ときどき日記


2014.9.16 二人三脚でやっていくしかないかな
 
 雨の多かった夏から、季節は、秋へと移行しています。
 見上げればいわし雲。
窓を開けていると、朝、夕は肌寒さを感じてしまいます。
 
 昨日は、団地の敬老会が行われました。
 招待される70歳以上の方は、200名くらいいらっしゃるのですが、実際に公民館に来られる方は、毎年60名〜70名くらいです。
 みんなで揃って記念写真を撮り、祝辞とささやかな祝宴が催されます。わが団地の高齢化率は、40パーセントを優に超えているのですが、ものすごく元気な お年寄りが多く、団地のけん引力になってくれています。いつもお会いする方、久しぶりにお会いする方と様々ですが、入院されていた方が、退院されて出席さ れている姿は、何より尊く、嬉しいものです。
 私は、義父と実母を失い、親と言われる人がいなくなってしまい、寂しさを禁じえませんが、団地のお年寄りの方には、自分のためだけではなく、家族のためにもお元気でいてほしいとお話しさせていただきました。
 
 昨年、59歳になった時に「来年の還暦はどうしよう?」と思いました。
両親の還暦の時には、食事会を開き、赤いものをプレゼントしたのですが、子どものいない我が家は、「自分で祝うしかないぞ!」と何となく考えていました。 そもそも60歳になることを嬉しく思っていないのですから「お祝いする必要ないよね?」とつれあいと話していました。「俺は、赤なんかいらんぞ!」と言う 始末で、早くこの1年が過ぎてくれれば・・・。と静かに願っていました。
 
 けれども、佐伯の甥っ子と姪っ子が還暦を祝う会を開いてくれました。まったくのサプライズです。
 姪が6月に赤ちゃんを産んで、里帰りしていました。もう大阪に帰らなければいけない時に、お婿さんが迎えに来て、みんなが集まれるその日を選んで計画してくれていました。



 佐伯の兄夫婦、甥っ子姪っ子のつれあいたちとその子どもたち。記念に撮った写真を眺めていると、みんなそれぞれ血のつながりがあるのですが、わたしだけはありません。でもこれが私の家族です。
結婚して33年、佐伯に帰省した時に嫌な思いをしたことは一度もありませんでした。義父と義母は誰にでも平等に接する、そして謙虚な人でした。うちの家系 のようにすぐにかっとなり、後になって反省して落ち込んでしまうようなことはまったくありません。そんな佐伯の両親に育てられた心穏やかな優しい人たちと 巡り合えたことが、私の財産だと思いました。お祝いにパーカーのペンをもらいました。イニシャル入りです。一生の宝物です。でも、この年になると何だか気 恥ずかしくて照れくさくて、結婚式以来の晴れがましい時間が過ぎて行きました。
 
 私たち夫婦は、19歳の時に知り合いました。もう41年のつきあいになります。親と一緒に過ごした期間をとうの昔に超えていました。
 よくぞ、ここまで長続きしたものだと自分でも感心しています。
 血液型で言うと叱られるかもしれませんが、お互いにB型です。「四角い部屋を丸くはく」と母に言われ続けたB型です。
 休みの日に一緒に家にいても、お互いに干渉しません。それぞれに好きなことをしています。そんな夫婦ですが、ここ数年、仕事優先で、忙しすぎて、売り言 葉に買い言葉のようなことが度々起こりました。思いやりの言葉から離れていたような気がします。60歳になったのだから、いたわりの気持ちを持って、二人 三脚でこれから行くしかないなと感じています。
 その昔、還暦の人、60歳の人は、ものすごく成熟した大人に見えました。自分がその年になってみると、あまりに幼稚な気がしてなりません。
これからまだまだいろいろなことが起こるでしょうが、二人して乗り越えていかなければならないと心静かに思っています。
 

2014 8.30 四国へは船旅で
 
 8月に入って、雨ばかり。ゲリラ豪雨は広島や北海道に大変な被害をもたらしていて、やりきれない思いです。
 山のふもとに安心して一生の買い物をした方たちが、一瞬のうちにすべてを失ってしまうということはどういうことなのか・・・・。と考えます。
 地球温暖化の影響でしょうか。アメリカでは、干ばつで森林火災が広がり、日本のサンマは水揚げが少ないとか。サンマもカツオと同じように温かい海水の影響で、北上しているのでしょうか。
 
 夏休みもあと2日。日田の方では、今週から2学期が始まっているようです。
子どもたちは、今、どんな気持ちで過ごしているのでしょうか。うんと遊び、うんと体験して心と体が少しずつ逞しくなっていると良いですね。
 
