ときどき日記 2018 6.15 いつになったら幼子の命が救えるのでしょうか 桜を堪能していたのがついこの前のような気がするのですが、いつの間にか季節は梅雨に入りました。議会の控室からは、城址公園の木々の緑とお堀の水面と強い日差しを避けるようにして歩道を行きかう人々の姿が見えます。 学校では、先々週から、プール掃除が行われていました。1年ぶりにプールはきれいになり、新しい水が張られ、子どもたちの歓声が聞こえてきそうなのですが、このところ雨が降り、気温も低く、風が吹くので震えながらプールから上がってくる子どもたちの姿が想像できます。 東京で5歳になる女の子が、親から虐待を受けて亡くなると言う悲惨な事件がまた起こりました。幼い子どもや生後間もない赤ちゃんが大人から殺されると言う事件を私たちは、これまでに何度も知らされています。 大阪で幼い姉弟が、母親が頻繁に家を空けている間に餓死していたという事件は8年前のことでした。それ以後もそれ以前も自己主張ができず、反抗もでき ず、自分を守る術をも持たない幼い子どもたちのあまりにむごたらしい事件が報道されるたびに胸がえぐられるような気持ちになっていました。できればその情 景をイメージしないようにと心を塞いでしまいそうになる自分がいました。 それでも、テレビに映し出される逮捕されて連行されていく、父親や母親、継父や継母の姿をにらみつけるようにして見ていました。 事件を起こした「親」にも幼い頃があり、思春期があり、働いている時期もありました。自身が、虐待を受けていたり、貧困であったりと厳しい家庭環境で育った「親」もいます。 事件が報じられるたびに私は、虐待の連鎖の問題や格差社会や孤立させてしまう社会環境を考えてきました。 けれども、もうそんなことを言っていられないほど、子どもたちの置かれている状況は切羽詰まっています。 東京で亡くなった結愛ちゃんは、わずか5歳でしたがノートに「ごめんなさいあしたからはぱぱ、ままがいうようにいいこにします」「おねがい ゆるして ゆるして」と大学ノートに綴っていたそうです。守らなければならない約束事は、20項目もあったそうです。 幼い子どもが自己批判し、親に認められようと必死で考えてとった行動です。通常の5歳児がする行動では決してありません。そこに異常さが際立っています。 結愛ちゃんは、実の母親と再婚した継父とその間に生まれた1歳の弟と4人家族でした。連行される母親の無表情な様子から、彼女は「親」である前に女であ ることを選んだのだと思いました。夫に嫌われることを恐れ、実の子どもに対する執拗な虐待を目にしても我が子を守ろうとしなかった母親。葛藤や恐怖を感じ ていたかもしれませんが、現実に我が子は殺されてしまいました。 死亡した時の結愛ちゃんの体重は、5歳児の平均20キロを大きく下回る12キロしかありませんでした。動けなくなった結愛ちゃんに「親」は弟の1歳児が使うおむつをあてていたそうです。 香川県に住んでいた時に継父は2度も虐待容疑で逮捕され、結愛ちゃんは児童相談所に一時保護されています。ですから保護所は、事の重大さを認識していたと思います。 その後、東京に転居しています。その時も香川の児童相談所から東京の目黒区の児童相談所には連絡がいっていて、ケースワーカーは自宅を訪問しています。 保護所間の連携が、旨くいってなかったとしても、問題意識の共有はされていたのに、緊迫した状況とは、一刻を争う状況とは認識されなかったのでしょうか。 訪問したケースワーカーに対して、母親は、結愛ちゃんとの面会を拒んでいます。私は、ケースワーカーではありませんが、虐待を受けて保護された子どもを ずっと支援する仕事をしている専門の人たちは、一時保護しても親子関係が修復されるようにと保護者との関りを続けていきますので、親の意向に反して行動す ることのマイナスを考えてしまうことがあると言われています。でも、近所の人たちは、「やめて」と叫ぶ結愛ちゃんの声を何度も聞いているのですから、何と か危険な場所から脱出させる術があったのではないかと思いました。 経済的に厳しく、社会とのつながりを絶ってしまった「親」は追いつめられると、そこにいる自分よりも弱い立場にいる子どもに向かって虐待が行われるのだ と言われていますが、児童虐待防止法が改正されて、児童相談所の権限は強化され、子どもの安全のために強制的に家庭に踏み込むことができるようになってい るのですから、保護者の反発を考えていてはいけないのだとみんな知っているのに・・・。今となっては何を言っても取り返しがつきません。「ゆるして」とい うのは、結愛ちゃんがいうべき言葉ではなく、守ることができなかった私たち大人が言わなければならない言葉です。 議員になって、初めて児童相談所の一時保護所を訪れた時の衝撃を思い出します。十分ではない環境の中で大勢の子どもたちが生活していました。そこには、 懸命に理不尽な親と対峙し、心の置き場のない、自分の思いを伝えることができにくい子どもたちを守りながら仕事をしている職員の方々がいました。何とかし なければと訴え続け、みんなの願いが少しずつ実現し、大分県の児童相談所の職員数は増員されていきました。環境も整備されてきました。夜間の体制も充実さ れてきました。けれども、虐待を受けて保護される子どもの数は、児童相談所の体制以上に増え続けています。 社会が変わることをもう待ってはいられません。虐待を受ける子どもも虐待死する子どももいなくなるまで、専門家もそうでない人もそれぞれの立場で私たち 大人が考えなければならないことなのですから。私は、大人として、人として、議員として子どもの支援に携わっている人たちの意見を聞きながら現状分析をし ながら、行動していかなければならない。自分の考えを伝え続けていかなければならないと自分に言い聞かせています。 2018.5.31 保健室の先生 九州の北部が梅雨入りしたそうです。 ついこの前、4月の入学式を迎えたと思っていたのに、いつの間にか季節は 初夏になろうとしています。 5月8日に沖縄の石垣島に調査で行ってきましたが、その日が沖縄の梅雨入りでした。私は、出張する時は、天気予報を詳しく調べ、雨具が必要なのかチェッ クを十分にしていきます。その時の天候は、「晴れ」だったので、傘を持っていませんでした。しかし、石垣空港に着いた時は、どしゃぶりの雨。 ショック でした。 空港から、石垣市役所までは、タクシーで移動しましたが、車中で「こんなはずではなかった。雨が降るなんて思っていなかった。」と愚痴を言っていました。 