夏の疲れが出てしまいました。

 ときどき日記が8月10日から更新できていませんでした。

フィンランドから8月23日に帰国しました。頭の中では、ときどき日記の構想を描いていましたが、写真の処理だけを済ませたら、衆議院選挙、一般質問の原稿書きに追われました。議会中は、「教職員評価制度」のことしか考えられずにいました。私の再質問と教育長の答弁は一向にかみ合わず、議会中に行われた教育委員会で「教職員評価制度」は決定されました。

 憤りと失望感の中で9月15日に議会終了。

 悲しすぎるお葬式に出席した後、ダウンしてしまいました。

 ベッドの中で、自分の弱さを呪いながらやっと今日から復活しています。

 欧州旅行の報告は、長くなるので4回のシリーズで綴ろうと考えています。

2009.9.21 欧州旅行報告記 @

―――侵略の恐ろしさと平和の尊さをかみしめた
         「オシフィエンチム」―――

 8月15日から23日までポーランド、チェコ、フィンランドに行ってきました。私が、議員になる前に所属していた大分県教職員組合では、1976年から毎年、夏の時期に平和・教育・環境の学習で欧州、中国、東南アジアへの視察旅行に取り組んできました。

 学校に勤めていた時は、そのことを知ってはいましたが、なかなか機会に恵まれませんでした。フィンランドの教育がここ数年絶賛されています。本で読んだことを確認したくてしょうがありませんでした。今年を逃したらもう行けないかもしれない・・・そんな気持ちで視察団に参加をさせてもらいました。

 「オシフィエンチム」はポーランド語です。ポーランド国内に数十箇所ある強制収容所の総称です。ドイツ語の「アウシュビッツ」という名の方がよく知られています。しかし、これは侵略したドイツ側の言語なので、あえて思いを込めてポーランド語を使います。

 ホテルから300キロをバスで走って、負の世界遺産「オシフィエンチム」到着。世界中から観光客が来ています。昨日泊まったホテルでもテルアビブからの学生が大勢いました。

 建物内での写真撮影は禁止。私たちは、ヘッドホーンを着け、ポーランド語の説明を日本語に通訳してもらって聞きます。

 ナチス・ドイツは、最初にポーランド人の医者や教師や神父をここに送り込みました。「指導者を失えば国が成り立たなくなる」と考えたからです。入り口の所にドイツ語で「働けば自由になる」の看板が掲げられています。毎朝、この下を行進曲に合わせて収容者たちは、歩いて強制労働に出かけて行きました。一生懸命働いても誰一人自由にはなれなかった事実。朝の点呼は、とても長く、時には19時間にも及ぶことがあったそうです。建物の周りは、電気柵に囲まれていました。



収容所に送られてくると、3枚の写真を撮られました。建物内の壁に貼られた何百という顔写真。中に、3つだけ造花がつけられている写真があります。戦争が終結してから、ここを訪れた縁ある人が飾ったのでしょうか。

写真を見ながら、何故だか特攻隊を思い出していました。写真を撮るのにあまりにも費用がかかるので、2年たった頃から、イレズミに変わりました。

 死のブロックには、ポーランドの政治犯も入れられていました。死の壁の前でちょっとした些細なことで銃殺刑が行われました。建物の窓は、木で覆われ中からは見えないようにしていました。銃殺は、裸で行われました。

 日本から持っていった折鶴と一緒に私が代表して献花しました。

 建物内の写真が撮れないことは、残念なことでしたが、例え許可されても

シャッターを押すことはできなかったかもしれないと思います。

 監房は、3つに区分され、餓死か窒息死か立ったままで死を待つだけです。

およそ2tの髪の毛が残りました。それをマットレスや軍人の衣服にすることもありました。ユダヤ人が持ってきたトランクには住所と名前が書かれていました。いつか帰れると信じていたのだと思います。いつか必ず帰れると信じていたからこそ歯ブラシやブラシを持って列車に乗せられたのです。何の抵抗もできずに、ただ東へ連れてこられた人々。小さな子どもの服やくつ。お人形や靴下やボレロを見た時、耐えられなくなりました。この幼子たちに笑顔があったのだろうか。生まれてきた喜びを全身で感じることができた日があったのだろうかと。

 収容所に送られてきたポーランド人は赤いワッペン、ユダヤ人は、黄色いワッペン、ジプシーは、黒いチューリップのワッペンが付けられました。




下記の写真は、収容所第1代司令官ルドルフ・へスの公開処刑が行われた絞首台です。「ヘスだけは、現場で処刑してもらいたい」という生き残った収容者たちの強い願いがあったと言われています。

