2003.3.28「愚かな戦争に反対します」
20日の夜、小学2年生の子どもからメッセージが届きました。「せんそうは、いやです。ぼくは、早くせんそうをやめてもらいたいです。」と書いてありました。
いじめは絶対に許さない。声の大きい人や腕力の強い人を台頭させない。誰もが認められ、物が言えることが大切なんだと私たちは子どもたちと話し合い、そんな学級づくりをしてきました。この戦争を子どもたちにどう説明すればいいのか私にはわかりません。
忙しさの中で、テレビのニュースも見ず、新聞もゆっくり読むことをしてこなかった時を振り返り、焦りを覚えました。今できることは何かと考え、「米英のイラク攻撃反対集会」に参加しました。大手公園に集まっている人の少なさに驚き、私は後ろを振り向くことができませんでした。戦争からは何も生まれない。戦争はすべてを破壊する愚かな行為だと被爆国である私たちが一番よく知っているのに、世界中で反戦デモがうねりをあげているのに、いつから私たちは物言わぬ国民にされてきたのかと憤りを覚えます。友人は腹を立て、自作のブラカードを持って街の中を歩きました。
独裁者は嫌いです。テロ行為も憎みます。しかし、民族を解放するためと世界を守るためにとうそぶき、大国が力でもって逃げ場のない人々をねじ伏せようとすることを絶対に許すことはできません。そして何より腹立たしいのは、日米安保の重要性だけを前面に出し、「同盟国でありたい」と強調して繰り返す小泉首相の答弁です。アメリカの言うことなら何でも支持する。「そんなことは勇気でも友情でもない!」「今までどんな外交をやってきたんだ」とどなりたい気分です。政府はイラク復興支援に数百億円負担する。そんな貢献をするのではなく戦争をやめさせる努力をすべきです。
米英軍がナジャフ近郊に迫ったとか、バラスで戦闘が続いているとか、ミサイルが大統領宮殿に命中したとか、イラク兵が一万人投降したとか、そんなニュースは聞きたくはない。
テレビに映し出される戦火の下で物言えぬ子どもたちが犠牲になっている。傷つきベッドに横たわる姿を世界中の人々にどんな気持ちで見ているのでしょう。湾岸戦争で使われた劣化ウランはバグダット周辺の土壌を汚し、子どもたちにさまざまな病気が出ています。それだと言うのにまだミサイルを撃ち込み続けるのでしょうか。
今からでも遅くない、こんな愚かな悪夢を一刻も早く終わらせましょう。
2003.3.22「“食育”に取り組んでみたい」
日本は、長寿国と言われています。特に沖縄には元気な老人が大勢いらっしゃいます。
ある大学の先生が沖縄のおばあちゃんたちの尿の検査をしたそうです。するとその中にはアミノ酸とイソフラボンがぎっしり入っていて、そのことは将来、がんや脳卒中や心臓病にかからないという予知ができるということでした。沖縄のおばあちゃんたちは海で獲れた新鮮な魚や自分で育てた野菜や豆をしっかり食べているからだそうです。
それと同じことを大阪のある女子大の生徒にしたそうです。すると彼女たちの尿にはアミノ酸もイソフラボンもほとんど入っていなかったということです。将来、がんや脳卒中や心臓病にかかることが予想されたということでした。自分の食生活はどうかしらと振り返った時、不安をおぼえました。
今は予知・予防の時代だと言われています。大人が子どもの口に入れる物、子どもの体をつくる物をしっかり学び、伝えていかなければならないと考えています。
私はスーパーに行って中国産のにんにくや韓国産のパプリカやカリフォルニア産のブロッコリーがたとえ安くても買うことができません。何がかけられているかわからないし、どんな土壌で作られたかわからないからです。
縁があって無農薬の野菜と卵と豆腐を宅配してもらっています。今の時期はキュウリもナスもありません。ブロッコリーの芯は大人の親指くらいの大きさですし、タマネギもスーパーで売られてる物の4分の1くらいの大きさでしかありません。良い機会だと思いブロッコリーの実験をやってみました。無農薬のブロッコリーとスーパーで求めたそれを同時に冷蔵庫に入れておきました。2日たつと無農薬のブロッコリーは周辺が茶色に変色し、一週間たつと枯れてしまいました。スーパーのブロッコリーは少しなよなよとしましたが、ゆでればまだ十分サラダに使えそうでした。