市役所について降りる時にタクシーの運転手さんが「この傘、持って行きなさい。」とご自分の傘を差しだしてくれました。びっくりしてしまい、「いいえ悪 いです。私その傘を買います!」と言うのですが「いいから。持って行きなさい。」と渡してくれました。大きめのビニル傘ができたことで、市役所からホテル まで、そしてその後の移動にもとても助かりました。運転手さんの優しさがあまりに嬉しくなって記念写真を撮りました。 働き方改革法案が、国会で通りそうです。 厚生労働省の労働時間の報告は、データがずさんで不備がいくつも指摘されています。高度プロフェッショナル制度は、残業代ゼロ法案であり過労死助長法案 だと思います。年収が1075万円以上の人には、労働時間の制限がなく、過労死が予測されるものです。夫や父親や子どもなど家族を過労死で亡くした家族の 人たちが、身をもってその危険性を指摘しているのに、国会では与党が強行採決しようとしています。働く人の実態からではなく、完全に経営者側の利益に合わ せた制度であるのに、私たちの声が全く反映されていきません。残念でなりません。経営者側は、以前年収が400万円以上の人に適応されるようにして欲しい と言っていたのですから、まったく許し難い状況です。 働き方改革が叫ばれ、学校で働く人たちにもようやく目が向けられ始めました。 学校には、いろいろな職種の人が働いています。 その中に、養護教諭という職種があります。保健室の先生です。殆どの学校にいて、子どもたちの健康や学校の環境衛生を守っている人たちです。小学校で、 801人以上、中学校では851人以上児童・生徒がいる学校では、養護教諭が二人体制の所もありますが、大規模校に限られているので、その人数に達しない 学校では、養護の先生は、学校に一人となります。 今のところ、大分県下の義務制(小学校・中学校)の学校では、女性の先生がそれを担っています。公立高校には、男性の養護教諭もいるようです。 1学期の保健室は大忙しです。数々の検診(身長・体重・眼科・歯科など) が目白押しです。病院の先生がやってきて、検診を行いますが、その準備をするのは、養護教諭です。器具を準備し、終わったら煮沸し、全校生徒のデータを入 力しなければなりません。それだけでなく、通常の業務であるけがをした子どもの世話や心に悩みやもやもやを抱えて保健室にやってくる子どもは大勢います。 保健室は、子どもにとっては、オアシスでもあります。養護の先生に話を聞いてもらい、何とか学校に通ってくることができる子どもも大勢います。 手足口病がはやり、その対応もしていますし、学校行事である修学旅行や少年自然の家の引率も養護教諭の仕事です。小さな学校では、給食業務を担っている養護教諭も少なくありません。 数年前、養護教諭の現職死亡が何人も続いた時期がありました。私は、何人の現職死亡の葬儀に参列し、涙を流したか数知れません。 働き方改革を言うのなら、この養護教諭の仕事にも目を向けなければならないと願っています。 学校では、春の運動会や体育祭がひと段落して、プールの時期がやってきます。 子どもたちの一日一日が充実した日となるように懸命に頑張っている養護教諭がいるということを皆さん知ってください。 2018 5.7 たまには精進料理 5月3日の憲法記念日は、我が家の結婚記念日でもありました。 憲法は、今年71回目の誕生日を迎えました。我が家の記念日は、37回目です。 結婚する時、憲法記念日にこだわってその日を選びました。でも当時は、憲法がこれほどの危機を迎える日が来るなんて思ってもいませんでした。 ここ数年、いえ、安倍政権誕生からずっと頭の片隅にある一強独裁の持つ恐ろしさを拭い去ることができません。だから行動しています。街宣もしています。 うるさがられても、レッテルを貼られても、脅されても誰かがいつも声に出していかなければ、「自分たちの手で未来を切り拓こう。」なんて耳障りの良い言葉 に民衆が動かされては大変なことになると危機感を抱いているからです。 5月3日の憲法記念日学習会に参加して、はっきりわかったことが一つあります。韓国と朝鮮民主主義人民共和国の歴史的な南北会談で、東アジアの脅威は段々と無くなっていくということです。もうこのことをして、国民を扇動することは許されないことだと思っています。 そんなことを考えながら、臼杵に精進料理を食べに行きました。 夫婦共通の友人がうちに来てこういいました。 「すごく感激しました!是非二人で出かけてください」と 精進料理は大好きです。お葬式のお斎(おとき)も幼い頃から好きでした。 紹介されたのは、臼杵にある臨済宗の見星禅寺の住職が創る精進料理です。 お寺から少し坂道を上がったところにあるお寺さんの隠居家を「星月庵」と名付けています。 出てくるものは、「これはお肉でしょう?」「これってたまごでしょう?」と思うものが、すべて湯葉を使って創りあげています。時間をかけて浸し、乾燥さ せ、煮込み、歯ごたえのある弾力を持たせています。地域で採れる旬の野菜をふんだんに使い、住職が長い時間かけて擦ったゴマをベースに様々なたれをかけて います。みそだれだったりヨモギだれだったりします。そんなお料理が1時間半をかけて10品以上出てくるのですが、目で楽しみ、味わって楽しみます。器も 織部、古伊万里、志野、萩と料理に合わせてふんだんに使われています。住職は、何十年も禅寺で修行をしてきた方だそうです。 料理の最後に、ほんの少しのご飯とお味噌汁が出ます。食後にお抹茶かコーヒーかぜんざいを選ぶことができます。私は、迷わずぜんざいをお願いしました。 甘めの小豆の中に入っていたまるでお餅のような弾力を持ったヨモギふの美味しかったこと。あの味は忘れられません。 静寂の中で、精進料理を頂きながら、「不断の努力をしていこう。」と自分に言い聞かせていました。 2018 4.18 大分セブンス 桜の花は散ってしまいましたが、青々とした若葉が清々しく目に映る季節になりました。これから、ボタンやシャクナゲが綺麗に咲くことでしょう。藤の花もつぼみを膨らませています。 我が家では、モッコウバラとハナミズキが咲き誇っています。スズランも次々と小さな可憐な花を咲かせています。 4月5日から8日まで「香港セブンス」(7人制のラグビー)を見に行ってきました。 来年は、ラグビーワールドカップ日本大会が開催されます。大分でもニュージーランドやオーストラリア、フィジーといった豪州の強豪チームやパプアニューギニア、ウルグアイの試合が行われることになっています。 