1941年、大量のりゃく殺実験が行われました。その後、チクロビンという消毒薬がガス室で使われるようになります。15分で死に至る薬です。

 列車から降りた人たちは、男性と女性、妊婦、子どもと選別されました。女性と妊婦は、民族をなくすためにそして子どもたちは、労働できないものとしてガス室に送られるためです。




1945年、「オシフィエンチム」はソ連によって解放されました。約8000人の人だけが生き残っていたと言われています。解放前にナチスは、証拠を隠滅しようとしました。急ごしらえで造られたガス室に直結する収容所「ブラジェンカ」には爆破された建物の残骸が残されています。「ブラジェンカ」の見張り台から、線路が見えました。ヨーロッパの各地から貨車に載せられてここに集められた人々は、130万人と言われています。しかし、登録された人は、僅か40万人です。

 残骸が残されていなければ、そんなことが実際にあったとは信じられない場所でした。




僅か数時間で「オシフィエンチム」で起こった事実を正確に理解できることはできません。

 これは、一人の独裁者が起こしたことなのではなく、実に巧みな集団心理を利用した、多くの賛同者を作りながら、人が人として決して侵してはならないことを容認してしまった戦争だと考えました。民族浄化を唱え、仮想の敵を作り、欺瞞を正当化しながら強制収容を行いました。収容者を名前ではなく、番号で呼び、人間としての尊厳を奪いつくしました。収容された人たちの中に一握りのカポと呼ばれる管理者をつくり、人と人を分断していきました。何十万と言う人々が、抵抗する気力を奪われたのは、人としての尊厳と生きる希望をなくすようにし向かれたからなのだとわかります。この先、自分が平和を願い、維持していくために「オシフィエンチム」で見たこと感じたことを忘れてはならないと胸に刻みました。

 次回は、欧州の自然や町並みを報告します。


2009.8.10 暑中お見舞い申し上げます。

我が家にやっとひまわりが一輪咲きました。

 やっと梅雨が明けたと思った矢先、炎天下とスコールのような雨が交互にやってきています。台風のもたらす熱帯低気圧は、各地で思いもよらぬ災害を起こしています。地球温暖化の影響で、日本も亜熱帯になってきているのではと感じてしまいます。皆さまお元気でいらっしゃいますか。

 8月4日のことです。

「春日陸橋が通行止めだけれど、ビーコンまで1時間見てれば大丈夫よねえ?」

とつれあいに確認し、朝9時過ぎに家を出ました。大分県戦没者追悼式に参加するためです。別代国道は、一度だけスピード違反で捕まったことがあります。

心は焦りながら慎重に車を走らせました。

 いつものC駐車場が満車になっていました。(おかしいなあ、今までそんなことなかったのに・・・)と思いながら松林の中に車を止めました。私の前に駐車をした女性が、微笑みながら「平岩さん」と声を掛けてくれました。「えっとお会いしたことがありますよね。」と思い出していると「忘れられたんだ」としょんぼりした声。彼女は、豊後高田の先生でした。(追悼式に学校代表で来たのかしら・・・)「お会いする場所が違うとわかりませんでした。」そう謝り、ちょっとだけ立ち話をして、走ってビーコンプラザに駆け込みました。

 毎年ある受付が見当たりません。あるのは、県の教頭会の受付だけです。

広い会場だから2つの催しがあるんだな。そう思い、フロアーを探し回るのですが、私のめざす受付は見当たりません。外国に行く時に、財布を忘れたり、飛行機に乗るのにチケットを忘れたりする私です。(会場を間違えた?)(時間を間違えた?)そうっと案内状を見てみると、8月4日ではなく、9月4日と書かれていました。「またやってしまった!」とぼとぼと今来た道を下っているとさっきの教頭先生にまたお会いしました。私の勘違いに同情しながら、新米教頭先生の実状を話してくれました。

 日にちを間違うほど忙しくしています。というよりもかなり焦っています。

15日からフィンランド・チェコ・ポーランドに行くようにしています。今年を逃したらもうそんな機会には恵まれないだろうと考えました。どうしてもフィンランドの教育とアウシュビッツをこの目で見たいと思いました。計画を立てた時は、衆議院選挙は終わっているはずでした。新型インフルエンザも流行ってはいませんでした。

先週、ようやく招待された学習会を終えましたが、9月の一般質問の原稿と旅行の準備で頭の中がパニックになっています。原稿を書き上げて出発することが理想的なのでしょうが、どうしてもまとまりません。文字数にすれば僅か数千字なのですが、頭の中でいつも組み立てながらも胸にストンと落ちません。本質から逃げずに、自分の言葉で思いや願いを創っていきたいと考えています。