 朝、夕だけ、風が涼しく感じられるようになってきました。でも、日中の暑さは半端ではありません。我が家は、大分市の西のはずれにあり、緑の多い場所な のですが、春に生まれたうぐいすがようやく上手に鳴くようになってきました。それにミーンミーンと蝉の鳴き声も重なります。これから虫の音が加わると、春 と夏と秋の三重奏になりそうです。そんなことは起こりえないでしょうが。
 
 お盆が終わってすぐに県外調査に出かけました。
1   大分県と愛媛県を結ぶフェリー航路の現状
2   東九州自動車道開通を見据えた誘客への取り組み
です。
 
 8月18日朝、別府港から宇和島運輸のフェリー「あかつき丸」に乗船しました。9時15分に出航して八幡浜に12時30分に着きます。愛媛県庁でお話を伺い、帰りは、翌日の12時45分発 九四オレンジフェリーを利用しました。
 乗船する自動車は、愛媛ナンバーが最も多いのですが、九州ナンバー、そして四国・関西ナンバーさらに関東ナンバーの車もありました。
 四国と大分の間を3時間で行き来できました。
 
 宇和島運輸は、創業130年。高速道路の割引がフェリーに打撃を与えていましたが、割引変更により徐々に回復しています。東九州自動車道の開通により観 光客や物流のトラック輸送を期待しています。トラックは、コスト的に言うと陸上の方が安くつくのだそうですが、フェリーには運転手さん専用の仮眠室があり ます。お風呂もついていますので、労働安全の面からはこちらの方が恵まれています。大分・大阪間では、時間はフェリーの方が短く、距離も300キロメート ル短縮されるようです。車いすの人は、2階から直接自家用車から階段を使わず乗船、下船ができます。もちろんエスカレーターもついています。
 九四オレンジフェリーは、大分の臼杵と八幡浜を結ぶ航路です。2隻で1日7往復しています。
 豊予海峡には、関西汽船・宿毛フェリー・国道九四を含め、1日に39便が行きかう状況ですが、一番の悩みは、燃油の高騰です。船の油はC重油という一番 安いものを使っています。通常は固まっているのでこれを温めて使います。1リットル当たり75円。安い時は、1リットル20円の時代もあったそうですか ら、経営は大変な様子です。1日大体、一船に15キログラム必要になります。離島航路に対する国の助成はありますが、フェリーに対する助成はありません。
 両船とも、乗用車だけなら130台から150台乗せることができます。ゴールデンウィークや盆、正月には満員で、お断りすることもあるようですが、平日 は、さほど混んではいません。旅行会社やホテルとタイアップして観光客への誘致に力を入れています。今後、東九州自動車道開通に大きな期待を寄せていま す。
 
 船の寿命は長くて20年だそうです。古くなった船は東南アジアの国々に売られていきます。インドネシアが多いようです。
 
 どちらの会社も船員不足で採用に苦労されているようです。津久見の海洋科学高校からも年に10名くらい就職していた時期もありますが、学科の関係で新卒が減り、少子化の影響は、農業、林業だけではなく、この職場にも大きく影を落としていることを知りました。
 操舵室に入れていただきました。舵を切っている船員さんも双眼鏡で見張りをしている船員さんも若い方でした。関アジ関サバを採っている漁船団が見えました。
 



 
 四国と九州は海を隔てて隣同士です。私は、以前神戸に行く際に、岡山まで新幹線で行き、そこからレンタカーを借りて香川に入り、徳島で一泊して、淡路島 を通って大阪に抜けたことがあります。帰りは、レンタカーを神戸で返して新幹線を利用しましたが、別府か臼杵からフェリーに乗り、四国を経由して関西に行 く方法をどうして思いつかなかったのかしらと振り返っています。
 佐賀関と愛媛県の三崎を結ぶフェリーはわずか70分です。豊予海峡にトンネルを掘るか橋を架けるかが、両町の長い間の悲願でした。しかし、ここ10年間 はその話はありませんでしたが、また話題になっています。もし、トンネルや橋を架けるとしたら、2兆円かかるそうです。費用は莫大なものですから、すぐに 実現するものではないと思いますが、船会社にしてみると死活問題となります。
 
 働く人にとって、生活する人にとって、抱える課題の相違を感じます。ただ今いえることは、「四国に行きましょう!」「フェリーの旅も快適でいいものですよ!」と自信をもって言えます。
 
