ときどき日記


2012.12.27 吉田ばあちゃん

 今年も残すところ1週間を切ってしまいました。

 大掃除、春の庭作り、母のこと、県政報告「わたげ」の原稿書き、お正月の準備とかなり焦っています。でも、近頃は、完璧を求めずにいます。なるようにしかならない・・・とも考えています。

 新内閣の組閣が発表されました。「どうぞ、右に偏らないでください。」と願うばかりです。小選挙区制の怖さを今更ながら感じています。3年4か月前は感じていなかったのです。でも、私は、覚悟をしています。そして「どんな世の中になっても、私は変えられないぞ!」と自分に言い聞かせているところです。

 今年も多くの出会いと別れを経験しました。

 大切な人との別れは堪(こた)えます。まだ、あそこのあの場所にいるような気がしていて、ハッともういないことに気づくと、力が抜けてしまいそうになりますが、きっと天国から見守っていてくれるだろう。気弱になっている私をイライラしながら見守ってくれているのだろう。そう思うことにしています。

 小学生の頃、田舎の祖母が入院した時期がありました。安心院には、当時ひいじいちゃんとひいばあちゃんが寝たきりでいました。祖父も体を壊していました。安心院の家が回らなくなり一人息子である父の嫁になる私の母は、幼い妹を連れて田舎に帰ることになりました。

 当時は、育成クラブもなく、私たち兄弟は、親せきの吉田家に学校帰りに行くことになりました。そこで、遊び、お風呂に入り、夕ご飯を食べさせてもらい、父が仕事を終えて迎えに来るのを待つ生活が随分長く続きました。夕暮れ時にランドセルを背負って帰る姿を同級生には見られたくないと思っていました。きっと母親不在の心細さやみじめさを誰にも知られたくなかったのだと今になって思います。

 吉田家には父の叔母であるばあちゃん夫婦と末の息子が生活していました。吉田ばあちゃんは、当時50代後半だったと思います。色が白く、若い頃はさぞかしきれいな人だっただろうと子どもながらに思っていました。

吉田夫妻は若いころは呉服屋さんを営んでいてお金持ちのようでした。私の父やその従兄弟たちは随分お世話になったようです。でも。戦争を境に商売がうまくいかなくなったのか、私たちがお世話になっている頃は、決してお金持ちではありませんでした。それでも「じゅんこちゃん、じゅんこちゃん」と可愛がってくれました。子どもが好きそうなものも作ってくれました。昔話をよくしてくれました。そんな生活の中で一つだけ苦手なことがありました。それは、目玉焼きが半熟だったことです。今でこそ半熟卵が好きですが、幼い頃はそれが嫌いで、どうしても箸をつけることができませんでした。吉田ばあちゃんはそのことを知ってから、半熟目玉焼きをきれいにひっくり返し、よく焼けた目玉焼きを作ってくれました。

吉田ばあちゃんは、頭痛持ちでした。いつもケロリンを飲んでいました。「私はもう死ぬ。きっと長生きしない。」が口癖でした。

そんな吉田ばあちゃんが先月亡くなりました。102歳でした。きれいな白い頬をして横たわっていました。(この人が102歳!と信じられない美しさでした。)オレンジの口紅をさしていました。祭壇には知事の表彰状も飾られていました・

6人兄弟のうち5人はとうに亡くなり、最後まで生きたのが吉田ばあちゃんでした。「早死にする」と言っていた人が102歳まで生きたのですから人生というものは分からないものです。通夜、葬儀は久しぶりに出会う従兄弟たちで賑やかでした。そのおじさんおばさんもみんな年をとっていました。

お世話になった感謝を伝えきれていないなあと反省しています。大好きだった吉田ばあちゃんときちんとお別れしたかったのにそれが充分できていない気がしています。

我が母は「私もう80だから」と時々口にします。

「80だから何だっていうの。さあ、洗濯物をたたんで。トイレ掃除をして。」と私は優しくありません。

たくさんのお年寄りを看取り、「死ぬ時は町子さんに看てもらいたい。」と親せきのおじさんたちが、母のことをそう言っているのを子どもながらに聞いて育ちました。もっともっと大切にしなければならないと分かっているのに口から出る言葉は憎まれ口ばかりです。

せめてもの親孝行にと最近温泉に一緒に行きます。実家の近くに浜田温泉があります。この前はNHK「心旅」の火野正平さんたちスタッフが入浴していました。温泉の温度は45度。かなり熱いのですが、寒さで震える体には何よりのご褒美です。(暮れの29日〜正月三が日は、無料だそうです。)浜田温泉で、私は親孝行娘で通っています。