その前哨戦として、6月には、日本代表戦が大銀ドームであり、たくさんのお客さんが来県されるようになります。観客輸送や交通規制など大会の成功に向けて のシミュレーションをしていかなければなりません。実際の運営は、県の各部がすることですが、私たちも考えを言っていきたいし、昔、私はラグビーオタク だったのでじっとしてはいられません。 それで、ラグビーワールドカップの雰囲気に最も近いと言われている「香港セブンス」の開催状況を視察することにしました。来年の大分大会の参考に【スタ ジアムへの輸送手段・交通規制・施設の状況(座席数・座席の形態・障がい者向けの座席・トイレの施設・大型ビジョン・スタジアム内の飲食店・警備状況・ボ ランティア・観客のマナーなど)】したいと考えました。 合わせて、インバウンドの観光推進に向けて香港の方の観光嗜好や訪日客の状況、大分県産物の海外輸出に関する具体的な状況をJETRO、JUTO(国際観光振興機構)JTBそれぞれの香港事務所に伺い調査することにしました。 政務活動です。これまでは単独か同じ会派の人との行動でしたが、今回は、会派を超えた有志で計画しています。7人で行くことになったので「大分セブンス」と勝手に名前を決めました。 セブンスについて ラグビーの15人制と同じフィールドを使い、7人のプレーヤーが7分ハーフで試合は行われます。ハーフタイムは2分だけ。フォワード(3人)とバックス(4人)で形成され、スクラムは1列になった3人ずつのプレーヤーで構成されます。 試合は、朝7時から夜8時まで世界中から集まった28か国のチームが8パートに分かれて次々に行われます。初日の最後には下位グループの決勝戦までが行われ、翌日には強豪チームの決勝戦までが行われます。私たちは、日程の関係で初日だけしか見られませんでした。 広いフィールドを少ない人数でカバーするので、ボールは大きく動き、プレーヤーの走るスピードも速くとても見ごたえがあります。22試合を観戦していて も、ちっとも飽きることはありません。午後からは、エンターテイメントのパレードが行われ、ちびっこラガーマンたちも行進していきました。 香港島のホテルから地下鉄を乗り継いで行きます。地下鉄を降りたらスタジアムまでは徒歩で随分歩きますが、大量輸送できる地下鉄があることは、魅力的です。大銀ドームまでのバス輸送の混乱が頭を横切りました。 スタジアムの様子 スタジアム周辺では、欧米系のダフ屋のお兄さんに「チケットがあります。」と随分声をかけられました。 観客は、多くが、香港人と欧米人でした。ここに住んでいる欧米人かわざわざ試合観戦に来た海外からの人かはわかりません。 入場のチェックは日本のスタジアムと同じように飲み物は持ち込めません。カメラの三脚も預かり番号と交換で、持ち込めませんでした。 警察官も3人ずつ警備をしていましたが、物々しさは感じません。むしろ彼らもちらちらと試合を見ているようでした。朝の早いうちは、観客も多くはなかっ たのですが、時間が経つにつれ人が増えていきました。座席はすべてフリーですが、2階席より1階席の方が見やすく臨場感があります。大銀ドームのような フィールドがないので、すぐそこで試合が行われている感じです。3階席は飲み物を持ち込めませんでした。後半になると空席を探す人が増えてきます。 お祭りのように仮装して参加するのが習わしなのか、好みの仮装を楽しんでいる人たちしか入れないエリアがあります。柔道着スタイルの人、インディアンスタイルの人、かつらをかぶっていたり派手な化粧をしていたり。 白熱した試合のたびに歓声が沸き、楽しんでいる様子がわかります。 フードコーナーでは、日本と同じようにファストフードと飲み物が売られています。あまりおいしくないフィシュバーガーとホットコーヒーで2000円近く払いましたから、決して安くはありません。 ビールが半端なく売られています。欧米の人は、最初から最後までビールを飲み続けるのだと思いました。それもコップではなく2リットルのピッチャーごと買い、何回もそれを交換していました。 私の横に座っていた人は、欧米人でしたが、酔っぱらっていてしきりに話しかけてきました。もともと英語が上手くないのにろれつが回っていないのでちんぷ んかんぷんです。そのうち寝てしまい、今度は頭を傾けてきました。「こんなに飲んでいてトイレは大丈夫なのかしら・・・・。」と思っていたら失禁してしま い、下の座席の人たちは大騒ぎです。本人は寝入っていて何ということはないのですが、彼は、目が覚める時にぶるぶると激しく震えだし私はかなり焦りまし た。トイレ問題や衛生の課題、救急体制も大事だと思いました。 完全にお祭り気分を楽しんでいる「香港セブンス」ですが、会場には、大会が行われる大分、福岡、熊本3県で構成されたブースも出ていました。しかし、ラグビーワールドカップへの関心や意識はまだまだだと感じました。 香港事情 つれあいが香港に行った時は、まだ返還前で、すごくごみごみした街中の上を飛行して着陸したそうですが、移転した香港空港は大空港でした。「子どもの物売りやスリに気をつけるように。」とも言われましたがその心配もありませんでした。 香港は、札幌と同じくらいの広さの中に750万人が住んでいます。250の島で成り立ち、イギリスから返還される時に50年間だけ経済は「一国二制度」 をとるように決められました。ジャーナリズムは自由なのだそうですが、政治の面で中国からの介入が入り始めているそうです。中国の色のついた人を送り込ん でくるので、若者の反発は大きなものがあるそうです。忖度しなければならない社会になり、電話も盗聴されていると言われていました。 中国本土から富裕層が移り住んでくる比率が高くなり(140万人/750万人)不動産は高騰し、オフィスレンタル料が払えない日本企業の撤退もありま す。香港では20階以上のビルしか建築許可が下りず、どんどん高層化しています。(地震が心配ではないのかしら)と思うのですが、地震はないそうです。 実際億ションが多く(年収の19倍のマンション価格)若者は自分の家を持つことが難しく、300万人が公営住宅(家賃が5万〜6万円)に住んでいます。 自国では、何も生産されず、経済と貿易と観光で成り立っています。ですから世界中の農産品が集まっています。日本のおにぎりも売られていました。 外食が多く、自宅での料理の回数は多くはないそうです。 小さな国なので、旅行に行く時は、海外旅行。日本のような団体ツアーではなく、目的を特化した個人旅行が主流です。