葉町の上に位置しているのが、富岡町です。東京電力福島第1原発にもっと近い地域です。帰宅困難地域で、先に行くと立ち入り禁止区域になっています。私たちのバスもその先には行けません。
 昨年見た、富岡駅前の建物はもっと朽ち果てていました。


 
線量計の数字は、恐ろしい数値を示していました。

 
 
 いわき市のホテルの玄関の空間線量が0.04マイクロシーベルトです。これは、大分のそれと変わりません。楢葉町、富岡町と近づくとやはり、だんだん上 がっていきます。0,125マイクロシーベルト、0.7マイクロシーベルトとなります。そうすると、0,1マイクロシーベルトがそんなに大きな数値とは思 わなくなる感覚が怖いと思いました。 野鳥の数が少なくなっているそうです。
 
 
 
宿泊したホテルの近くに化石博物館があったので、行ってみました。その日は金曜日でしたので、近隣の学校からお見しり遠足の子どもたちが来ていました。


朝、10時前なのにもう広場でお弁当を食べています。「早すぎるんじゃない?」と思いましたが、博物館の方が言っていた言葉を思い出しました「今日は、10校来るんですよ。」だから時間差でお弁当を食べなければ場所の確保ができないんですね。
無邪気に遊びまわる子どもたちの体が被曝されることがないようにと願いながら帰路につきました。

2014.4.2 母がいなくなって
 
 暖かい日が続いたと思っていたら、桜の花が一気に咲きました。霊山にも高崎山にも里の山にもその存在感を示すように咲いていた山桜は、いつの間にか葉桜になっていました。ソメイヨシノは満開です。
 
 3月11日に母の葬儀を行い、その後は、事務処理と議会の仕事に追われて過ごしていました。泣く時間もなく過ごしましたが、今になって、じわじわと寂しさが込み上げてきてしまい、パソコンの前に座るということができずにいました。
 
 葬儀に関する一連のことをやりながら、「お母さん、もう楽になったね。」と自分に納得させるかのように言い聞かせ、もっと優しくすれば良かった。もっと話をすれば良かった・・・。と反省しています。
私は、父親似です。体質も気質もそのDNAをすべて受け継いでいるようです。だからすぐ感情的になり、外面がよく、内心いつもくよくよしています。母は、 おっとりとして穏やかな人でした。幼いころから母の顔色をうかがうという経験がありません。遺族代表挨拶の時に、弟が「私も姉も妹も、母に叱られたことが ありません・・・。」と言っていましたが、本当にその通りで、思春期の時期は、父と対立する私や弟の緩衝役になっていました。私は、そんな優しすぎる母が 何となく疎ましく、素直になれない時期もありました。
 今年になって、妹がこんなことを言いました。「私たちできる限りのことをしてきたから、後悔することはないよね。何が来ても受け入れる。」と。6年前に くも膜下出血を起こし、奇跡的に命を助けていただき、回復はしたものの、少しずつ老いが襲ってくる母の事を二家族でずっと支えてきた日々のことを言ってい るのだと思いました。
 10日間だけの入院生活でしたが、二人で交代して病院に泊まり込み、途中から埼玉の弟も加わり、厳しい状態の母を「大丈夫だよ、私たち、ここにいるからね。」と見守りました。
 正直、こんなに早く逝ってしまうなんて思ってもいませんでした。当時の私は、病気が長引けば、入所している施設に迷惑をかけてしまう。退院できても「う さぎとかめ」は、療養型ではないので、帰れないかもしれない…。と言うことばかりを考えていました。施設長さんは、そんな私の話に耳を傾けながら「大丈 夫。元気になって帰ってきた人が何人もいますよ。いつまででも待っていますから。」と優しくねぎらってくれていました。
 高齢者は、急変するのだと今になってわかります。延命治療はしないとずっと以前から母とも話し合っていたので、人工呼吸器もつけず、遺漏もせず母は静かに私と妹の見守る中で逝ってしまいました。
 