拙いときどき日記を読んでいただき本当にありがとうございました。

皆様にとって2013年が良い年となりますように。


2012.12.10 教育公務員のあり方は・・・・

 一段と寒くなりました。今日は大分市内でも初めて雪が舞いました。皆様お元気でしょうか。

私は、年末を迎え、あれもしなければ、これもしなければ、と気になるのですが、議会と選挙に忙しくしています。

 我が家のシャコバサボテンが花芽をつけました。日当たりの決して良くない所に置いています。1週間に1度水をあげるだけなのに、毎年咲き続けていることに感心してしまいます。「あんたはえらい!」と声をかけています。

 12月6日に「教育公務員のあり方を考える学習会」が大分市で行われました。

 「教員採用汚職事件」から4年の月日が流れました。決して風化させてはならないと考えています。この4年間の思いを綴ります。

20082

 私は、結婚式に出ていました。

 新婦も新郎もご両親やご兄弟、親せきの方々に祝福されとても幸せそうでした。とりわけ、新郎の友人たちのはしゃぎぶりが際立っていました。その時初めて友人たちの多くが教員であり、新郎が何年も臨時講師を続け、晴れて教員採用試験に合格し、今年の春から正規の教員として採用されるということを知りました。そのことを自分のことのように喜んでいたのが、友人の方々でした。

結婚式では。新郎のかつての教え子たちがサプライズで登場し、式を盛り上げてくれました。

20084

 彼は、大規模校の中学校の教員として赴任しました。

 臨時講師では、基本的に経験することができない、新入生を迎え1年の学級担任になり、2年、3年へと持ち上がりをして生徒と一緒に卒業式を迎える。生徒と一緒に泣き、笑い、いろいろな課題を乗り越えて、生徒と一緒に自分も成長するという夢が叶うのですから、きっと希望に胸を膨らませていただろうと思っていました。

200861

 私は、県教組大分支部の定期大会に出席していました。文化会館の壇上には今年度採用になり組合に加入した若者が30名近く並んでいました。何年も採用試験を受け続け、もう青年部ではない人もいました。結婚している人もいました。各学校の先輩たちから盛大なエールが聞こえ、会場は和やかな雰囲気に包まれていました。この人たちが、これからの大分市の教育を引っ張って行ってくれる人たちなんだと、私もわくわくしながら彼らを眺めていました。

その次の日

 県教委幹部による「教員採用汚職事件」が発覚しました。

 次々に報道される内容は、おぞましい限りでした。どれだけ多くの学校や地域を混乱させたことか。どれだけ多くの子どもたちを不安にさせたことか。

 元教員で議員になっている私は、真っ先にマスコミの追及を受けました。「あなたも口利きをしていたでしょう。」と家に帰るとテレビカメラが待ち受けているという状況でした。私は、口利きをしていません。でも、そういう場面を見たことがあります。先輩が電話で何やら話している。名前と番号を告げている。「発表の前に知らせて欲しい。」と言っていました。議会は、縦社会で、1年生議員が何期もしている先輩議員に意見を言うことは難しいことです。でも、その時は思わずこう言っていました。「私の教え子の姉ちゃんは今年受験をしています。ずっと前に教えた子どもの妹は何年も教員採用試験を受け続けています。誰にとっても公平であるべきです!」と。先輩はもぞもぞと口ごもりました。

 私たちは、「誰が誰に頼まれて口利きをしたのかを明らかにしてほしい。」「この中にも口利きをした人がいるんでしょう!」と会議の中で言い続けました。しかし、みんな下を向くばかりでした。「詳細がわからない・・・」と当局は答えるのみでした。

2008829

 夏休みの終わり間際に、県教委の幹部が、その年に採用された人のうち21人の所にやってきました。そして「あなたは、不正な加点で採用されていることがわかりました。採用取消か自主退職かを選んでください。」と告げました。「期限は9月4日までです。」何を言っているのか分からなかったと思います。自分がどんなことになっているのか理解できなかったと思います。少し時間が経つうちに(もしかしたら親が、親せきの誰かが口利きをしたのではないか?)と誰にも言えない疑心暗義に陥ったでしょう。