格安航空でビザが必要ない日本への旅行は人気で、日本に10回以上行ったことがある人の割合は2割もいるそうです。 現在、大分と香港の定期就航はありませんが、もしこれができれば、多くの香港人が大分に観光で訪れることができます。今は、福岡空港に入るルートが主流 です。でも、大分・台湾便でも厳しい状況ですから、いくつもハードルを越えなければなりません。課題は、台湾や香港からの訪日客が多く乗ってきても、こち らから向こうに行く日本人が少ないことだと思います。 香港の町を歩いていると台湾を歩いているような錯覚に陥ります。実際は香港の方が都会的で、世界のブランド店が軒を並べています。1香港ドルは16円なのですが、食事をしたり買い物したりしても決して安さは感じません。 若い人が多く、広東語が行きかいます。タクシーは古い感じなのですが、自家用車は殆どが日本製です。外国の高級車も走っています。でも、庶民の持ち物ではないようです。(ガソリンは、1リットルが230円。月の駐車料代は4万〜10万円) 禁煙場所や喫煙場所もあるのですが、街中の道路にはゴミやたばこの吸い殻がたくさん捨てられています。日本に帰ってきて(日本は美しい!)と感じます。 セブンイレブンが随分たくさんできています。 日本と同じように高齢化も進み、経済格差も広がっているようです。香港内には大学が10校(公立8、私立2)しかなく、そこに入るための塾通いも過熱しているようです。しかし18パーセントの人しか入学することはできないそうです。 今回の調査を生かして、ラグビーワールドカップ大分大会の成功に受けて歩んでいかなければならないと考えています。 2018 3.31 桜の花をゆっくり愛でることができましたか 啓蟄とはよく言ったものです。その日に合わせたように我が家では10日ほど前にありが動いている姿を目撃しました。小さなくももぴょんとはねています。桜の開花に合わせて虫たちも動き始めました。 会派の控室からは、城址公園が良く見えます。お堀の周りに植えられた桜のつぼみが少しずつ色づき始め、ピンク色に染まっていく様子が今年は雨の日がな かったのでタイムリーに分りました。H県議が「明日はお花見をしましょう!」と声をかけ、翌日、特別委員会を終えてからそれぞれ自分のお弁当を持って桜の 元に集合しました。子ども連れのご家族、ご夫婦でお弁当を広げている中で、私たちは少し異質の集団のように見えたかもしれません。13名全員が参加できた わけではありませんが、控室では見られないみんなの笑顔を見ることができて嬉しかったものです。日ごろ少食のK団長が「日頃はこの弁当をやっと食べていた のに今日は、全部美味しく食べられた。」と言われていました。 3月26日が小・中学校の修了式でした。高校も幼稚園もすべて終了していますので、子どもたちにとっては楽しい楽しい春休みに突入したわけです。今年は13日間。事故に遭わずに元気いっぱいに過ごしてほしいと外で遊んでいる子どもたちを見るたびに思います。 ここ数年気になっていることがあります。 それは、小学校の卒業式に袴を着る子どもが増えていることです。女の子だけではなく、男の子もいます。卒業式は子どもが主人公で、晴れ舞台でしょうか ら、制服がない小学校で着飾ることを否定するわけではありませんが、レンタルでも2万円前後はします。それに着付けや髪を結っていたら、結構な出費でしょ う。「個人の自由でしょう!」と言われそうですが、そんなにお金をかけられない子どもも7人に1人が相対的貧困状態ですから存在しています。商業ベースに 乗せられてそんなことでいいのかしら・・・・。卒業式の目的や本質が別の観点で行われているようで残念です。 学校によっては「袴はやめましょう。」と決めているところもあるようです。 卒業式の風景がテレビで放映されている場面を見て「まるで七五三のようなことをしている。」と感じてしまいます。 私は、昨年度は「農林水産委員会」に所属をしていました。 7人の議員の中には、農林業の専門の方もいますが、私は素人で消費者の立場が先に立っていました。でも、どんなに稚拙なことを質問しても執行部の人たちは、嫌な顔せずに説明してくれました。 農林水産部では、昨年の豊後大野市の綿田地区における地滑りや九州北部豪雨、台風18号で大打撃を受けて被災した地域の再建支援に力を入れてきました。 ようやく査定も終わり、復旧工事を急いでいます。今年の出水時期までに農業者が作付出来るように今後も力を入れて行かなければなりません。 今回の災害では、収穫期を迎えた人工林(スギやヒノキ)が増加していることや想像を絶する豪雨の影響が明らかになりました。農林水産部では、将来にわた り森林の持つ多面的機能を発揮させるために、尾根部や里山に広葉樹を植え、針葉樹との混在での森林づくりを打ち出しています。50年後のあるべき姿を見据 えたその営みを通して持続的な林業経営ができるようにしていかなければなりません。 県産イチゴ「ベリーツ」は研究成果が実り、甘さ、硬さ等高品質いちごの誕生でした。新たな大分県ブランドとして期待されています。これから流通拡大事業を成功させていかなければなりません。 県の農林水産産出額の目標は、2250億円でしたが、それを上回る勢いとなっているために算出目標を2500億円に拡大修正しました。 農林水産業を営む人たちの中には、基盤が弱く高齢化も進みそれでも先祖から受け継いだ土地や仕事を守りながら誇りを持って生計を立てている方々が大勢い ます。3K職場だと言われるその人たちを支え、県農政がリードすることにより今後の喜びや生きがいに繋がっていくことができればと願います。 有機栽培農業への支援ももっともっと続けて行かなければならないと思います。県の戦略品目である白ネギやいちごやトマトと言った単一品目が今後水田の畑 地化でますます広がっていくことでしょう。そのような農業と決して対峙するのではなく、耕作放棄地に草木堆肥を入れ、3年、4年、5年と時間はかかります が、豊かな土壌が誕生すれば、そこに消費者が必要としている多品目で栄養価の高い本当に美味しい野菜が育つことでしょう。私はそうした環境をこれまで以上 に重視していきたいと考えています。 そして、有機栽培農家で研修を積み重ねた若者たちも大分県農業を支える存在になっていくことに大きな期待をしています。 2018 3.18 思いやることと忖度すること あの厳しく苦しかった冬もようやく終わりをつげ、春らしい季節になりました。沈丁花が香っています。お隣のお宅の彼岸桜も咲きました。