 7月に、福島の子どもたちを湯布院に連れてくるときも、サンフラワーを使いました。
あれは、さらに大きな船でしたが、船旅の良さは、ひとたび乗ってしまうと、ゆったりとした中で時間が過ぎていくことです。時速37キロメートルくらいだそ うです。新しいフェリーには「女性専用室」が設けられていて、気兼ねなく横になれますし、船の揺れに身を任せて、眠ることの心地よさを感じることができま す。出航時には、ドラが鳴り、蛍の光が流れ、船旅の情緒を演出してくれます。だんだん離れていく大阪の街。そして翌朝には、少しずつ近づいてくる湯の街別 府、扇山の稜線は美しいものでした。
 
 今年の夏もいろいろなことがありました。
9月2日から第3回定例県議会が始まります。かなりの修羅場を予想していますが、負けないで臨みたいと自分に言い聞かせています。


2014.8.9 福島の子どもたちと過ごした1週間

 また、大型の台風がやってきています。大きな被害が出ないと良いのですが。帰省の時期に重なると大変です。

 我が家は、義父と実母の初盆です。お寺さんのお参りは、先に済ませていただき、お参りに来られる方は1か所の方が良いだろう。私たちも体は一つしかない ので。と考え、我が家で行うことにしました。初盆を迎えるのは、3回目です。少し慣れてきたもののかなり忙しくハードですが、連係プレーで臨んでいます。 2つ並べた遺影を見ながら「夫婦でもないのにごめんなさい。」と謝ります。二人とも優しい人だったので「しょうがないね。いいよ。あんたたちの一番いいよ うにしなさい。」と言ってくれている気がします。


 福島の子どもたちを湯布院に招いての保養プログラム「ゆふわく」4回目を実施しました。

私は、今年の事務局長です。定例議会が終了してから俄かに慌ただしくなりました。
文教委員会の県外調査にも参加せず、非難されましたが、福島の保護者の方から毎日連絡が入り、湯布院へ打ち合わせに出かける日が多く、大分を離れることはどうしてもできませんでした。



 7月24日に飛行機と新幹線を乗り継いで郡山までお迎えに行きました。

 今年の参加者は、子ども22名、保護者4名です。イレギュラーなことに3歳2か月の女の子や17歳の高校3年生も含まれています。

 親御さんとは、何度も電話でやり取りしていましたが、子どもたちと会うのは初めてです。詳細事項を記入した名簿を作成しましたが「どんな子なんだろう?」とまるで新学期の学級開きを待つ担任のような気分でした。



 郡山駅の新幹線中央口前が集合場所です。県庁所在地の福島市といわき市からみんなは、バスや列車や親御さんに送ってもらってやってきます。

 学童保育の「ピーターパン」から毎年10名近くの子どもたちがやってきます。上級生が「ゆふわく」に参加して帰ってくると「次は、ぼくたちの番だ!」と1年間期待してきた子どもたちもいます。



 初めての新幹線、初めてのフェリーに緊張感が高まる子どもたちでしたが、22時間の長旅を騒ぎもせず、疲れたとも言わず友達と支え合いながら無事に別府港に着くことができました。出迎えのスタッフの顔を見た時は、私は感激して泣きそうでした。






 貸し切りバスに乗り込んで湯布院に向けて出発。高速も210号も使わず、やまなみを通りました。途中「壮大な緑の草原を見せたい!」と実行委員会の願い で長者原まで足を延ばしました。後から、子どもたちに「どうだった?」と聞いてみたところ「草ばっかりだった。」との返答。笑ってしまいます。

私は、お迎えで疲れているだろうとの配慮から、一旦家に帰りました。いつも団地祭りと火群まつりが重なってしまい、湯布院の土曜夜市の様子がビデオでしかわかりません。



翌日は、「ゆふわく」メインの滝遊びです。湯布院から宇佐市に入ってすぐのところに「福貴野の滝」があります。かなり狭い道を車で走り、駐車場から10分 くらい細いくねくねした道を歩いてやっとたどり着ける場所です。ときどきカップルが来るくらいでかなりの穴場です。滝の落差は63メートル。滝壺で泳ぐこ とができます。

残念なことに朝から雨が降っていました。何とか雨が止むようにと祈ります。最も危険を伴う行事なので、その日のスタッフは屈強な若者も含めて30名近く集 まっています。みんな仕事の段取りをつけて来ていただいているので、翌日という訳にはいきません。安全プログラムを受け、午後に予定していた駒づくりを先 にしました。

幸運にも雨はやみ、「滝遊びだー!」と出発。ライフジャケットをつけ、スタッフが引いてくれたロープを伝わりながら、かなりのアドベンチャー。ボートを漕 いだり、箱眼鏡で魚を見つけたりと山の中に歓声が響き渡りました。そのあとは、スイカ割り。「違う、右!右!」「行き過ぎた!」と友達の声援の中、大きな スイカを4つ割りました。