 夏休みの終わりと言うのは、2学期に向けてドキドキわくわくする時期です。

子どもたちと一緒に何に取組もうか、どんなクラスづくりをしていこうかと考える時期です。新採用の先生ならなおのこと、緊張の連続で1学期を終え、ちょっとだけ夏休みに一呼吸して2学期を迎えます。そんな教師にとって大切な時にそんなことを告げられたのですから、大変な混乱を招いたことでしょう。天国から地獄に落とされたのです。自分は子どもたちの前に立ってもいいのだろうか?見えない目や聞こえない声に怯えたかもしれない。私は自殺者が出るのではないかと本当に心配しました。

21人の若者は

 理不尽さを胸にしまいこみ、納得できない思いを必死で克服し、臨時講師としての道を選んだ人がいます。よその県に行った人がいます。他の職業についた人がいます。2007年、2008年の採用試験を受けた人の中で不正に減点されていた55人の人たちが救済されました。管理職から集めたカンパ金が不利益を被った補償費に充てられました。その人たちも被害者だったと思います。

 そんな中で誰にも何にも頼んでない若者二人が「採用取り消し無効」「真相解明」を求めて提訴しました。真相を解明しなければ人生を一歩も前に踏み出せなかったのだと思います。

汚職事件の後

 県民の失われた信頼を回復するためにと県教育委員会は次々に改革を打ち出しました。採用試験の見直し、教職員評価システム、学力向上施策(学力向上支援員は県下で18名、36名、72名と毎年倍増しています。けれども病気休職者の代替がなかなか来ません。半年も前に申請している法的に実行しなければならない産前休暇の代替の先生が来ていない学校が大分市内でも4校あります。)

 そして津久見市では、校長の具申を無視し、人事ルールをも無視し、恣意的な人事が津久見市教育長の下で行われました。県教委はそのことを正当化させるために広域人事を打ち出し、新採用概ね10年3地域を打ち出し、離島要件を撤廃しました。

 そこには、子どもたちが生き生きと活動する姿は見えてきません。時間に追われ疲弊する教職員の姿が見えます。

片山さんのような人がいたら

 私は11月28日の「ときどき日記」で片山元鳥取県知事のお話しを綴りました。片山さんのような崇高な理念を持った幹部がいたら、公の理念を遵守する議員ばかりだったらこんなことは行われなかったと残念でなりません。

 4年間、私は「教員採用汚職事件」に翻弄された若者の心を考え続けました。ご家族の苦しみを思い続けました。どれほど苦しい毎日だったことか。でもどんなに想像してもその苦しさを追体験することはできません。

 大好きだった先生がある日突然目の前からいなくなる、子どもたちが泣きながら先生と別れなければならなかったことを思う時、子どもの心にどれ程の傷を負わせたかを考える時、どうしても一連の事件を許すことができません。

 だからこれからも街頭活動をし、裁判の傍聴を続けたいと思います。

 子どもたちのための公教育はどうあればよいのか。子どもたちのための教員採用はどうあればよいのか。子どもたちのために教育行政はどうあればよいのか。そのことを考え続けていきます。


2012.11.26 地方自治に必要なこととは・・・

 11月22日にNPO法人「えばの会」主催の講演会がありました。片山元鳥取県知事、元総務大臣を招いてです。もちろん小さな小さなNPOがそんな有名な方を呼ぶことは不可能なことなのですが、大分県人権関係NPO等関連推進事業でお呼びすることができました。

 当日は、アイネスの150席が埋まりました。演題は「地方自治の実践とその視点」とちょっぴり堅いのですが、お話の内容は、とてもわかりやすく、かつ痛快でした。

 例えば

自治体の役割は

 学生時代に「自治体の情報公開はどのようになっているのか?」をゼミで調査するために大都市にある市に連絡をしたらものすごく警戒された。たかが1学生の調査に警戒心を強めるってどういうことか。と考え、卒業後、自治省に入りました。27歳で地方都市の財務所長になりました。(いわゆる出向)差し押さえをされそうになりながら泣きながら税金を出す人。徴収する職員も泣いている姿を見て「税金は1円たりとも無駄に使ってはいけない」と誓いました。

 鳥取県知事時代、年度末の使い切りを止めようと試み、3年目に250億円浮かしました。

 国のやる景気対策には、要らない事業が多すぎる。県民にとって必要なものを間違えてはいけない。「誰のために」「何の目的で」必要なミッションの共有化を図らなければならない。

 地方自治体は民主主義の学校。ノーマライズ(正常化)すべき。当たり前のことをしていくべき。その時、大切なことは組織をどうやってその気にさせるかということ。

DV被害者支援

 ある時、自民党の県会議員がやって来て、「知事さんよくは知らないのだけれど、こういうことをやっている人がいて、是非知事とお話しをしたいと言っている。お忙しいでしょうが一度会ってくれませんか?」と投げかけられました。