 23日に帰ってきます。落ち着いたら欧州視察旅行の報告を綴りたいと考えています。


2009.7.19 野菜を求めての旅

 大分県の再生は、農業にかかっていると言っても過言ではありません。

県が、最も力を入れているのが農業です。しかし、理想と現実にはかなりのギャップが生じています。農業後継者不足、耕作放棄地、ここに来て県では、単独の農業高校をつぶし、統合してしまいました。

 私は、3年前から有機栽培の野菜を宅配してもらっています。食べるたびにそのおいしさに感心してしまいます。県がすすめる農業は、集落営農を中心にした単一品目の大規模化ですが、安全でおいしくて身近で手に入る有機野菜をブランド化することも重要なことではないかしら・・・と素人ながら考え続けています。

 

 今回の旅は、東京の「坐来おおいた」「コムズ銀座」「太田市場」長野県の「トップリバー」を僅か二日間で視察するというかなりハードな旅でした。

 「坐来おおいた」は県が作ったアンテナショップです。今は、各県のアンテナショップが盛んですが、「坐来」では、物産を扱わずレストランのみです。ここで大分の食を堪能してもらい、大分産を売り出そうと3年前に県が銀座にオープンしました。工芸品は11件の商談がまとまったそうです。店自体は、繁盛し口コミで名前も広がっているようですが、農産物の市場開拓ができたかは疑わしい気もします。

 「コムズ銀座」はビジネスホテルです。朝食のバイキングが人気を集めています。シェフの矢吹さんが、各地を回り新鮮野菜を見つけては、農家と直接取引をして朝食に出しています。余分な味付けは一切しない。野菜本来の味で勝負です。朝7時には80種類以上の野菜を中心にしたメニューが並んでいました。

「ずらりと並んだ新鮮野菜の数々」

「私が、選んだ朝食」

オーブンで焼いたたまねぎ、ほんの少しだけオリーブオイルでゆでたアスパラやブロッコリー、豊後大野の芦刈さんのお豆腐も並んでいました。水だけでも5種類揃えていました。一口食べて野菜の甘さがわかります。私がいつも家で食べている「挟間佐藤ファーム」の野菜と同じです。

「これこそが、ブランドだ!」と再認識しました。JR新橋駅からすぐです。東京に泊まる時は、お勧めです。

 「太田市場」は東京にいくつもある卸売市場のひとつです。青果と花きの取引は、国内最大です。全国の10%が集荷されています。私たちが訪れた時には、セリも終り、箱に詰まった野菜や果物が行き先を待っていました。今は、産地から直接大手のスーパーに運ばれることも多いと思っていましたが、市場を通すものが7割だそうです。スーパーや生産者との直接取引は、お金の支払いや現物が揃わないといったアクシデントもあるそうです。殆どがJAを通しています。セリにかけられるのは5%位で、殆ど売り手が決まっているそうです。

夏に見られる野菜と果物が並んでいました。しかし、大分のものはありませんでした。大分のものは、関西方面に出荷されるのでしょうか。

 カロリーベースで考えるとどうしても量が求められます。有機栽培の野菜は、生産者も限られていて大量生産はできません。でも確実においしく、食べて幸せになれる野菜です。どうしたらこの課題を乗り越えられるのかなあ・・・と考えています。

 太田市場で「トップリバー」の島崎社長さんの話を聞きました。農業を経営する側から語るかなり辛らつなお話でした。消費者の側に立つ私は、少しむっとしながら聞いていました。その話が長すぎて、私たち一行は、長野行の新幹線を一便遅らせなければなりませんでした。その日の最終便で大分に帰らなければならない私は、結局長野に行くことを断念しました。

 ANAのカウンターで早い便に変えてもらおうとしましたが、パックで安いチケットを取っていたので変更はできませんでした。結局羽田空港で6時間過ごしました。上野の国立博物館に行こうかしらと考えたのですが、体はくたくた、帰ってからの仕事の段取りを考えるともう動く気にはなりませんでした。3時間本を読み、1時間勉強をし、1時間お茶を飲んで過ごしました。本を読んでいるすぐ傍で東京バナナを売る店員さんは、ずっと呼び込みをしていました。決してうるさくはなく、まるでテープを流しているように聞こえました。「あなたの職業意識の高さに敬服しました。だから、東京バナナを買いますね。」と言ってお土産用に買い込みました。

 羽田空港だったから6時間いられたのだと思います。大分駅だったら6時間もいることはできなかったと思っています。