福島の学校のプールは再開しているようですが、子どもたちは海で泳ぐことも滝で遊ぶこともできません。






絵手紙教室、湯布院探索、湯布院小学校学童クラブとの交流、辻馬車、バトミントン、ようよう釣り、水鉄砲、花火、お別れ会、お寺の鐘つき、高崎山、うみた まご、地獄めぐり・・・・。ゲームもなくテレビもない中で、多くのスタッフやAPUの学生さんたちとたくさんの経験をした1週間はあっという間に過ぎて行 きました。












震災から3年と5か月が経ちます。小学校3年生は、当時は、幼稚園生でした。

フェリーががたんと揺れた時「地震?」と聞く子がいました。ドキッとしました。

17歳の高校3年生は、親御さんが一緒に参加できないので、小学校2年生の妹をエスコートするために参加していることがわかりました。受験生です。フェ リーの中やお寺で勉強できるスペースを確保しました。でも、彼は、妹が眠る時は、必ず寝付くまでそばにいました。後で考えると、地震の恐怖から寝る時は、 誰かがそばにいてあげるようになったのかもしれません。

私たちは、できるだけ管理せず規制をせずに静かに子どもたちを見守りました。保護者の方にもあえて「福島の様子はどうですか?」とも尋ねません。でも、一 緒に過ごす中、震災の後、放射能のことも知らずに、おなかに赤ちゃんがいたのに、動き回ったことや、放射能を避けるため、お父さんは福島に残り母子で山形 に避難していたこと、そして、東電の補償問題が同じように福島に生きる人々に亀裂を生じさせていることを教えられました。

 新米事務局長は、段取りや見通しの甘さでスタッフに迷惑をかけたかもしれません。

 「そんなことしちゃあいかん!」と叱られたこともあります。すべてのことが分かっていなければならなかったので、子どもたちといつも行動を共にしていました。
眠る時間は少なく、汗をだらだらかきながらの生活でしたが、別府港での子どもたちの別れの姿に苦労も吹っ飛びました。

 残念なことに雨が降っていたので、別れのテープは持てませんでしたが、デッキの子どもたちと岸壁のスタッフとの間で、エール交換が続きました。頑張って いる子どもたちに「頑張って!」とは言えませんでした。岸壁にいる私たちには、子どもたちの細かな様子は見えなかったのですが、送っていったスタッフによ ると、号泣していて、別府が見えなくなってからも、部屋で泣きじゃくっていたそうです。

 「大きくなったらまた、湯布院においで。」「今度は、家族旅行で来たらいいよ。」「家出する時は、ここにおいで。」なんて言ってしまいましたが、もう会 うこともないかもしれない福島の子どもたち。九州に住んでいる私たちには、想像できない厳しい現実と向き合っていかなければならないかもしれません。福島 の子どもたちに幸あれと祈ります。そして、日本中の人たちが、福島のことを忘れないでほしい。
とも願います。子どもたちが成長していく過程で「あの時、湯布院で楽しかったなあ。」と思い出すことができる人生でありますように。

 子どもと一緒にいて、「あっ!この子今、壁を乗り越えた!」と思う瞬間がいくつもありました。そんなことを経験させてくれた福島の子どもたちに感謝しています。




 今年も、たくさんの方々に呼びかけ、多くのご寄付をいただきました。皆様のおかげで「ゆふわく」を実施することができました。本当にありがとうございました。感謝申し上げます。


2014.7.14 「えば」のようにしぶとく行きましょう!
 
 大型の台風8号は、大分には大きな被害をもたらすこともなく、ほっとしました。
 でも、新潟や長野の大雨は、大変な状況になっています。土石流に流された中学1年生の男子生徒の無念さを思うとき、人生の儚さを考えます。
 
 大分県下の学校は、休校でした。
「絶対に外に出ないように!」と指導されていた子どもたちは、あの日の青空をどんな気持ちで眺めていたのでしょうか。
 先生方にとっては、期末の整理に時間が取れて、ちょっとありがたかったかもしれませんね。
 
 「ゆふわく」と街宣活動と学習会の準備でばたばたしています。
湯布院にやって来る福島の子どもたちの名簿がだんだん出揃ってきました。
1軒1軒、お電話をして、書類作成の準備をしていますが、「楽しみにしています!」と電話の向こうで保護者の方に言われると、私までワクワクしてきます。
 