「そうですか。会って見ましょう。」と県庁所在地から遠くにある町を訪ねました。その時、「決して高級車で来ないでください。途中から軽自動車に乗り換えて来てください。時間帯はこの時間で、決して歩いて来ないでください。」と条件が付きました。どうしてなのかわからなかったそうです。DV被害から逃げている人とその支援をしている人に会って初めてそこがシェルターで誰にも見つからないようにしていることに気づきました。

その後、財政課の職員や福祉の職員にも現状を見てもらい、現場の実情を反映させる予算と施策が行われ、鳥取県ではDV被害者支援策がどこの県よりも進みました。「逃がすなら鳥取に逃がせ!」はDV被害者を支援する人たちの中では、合言葉のようになっていきました。鳥取県に来た他県の人たちにも税金を使って支援をしていました。しかし、鳥取県の人がよその県に逃げていることもあります。山口県、島根県、広島県と近くの知事たちにも呼びかけました。近隣の県でも担当者会議が行われるようになりました。自然とDV被害者支援策が充実していきました。被害者は東京にも逃げています。ホテル税のことでは論争していた東京都知事をも訪ねました。その時、都知事は「それは何ですか?」とDVについての知識がなかったそうです。

採用試験

 知事になって早々、県議会議員が順次やって来て、小さな紙切れを手渡すのだそうです。紙には県職員採用試験を受けた人の名前と番号が書かれていました。それぞれ「この人をよろしく」と言います。いわゆる口利きです。そこで担当課長を呼びこう指示しました。受験者一覧表の備考欄に議員の名前を記しておくようにと。採用は試験の成績順とし、もし最終合格者が同点の場合は、備考欄が空欄の受験者を採用するようにと。職員から「それは嫌がらせですか?」

と聞かれたけれど、決してそうではなく、県議会議員に口を聞いてもらえる人は、世間では後ろ盾のある人であり、口利きのない人は後ろ盾のある人に比べると弱い立場にある人だろう。同じ成績ならば、弱い立場の人を採用する方が公正にかなっていると諭したそうです。

 次の年からは、紙を持ってくる県議会議員はいなくなりました。

 そんなお話しが、次から次に出てくるのです。聞いていてスカッとするやら頭が下がるやら2時間があっという間に過ぎてしまいました。きっとこの講演会に参加した人たちは、ラッキーだったと思います。

 総務大臣時代の仕事ぶりと氏の書物を読むと、少し厳しい印象を受けていたのですが、目の前にいる片山さんは実にゆったりとし大らかでそれでいてカリスマ性のある方でした。こんな人の下で働けたら幸せだろうなと思ってしまいます。

 講演会が終了し、私がちょっと会場を離れている間に、みんなでそろって記念写真を撮っていました。遅れてしまった私が残念がっていると、一緒に写真を撮ってくださいました。

 少し時間があったのでお茶を飲みました。「日本を診る」の書籍にサインもしていただきました。片山善博と優しい楷書で書かれていました。片山さんありがとうございました。もう一度読み直してみます。

 現場の状況を共有する。直接話を聞く。声の小さい人の方に寄り添う。これが政治の務めだと確信しました。

 「強い奴と弱い奴がいたら、弱い奴を応援してやれ。それが政治の務めだ」と言われた言葉に勇気づけられました。

 今、求められているのは、そんな政治家ではないでしょうか。


2012.11.15 水素水にはまっています。

 稙田地区老人会のグランドゴルフ大会がありました。先月のゲートボール大会は雨で流れていました。午後から下り坂という天気予報を聞いていたので、(今日は大丈夫かしら?)と空を見上げながら出かけました。

 会場となるななせ自然公園には、この日をめざして競技に励んでこられた高齢者の方が250人くらい集合していました。だんだん気温も上がり、まさにグランドゴルフ日和のようです。チーム戦、個人戦があり、ホールインワン賞もあります。「ホールインワン賞は何人くらい予定しているのですか?」と尋ねたら50人分だそうです。競技開始後、すぐにホールインワンが出ました。元気なお年寄りにお会いしながら、(お母さんも元気だったらやっていたかなあ・・)と考えます。(いけない。いけない。ないものねだりをしては)と自分に言い聞かせていました。

 今、学校は大変です。先生が子どもたちとじっくり向き合う時間が取れない多忙化の中で、病気休業や病気休暇の先生が増えています。そして残念なことに現職で亡くなる先生も他の職業に比較すると比べられないほど増えています。

