2006.3.31 まだ見ぬあしながおじさん
2月27日に始まった第1回定例県議会が3月29日に閉会しました。
提出された議案は予算議案も含めて全部で79件もありました。随分説明を受けたり学習をしたりしたつもりですが、完璧に理解できている状況にはいたっていません。(もっと頑張らんかい!)と言い聞かせています。
最終日は、反対討論、賛成討論、委員長報告、採決、議長、副議長選挙などがありました。ずっと議場に居て3年前までは味わった事のない嫌な気持ち、居心地の悪さを感じていました。きっと私が政治に関わる人間として未熟だからでしょう。
3月は、人事異動の季節です。学校で離任式が行われている様がテレビや新聞で報道されています。知っている人が映っていたりするとジーンとしてしまいます。都町を歩くと花束を持って大勢の人に囲まれて歩いている人の姿をたくさん見かけます。県庁でもお世話になった方々が退職されたり、部を変わられたりしています。
28年間、人事異動というものを自分でも経験し、見てきましたが心穏やかに過ごせた年は一度もありませんでした。悲喜こもごもの中で桜は散って行き、新しい若芽と共にみんな新しい環境に慣れていくのでしょう。
議員になってからいろいろな方からお電話をいただきます。叱られる事5%。励まし60%。依頼されること35%といった状況です。
その電話は、1年程前にかかりました。声の主は70歳近くだと思われました。電話の中身は平松県政と数々の箱ものを許してきた議会に対する批判でした。わたしにはどうすることもできず、「はい。はい。」と聞いていました。また数日してかかってきました。私のことを立候補する前に見ていたこと。体は小さく大丈夫かなと思っていたけれど案外元気そうだとも言われました。議会だよりを送る事にしました。それから月1回くらいのペースで電話がかかりはじめました。話題は小泉政権や大分県政が主です。稚拙な議会だよりに対する感想も述べられます。言われる事が的を得ていて感心させられます。そして最後に「良い声が出るように歌の練習をするといい」「できるだけいろんな所に行って顔を売るといい」「新人なのだから疲れるだろうけれどがんばりなさい」と励まされます。私が質問に立つ日に傍聴に来てくれていた事も後になってわかりました。それでも正直なところ会ったこともない人と話をするのは不安でした。
月1のペースが週1になり、朝7時前だったりすると正直ちょっと不安になってきました。自宅だけでなく事務所や議会の控え室にもかかるようになり長時間の電話は少し周りの人に迷惑をかけそうになっていました。
そこでお正月につれあいとご挨拶に伺いました。でも不在で会う事はできませんでした。
今は、2〜3週間に一度電話がかかってきます。わたしが知っているのは、名前と電話番号と住所と立派な家だけです。不思議な事に電話が一度リーンと鳴っただけで(あっBさんだ!)となんとなくわかるのです。
議会が終了した次の日に電話がかかってきました。もう怖くはありません。私は、先輩に話すように今議会で感じたことを素直に語りました。じっくり話を聞いてくれます。そして最後にこう言われました。「議会とまったく違う事をして自分を休める事も大事ですよ」
だから昨日は、ジュンクドウに行って思いっきり本を買ってきました。しばらく原稿書きが続きますが同時並行で本を読みます。そしてお便りができたらお届しようと考えています。
2006.3.7 ときめき「15才の春」
梅がどこの庭にも見事に咲き、白もくれんが今にも咲くぞと顔を覗かせ、桜のつぼみもほんの少しふくらんできたのにまた寒さが戻ってきてしまいました。
3週間前、養護施設の職員の方の研修会に参加しました。
一時保護所の甲斐課長さんから「この会の夜の交流会に参加するといろいろな話が聞けますよ。」とわざわざお電話をいただき、締め切りは過ぎていたのですが、無理を言って入れてもらいました。