消費者が安心して食べることができる農作物をしっかり求めてゆけば、農家の人も安全な作物を作ることができるのではないでしょうか。作っている人と消費する人のお互いの顔が見え、信頼で流通するシステムをつくることができればと考えています。
2003.3.4「感謝と“闘い”」
市内に7つの後援会事務所があります。いつ行っても忙しい仕事の手を止めて温かく迎えてくれます。そして、出掛けるときは「いってらっしゃい」と元気よく送り出してくれます。遅くまで会議をし、朝仕事に行くことはどんなに辛いことだろうと胸が痛みます。そして誰もが私を特別な存在としてではなく仲間として扱ってくれることが何よりうれしいことです。
支援してくれる仲間が増えました。3月1日、2日と新しい仲間が城南、荏隈、賀来をつれて回ってくださいました。1日は天気予報が的中し朝からひどい雨でした。カサもささず真っ先に車から降りベルを鳴らしてくれます。もう背広も靴もびしょぬれなのに、いやな顔一つせず完璧なナビゲーションをしてくれます。2日目は7時間ぶっ通しであいさつ回りでした。夜8時を過ぎて、私はアパートの廊下でよろけました。階段を踏みはずしそうになりました。私ですらこんなに精神的にも肉体的にもつらいのに…。私のために共に行動して下さっている人々に何とお礼を言えばよいのか、感謝の言葉が見つからないほどの感動を覚えました。
9年前に知り合った人がいます。退職してすぐに挨拶に行ったときに「宗教の関係でできないのよ」とはじめて教えてくれました。“闘うこと”だからだそうです。
政治活動のときに“闘う”という言葉を良く使います。私も正直なところ“闘う”という言葉に少なからず抵抗がありました。何と闘っているのか。このことをずっと考えてきました。そして思うのです。これは、自分自身との闘いなのだと。私の不安や孤独やイライラやわがままとの闘いなのだと考えています。だから私は、この闘いに負けてはならないのだと自分に言い聞かせています。
2003.2.7「ただただ感謝の日々」
感謝する毎日です。
あいさつ回りが続いています。企業であいさつ、集会であいさつ、会合であいさつ。1日に5回もある日は、自分の中で新鮮さが無くならないようにと心の中で言い聞かせています。
今週からミニ集会が本格的に始まりました。各校区の応援してくださる皆さんが、自宅や公民館にご近所の方を誘って来てくださいます。人を集めるということがどれほど大変なことであるかをわかっているだけに感謝の気持ちでいっぱいになります。
私は申し訳ないと思うと顔に出るらしく、眉間に縦じわが入り、眉は八の字になってしまうそうです。その顔は何だかなさけない顔らしく、「すみませんではなく、ありがとうございました、です」「その顔だけはしないこと!」、と強く要望されているにもかかわらず、ついなさけない顔になってしまいます。
日曜日に団地の中を車で横切っていると、同じ団地に住む仲間が夫婦して活動している姿を見かけました。感謝です。申し訳ない。
臼杵から大分に通っている仲間は、休みの日にも子どもを車に乗せて稙田の事務所に行動に来てくれています。先日は自分で焼いたパンと手紙を添えて届けてくれました。そのパンをほおばりながら、手作りの固さをかみしめ、涙がにじんできます。
各事務所では、1日の休みも取らず仕事をする役員の仲間たち、眠る時間も休息する時間も家族と共に過ごす時間も削り、仕事をしてくれています。仕事と家事と育児をやりくりし、校区を支えてくれている仲間たち。そして賀来にいらっしゃる元市議の方は「賀来から革新の県議を」と連日事務所に詰め、OBの方々に働きかけてくれています。
これ以上幸せなことはない状況に置いていただきながらも「ありがとうございます」の前に「すみません」が出てしまう私は、いまだ未熟なのだと思います。
多くの先輩に教えられ、仲間に支えられ、感謝する毎日を送っています。
2003.1.27「二人のおひな様」
平岩純子に協力して下さるお宅へのあいさつ回りが続いています。1月末になると玄関のくつ箱の上などに小さなおだいり様とおひな様が飾られる家が多くなりました。そうなんだ、もうおひな様を出す時期なんだな、と気づかされます。
我が家には三種類のおひな様があります。一つは結婚して間がない頃、つれあいが博多に遊びに行った際にお土産に買ってきた博多人形です。立ちびなで簡単な物ですが、若い頃の思い出が詰まっていて捨てられません。二つ目は保護者の人にいただいたうさぎのおひな様です。ちょうどうさぎ年に家を建てたので、教え子のお母さん方が「おひな様はいくつあってもいいのよ」と持って来て下さいました。友禅の着物、中に愛らしいうさぎの顔がおさまっています。桐の底板やびょうぶやぼんぼり等もついていてちょっぴり見栄えがします。