 病気になった先生の代わりの先生が見つかりません。病気になる先生が増える中で、臨時で来てくれる先生の数が揃いません。正規の先生と同じ仕事を任せられながらその賃金や勤務労働条件には厳しいものがあることもその原因かもしれません。

昨年は、ある小学校で入学式の前日になっても学級担任が決まらない事態が起こりました。新入生にとって胸躍る大切な入学式がこんな混乱の中で行われているなんて許されないことです。中学校の理科の先生は慢性的に不足しています。私の友人は、がんで病気休職に入る前に、自分で代わりの人を探していました。その後、残念なことですが亡くなりました。

一昨日は、産前休暇に入る先生の代替が決まらないと言う学校の様子を聞きました。私が現職の時こんなことは決してありませんでした。出産を控えた先生は、子どもたちに見送られながら安心して産前休暇に入っていました。その前に教育委員会が選んでくださった代替の先生ときちんと引き継ぎを終えていました。急に病気になったわけではありません。出産の日は事前に分かっています。そこから逆算すれば産前休暇に入る日もおのずと出てきます。「教育事務所は一体何をしていたんだ!」と怒りの声が伝わります。

 教育行政は、基礎基本の定着、学力向上、体力向上、図書館教育の充実、地域とのつながり・・・・・・と次から次に施策を推し進めています。でもその基盤を支える教職員が悲鳴を上げながら仕事をしているのですから状況は決して改善できない負のスパイラルに陥っている状況です。基本となる先生の配置を決して学校まかせにせずにしっかりしていただかなければなりません。子どもたちが学ぶ権利と働く人のワーク・ライフ・バランスが、「子育て日本一」をめざす大分県の中で崩れていく様が露呈されています。

現場実態を見るにつけ、かけ離れた教育行政の実態に元気が出てきません。でも、へこたれてはいけません。願いをしっかり伝えながら行動していきましょう。解決策を考えていきましょう。

 今、水素水にはまっています。

 私は、この20年間で4つの健康に関する食品やグッズを使って来ました。水素水は5つ目です。つれあいは、またかという顔をしましたが、これで終わりにしようと決めています。

 水素水は、小さな機械で作ります。今、水素水が流行っていますが、私のそれは、熱を加えても時間が経っても3日間は、成分の減少はありません。人間の体は60パーセント水分でできているので、その水分を良いものに変えようとするものです。活性酸素を増やさずに脂肪代謝を亢進していこうと考えています。

この水でご飯を炊きます。おみそ汁も作ります。もちろんしっかり飲みます。私は有機野菜を契約して届けていただいていますが、その野菜をこの水を使って調理するととてもおいしいものが出来上がります。この水で顔も洗います。ついでに目もぱちぱちと洗います。数ヶ月後が楽しみです。

 世の中、願いどおりにはいかないことばかりですが、自分のやるべき道をしっかり見つめながらやっていきましょう。肩に力を入れ過ぎず、生きていこうと考えています。


2012.11.4 思いのある人、熱く語る

 10月31日〜11月2日まで、岩手県、秋田県に行って来ました。

 大分を出た時は、気温は18度でした。秋田の道路脇にある気温を示す表示板を見て、びっくり。ななんと0度でした。雨は途中からみぞれに変わり、改めて日本は縦長の国なんだと実感しました。

 訪れたのは、岩手県釜石市。9割を山に囲まれた鉄鋼と漁業の町釜石には当時約3万人の人が住んでいました。しかし、889人の方が亡くなり、仮設住宅に今なお3000世帯の方が暮らしています。

 「釜石の奇跡」と言う話を震災以後、お聞きになった方も多いと思います。

地震が起こったのが、2011年3月11日2時46分。その25分後には、第一波の津波が押し寄せていました。学校管理下にいた小・中学生約3000人は、命が助かりました。

リアス式海岸を抱え、海辺のすぐ近くに建っている学校も多い大分県ですが、東日本大震災後、学校での防災計画や防災教育がいかに脆弱であるかが露呈されました。釜石に学ばなければならないと思っていました。

 釜石市の取組みでは、

・動くハザードマップ作製

・児童生徒、保護者、教職員を対象にした津波意識調査と津波防災訓練

 (教職員300人のうち7割は内陸部の人で、危機意識が少ない)