大分市内では植栽 されている白モクレンも日当たりのよい所では、花が開きましたが、数日前の強い風で散ってしまったところもちらほら見受けられます。モクレンは美しい花で すが、開花期間があまりに短くどうして大分市はこの木を植えたのだろうと毎年地面に落ちた花びらを見ながら思ってしまいます。 光にも空気にも匂いにも春を感じさせてくれるこの季節が私は一番好きです。 3月の10日に大分県立爽風館高等学校・3部制で、11日には通信制で春の卒業式が行われました。爽風館高等学校では秋入学と秋の卒業式もあります。 それぞれの部では、3年から6年かけて学んだ卒業生が旅立ちました。 これまで、何度も爽風館の卒業式に参加していますが、やはりピンと張り詰めた気分になります。働きながら勉強を続け、それをやり遂げた人の姿は凛々しいものです。卒業生の約8割の人が、入学時にはそれまでの学校で不登校を経験しています。 一念発起して、爽風館高等学校で学び直しをしようと決めるまでの迷い続けた日々や入学してからの不安な気持ちがわかる気がします。それを乗り越えて自分 の力で卒業証書を手にするのですから、すごいことです。ある卒業生がこう言われていました。「回り道をしたけれど、それで良かった。」と。 194名の卒業生に幸多かれと祈りました。 東日本大震災から丸7年が経ちました。まだ7年。もう7年と複雑な心境です。未だに7万人以上の方が故郷を離れて生活しているのが現実です。 7年前、遠く離れた大分で私がその時刻に何をしていたかを昨日のことのように思い出すことができます。それくらいインパクトのある場面が脳裏に深く刻みこまれています。 テレビ報道で、宮城県の10歳になる女の子が、7年経って初めて祖父母や叔父を亡くした苦しみや悲しみの感情を出し始めたというドキュメンタリーを見ま した。震災当時はまだ3歳。普通に暮らしていた子どもならそんな幼い頃の記憶や経験は覚えていないはずなのに、彼女が見たたくさんの遺体や津波に飲み込ま れた周囲の風景、そして悲しみを抱えて生きてきた両親の姿から様々な感情が心の中で生まれ、それを封じ込めていた時間の長さときつさを痛いほど感じまし た。 被災地では、心のケアを必要としている子どもがどれだけ多いのかと「ゆふわく」の保養プログラムも通じて思い知らされます。 福島の現実は厳しく、東北では故郷に帰れない7万人の中で福島の方が5万人以上になります。福島第一原発に近く、長いこと帰還困難区域だった楢葉町や富 岡町や広野町も帰還困難区域が解除されています。しかし、実際に帰っている人の数は、震災以前の1割から2割です。やはり放射能への不安が大きく影響して いると思います。 原発被災地で「故郷の復興を何とか成し遂げたい。」と願って家族とともに帰っている方もいるのですが、その姿を見て「本当に大丈夫なのかし ら・・・・。」とものすごく不安を覚えます。マスコミはこんなに頑張っている人がいると報道するのですが、チェルノブイリの事故を振り返る時、「そんなこ とをしていいのかしら・・・・。」とも思います。 福島では、子どもの甲状腺がんが多発していますし、女性の子宮がんや原発関連で除染作業をしている作業員の方の中には、若年性白内障を患っている人も増えています。 国策で原発を推進してきました。しかし、事故が起きても国も電力会社も責任を取りません。それどころか、2020年までに原発事故の終息を図っています。 この国はやはり間違っていると森友問題も重ねてそう思います。 財務省がなかったと言っていた文書が出てくる。公的文書の改ざんまで行われている。まさに民主主義の根幹を揺るがす国民への背任行為が行われていることに私たちはもっと怒りを表現しなければならないと思います。 公文書がなぜ改ざんされたのか。 誰が、誰の指示で何のためにやったのか。8億円と言う破格の値引きがされた森友学園へ国有地売却は適正だったのか。政治家の関与や官僚の忖度はなかったのかを公の場で明らかにしなければならないと思います。 世の中はこんなに豊かになっているのに若者の死亡原因の1位が自殺だと言う国。この世に生を受けた赤ちゃんが親の手によって殺される国。小学生や中学生 が死ぬことを本気で考える国。政治家が責任をとらない国。文科省が地方の学校の教育内容を検閲する国。自己責任を負わされる国。そんな国に私たちは住んで います。 この国の政治に対する信頼は、決して高くはなかったと思いますが、すでに地に落ちてしまっていると感じています。それでも私たちは政治を諦めてはならないと思うのです。民主主義を取り戻さなければならないと思うのです。 2018 2.6 ぼつぼついこか 今年何度目かの大雪が日本列島を襲っています。昨日は、我が家でも朝起きた時から降り続く雪に見とれていました。 親戚がいる香川県は、温暖なところなのに 膝まで雪に埋もれて立ち尽くす幼子の姿がメールで送られてきて、びっくりです。きっと生まれて初めて見る景色だったのでしょうね。1歳のS君は、まるで山から下りてきた修行僧のように棒を持ったまま立ち尽くしていました。 1月19日に十二指腸にできているポリープを切除する手術を受けました。 一昨年の検査で、そこにポリープができていて「かなり大きいね。」と先生に言われていました。内視鏡を使って多くの人がポリープ切除をしているので、何となく安心しきっていて、1年間そのままにして仕事を続けていました。 でも「病院に行かなければ」という強迫観念はいつもあって、年が明けてから「やはり病院に行こう!」と思い立った次第です。 賀来のK内科胃腸科クリニックのK先生も看護師さんもすごく丁寧で優しい方ばかりなので安心してお任せしました。 眠ったままで内視鏡を使って切除されるので、目が覚めても体に違和感はありませんでした。しかし、ポリープは8センチにもなっていました。1年間で3倍 にも大きくなっていたのです。傷口をチタンでできたクリップで止めてあるそうで「やわらかいものを食べてね。」と言われ帰宅し1日だけ休んで翌日から通常 の仕事をしていました。チタンでできたものが私の体の中にあるということは不思議な気持ちでした。 手術をした4日後に、朝トイレで倒れていました。「ここはどこなんだろう?」と考えるのですがトイレの便器と壁の間の狭いところに落ち込んでいて自力で起き上がることはできませんでした。 たまたまつれあいが出勤する前の時間だったので、病院に連絡してもらいすぐに検査です。 傷口からの出血がひどく、血液検査の結果、ヘモグロビンの値は厳しいものでした。 その日から10日間以上休んでいます。薬が効いているので、出血も止まり、血液の状態も良くなりました。