行政主催の会は、どちらかと言うと硬く形式ばったものが多いのですが、その会では、本音が語られ、悩みや迷いや情熱にあふれ、私がずっと身を置いてきた教育研究会と通じるものがありました。でもそこで語られていたこと、そして子どもたちの生きてきた現実は、あまりにもつらい事柄でした。
1週間して大在の自立支援ホーム「ふきのとう」を尋ねました。そこでも想像を絶する子どもたちの生き様と何とか支えようとするひたむきな大人の姿を見ました。
まだ頭の中で整理ができていないのでそのことを今日は綴れません。
安易に入っていけない壁のようなものを感じ、鼓動は激しくなるのに涙も言葉も出ませんでした。
あまりにたくさんの人やいろいろな事象に出会い、自分の感性が鈍ってきているんだなと情けなく思いながら生活していました。
3月3日は、賀来中学校の卒業証書授与式でした。
いつも通りグランドに車を入れようとすると、中学生が誘導している姿に出会いました。「ありがとうございます!」手をぐるぐる回しながら誘導してくれます。「おーい、また来たぞ!」
門出の式を成功させようと懸命に仕事をする1年生の勇ましくなんと愛らしいこと。
受付にも1年生がいて、はにかみながら仕事をする姿にまたうっとり。
車を誘導する在校生
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受付の在校生
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校長室に入ると地域の方々が揃っていらっしゃいました。でも、職員室のほうが居心地が良くてちょっと失礼。先生方が昨日のお別れ式のことを話していました。胸に花を着けた3年担任の田崎先生と志水先生の傍にいると緊張が伝わってきます。夜中まで生徒指導した日のこと、早くから背広を着てやってきたお父さんのこと、ギターを弾いた生徒のことわずかな時間の中で感慨深げに語られる様子から何も知らない私までしみじみとなってしまいます。
賀来中学校は、2クラスだけです。少規模校ゆえのきつさがあります。でもそんなことを微塵も感じさせない心温まる卒業式でした。
私の教え子は一人もいないけれど、友人の子ども、団地の子ども、一緒にミニバレーをした子どももいます。59名が胸を張って一歩ずつ壇上を歩いていきます。女子はこの日とばかりにおしゃれした髪型です。男の子の3年間着た制服のズボンが光っていました。1年に入学した頃、長かった上着の袖丈はいつの間にか短くなり、その下にはシャツやセーターが見えました。
感謝あふれる送辞。託す言葉に満ちた送辞。参加できなかったけれど雨の体育祭や文化祭の合唱コンクールがどんなに素晴らしかったかがわかりました。『別れの歌』『喜びの歌』歌の途中、葛城君の語りかけは、神が宿ったのではと思わせるくらい見事でした。全員合唱『そのままの君で』ヒートアップしていく中学生たち。感動の中で涙が止まりませんでした。
ひたむきな15歳、不安をいっぱい抱えた15歳、良くぞここまでがんばった15歳、感性の鈍りかけていた私の心を揺り動かしてくれました。どんな花よりもどんなきれいな言葉よりも輝いていた15歳。明日は、公立高校の入学試験です。健闘を祈ります。
埼玉から帰ってきた母が、白内障の手術を受けることになりました。入院は1ヶ月も先のことなのに入院のための書類を書きに実家に帰りました。
書類の中に「あなたが一番頼りにしている人」を記入する箇所がありました。母は、誰の名前を書くのかしらと考えています。私の一番頼りにしている人は誰かしら。あなたの一番頼りにしている人は誰ですか。
2006.2.23 あきらめきれない数珠の紛失
今年もクロッカスが咲きました。言葉で表現できないくらいはっきりとした美しい黄色です。花のことを良く知らないつれあいが、一番先に見つけたので嬉しそうでした。