・津波防災教育のモデル校指定

・津波防災講演会

・防災教育のカリキュラム作成

など、群馬大学の片田教授の指導、助言の下進められてきました。

 地域的にも明治、昭和と津波被害に遭い、「いのちてんでんこ」(地震があったら家族のことを気にせずに、てんでんばらばらに自分の命を守るために一人ですぐに避難せよ、一家全滅、共倒れになることを防げ)が言い伝えられてきた地域ですが、情報化の中で、避難訓練でも参加者が少なくなっていました。今回の地震でも「3メートルの津波が来ます。高台に避難してください!」の呼び掛けに「大丈夫」と考えた人が多く、停電のためもっとひどい津波が来ることは伝わらず仕舞でした。

「きっと近い将来、宮城県沖地震が来る」と危機感を持った人たちの知恵と努力から「子どもたちに自分の命を守ることを教えよう」の実践が始まったようです。災難はいつ来るかわかりません。学校にいる時、登下校の途中、もしかしたら休日・・・そんな時、親や教師の指示を待つのではなく、自分で判断して逃げることを学ばせる。「お母さん、僕は絶対自分で逃げるからお母さんも僕を探さないでね。お母さんも逃げてね」の考えです。その教え通り、学校から離れていた子どもたちは逃げました。学校にいた子どもたちも、はじめは、校舎の3階に逃げようとしていた小学生の手を中学生が引いて、第1避難場所へ。ここは危ないかもしれないと教師の判断で第2避難場所へ。ここももしかしたら危険かも・・の考えで第3避難場所へ。結局、2キロメートル近く離れた場所にたどり着き、命が守られました。

 残念なことに亡くなった子どもは、当日学校を休んでいた子どもとたまたま親が学校に迎えに来た子ども5人でした。

 子どもの思いから出発し、避難するシュミレーションを子どもたちに考えさせていたこと。そして子どもたちが親を動かす(あの子はきっと逃げているだろう)というカリキュラムを作っていく過程をI防災係長さんは熱く語ってくれました。

 今は、「子ども、津波ひなんの家」ステッカーを貼る活動をしています。動かない大人を「子どもが助けを求めて飛び込んできたら必ずその子の手を引いて一緒に逃げてください」という願いを込めてです。

 たくさんの資料を頂いてきました。大分県で活用しなければと考えています。

 釜石市のお隣に宮古市があります。震災後、全国38の都道府県から57000人の警察官が応援に入りました。大分県警からも現在4名の警察官の方が来られています。その方々を何とか激励したいとずっと願っていました。7月に来る予定でしたが、北部九州豪雨で遅れていました。

 宮古署は署員100名。津波の影響で市街地は壊滅状態でした。殉職された方が2名います。I警察署長さんが、震災以後1年7カ月のできごとを熱く語ってくれました。まるで追体験していくようでした。どれだけのご苦労があったことか、家族を失いながら本務を遂行しようとしている方々がどうやって心のコントロールをされているのか想像を絶するものがあります。

 4名の方の業務は、遺体捜索や遺体確認、安否確認や交通整理、そして仮設に入居されている方々の安全を守る活動です。今年の2月1日付で任務についています。ねぎらいや感謝を求めず、ホテルで共同生活をしながらひたすら被災地のために働いています。

 4人の方は、背筋をピシッと伸ばし、とてもりりしく、逞しさを感じました。

大分名産の焼酎と鳥の炭火焼とつけものとお菓子を渡した時の、ちょっと照れた笑顔が印象的でした。任務は来年の3月までです。どうぞ体に気をつけて元気で大分に帰って来てください。これからの大分県警察を引っ張って行ってくれる若者たちにそう願いながらお別れしました。

 

 宿泊したのは、宮古市から170キロメートル離れた秋田県の田沢湖近くにある「たざわこ芸術村・温泉ゆぽぽ」です。バスで3時間半かかりました。以前から元代表の是永さんにお話しを伺っていたのですが、やっと訪れることができました。長旅の疲れを少しぬるめのお湯が癒してくれました。

 劇団「わらび座」から出発した「たざわこ芸術村」は開設16年。3万坪の敷地に劇場、ホテル、温泉棟、レストラン、地ビール工場、森林工芸館、民族芸術研究所、デジタルアートファクタリー施設などがあります。経営はすべて100パーセント株式会社わらび座。社員が350名いますが、そのうち65名は地元の農家の皆さんで構成。四国の「坊ちゃん劇場」も持っています。

 36年間で全国各地から5500の学校が修学旅行などで訪れています。伝統的な演劇や地域をテーマにしたミュージカルわらび座公演は国内外で年間1000回を超すそうです。劇団員の子どものための保育所もあります