でも、内視鏡手術を甘く見ていたと反省しています。多くの人に「用心しなさい。」と言われていたのにどこかで自分は大丈夫と慢心していのだと思いました。 1月は、新年の会が続き、術後それらにも出席していました。「もう大丈夫だろう。」と勝手に考え、お料理もいただいていました。でも「どうしてこんなに疲れるのかな・・・・。」とも感じていました。ずっと貧血が続いていたのだと思います。 2週間、自宅療養していましたが、何をするのも面倒でずっと横になるばかりでした。仕事はすべてキャンセルし、何人もの方にご迷惑をおかけしました。 やはり健康でなければ何もできないとつくづく感じています。おまけに病院に連れて行ってくれたつれあいが、B型インフルエンザと診断され、我が家はまるで「老老介護」のような有様でした。 この間、病院と薬局に支払った金額は、6万円以上になります。 国民年金生活者だとしたらとても捻出に苦労する金額です。年をとったら病院には行けない!病気になっては大変だ!とも思いました。 テレビに映る「貴の乱」と野党の質問時間を削った国会中継を横目で見ながら臨場感はなく、いつものような感情はわいてきません。 昨夜の名護市長選の結果を見て、来るべきものが来てしまったと眠れませんでした。正直まさかと言う気持ちです。ただ、今回の市長選では「辺野古移設問 題」は勝った方の候補は争点にしていませんでした。あえてそこを避けて名護市の振興を訴えていたと思います。それも基地負担につながる米軍再編交付金をき ちんと政府からもらうことを打ち出していました。敗北した市長さんの時には、移設反対を打ち出していたので、基地負担に係る交付金は払われていませんでし た。 もしかしたら、名護の人たちは、この何年も続く闘争に嫌気がさしているのかもしれません。国と上手く付き合いながら、交付金を受け取り、それを市の活性化につなげるという願いを持っている人も多いのかもしれません。 しかし、市民の方々が公に普天間基地の辺野古移設を認めたいといっている訳ではありません。この結果を持って「民意が示された」と現政権が自分たちのやり方にお墨付きをもらったときっと次の一手を打ってくるでしょうが、それは決して民意ではありません。 安倍一強体制の下で、少しずつ願いと異なる方向に世の中は動いているように思いますが、ここで負けてはならないのだと、ぼんやりした頭で考えています。 2018 1.13 ローマ法王のカード 明けましておめでとうございます! 今年のお正月は、穏やかな天気に恵まれ過ごしやすかったですね。でも、一昨年の地震、昨年の九州北部豪雨や台風18号で被災された方の中には、未だに以 前の生活を取り戻せない方が大勢いらっしゃいます。県内でも仮設住宅、みなし仮設で年を越された方が180名以上いらっしゃるそうです。早期の復旧・復興 に取り組んでいかなければなりません。そして、こんな穏やかな時にこそ、いつ来るかわからない災害への備えについて考えて行かなければならないと思いま す。 しかし、今は、お正月の穏やかさとは真逆の状態です。ここ数日の寒さと言ったら言葉にできないくらいの厳しさです。 一昨日のことです。県民クラブで事務をしてくださっているMさんは、バスで通勤しています。夕方、この寒さの中で帰るのかと思うと自分の事のようにつらくなり「今日送っていくよ。」と声をかけました。 車中で「こんな寒い日にホームレスの人はどこで寝るんだろうか。」「ガスや電気が止められている人はどうやって暖をとるのだろう。」と話し合いました。 ストーブも使えない部屋で一人ぼっちで過ごしている子どもがいないことを祈りました。 お正月の三日の朝、新聞各社が報じた記事の中にローマ法王が、長崎原爆投下の被害者の姿をとらえた1945年の写真をカードに印刷して配布するよう指示を出されたことを知りました。 カードの裏には、法王の要請により「戦争が生み出したもの」と言う言葉が記載されているそうです。 裸足の少年が焼け跡に立っています。痩せていて、頭は丸坊主です。背中に赤ちゃんをおんぶしています。赤ちゃんは少年の体にひもでくくり付けられています。 ※写真をご覧になりたい方は、下記をクリックしてください。 https://www.cnn.co.jp/photo/l/803158.html 私は、この写真の存在を以前から知っていました。でも背中の赤ちゃんがすでに死んでいて、少年はその赤ちゃんを火葬するために順番を待っている写真だっ たとは知りませんでした。だから赤ちゃんの首はずっと後ろに反ったようになっていたのです。写真を撮影したのは、アメリカ軍のカメラマンのジョーオダネル 氏だそうです。「焼き場に立つ少年」の写真を見ながら胸が苦しくなりました。涙が流れました。どんなに悔しく心細く、恐ろしかったことでしょう。僅か10 歳くらいの少年が見た地獄のような光景、明日への絶望を感じたことだろうと想いました。 いろいろ調べてみると、死んだ弟を背負って川辺の焼き場に立っていた少年は、上戸明宏君だということが分かりました。明宏君はお母さんの再婚先の村にやってきました。お母さんに男の子が生まれると、体の弱いお母さんに代って弟の面倒を見ていたそうです。 長崎に原爆が投下されたあの夏の日、明宏君は国民学校が休みだったことから、弟を背負い港近くの浜辺で鰯干しの手伝いをしていました。 そして、11時2分。ぴかっと光る閃光と同時にドーンと言う轟音が響き、目の前が真っ暗になり爆風が二人の小さな体を浜辺にたたきつけたのだそうです。 「焼き場に立つ少年」は泣いていませんでした。直立不動で立っていました。 当時の教育がそんな行動をとらせたのかもしれません。 オダネル氏の記述では、弟が火葬されるときも明宏君は涙を見せず、ただじっと唇をかみしめていたそうです。その唇には血が混じっていたそうです。 今から72年前の出来事です。 私たちが決して忘れてはならない出来事だと思います。 そんな悲惨な状況に日本を近づけようとする勢力の台頭を許すことは絶対にできません。 世界中で紛争は止まることを知りません。キナ臭い話が、毎日のように語られていることに辟易しています。 私たち大人は、子どもたちの未来に責任ある行動をとらなければならないと新しい年を迎えて考えています。 