女の子ができたらおひな様を買えると願っていたのに結局買えずじまいでした。若い頃、女の子を産んだ友だちの家に飾られているおひな様がうらやましくて、ひな段の人形の位置をわざと変えたりしたものです。
それで家を建てた時に奮発して木目込みの二人びなを求めました。これが三つ目のおひな様です。磨太呂の作で扱いにはとても気を使います。1月から4月まで我が家の床の間に鎮座して私たちの生き方を見つめています。
おひな様のことばかり考えてあいさつ回りをしていた日に思いもかけず教え子に二人出会えました。まつ毛が長く鼻筋の通った美しい央佳さんと正義感が強く心優しい祐一さんです。二人とも中学2年生になっています。子どものない私にとって教え子は我が子のようなものです。二人のおひな様に出会えたことに感謝し、一週間の疲れも忘れてしまいました。
家に帰ると居間にうさぎのおひな様が飾られていました。よく気のつくつれあいにも素直に感謝した夜です。
2003.1.13「ゴミの出し方とカラスの生き方」
月曜日と木曜の朝のゴミ出しは、共働きの時からつれあいがしていました。でも近所でこんな声が聞かれたと知らせてくれる人がいました。「あそこの奥さん、学校をやめたんでしょ。まだご主人がゴミを出しているわよ」と。その話を聞いてつれあいは「21世紀にもなってまだそんなことを言う人がいるのか?」と私を気遣ってくれます。私も悲しくなりましたが、政治活動を始めたばかり、「こんな時期だからがまんして」と今は私がゴミを出しています。
ゴミ出しの最大のポイントは、いかにカラスにねらわれないか、ということです。私の家は、80リットル用の大袋ですが、入れた後、ビニールの内側を新聞紙で中身が見えないように隠します。時々うまく隠せずに出している人のゴミは中味が発見されるやいなやカラスのえじきにされ、見るも無残な状況になってしまいます。カラスも食べる物が無くなり、里に来ているんだなあと思いながらもいまいましく感じていました。
あるお寺さんにお伺いした時、玄関外に犬小屋があり、その横にカゴに入れられた大きな黒い鳥がいました。「まさか、カラスですか?」とたずねると正真正銘のカラスでした。傷ついているところを助け、家で介抱したそうです。傷はよくなり、もう飛んで行ってもいいのに決して飛ばないそうです。「犬と暮らしているので、自分は犬だと思っているみたいなんですよ。寝る時も犬小屋の中で一緒に眠るんですよ」と教えてくれましたが、聞いた私の方がびっくり。「ちなみにえさは?」とたずねると、「ドックフードです」と答えてくれました。
ゴミをあさりながら、自由に大空を飛ぶカラスとドックフードを与えられながら飛ばないカラスと一体どちらが幸せなんだろうと時々思い出しています。
2003.1.5「新しい年、新しい生命の重みを受けとめて」
2003年新しい年が明けました。
と言っても、あっという間におおみそかもお正月も過ぎていきました。
新年のご挨拶に伺い、玄関先に立つと、おじいちゃん、おばあちゃん、時にはお父さんやお母さんの後ろから小さな子がついて出て来てくれることがあります。家の人がお辞儀をされると必ずと言ってよいほど、その小さい子も頭をペコンと下げてお辞儀をまねています。そんな時は、大人の顔よりもつい子どもさんの方に目がいき、失礼をしそうになります。家庭に愛され、すくすくと育っている子を見て、私の顔もほころんでしまいます。
11月に親せきの家に初孫が誕生しました。年始にあいさつに伺った時、奥で泣き声が聞こえました。気づいた時は居間に座り、生後2ヶ月の赤ちゃんを抱いていました。
なんてかわいいんだろう。なんて愛らしいんだろう。私もこんな赤ちゃんを抱くことができていたら、こんな宝物が家にいたらどんなに幸せだったことだろう。そう思わずにはいられません。しばらくたつと赤ちゃんの重さがずっしりと両腕にかかってきました。ちょっとだけ揺すっている間に安心したのかぐっすりと眠っています。
この子たちのためにがんばろう。「この子たちが安心して、のびのびと暮らしていくことができる社会をめざして、私はがんばらなければ」、そう自分に言い聞かせ、いつまでも赤ちゃんの寝顔を眺めていました。
|