 ここでもわざわざ小島代表が私たちに丁寧に説明してくださいました。地域に根差し、内部発掘しながら地域貢献してきた歴史とこれからの方向性を熱く語っていくださいました。

 文化や芸術は、人が生きていくうえで必要なものです。特に子どもたちにとっては、本物を観る、ふれる、美しいもの優れたものに出合う経験が感性を研ぎ澄まし、豊かな大人になるためには必要なものだと思うのですが、今の子どもたちは目に見える点数や数値で測られるものを負わせられているようで、私たちの願いと対極に置かれていることが残念でなりません。私たち大人がその声を発していかなければなりません。

 わらび座大分公演「おもいでぽろぽろ」は、11月9日グランシアタで19時開演です。とても楽しみにしています。

 

 東北は秋が深まっていました。

 
「ゆぽぽの玄関の紅葉」

2012.10.19 あらじんさん

 10月13、14日に大阪阪南市で「全国シェルターシンポジウム」(DV性暴力救援センターを全国に!)がありました。原田孝司議員と二人で参加しました。大分からはえばの会の方々、県や大分市の行政関係者も来ていました。

 参加者は、99パーセント女性でした。女性医師や弁護士、暴力を受けた女性たちを支援し続けている方々です。平均年齢は少し高かったように見えます。尾崎の駅から会場となるさらだ館への道は女、おんな オンナの長い列が続いていました。

 DV防止法が成立してから10年。圧倒的に女性が受けることの多いこの暴力は、犯罪であるという認識が、世の中にも行政にも警察にも届き始めました。相談件数も増え続けています。しかし、その対応はまだ十分とは言えません。特に子どもたちが受ける被害が深刻化しています。

 会の最中に、大阪で赤ちゃん捨て去り事件が起きていました。生後1か月もたたない女の赤ちゃんが、水路に捨てられていました。全裸でした。顔の半分は水につかっていたそうです。

 分科会の中に『暴力の連鎖を断つ』がありました。

 そこで、お話しされたのがあらじんさん(荒巻仁さん)です。

 あらじんさんは、幼いころから父親の母親に対する暴力を見て育ちました。

板前をしていたお父さんは、些細なことで大好きなおかあさんを殴る、蹴る、時にはお母さんの指を切り落とそうとする。あまりの恐怖に自分が幼稚園に通っていたのか保育園に通っていたのか記憶がありません。恐怖の中で幼少期の記憶はないものとして脳に影響を与えているのでしょうか。小学生のころは、暴力をやめさせようとお父さんを止めていました。でも叶いませんでした。子どもに対する暴力はなく、ターゲットはいつもお母さんでした。ひたすら神様に祈ったそうです。「いい子になるからどうぞお父さんを止めてください!」と。昨日と同じことをせずに、(靴下を今日は右から履かずに、左から履いたらいいかもしれない。学校のトイレで昨日と違う便器を使ったらもしかしたら今日は暴力が起こらないかもしれない。)等無邪気に遊べる時代にそんなことばかりを考えてひたすら耐え、祈り、願って過ごしました。(お父さんが死んでくれますように)とも願い続けました。でもどんなことをしても暴力は止まりませんでした。暴力に耐えかねたお母さんは、現実から逃げるためにパチンコやマージャンで自分の気持ちをコントロールしていました。そんな時にお父さんから電話がかかってきます。慌ててお母さんを呼び戻しに行く。そんな小学生の心は、次第に壊れていく。成長するに従って暴力を見ない、聞かないようにふるまって来ました。同じ家の中にいても(早くこの時間が終わる様に)ひたすらその時が過ぎるのを待ち続けました。家にいても落ち着かない。「電話が怖かった。」「お父さんの足音が怖かった。」と言われました。

 私は、今まで虐待や性暴力に遭った子どもたちの話をいろいろな場所で聞いてきました。子どもの人権を踏みにじる行為に強弱はありませんが、あまりにつらい話に体が硬直していました。

 祈り続け、願い続け、いい子でいることに疲れたあらじんさんは、意を決して出家しました。27歳の時でした。現実から逃げ、親の支配の及ばない場所でこの世を捨てて、仏様に仕えようと考えました。そしてそこで伴侶となる奥さんと出会います。今は、3人の男の子に恵まれ、NPOを立ち上げ、お父さんの子育てが拡がっていく活動を続けています。子どもたちの笑顔を生む活動は「あらじんの魔法」と呼ばれています。

