ときどき日記


2012.6.22 東北に行ってきました

 思いもかけない早い時期の台風で、東海、関東を中心に被害が出ています。

昨年の今頃は水不足が深刻でした。農家の方々は、畑に水が足りないと川まで水を汲みに行かれていました。田植えの時期も遅くなっていました。

 改めて自然に逆らうことはできないのだと思ってしまいます。

 6月13日〜15日まで、気仙沼、仙台に行ってきました。

 東日本大震災から1年と3カ月が過ぎています。昨年の私は、友人たちがボランティアで東北に行くのに、監査委員をしていたので大分を三日もあけることができずに、遠い九州から彼の地のことを想っていました。

 春からずっと「震災がれき」の受け入れに対する住民の方々や市民運動をされている方々、お子さんを持つお母さん方との話し合いに何度も参加してきました。賛成、反対と住民感情が分けられていく状況やマスコミがそのことだけを追っていることがとても不安でした。

 そんな思いも持ちながら、東日本大震災の今の姿を見なければ、がれき処理をどうすればいいのか考えなければと今回の企画を会派で考えました。しかし、陸前高田も釜石も私たちの相手をしてくれる行政の方は忙しくされていて、かえって復興の妨げになるようでした。やっと気仙沼の市議会議員さんのつてで、行くことがかないました。

 気仙沼は近くにある大島のおかげで、津波の高さは、他の地域よりも低い9メートルだったそうです。石巻などは30メートルだったそうで、海を見ながらその時の情景を考えると足がすくんでしまいます。現地には私がずっとテレビで見てきた景色はもうありませんでした。家が建っていたであろう所は、コンクリートの基礎だけがどこまでも続いていました。

 平地にがれきの大きな山がいくつもいくつもありました。すでに混在した物ではなく燃やせるもの、燃やせないもの、資源として使えるものと分けられています。がれきを運ぶダンプがひっきりなしに通ります。この道も震災後しばらくは、車と土砂と壊れた家屋で埋もれていたところです。


「3階まで浸かった水産高校。周りには何もなくなりました。」


「打ちあげられた漁船」

 宮城県の震災がれきは、当初、環境省が衛星撮影から流出した家屋を推計した量(1107万トン)よりも少ない646万トンでした。少なくなった理由は、海に流出した家屋が多かったこと、解体せずに改修する家屋が多かったこと、市町村で独自処理をした結果だそうです。 

市民生活部長さんがこう言っていました。「最初は、国が集めて埋め立てをするのだと思った。いつまでたってもその様子がないので、どうなっているんだと尋ねたら、どこかの自治体で受け入れてくれるところは?と言い出した。よその市町村に頼るなんて思ってもみなかった。」と。

最初は、住民からがれきに対する苦情が多かったそうです。幸いにも気仙沼は平地が多かったので、何とか仮置き場の確保をすることができました。震災後初めての夏には、悪臭がし、オオクロバエが大量に発生し、がれきの中から自然発火し大変だったようです。この1年と3カ月、行政の方も住民の方もどれだけのご苦労があったでしょう。絶望の淵に立たされ、どのようにして生きる力を振り絞ってこられたのでしょうか。

 がれきの山の前でマスクを外してみましたが、嫌な臭いはしませんでした。

 大分でがれき受け入れで論争になっていることを伝えたところ、「処理が3年かかっても、4年かかっても、自分たちでやりたい。被災地のものを賛成、反対で争って欲しくない。そんなことを望んではいない。」と答えられました。重ねて「全国の市町村で余剰能力を抱えている民間施設はそんなにないでしょう。ましてや僅かな量を全国に動かしてどれだけのコストがかかると思いますか。」とも言われました。

 がれきは現地で処理することが一番良いのではないでしょうか。確かに石巻のように平地が少なく、そこに仮設住宅を優先して建てている所では、未だに分別できていないがれき量が多く、思うように処理が進んでいないところはあります。けれども、仙台も気仙沼も予定していた以上に処理が進み、県内の他のがれきを受け入れられる状況が見込まれていますから。仮に広域処理されるにしても、遠い九州まで運ぶようなことをしなくても良いのではないかと思いました。私たちにできるがれき受け入れだけではない復興支援を考えていきたいとも思いました。