 1週間前のことです。「ゆふわく」の打ち合わせに湯布院の見(けん)成寺(じょうじ)に行きました。住職と打ち合わせをして、奥さまにお暇して、車を出 しました。運転しながら何気なく、髪の毛にさわると何だかべとべとしています。「なに!?」「蜘蛛の巣!」だとわかり、走りながら、右手で髪についた蜘蛛 のえばを、根気強く取り続けました。
「もう大丈夫」と思い、窓を閉めてしばらく走っていると、右腕に何かが張り付いています。「くも!!!」恐怖に震えながら、でも、このところ事故率が高く なっている私は「、絶対に事故ってはいけない!」と自分に言い聞かせました。また、窓を全開にして腕に着いた蜘蛛を必死で振り払いました。私の動作は、 きっと後ろの車の人には奇異に映ったことでしょう。
 冷や汗をかきながら、「もう大丈夫」と思い、再び車を走らせていると、今度は、左腕にさっきと同じ感覚が。また、腕を振り払いその蜘蛛を何とかドアの外に出しました。家に帰りついてからも、心臓の鼓動は激しかったのです。
 
 そして、二日たって、駐車場に止めてあった車のドアをあけてびっくり。バックミラーから直径8センチメートルくらいの蜘蛛が糸を引きながらぶら下がって いました。(あれからずっと、車の中で生きていたんだ!)とわかり、今度は持っていた傘で糸を切り、蜘蛛を車外に誘導しました。その時も、払っても払って も蜘蛛の糸は強く、腕に張り付きました。
 
 大分の方言で、蜘蛛の糸のことを「えば」といいます。DV被害者支援の大分のNPOの名称は「えばの会」です。蜘蛛の糸のようにしっかりネットワークを張り巡らせましょう。と言う願いが込められています。つくづくえばの強さを実感しました。
 
 
 集団的自衛権解釈変更を許さない世論を、閣議決定から2週間経つとマスコミは取り上げなくなりました。
 法案を整備するまでにいくつも関連法案を整えなければならないそうですが、
私たちは、憲法をないがしろにした、多くの国民の意思を踏みにじった内閣を許すことができません。次のような、抗議声明を出しました。そして内閣総理大臣安倍晋三殿に送付しました。


 
抗 議 声 明
 
本日7月1日、安倍内閣は集団的自衛権行使に向けて新たな閣議決定を行いました。
 従来自民党政府は1972年政府見解で個別的自衛権を抑制し、集団的自衛権の行使とは「他国の戦争」への参加であり、憲法9条の下では違憲であるとの立場をとってきました。
  今回の閣議決定は、憲法改正を行わずに憲法解釈を変更することで集団的自衛権の行使を認めるということであり、正に政治的暴挙です。これは“改憲”の域を超えた“壊憲”攻撃であり、決して容認できるものではありません。
 戦地に自衛隊を派兵すること、戦争に日本国家が参加すること等、この国のかたちを大きく変える政治を行う場合、憲法の定めに従った手順と手法が必要で す。この国が他国の戦争に参加する可能性を伴う重大な選択は、主権者・国民の判断により決めることであり、その時々の内閣が勝手に決めることではありませ ん。まして、今回のように議会の審議もほとんど経ずに与党協議で決定する手法は、民主主義の破壊です。
 日本は、広島と長崎における人類最初の原爆の被害国となり、終戦を迎えました。核兵器の出現によって、戦争がもたらすものは人類の滅亡でしかないことは 世界の共通認識ともなりました。日本にとって、憲法9条を掲げ、自ら平和国家として、「今後の戦争の惨禍」と、「戦争の廃棄」を世界に訴え続けることは、 日本国民の世界史的使命です。
戦後69年、日本国家の戦争参加を許さなかった力は、人々の戦争拒否の社会的気運であり、敗戦の犠牲の上に再び戦争を繰り返さないという憲法9条の力でした。
安倍内閣はこの平和の伝統と歴史と憲法を捨てるつもりです。今、日本国家は解釈改憲だけで、集団的自衛権行使に向けて大きく踏み出しました。私たちは、立 憲主義に基づき平和の道を選択する決意です。近隣諸国との平和、友好、共存の道を選択することが日本の進路だと考えます。立憲主義と平和主義を両輪として 安倍政治の暴走を止めなければなりません。私たちは、立憲主義を無視したこの閣議決定に強く抗議すると共に、この閣議決定の撤回を求めます。
 
    2014年7月1日
大分県議会議員有志
                                                                       小 野 弘 利
                                久 原 和 弘
                                江 藤 清 志
                                平 岩 純 子
                                酒 井 喜 親
                                深 津 栄 一
                                玉 田 輝 義
                                尾 島 保 彦
                                馬 場 林
                                原 田 孝 司
                                守 永 信 幸
                                三 浦 正 臣

 
「えば」のようにしぶとく抗って行きましょう!