 暴力の中で育った子どもが、親になり同じように暴力的行為を繰り返す割合は、1割と言われています。あらじんさんには、こんなことがありました。大事に育てていた子どもの顔面をある日革靴で蹴っていた。奥さんが「何しているの!」と叫んで我に返ったと。9割の人たちも必死で自分と闘ったいるのだと教えられました。


(あらじんさんとつれあいさん)

 大人は子どもたちに「夢を持て」と教えるけれど、その夢の芽を摘んでいるのは大人自身なんだと。人間の暴力は刷り込まれてしまう。笑顔の中で子どもが育つ。そんな当たり前のことができるように。当たり前の生活が奇跡なんだと思っている子どもたちがいるということを改めて知らされて帰ってきました。

 子どもたちの自尊感情を高めることの重要さ。対等な人間関係をつくれる環境でならなければならない。そのために行動しようと思います。

 あらじんさんありがとう。いつか大分に来て、あなたの壮絶な30年間と今を語ってください。


2012.10.9 いろんなことがあった1週間

 ふとした瞬間(電話してみようかな?)と思い(もういないんだ)と気がつく時があります。まだ淋しさはこみ上げてきません。

 I先生は、私が初めて教員になって赴任した学校の先輩でした。子どものこと仕事のこと人との付き会い方を厳しく、優しく教えていただきました。父亡き後、私にとっては父親代わりでもありました。

 定年後は、趣味の写真を撮ることに専念していましたが、酸素ボンベをいつも携帯していなければならない難病が見つかりました。一人暮らしが困難になり医療つきのホームに入所したのは5月のことでした。

 4回目にお見舞いに行った時、部屋には鍵がかけられていました。(どうしたんだろう・・・)と不安がよぎりました。受付で病院に入院したと教えてもらいました。でもセキュリティーが厳重なホームでは、親せきでもない私に入院先を教えてはくれませんでした。

 写真関係の方から入院先を教えてもらったのは、翌日の夕方のことでした。(明日、絶対に行ってみよう)と考えていました。けれども翌朝早くにご親戚の方から亡くなった知らせをいただきました。前日に私が懸命に探していた頃が亡くなった時刻のようでした。

 写真の先生は、着物を着ていていつもの笑顔でした。いなくなった実感がわきません。一緒に働いた人や教え子の顔を見て涙があふれてきます。

 我が家ができた時、「とっておきの写真をください。」とお願いしたことがあります。しばらくしてご自慢の写真をもってきてくれました。それは、高崎山の猿の写真でした。かっと口を開けていました。寝室に飾ったのですが、どうも安らかな気分になれずに「もう少し優しい写真にして。」とお願いしたら、今度は有明海の写真を持ってきてくれました。モノトーンのような少し夕焼けがさしていて、ノリ養殖の竹が手前にあります。12年間、それを眺めて暮らしてきました。そのことを写真仲間の方に話したら「そりゃあ、猿の方がいい写真ですよ。賞をとった時のものでしょう。」と言われました。

もっといろいろ話しておけばよかった。まさかこんなに早く逝ってしまうなんて。おそらくご本人が一番そう思っているのではないかと思います。

 10月7日に恒例の「竹彩夜」(たけいろや)を行いました。前日のおでんづくりも豚汁づくりもみんな手慣れてきました。もう7回目になります。

 今年は「東野台ツリーを立てよう!」と男性陣が盛り上がりました。スカイツリーの100分の1の大きさで、6メートル34センチの塔を竹で作ると言うのです。夜、何度も打ち合わせをしていました。平均年齢を出すと60代になるでしょうが、まるで高校の文化祭の実行委員会のようでした。頼もしい男たちです。竹伐り、竹加工、竹組みと休日を費やしてやっと出来上がりました。

 小学生が眺めています。小さな子どもを連れたお父さんが携帯で写真を撮っていました。苦労は多かったけれど、楽しかったですね。お疲れさまでした。

 翌日は「佐脇健一展」にやっと行くことができました。

廃墟や砂漠をモチーフにしながら、鉄が繊細な意思を伝えていると感じました。硬くて冷たい鉄の精巧な形から優しさや温かさや慈しみを感じます。彫刻に対する概念が一変させられました。

 偶然にも佐脇先生にお会いすることができました。奥様は、私の高校時代の友人です。つれあいは、佐脇先生の高校の5年後輩にあたることがその時わかりました。Gパンをはき、帽子をかぶり全く飾らないこの方があんな作品を造ったんだと思うと、さらに感激が増してきました。

 大分市美術館で10月21日まで開かれています。

 館内では写真が取れないのが残念。チャイルド広場に置かれた 「ボルト・ドック」