 部長さんは「申し訳なかったけれど、ボランティアが助かった。市職員は、市職員の応援が一番ありがたい。」と言われていました。尼崎市は気仙沼市と決めているようです。

 復興が進むにつれて観光客が増えていくことも重要です。

 ホテルは高台に建っているので、大きな被害は免れました。かなりの宿泊客がいました。窓から気仙沼の港が見えます。静かな湾でした。でも3,11の津波は、漁港の施設も商店街も民家も学校も鉄道路線も駅もそして人をも呑みこんでしまいました。夜になると、一階部分がすっぽりとなくなった建物だけが街灯に映し出されていました。

 気仙沼から三陸海岸沿いに、南三陸、石巻、松山と下って仙台にたどり着きました。リアス式海岸にかかっていた橋は、みんな流されていて橋げただけが残っていました。津波が来るまで、懸命に住民に防災無線で呼び掛けていた市の防災センターには、大型バスが止まり、皆さん、ボランティアの話に耳を傾けていました。大川小学校のすぐ近くを通りました。あの学校の様子は今も脳裏から離れません。人々の鎮護は続いていました。


「骨組みだけが残った防災センター」


「復興めざして仮設で再開」

 気仙沼の部長さんがこう言われました。「がれきはごみではありません。資源です。」

 思い出の詰まった大切なもの、3,11の前まではあったそれぞれの家庭の大切なものを人々の生きてきた証として、大切に扱うことができればと願います。何らかの形で残していけるといいですね。緑の防潮堤にしていけるといいですね。


2012.6.9 デンマークの報告D

 6月1日に高校総体がありました。私は、文教委員長として初めて参加をしました。大分県下の公立・私立の高校生が行進していく様を見ながら、「教え子たちがいる時だったら」「甥っ子が参加している時にも見たかったなあ」とつい思ってしまいました。若い人たちが行動している姿は、清々しく逞しさを感じました。来年は4県(大分・福岡・佐賀・長崎)合同の全国総体が大分を中心に開かれます。高校生たちが、体を壊すことなく、心も体も成長していって欲しいと願っています。

 6月4日に「がれき受け入れ」でご心配されているお母さん方との話し合いを持ちました。最初はフランス革命で断頭台に上がる人のような気持ちで参加しましたが、皆さんじっくりと話に耳を傾けてくださいました。そしてこれからも話し合いをしていきましょうと決めました。

 テーマとなったのは、

○大分県議会が決議した「東北の震災復興を支援する決議」について

○福島への支援の方法について

○脱原発へ向けての取組みについて

 重要な会議が急に入って来て、私は1時間10分しかそこには居られませんでしたが、はじめの20分だけ時間を頂いて、決議文をめぐる顛末をお話しし、私が考える福島への支援の方法について語りました。

 参加している方々は、決して群れることが好きな人たちではなく、個人として参加されています。初めて顔を合わす方も多かったようです。

 出てきた意見は、

・ベラルーシに行ってきた。この国は私たちを守ろうという姿勢が見られない。

 いらだちを覚える。今からは、国は無理。放射能がどんなに怖いかを知ってもらいたい。その怖さを知って選択できるかが求められている。

・「がれきが心配」と言えないことが心配。

・命を大事にしたい。

・大きなところに頼ってもどうにもならない。説明をしたからもう終わりとなる。今からできることをやるしかない。大分でがれき反対と言ったら、非国民と言われる。

・仲間を増やしてあっちこっちで声をあげよう。

・反対派と賛成派と分けられていて、人格否定までされる。

・放射能は、人によって反応が違う。危なかったら入れない。人間の手に負えないと理解しなければならない。

・ベラルーシを見て、10年後の日本だと思ったら怖い。

・チェルノブイリ・ハートの上映会を学校で開きたい。

・知らない、関心のない人が多い。

・毎日どうしていいかわからない。庭に出ても汚染されているのではないかと心配になる。ベトナムに原発を日本が輸出するのが不思議でならない。

・空家に福島からの人に住んでもらいたい。

・津久見の説明会に行ったら、立派なパンフレットができていた。そんなお金があったら福島の子どもたちを呼んであげられる。

・行政が動けば、たくさんのお金が使われる。

等など、意見は続きました。

 くじけそうになる自分が励まされ、これから進んでいかなければならない道を教えられた気がしました。津久見市長や県知事が津久見市でのがれき説明会の後「大方の理解が得られた」と言った根拠は何なのか。考え続けています。