バックナンバーはこちらに移動しました ●2017年7月〜12月 12.29 胸が痛みます 11.26 442号は、みんなで取り組んで 11.5 誇りある青春 10.13 NO MORE VIOLENCE 9.19 2年前の今日「戦争法案」が強行採決されました 8.27 今年の夏は 7.15 災害発生から11日 ●2017年4月・5月・6月 6.21 ひと休みして考えよう 5.27 本当に良いものを食卓に 5.6 6年目のフクシマ ●2017年1月・2月・3月 3.29 なかなか訪れない春 3.4 とっても近い国「台湾」 2.12 災害の大きな爪痕 1.21 健康でいることのありがたさ 1.3 穏やかな年の初めに ●2016年10月・11月・12月 12.12 この痛みはなぜ? 11.5 あらゆる暴力がなくなることを願って 10.18 どうしても許せません ●2016年7月・8月・9月 9.24 厳しい現実 ―台風16号被害― 9.7 行く夏 8.21 なつやすみ 7.26 分断されていく人々のこころ ●2016年4月・5月・6月 6.30 今の平和をわざわざ壊しますか? 6.7 新しい判断 5.6 地震?! 4.9 見えにくい子どもの貧困 ●2016年1月・2月・3月 3.13 あの日から5年 2.23 スローフードと空き家対策 1.31 選ぶことのできない世界 1.15 4本のイヤダ! ●2015年10月・11月・12月 12.23 来年こそ民意を反映させることに努めましょう 11.26 暴力の根絶を 10.25 カレーライスとCLT ●2015年7月・8月・9月 9.23 許せない暴挙を前にして 9.6 北陸への視察 8.6 フロイドの深層心理 7.21 民意の拡がり 7.7 子ども最善の利益とは ●2015年4月・5月・6月 6.8 あきれている。でもあきらめない。 5.14 不条理の中で 4.1 みんなに春が来ますように ●2015年1月・2月・3月 3.5 控訴に憤りを覚えます 2.14 鬼は出て行ったかしら? 1.16 T先生を偲んで 1.6 猛吹雪の中で ●2014年10月・11月・12月 12.17 現実を受け止め、諦めない 11.19 民意と政権のねじれの中で 10.29 子どもって 10.6 教えるとは、希望を語ること 学ぶとは、誠実を胸に刻むこと ●2014年7月・8月・9月 9.16 二人三脚でやっていくしかないかな 8.9 福島の子どもたちと過ごした1週間 7.14「えば」のようにしぶとく行きましょう! ●2014年4月・5月・6月 6.27 「ゆふわく」のご案内とご寄付のお願い 6.13 なくならない痛み 5.30 またやってしまった! 5.7 震災からもう3年、まだ3年 4.2 母がいなくなって ●2014年1月・2月・3月 3.3 スリランカに行ってきました。2.1 想像力と思いやりのない人は・・・・1.13 介護の行方は・・・・・ ●2013年10月・11月・12月 12/28 静かな年の瀬に12/18 お気に入りのホテル12/7 久しぶりの別府11/14 結婚式11/5 秋の三連休10/19 どんな秋が来るのかな・・・ ●2013年7月・8月・9月 9/28 施設への入所9/10 いつの間にか夏が行ってしまいます。8/17 お父さん、ありがとうございました。8/2 福島の子どもたちと過ごした5日間7/15 ただ今、奮闘しています! ●2013年4月・5月・6月 6/11 福島の子どもたち保養プログラムにご協力を5/7 「風化しないことを願う」と言われた日4/18 佐高 信(さたか まこと)がおもしろい4/7 来年の還暦までどうしよう!? ●2013年1月・2月・3月 3/16 ありがとうRUPO2/16 諦めない1/31 左に偏っている?1/10 今年の運は・・・ ●2012年10月・11月・12月 12/27 吉田ばあちゃん12/10 教育公務員のあり方は・・・・11/26 地方自治に必要なこととは・・・11/15 水素水にはまっています。11/4 思いのある人、熱く語る10/9 いろんなことがあった1週間 ●2012年7月・8月・9月 9/27 校歌が歌えた!9/4 夏が終わっていきます。8/19 再び東北へ8/6 暑さの中で7/22 もしも・・・はありえない7/10 デンマークの報告E ●2012年5月・6月 6/22 東北に行ってきました6/9 デンマークの報告D5/28 デンマークの報告C ●2012年4月・5月 5/20 デンマークの報告B5/12 デンマークの報告A5/6 デンマークの報告@4/25 無事に帰ってきました。4/11 春の光の中で ●2012年1月・2月・3月 3/31 議会終了3/8 あの日から一年2/21 もうじき春が来る2/2 こんなままではいけない。1/19 圧巻だった熊谷守一展1/10 あけましておめでとうございます。 ●2011年10月・11月・12月 12/29 感謝12/10 師走に突入11/25 ほっとしたこと、楽しかったこと11/16 カーネーションがおもしろい10/27 「チェルノブイリ・ハート」を観てください10/16 気になること ●2011年7月・8月・9月 9/19 今年の夏は8/17 片山さんありがとうございます。7/31 夏、真っ盛りです。7/3 元気をもらいました ●2011年4月・5月・6月 6/14 「マルモのおきて」がおもしろい5/22 初めての大役に・・・4/29 闘い終わって・・・ ●2011年1月・2月・3月 3/21 人と人が支え合って2/27 あの美しかったクライストチャーチが2/9 鳥インフルエンザ1/24 いつもと違う世界にドギマギ、でも癒されて1/7 今年の幕開け ●2010年10月・11月・12月 12/27 様々な出会い12/2 美恵さんのお芋11/14 30回目の車いすマラソン10/30 姪の結婚10/2 インフルエンザ! ●2010年7月・8月・9月 9/20 ここにもあった私の原点9/2 まだまだ暑い日が続いています。8/6 平和を願う日に出会ったメロンパンの少女7/13 吉田忠智さんと言う人 ●2010年4月・5月・6月 6/13 カツオのたたきがない!5/27 牛を食べるということ5/9 ゴールデンウィークに感じたこと。4/23 セブ島4/1 気がつけば春 ●2010年1月・2月・3月 3/4 別れ2/19 Tさんお世話になりました。2/1 先輩に励まされて1/16 油断大敵1/4 若者たちに魅せられて ●2009年11月・12月 12/22 年の瀬に 人生は一期一会と 想い出し12/2 ナショナル・ミニマムの水準を下げないで11/13 朝、一便に乗るためには・・・ ●2009年10月 10/28 欧州旅行記C10/16 欧州旅行報告記B10/8 欧州旅行報告記A ●2009年7月・8月・9月 9/21 欧州旅行報告記 @8/10 暑中お見舞い申し上げます。