2007.3.20 出会いと別れ、新しい旅立ち
大分から湯布院に行く途中に紅色の大木と白木蓮が例えようもなく美しい民家があります。そのむこうには、菜の花の黄色が映え、見事なコントラストです。ちょうどカーブに差し掛かるところで、うっとり見とれていると事故を起こしそうです。紅色の木は、ハナズオウと思われるのですが、正式にはわかりません。
また今年も3月を迎え、別れの季節で心寂しく花の彩を見ています。
県庁でお世話になった福祉保健部のK課長さんに出会わなかったら、今の私はなかったと思います。虐待や厳しい家庭環境の中で、自分のことを大事にされなかった。だから人のことも大事にしない、できない。学級崩壊のチャンピオンたちに向き合い、あるがまま受け止め、共感し、人間としての尊厳を取り戻させようと福祉の最前線で働く人たちに出会わせてくれました。その課長さんが退職されます。ついていきたいくらいの心境です。
教育委員会のT課長さんも大切な存在でした。委員会に対していつも意見を言ってきた私の話を、T課長さんは、私を直視しうなずきながら話を聞いてくれていました。きっと次の職場でもその人間味あふれた人柄でよいお仕事をなさることでしょう。でも別れはやはりつらいものです。
11月から車の運転手をしてくれたTさんとも3月16日に別れました。いまどきこんな好青年がまだいたのと思わせるほどの人物でした。私に子どもがいたら息子ぐらいの年なのに私たちは年齢を感じずに5ヶ月間運命共同体でした。よく笑い、時には一緒に怒り、同じものを食べ、車を止めて仮眠をしました。誰にもいえない私の愚痴を聞いてもらいました。反面教師をたくさん見ては、「あんなふうになってはいけないね。」と二人で支えあってきました。彼と別れた後、片腕をもぎ取られたような気分に陥りました。でも春から県庁マンです。幸多かれと祈っています。
私は今、52年生活してきて、人生で3番目くらいにつらく苦しいときを生きています。砂を噛むような惨めな時間。でも負けてはならないのだと自分に言い聞かせ、止まることなく歩んでいます。私にも桜は咲くかしら・・・
いえみんなで満開の桜を咲かせなければなりません。
2007.2.13 夕餉(ゆうげ)に豆乳を飲みながら
3ヶ月前のことです。夕方、玄関前で花摘みをしていると地図を片手に青年が隣のうちに入っていきました。でも、すぐに出てきました。今度は、前のうちに入って行きました。(うちにも来るのかしら)と考えているうちにすぐに出てきて私の前に立っていました。「見本の牛乳です。飲んでみてください。飲んだら玄関先に置いていてください。また回収に来ます。」彼は、牛乳屋さんでした。私は「いいです。ただなんて悪いから。それに牛乳は飲まないから。」と即答しました。その後の問答
私「アルバイトですか?」
彼「はい。卒業まで時間があるのでアルバイトをしています。」
私「大学生?」
彼「長崎から大分大学に来ています。」
私「就職はもう決まった?」
彼「県警に決まりました。」
私「大丈夫?縦社会よ。柔道や剣道はするの?」
彼「いえ、しません。でもがんばります。」
私「一日に何軒も契約が取れるわけではないんでしょう?」
彼「一日動いて1件取れれば良いほうです。」
彼の姿が、大分を離れて暮らす甥っ子や教え子とダブって見えました。
そして私は、豆乳なら飲めるからと契約書を書きました。
毎日、夕ご飯の時に豆乳を飲みながらその青年のことを思い出しています。
2月10日から12日まで「教育研究・全国集会」が別府・大分を会場にして開催されました。教研には深い思い入れがあります。あいさつ回りで忙しいのですが、わがままを言って、一日だけ出席させてもらいました。右翼の街宣車が集まっていていつもの街の空気と違っていました。警護の機動隊の方も1500人くらいいたそうです。その人たちを見ながらまたあの牛乳屋さんの青年のことを思い出していました。
右翼対革新勢力といった構図に見られるとしたら悲しいことです。
あるがままの子どもをまず受け入れたい。
子どもにやる気と自信を持たせたい。
子どもと一緒に授業や学校行事を創り出したい。
その喜びを仲間と分かち合いたい。
保護者としっかりとつながりたい。
それを語り合うのが、教育研修です。アトラクションで「サクラソウのうた」を歌った子どもたちがすべてを物語っていました。ステージに立った134人の子どもは、一般論としての子どもではなく、一人ひとり名前があり、育ってきた年月があり、育んできた家庭がある生身の子どもたちです。
そんな一人ひとりを当たり前に大切にする教育をしたい。揺るがずぶれず私はやっていかなければならない。涙と感動で震えながら子どもたちに背中を押された気がしました。勇気が凛々(りんりん)と湧(わ)いてきました。
2007.1.31 家族葬にして良かったですか
義母の訃報を聞いたのは、あいさつ回りの車の中でした。急いで家に帰り、つれあいと佐伯に向かいました。不思議と心の動揺はなく、この1か月と7日間頑張り続けた母のことを想っていました。
もしもの時、葬儀をどうするかということは姉夫婦と話し合っていました。