 昨日、野田総理の大飯原発再開方針表明を車を運転している時に聞きました。耳を疑いました。「国民の幸せのため」という文言が許せませんでした。
 いろいろな言葉が頭の中を駆け巡っていますが、冷静に整理しながら、第2回定例会で質問していきます。

―――――デンマークの地方自治―――――

 訪れたのは、オーデンセ市議会です。チーナ・ブー市議(女性・46歳)が対応してくれました。

 オーデンセ市は、人口19万人の国内3番目に大きな街です。彼女は、市立幼稚園長を務めながら1989年に初当選しました。2011年に園長を辞職し、市職員となりました。今は、「高齢者・障がい者福祉委員会」の委員です

・市長は、議会の多数派を構成する政党の市議の中から選ばれる。

・議員は、無報酬。ボランティアとして議員を務める。だから自分の仕事を持っている。

・市長と副市長はフルタイムで働き給料をもらう。

・市議は無報酬ではあるが、賞与の形で年間に11万9千クローネ(約190万円)もらっている。

・2週間に1回、2時間議会がある。夜行われる。夜10時まで開かれ、市民が自由に参観する。

・定数28人に対して250人くらい立候補する。選挙にお金はかからない。

・選挙に行かない人はいるけれど、投票率は80%以上。


「市庁舎」


「市庁舎前広場に横たわるオブジェ」


「説明をしてくれたチーナ・ブー市議」


「日本に留学したことのある若者が飛び入り参加」


「市庁舎の中の書架」


「世界の多くの国と姉妹都市」


「市民のためのスペース」


「会議室」


「市議会場、上の席が傍聴席」

 デンマークは、男女共同参画が進んでいる国ですが、オーゼンセ市では、なぜだか女性の管理職や女性議員は、日本と同じように少ないそうです。

 彼女は、「社会的弱者の声を出せるように仕事をしてきた。」と言います。「人間の権利・民主主義は政治ではなく、生活の中で考えるべきだ」と言われました。

 最後に

「福島原発の事故は、デンマークにどのような影響を与えましたか」と訊ねてみました。

「メディアは盛んに取り上げた。日本人はあの時冷静に対応した。どうして原爆を2度も経験した国が原発を稼働させるのか。二人の息子は原子力は安全だとずっと考えていた。あの事故以来、原子力の危険性を理解した。デンマークには原発はなく、20%が風力発電。近い将来、完全に自然エネルギーにしていく。」と

 次回は、デンマークの町並みや食べ物についてお知らせします。


2012.5.28 デンマークの報告C

 昨日、津久見市でがれき受け入れに関する県の説明会がありました。

 6月4日にはお母さん方と話し合いを持ちます。

 6月13日〜15日に宮城県、岩手県、福島県に行って、がれきの問題と避難している方々の意見を聞く準備をしています。いろいろなことを考えますし、こんな時にのん気にときどき日記を綴っていいものかと自問自答していますが、今は、心に留めておきます。

 昨日は女性教職員の方々の学習会がありました。

『学校を離れて10年 見てきたこと、考えること』と題してお話をさせていただきました。

 私は、かなり抜けが多い人間で、過去にはセンチュリーホテルに行くべきところをワシントンホテルへ行ったり、ご葬儀で稙田風之荘へ行かなければならないのに大道風之荘へ行ったりして、時間がないのにかなり焦った経験が何回もあります。出がけに「今日の目的地は、豊泉荘!」と確認して少し早めに家を出ました。「パソコンも持った。パワーポイントも入れた。」と万全の態勢です。

 別大国道では、ずっと昔にスピード違反で警察に捕まったことがあるので、法定速度を守りながら走っていました。何気なく後ろを見るとつれあいの車と同じ車種の車が走って来るのが見えました。田の浦の信号で止まった時にその車が左折レーンに入ってきました。横に並んだ運転手の顔を見てびっくり。さっき別れたつれあいでした。「窓を開けて!」と言われ慌てて窓を開けると私の携帯電話を投げ込まれました。今日の失敗は携帯を忘れて家を出たことでした。