 19年前に父が亡くなった時、初めての葬儀で、後になって反省しなければならないことがいくつも起こり、それが心に残っていました。母がいつも言っていた「私が死んでも3人仲良くやってね。」の言葉に背かないように努めました。
 風之荘のK課長さんは、私たちにずっと寄り添い、支えてくださいました。
 入院してから10日間、高熱が続き、お風呂に入れてあげられなかったことが心に残っていました。お風呂好きだった母を気持ちよくしてあげたいと願ってい ました。K課長さんの提案で、湯かんをすることにしました。「おくりびと」という映画で、もっくんが演じた納棺の儀式です。納棺師の資格を持つ二人の女性 が丁寧に髪を二度も洗い、ドライヤーで乾かし、体を洗い、顔を剃り、爪を切り、スーツを着せてくれました。お化粧までしてくれ、首には、母が好きだったピ ンクのスカーフも巻いてくれました。その1時間30分の流れの中で、私たちの心はスーッと楽になれました。
 
 母には、4人の孫がいます。埼玉にいる弟の子どもたちに「大分に里帰りしなさい!ばあちゃんの葬儀の時に4人が顔を会わすなんてなったらいけないよ!」と言ってきましたが、その通りになってしまいました。
 
 私は、今度の議会で、質問することになっていました。質問原稿の打ち合わせをしながら、議会と病院の往復をしていました。「たとえ、葬儀になっても、質 問しますね。」と冗談で言っていたら、本当にその通りになってしまいました。こんな状態の人間が議会に行っても良いのかしらと悩みましたが、この1年間、 私にいろいろな思いや願いを伝えてくれた人の話を質問で組み立てていました。特に教育問題は、この機を逃してはならない状況でした。それで、斎場を途中抜 け出して、タクシーでとんぼ返りしながら質問させていただきました。母が生きていたら「うん、行っておいで。」ときっと言っただろうなと考えました。
 
 入院していた病院で、嬉しい出会いがありました。初めて選挙に出た時に応援してくれていた看護師さんと再会しました。教え子の妹さんも看護師さんとして働いていました。「ここに来なければ出会えなかったよね。」と再会を喜びました。
 どうしても別府に連れて帰りたいと妹の願いが届き、母は、その日のうちに亀川の自宅に帰ることができました。いつも見守ってくださっていたご近所の方々がお悔やみに来てくださいました。私たちの知らない母の生活を教えていただきました。
「お母さんのお葬式も、家族葬でいいよね。」と平岩の母の葬儀の後に尋ねたことがありました。母は、しばらく考えてから「普通にして。私の友達も来てくれるかもしれないから。」と、いつになくはっきりと答えたことを思い出し、家族葬にはしませんでした。
 大勢の方に見送られ、母は、旅立っていきました。
 
 妹が「この前、家にいる時、私の前に風がふっと吹いたの。その瞬間、あっ、お母さんがここにいると思ったよ。」と言いました。私は、「そんな馬鹿な。」 と思いましたが、納骨までここにいるのかもしれません。この20日間の私のふがいなさを悲しそうに見ているのかもしれないと振り返っています。
 気がつくと、大好きだった人たちが、たくさん天国に行ってしまいました。あちらの世界にいる人たちの方が多くなっているような気がします。「わたしももうしばらくしたら行きますからね。それまで見守っていてくださいね。」と言いたい気分です。
 
 事務的な手続きのために、実家に行っては、いろいろな書類を探します。仏壇の引き出しを開けると、私たちがお正月にあげた、お年玉が出てきました。幼いころの通知表も出てきました。こんなもの、大切にしていたんだなあと自分の生活と比較しながら反省ばかりの日です。
 
主のいなくなった庭には母が大切に育てていた花が咲いていました。

 
 5か月間お世話してくださった「うさぎとかめ」の方々、ケアマネのFさん、私の心の支えになってくださった「認知症の人と家族の会」の皆さん、私たちがいない亀川で寄り添ってくださったFおばちゃん、ご近所の方々・・・・たくさんの方々にお世話になりました。
本当にありがとうございました。