私が一番よく使うものは何だと思いますか。それは数珠です。数えたことはありませんがこの3年間で200回以上葬儀に参列しました。結婚式には1回も出たことはありません。議員になりたての頃は、来賓席に座っても落ち着きませんでした。今でも苦手です。そういう席を設けない式もあります。その時は、安心して座っていられます。初めの頃は、父と同じ年代の方だとどうしても父のことを思い出し、涙が出てしょうがありませんでした。働き盛りのお父さんやお母さんを亡くして、遺族の中に学生や幼いお子さんがいるとつらくてしょうがありません。
先週、初めて教会での通夜に出席しました。若い頃、私のことを可愛がってくださった先生の義理のお母さんが亡くなりました。その方にお目にかかったことはありませんでしたが、神父さんがお説教の中で詳しく人となりを教えてくれました。幼い頃洗礼を受けたこと、満州に行っていたこと、戦後引き揚げてこられ、この教会で30年以上保母さんとして子どもたちを育ててきたことなどを伝えられると91年の人生を想像していました。生まれてはじめて聖歌を4曲歌いました。楽譜がついていたので何とか歌えました。最後に献花をして外に出ると1時間20分が過ぎていました。仏教とはだいぶ違います。
そんな私にとって必需品である数珠をバッグごとなくしてしまいました。2月4日のことです。団地の作品展に私たちは、大鍋大会をしようと計画を立てました。豚汁を作ることになり朝から大忙しでした。運の悪いことに訃報の連絡が入り、明日は会議で出席できないので夕方抜け出してお通夜に行きました。帰りに打ち上げ用に『チャイナルド』に寄って肉まんと高菜まんと餃子を買い込み、急いで公民館に戻りました。次の日、バッグを探すのですがどこを探しても見つかりません。きっと酔ったつれあいを車に乗せた時に助手席のドアから落っこちたのだと思います。
バッグは15年前トキハで買ったものです。9500円でした。当時は高級だと思っていました。少しも古くなってはいないのですが、「もういいか。」と諦めがつきます。でも数珠だけはどうしても諦めきれません。去年の今頃、会派で北陸に研修に出かけました。私は大分市議選の後で、代表質問の原稿が間に合わず、行くことがかないませんでした。ちょうど祖母が東本願寺で買ってくれた数珠の糸が切れていた時でした。だからお土産に数珠を買ってきて欲しいとお願いしました。永平寺で買ってくれたものです。水晶の2連で紫の房がついています。とても気に入っていました。団長の顔を見るたびに(ごめんなさい)と心の中でつぶやきます。
今は、妹のものや母が貸してくれたものを使っていますが、どうも手に馴染みません。以来、葬儀に出ると女性の数珠ばかりに目がいきます。あらためて数珠もいろいろあることがわかりました。水晶、珊瑚、メノウ、真珠もいいかなと思ったりもしますが、そそっかしい私のことですからそのうち家の中の思いもかけないところから出てくるかもしれません。今は戒めのためにしばらく借り物で我慢をしています。
3月14日(火)に一般質問をします。午前中の2番目です。今日やっと原稿を書き上げました。頭の中では40,000字ぐらいが行き来をし、それを8,000字にまとめましたがまだ長すぎます。明日からその原稿にいのちを吹き込まなければならないと思っています。どうぞお時間がありましたら傍聴にいらしてください。
2006.2.2 悩み続ける「私の子どもたち」
日差しが春めいてきました。少しだけ心がうきうきし始めます。
昨晩つれあいが、欲しかった「ターシャ・チューダー」の本を買ってきてくれました。ページをめくるたびにため息が出るのですが(いつの日かきっと私も…)と花づくりへの野望がむらむらとわいてきます。
年が明けてまだ1月しか経っていないのにもう何ヶ月も過ぎたような気がするのは、忙しすぎるからでしょうか。この1月間どうしても頭から離れないことを今日は綴ります。