 でも、私は電磁波が怖いので携帯電話をできるだけ使いません。ですからそんなに必需品でもないのですが・・・・。

    ――― デンマークの就学前教育 ―――

 以前にBSテレビで「デンマークの森の幼稚園」が放映されました。それを見て感激したことをHPでもお伝えしました。ですから今回の研修でとても楽しみにしていたことです。

 

伺ったのはファボウ・ミットラン市のキャプタイゴーン幼稚園です。園内を回りながらまず、お話しを伺いました。

・1990年、22年前に農場幼稚園が始まりました。今ではデンマークにいくつもあります。

・元船長だった人が100年前に始めた農場の土地と建物を買い取って始まりました。

・豚小屋だった所が、今は集会室になっています。

・木工室には、金づちやのこぎりなど様々な道具が揃っていてもちろん子どもたちが使います。「一度、危険を感じれば子どもは気をつける」が方針です。

・羊、やぎ、豚、にわとりとたくさん飼っています。2頭の豚を除いて全部食べるそうです。2頭の豚はペットなので名前がついています。他にはありません。

・子どもに「大きな羊はどうなるの?」と訊ねたら「しばらくしたら潰される」と答えました。子どもは動物を食べて生きていることを知っています。昨日スープに入っていた鶏肉。それもこの農場のものだと知っていました。

・農場の動物を日常は職員と子どもたちで世話をします。休日には親と一緒に世話をして責任感を育てるそうです。

・キッチンでは3歳の子どもがはさみを使って野菜を切っていました。「子どもがナイフを使うことは危険ではありませんか?」と訊ねたら「ない!」と一言。講習を受けた職員がどう使うかを教えながらやっているとのこと。

・幼稚園では、子どもたちは食事以外どこにいなければならないということはありません。一日中何をしていようと自由です。園はとても広いのでけがの心配や親のクレームを訊ねたら「私たちは、万能ではないが、職員で力を合わせていく。子どもの肩を叩いて認める。子どもはいろんなことを知らない。でも私たちは子どもたちを信頼している。常にどこで遊んでもいいんだと思わせている。」が日本と顕著に違うところです。

・保育と教育と行っていますが、特別なカリキュラムはありません。「遊ぶことが一番大切で、そのなかで子どもたちはいろいろなことを学び大人になっていく。そんな中である日アルファベットに目覚める子どもがいる。数を理解する子どもが出てくる。」「遊んでいなくてその喜びをしらなくてどんな大人になりますか?」と逆に問われました。「一斉に何かを教える必要はない。学ぶべきことがあらゆる子に一度に起こるなんてありえない。だから自由保育が大切だ」と言われています。

・いろいろな難しい家庭の子どももいます。障がいを持つ子どももいます。言葉に問題を持つ子どもには言語療法士がつきます。

・日本の多くの保育園ではお昼寝がありますが、ここでは、80人通う中で4人だそうです。3歳で初めて通い始めた子どもは初めは眠るそうです。でも一斉のお昼寝タイムはありません。「寝たかったら寝るでしょう。」「昼間寝なかったら夜良く寝るでしょう。」と園長の弁。


キャプタイゴーン幼稚園


水族館に行くバスを待っている年長さん


部屋の中で遊ぶ子どもたち


外遊びをする女の子


部屋の中に砂場があります


木工室に揃った工具


用務員さんは知的障がい者です


飼われている動物


はさみでパセリを切る3歳児


カーン・ミュラー園長にお土産を渡しました
 

  徹底して民主教育を大事にしながら子どもたちを育てているデンマーク。その基礎になっているのが就学前教育だとわかります。デンマークのそのシステムは、保育ママ→保育園→幼稚園と流れていきます。

  カーン園長が教育の理念をこう言いました。「最初に考えるのは子どもを理解するか。子どもの喜びを引き出すか。子ども自身で考えられるか。問題を解決できるかです。」と。

 「幼稚園では、毎日子どもたちに喜びを与えるか。みんなが同じ方向を向いているのではなく、それぞれの子どもの違い、個性がある。私たちはそれぞれの子どもに合わせたサポートをしていく。」と

  胸に染みいるような言葉をたくさん聞きました。今の日本ではなかなかわかってもらえない現実があります。

  最後に「子どもにとって最も大切なことは何だと思いますか?」と訊ねたら、園長はこう答えました。

  「自信です。自己肯定感です。」と

 次回は、デンマークの政治についてお伝えしようと考えています。