私には、苦い経験があります。13年前、父が亡くなった時、退職して5年しか経っていなかったせいもありたくさんの人がお参りしてくれました。通夜、葬儀、告別式と進行していく中で不行き届きの面がたくさん生じてしまいました。葬儀社さんの言われるままに動く私たちには、父の死を悲しむゆとりはありませんでした。2日間が過ぎた後、疲れきっていた私と弟は些細(ささい)なことでけんかをしました。母はその後のお礼のことで消耗してしまいました。だから今回は、打ちひしがれている父のためにも家族葬にしよう。ましてや私の関係者はみんな忙しくしています。その足を止めてはならないと決めていました。
家族葬とはいうものの何をどうすればいいのか誰も知りません。つれあいが喪主になり姉夫婦と私とおじ夫婦と3人の孫で、父が一番安心できる方法を思案しながら葬儀社さんに伝え、手作りの葬儀をさせてもらいました。我が家は浄土宗です。通夜の時のお寺さんのご詠歌は参列してくれた人たちの心に染み渡りました。
なんでもありの家族葬です。孫がお別れの言葉を述べました。子どもは泣くばかりだから私も嫁としてお別れの言葉を述べて最後をしめ、ちょっと存在感を示してしまいました。
私たちは、2日間葬儀社に泊まり込み、なんだか合宿のような共同生活。テレビも新聞も雑誌もない生活です。あるのは「大分の冠婚葬祭」という大分から持って帰った本1冊。生前の母を知っている人が来ては涙し、その後で、あんなことがあったこんなことがあったと思い出話で笑いが起こります。おばさんたちは、昔の話を孫たちに伝えます。夫婦や兄弟でこんなに語り合ったことは今まで一度もありませんでした。すべてを終えた時、家族の絆(きずな)が強くなった気がしました。つれあいと義兄をとても頼もしく思いました。潮谷寺(ちょうこくじ)の和尚さんに「本当に心温まる良いご葬儀でした。」と言われ、少しだけ安堵しました。
「お母さん、家族葬にして良かったですか?」と聞いてみたい気がします。
すべてが終了してから、新聞に死亡通知を出しました。議員だからお礼とは書けないことも知りました。
新聞に出したために逆に様々な方面の方にご迷惑をかけてしまいました。今も家に来てくださる方がいます。ご無礼を深くお詫びいたします。
明日からまたこれまでの活動に戻ります。つらいことや悲しいことがたくさんあるかもしれません。でもお母さんが教えてくれた自分を犠牲にしてでも人に優しくすること感謝する気持ちを忘れずにがんばっていこうと心に誓いました。
2007.1.6 静かな年の始まりです
新年明けましておめでとうございます。
年末に新年の原稿を書いて準備万端整えるという器用なことができず、ホームページの更新がこんなに遅くなってしまいました。みなさんは、どんなお正月をお過ごしになりましたか。
私は、暮れの30日まで挨拶をしていました。大掃除はできないと覚悟していましたので、8月に気になるところを入念にやっておきました。だから大掃除はなし。年賀状も書けませんでした。お花の生けこみも辻先生がご病気のため中止。玄関の靴箱の上には、いただいたユリとバラが不思議なコラボレーションの香りを放っていました。7ヶ月ぶりに大分に帰ってきた別府の母は、「やっぱり千両や南天がないと寂しいわね。」なら活けてくださいと言いたいところです。実のところ、今年はどこのお宅に伺っても赤い実のつきが良くうっとりしてしまいます。やはり縁起物だけは飾るべきだったと心がチクリと痛みました。
新年のお客様用に睦子さんのピザを6枚と岩田さん特製のおせちを用意していました。でも今年のお客様は、かなり飲んでいらっしゃったのかあまり召し上がりません。一番売れたのは、りんごでした。かなりのどが渇いていたのでしょう。今年は家族用にピザがゲットできました。
新年早々、お葬式の話はタブーかもしれませんが、31日にご葬儀に出席しました。大晦日の日でしたから参列者は少なく、静かな式でした。亡くなられたお父さんは生前こう言われていたそうです。「死とは、人生を卒業すること。葬式は、卒業式だから祝ってくれ。ベートーベンの第九をかけて送り出してくれ。」その遺言どおり、エレクトーン演奏の「歓びの歌」をみんなで聴きました。亡くなった方が、どんなに朗らかで弱い立場の人のために生きてきたかを想像しながら静かに聴きました。1年の締めくくりにふさわしい気がしました。そして心が少しだけ楽になれました。
佐伯の義理の母が、今、病気と闘いながら病院にいます。1年前から私たちは覚悟をしてきました。12月に急に容態が悪くなり何度も大分と佐伯の往復をしています。
結婚して25年。姑と嫁の少しデリケートな関係がなかったと言ったら嘘になります。でも私は、義母から一度もいじわるを言われたことがありません。
母は、口には出さないけれど生きていく上で一番大切なことは、自分を犠牲にしてでも人に優しくすることだと教え続けてくれました。そんな母が育てた人と私は暮らしています。母の教えを大切にしたい。何があっても受け止めなければならない。そう自分に言い聞かせながら年末から年始にかけて過ごしています。
賀来神社にお参りに行けたのは1月5日の夜遅くでした。境内には誰もいませんでした。お正月の賑やかな喧騒と遠く離れたところで、静かに私につながる人たちの幸せと心の平穏を祈りました。
どうぞ今年もよろしくお願いいたします。 |