子どもに恵まれなかった私にとって弟妹の子ども、4人の甥っ子は宝物です。4人はそれぞれ高校2年生、大学1年生になり小さいころ抱っこした姿とは想像もつかないくらいでかくなってしまいましたが、今が一番美しくそして危うい時期です。しっかり見守らなければ…と不安もあります。
埼玉に住んでいる弟はクレイマー・クレイマー(男手一人で)で2人を育てています。一年間、食料をクール宅急便で送りながら自立を支えてきたつもりですが、母は自分の目で見て、手を出さなければ病気になりそうだと一年の数ヵ月を埼玉で過ごしています。私も上京する時は、時間をやりくりしてできるだけ弟宅を訪れるようにしています。
下の子は小さい頃から手のかからない良い子でした。難関を突破して高校に入り、そのままいれば大学までストレートに行けるかもしれないのに「僕は、中学3年の時に勉強をやり尽くした」そして「大学にはいかない」と宣言し、学ぶ意欲を失って1年近くが経ちます。もったいない気もしますが、進路を自分で決める事は尊重したい。でもきついことから逃げているようでなりません。どうしたら自分を大切にすることができるのか。何がそうさせてしまっているのか。私たちはどうしたらいいのかいつも考え続けています。「渋谷で白い粉なんかもらうんじゃないよ」と言うと、「僕はそんな事はしない」とはいうものの心配な子どもを持つ親の気分です。出張で2週間前に行った時、犬に優しく接している様子を見て、ほっとしたものの母は以前のような優しいばあちゃんではなく、ちょっとうるさいお母さんになっていました。そのことも悩みの種です。
弟の家から帰りの電車に乗った時は、夜10時30分を過ぎていました。小学校高学年と見られる男の子が一人で乗ってきました。塾の帰りでしょうか、デイバックから菓子パンを取り出し食べ始め、「おーいお茶」で飲みこんでいました。甥っ子もあんな風に過ごしたのだろうかと思うと胸が痛くなり涙が出てきました。
友人の子どもが、卒業目前にして学校にいけなくなっていると聞いたのは昨晩のことです。この3年間、何人の子どもの不登校を知ったことでしょう。その度にあなたが悪いんじゃない。あなたの感性は正しい。こんなにもストレスを抱えさせてしまう教育制度や社会に問題があるんだ。と何もできない自分を恥じています。
耐震強度偽装の次は、ライブドアの粉飾決算、米国産牛肉問題、東横イン、
麻生外相の天皇の靖国参拝発言。何でもありの日本です。これでもかこれでもかの日本です。その度に関係者の居直った態度に憤っていました。
防衛施設庁発注の談合、そして米海兵隊から日出生台の実弾砲撃訓練でライフル、小銃を使いたいとの要望。一番テロの危険にさらされているのは海兵隊だそうです。米兵を守るため、今回6回目の訓練については福岡防衛施設局から正確な情報は一切入ってきていません。どうして米兵がテロの危険に合うのですか。その根源はブッシュ政権ではないのですか。どこまで日本をばかにしたら気が済むんですかと怒りに震えています。
「断固お断りしました」という知事のコメントに救われた気がします。でも受け入れ側住民がどんなに反対しても国どうしの取り決めでどうにでもなるとアメリカ軍は考えています。
沖縄の痛みを分散しましょう。そのため全国5箇所での演習のはずでした。しかし沖縄の痛みは縮小されず、大分の日出生台演習は基地化、拡大されそうになっています。
私たちは、弱い、ちっぽけな存在です。でも身の回りの安心・安全、平和でそして自由でいられるよう声を出し続けて行きましょう。
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日出生台の実弾砲撃訓練拡大を受け入れないよう申し入れる。 県庁 2月2日 |
2006.1.5 四苦八苦純子、今年も頑張ります!