7/19 野菜を求めての旅 ●2009年4月・5月・6月 6/27 ちょっといい話6/16 ひとり一揆を始めた人がいます5/26 ぺちゃんこな心がふくらんだ打田十紀夫ライブ5/17 「九州ヘラルド」が思い出させてくれたこと5/6 風薫る季節の中で4/4 私が生まれた日 ●2009年1月・2月・3月 3/26 どうしても賛成できませんでした3/9 現場に宿る神様2/12 こわしたくないもの1/30 つかの間の休日に1/8 厳しい幕開けの中でもほっとする瞬間 ●2008年10月・11月・12月 12/23 年の終わりに12/1 “ご縁”があって つながって11/3 小さな運動会10/21 感動をありがとう ●2008年7月・8月・9月 9/9 上海、北京、ロンドン、 でも私の体は帯状疱疹8/2 ばあちゃんたちの「葉っぱビジネス」はものすごい!7/11 お伝えします「大分県教員採用試験贈収賄事件」 ●2008年4月・5月・6月 6/22 初めての経験に四苦八苦5/28 雨の体育祭と中学生の涙5/15 ただいま病気と付き合っていく方法、模索中4/10 さくらの蜂蜜と救われたいのち ●2008年1月・2月・3月 3/16 いつまでも見守りたい子どもたち2/10 魔法の一言1/14 子どもたちを見つめながら春を待ちます ●2007年10月・11月・12月 12/21 静かな時間(とき)もいいものです 12/1 秋は来たのかしら 11/3 20回目のお誕生日おめでとう 10/22 「いぶりがっこ」と「きりたんぽ」の秋田へ ●2007年7月・8月・9月 9/23 大事なものを忘れないで 8/22 不器用に、でも誠実に 8/6 「いのちが一番」いつまでも 7/5 「見事な蘭」を見て、「いのち」を考えます ●2007年4月・5月・6月 6/20 もっと怒ってもいいですよね! 5/22 とても大切な「頭の片隅」 5/5 「母というものは」 4/24 庭の花に癒されて ●2007年1月・2月・3月 3/20 出会いと別れ、新しい旅立ち 2/13 夕餉(ゆうげ)に豆乳を飲みながら 1/31 家族葬にして良かったですか 1/6 静かな年の始まりです ●2006年10月・11月・12月 12/19 甘いおこわと教育基本法 11/26 子どもたちが私のエネルギー 10/30 やりました!団地の「竹宵まつり」 10/8 団地サイズの竹宵をします! ●2006年7月・8月・9月 9/18 無くしてからは遅いのです 9/7 やっと「吉永小百合朗読会」に行ったよ! 8/11 「言葉で勝負!」できたか不安? 7/18 「富山型デイサービス」と「犬山プラン」 ●2006年4月・5月・6月 6/26 自分の目で見て、自分の頭で考えて 5/8 結婚記念日の憲法記念日にこだわっています 4/9 元気もらった、拓郎コンサート! ●2006年1月・2月・3月 3/31 まだ見ぬあしながおじさん 3/7 ときめき「15才の春」 2/23 あきらめきれない数珠の紛失 2/2 悩み続ける「私の子どもたち」 1/5 四苦八苦純子、今年も頑張ります! ●2005年10月・11月・12月 12/27 新しい年こそ「愛の年に」 11/27 「木の香りの家」に癒されて 11/4 失敗、失敗、ドジな私 10/2 そっと、教師や議員から離れてみた夜 ●2005年7月・8月・9月 9/12 私たちに問われているものは? 8/10 永六輔さんが読む“反戦の詩” 7/23 人工林と流木と鉄砲水 ●2005年4月・5月・6月 6/12 住みよい街は自分たちでつくりたい! 5/14 夜道で出会ったものは… 5/6 反日渦中の上海を訪ねる 4/15 政治が民衆を分断している ●2005年1月・2月・3月 3/31 県議会・県警・子どものまわりは花曇り 3/18 レッテル、はる人、はがす人。 2/22 それでもクロッカスは咲いてくれました 〜大分市議選を終えて 1/17 「高校再編」の民意はどこに? 1/1 2005年「命」を考える ●2004年10月・11月・12月 12/2 何故もめる?議員定数問題1 11/29 初めての海外視察 ニュージーランド・オーストラリア 10/25 子ども達は輝いています ●2004年7月・8月・9月 9/24 ゆらいでいる、気候も人の心も 8/24 それぞれの夏〜イラク・アテネ・そして私 8/2 「子どもの未来・障害者の生きがい」を訪ねて 7/20 帯状疱疹快方へ、でもつれあいは熱中症! ●2004年4月・5月・6月 6/30 退院しました!〜県立病院の勤務実態観察記 6/17 帯状疱疹と闘っています 5/31 どげぇなっちょんの? 5/6 つかの間のひとりごと 4/12 私の甥っ子たちの春は… ●2004年1月・2月・3月 3/26 子どもたちは守られていますか? 3/3 幸せな2日目の休みの日に 2/12 心やさしきチャンピオンたち 1/18 雪の下の小さな花たち 1/6 子ども達が大切にされる世の中に ●2003年12月・11月・10月 12/1 視察報告「少しずつ、見えなかったものが見えてくる」 11/17 議会を家庭で傍聴できたらいいな! 10/26 「教育」はだれのもの? 10/4 びっくり視察報告記「ごみもいのちもリサイクル」 ●2003年9月・8月・7月 9/28 励まされています 8/10 風化させてはならない記憶 7/23 やっと夏が来た ●2003年6月・5月・4月 6/22 お葬式と福祉と青リンゴ 6/08 初めての視察 5/19 辺見庸さん 5/07 健ちゃんのこと 4/18 ありがとう、ありがとう、ありがとうございます ●2003年3月・2月・1月 3/28 愚かな戦争に反対します 3/22 “食育”に取り組んでみたい 2/07 ただただ感謝の日々 1/27 二人のおひな様 1/13 ゴミの出し方とカラスの生き方 1/15 新しい年、新しい生命の重みを受けとめて ●2002年12月・11月 12/13 ロウバイが咲いた! 12/04 穴子丼(あなごどん) 12/02 ALS患者郵便投票訴訟 11/24 世界に目を向ける子どもに 11/22 Tさん 11/15 アッタマにきたぞ! 11/13 働く女性の実態 11/4 桜
3.5 控訴に憤りを覚えます 2.14 鬼は出て行ったかしら? 1.16 T先生を偲んで 1.6 猛吹雪の中で