新年明けましておめでとうございます。
今年のお正月は、大分は穏やかな天気に恵まれました。皆様はどんな新年を迎えられたのでしょうか。私の暮れから新年のことを少し綴ります。
暮れまでかかった原稿4本を全部手放すことができたのは、12月26日でした。それからが大変。市がごみを回収してくれる30日までに大掃除をしなければなりません。夏に少しは手をかけていたのですがやはり、あそこの隅。ああ倉庫の中・・・と気になるところばかりで三日かかりました。終わると手はかさかさになっていました。
27日はお花の生けこみ。1年に1度だけ別府の辻先生のところにお稽古に行きます。私は、平岩華翠(かすい)という名前までいただいているのにたくさんの花材を琳派調に生けるとつい先生の手が入るのを待ってしまいます。この依頼心の強さはお稽古を始めた27歳の時から変わりません。一緒に行く80代の手島さんの方がうんと躍動感溢れる花を生けられます。「花にも個性が出るのよ」と先生の言葉。僅か半日ですが先生の元気な姿を見ながら甘えられる瞬間が私には何よりも大切な時間です。
買出しに町に出たついでに1年間がんばった自分へのご褒美(ほうび)に器や『しば』で前から気になってしょうがなかったお皿を2枚求めました。
脇元さんお勧めの高村薫さんの「新リア王」上下二巻も買いました。朝日新聞に載っている高村さんの原稿には陶酔させられるのですが、本は難しい。初めから読めない漢字が出てきて四苦八苦しています。
31日の紅白歌合戦をつれあいは「みのもんたは、しゃべり過ぎ!」とぼろくそに言いながら見ていました。「視聴率は低いぞ!」と業界の人は気になるようでしたが、「あんたも飲みよ」と言われて飲めないお酒を飲んだ私はふらふら状態。年越しそばの準備もできませんでした。もうお酒は飲みません。
元旦には恒例の7名のお客様がいらっしゃいました。おせちでは太刀打ちできないので我が家は昨年からピザと決めています。『麦の家』の睦子さん特製のベーコンとハム、佐藤ファームの有機野菜をモッツァレラチーズを載せて焼くと自分で言うのも変ですが病み付きになるおいしさなんです。
約束の時間よりも20分も早く来られたので私は大パニック。「ピザまだ?」と催促されながら4枚がまたたく間になくなりました。来年から6枚焼かなければ足りません。
2日に別府北部中学の同窓会がつるみ荘でありました。私たちはずぼらなのか誰もお世話をする人がいなくて卒業して36年間、一度も同窓会を開いていませんでした。髪の毛が白くなっていたり薄くなっていたり、道ですれ違っても同級生だとは気づかないほどみんな変わっていました。でも、じっと見つめていると幼い頃の顔が思い出され不思議なことに名前が口からぽんぽん出てきます。
英語の伊東護先生が来てくださいました。そして挨拶でこう言われました。「この中にはうんと金を持っている人もいるだろう。そうじゃない人もいるだろう。社会的に身分の高い人もいるだろう。そうじゃない人もいるだろう。でもね、同級生はみんな平等なんだ。それが同級生なんだ。」いい言葉です。
「遠嶋(私の旧姓)だろ?もっと背が高くなかった?」と何人もの男の子に言われました。そう私は早太りだったのです。小学生の頃はいつも後ろから2番目。それが中学に行くと真ん中くらい。高校になると前の方に並んでいました。幼なじみの中では構えることも緊張することもない。なんと心休まる空間なんでしょう。あっという間の2時間30分。新年早々こんなに懐かしい人たちに出会わせてくれた役員さんに感謝。
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3年8組・9組の同級生と 伊東先生を囲んで |
1月4日から仕事始め。この原稿を打っています。
どうして苦労しながら議員の仕事をしているのか。昨年よくその壁にぶち当たりました。きっと自由でいたいからなんだと思います。自分の思いや考え、行動を制限されずのびのびと生きていけるそんな世の中でなければならないと考えているからなんです。
そしてもうひとつ。甥っ子が昨年修学旅行でシンガポールに行きました。帰ってくる前日「可哀想にもう帰ってこなければいいのに。」と妹に向かって言っていました。何故なら今の日本は、子どもたちが育つにはあまりにもひどい国だと考えるからです。短時間の間に目に見える成果だけを求められる。一人ひとりがじっくりと大切にしてはもらえない。それでも子どもは生まれる時代も生まれる国も選ぶことができません。それなら今目の前にいる子どもたちにとって少しでも良い国にしていく責任が大人にはあるのではないかと思っています。
「ときどき日記」をいろんな人が読んでくださっているということを昨年知りました。人の顔が目の前をちらちらしてパソコンに向かっても打てない時期がありました。軸足がぶれてはいけない。原点に戻ろう。今はそう思っています。今年も自分の思いを素直に綴っていきます。よろしくお願いいたします。 |