ときどき日記/バックナンバー 2003年 9月・8月・7月

2003.9.28「励まされています」

 「ときどき日記」は、選挙中からどんな時でも書き続けてきたつもりですが、この1カ月まったく手つかずの状態でした。今日、パソコンを開いてみると832人の人が読んでくださっていました。一人でも読んでくださる人がいる限り、思ったことを素直に綴(つづ)ろうと反省しています。

書けなかった理由

● 県議会だより第1号「わたげ」ができあがりました。2万枚印刷し、1万4千枚は私の出身である県教組大分支部の仲間が配ってくれます。残りの6千枚を自分で配っているのですが、この仕事にかなりの時間がかかっています。
●9月10日から県議会が始まりました。今回は、前回の時よりも一般質問で語られる内容や答弁を理解できるようになってきましたが、“教育”や“ジェンダー・フリー”についてどんな質問が出されるのか、胃がキリキリする思いで議場に臨んでいました。今回は行政改革についての質問が多く、それもまた重たい気持ちになりました。(詳しくは「わたげ2号」に書きます。)議会から帰ってくるとくたくたになっている自分がいました。
●「学力テスト、大賛成です」と、抗議の電話をいただきました。私や教職員についていろいろ非難され、「直接会ってお話しさせてください」と言いましたが、聞き入れられず、心がへこまされしばらく落ち込みました。

 私は新しい環境への順応性が極めて低く、負荷がかかりすぎると身動きがとれなくなるんだと、自己分析できました。

 しかし、私にとっては厳しい日常の中で、心あたたまる出来事も数えられないほど起こりました。
 環境のこと、食品のこと、夢を持ち続けなければと教えてくれた谷さん。ゆっくり話を聞いてくれた菅さん。由紀ちゃんの弾くピアノ・「家族みんな応援してます」と言ってくれた工藤さん。「後援会だよりをもっと持って来てください」とお電話をくださった溝口先生。ファックスをくださった、かなちゃん、りん子ちゃんのお母さん。等々、お会いする人たちに認められ、励まされ、立ち直ることができました。
 行政や議会で語られることを、生活する人の視点で、身近なものにしていくことが私の仕事なんだと感じています。

 おととい下郡病院の組合の定期大会に参加しました。夜7時開会でした。何度も伺っている下郡病院ですが、夜は初めてです。そこでは、憲法も自衛隊もイラクも語られず。勤務労働条件・労働協約・再雇用等、自分たちの置かれている状況が語られ、労働組合がどうして必要なのかが明確にされていました。眠っている人は一人もいません。大爆笑の中で2時間の会が終了した時、私はこんなにも心あたたかい人たちに支えれて選挙をしてきたんだと改めて頭が下がる思いをしました。

 そして今日、大好きな横瀬西小学校の大運動会。来賓席にじっとしていられず準備係の子どもたちと体を動かし、たくさんのパワーをもらいました。ちょっぴりたくましくなった高学年の子どもたち。一心に演技し、かけぬける低学年の子どもたち。組体操の“へびのぬけがら”の見事さ。昨年は開会式で立っていられなかった子が一緒に体操をしています。ひろちゃんのりりしい姿に涙々。大人をも唸(うな)らせる名アナウンスは内田君。転んでも起き上がって走り続ける健ちゃん、拓くん。そして「先生、俺のことちゃんと見ちょってよ!」と高松健ちゃん。

 “子どもが本当に大切にされる”そんな教育環境をつくるために、私は弱音なんか吐(は)いていてはならないと、自分に言い聞かせていました。
 10月から苦手な視察がめじろおしですが、がんばります。どうぞこれからもよろしくお願いします。


2003.8.10「風化させてはならない記憶」

 
「日本の役所には、ないより悪かったとしか言えないものがしばしばある。狂牛病の農水省。労働者の大量生産ばかりやってきた文部省。エイズ薬害の厚生省」と言われたのは、沖縄大学の宇井純教授ですが、もう一つつけ加えるなら「プロミン」がハンセン病の治療効果があるとわかっていたにもかかわらず、世界の流れに反して1953年「らい予防法」を制定し、隔離政策をさらに強めた厚生省。
 2年前の熊本地裁での判決前夜、私は、支援者の会が開いた集会に参加し、全国に13の国立療養所があることやハンセン病を持つ人たちが忌み嫌われた時代を知りました。
 翌日の勝訴、そして国の控訴断念、と感慨深く受け止めていましたが、日常のあわただしさの中で、ハンセン病元患者の人たちのことは、少しだけ遠のいていました。
 今年の夏、学校の先生方と一緒に熊本の菊池恵楓(けいふう)園を訪れることができたのは幸いでした。恵楓園は、今年で90周年を迎えます。国立ハンセン病療養所の中では、最大規模で62万平方メートルの敷地に治療棟・病棟のほか住居・教会・公園・スーパーマーケット・理容店等があります。今でこそ車を運転する元患者の方がいますが、当時は運転する人はいなかったので広い敷地の中に信号機は一つもありません。
 ある日突然、白衣を着た人たちが家に来て消毒をされ、連れてこられた子どもたち、我が子と引き離された大人たち。高い壁の向こう側に逃げ出しても連れ戻され、名前を変えられ、軽い患者が重度の人のお世話をさせられ、結婚は許されても子孫を残すことは許されず、断種・中絶手術が行われていました。死んで骨になっても故郷に帰ることはできずその無念の人生を想うとき、セミしぐれの中で涙が出ました。
 大分からも53名の方が入所されていますが、一人しか里帰りをする人はいません。その女性がずっと以前にこんな話をしてくれました。「毎年、年末には、県からお見舞金が1万円届きます。その時、これが私と故郷を結ぶ唯一のものだとうれしくなるんですよ」と、あまりにもつらい話でした。
 2年前は、強い世論があったから国は訴訟を断念しました。しかしマスコミや世論が弱まると補償問題の解決は、進みません。
 「ほんとうの和解成立は、療養所を出た元患者に経済的にも精神的にも支援の体制が確立した時です」と、ずっと支援活動を続けている御手洗さんが言ってくれました。決して風化させてはならない歴史です。

元患者の方から話を聞く


広い敷地には、信号機がない




2003.7.23「やっと夏が来た」

 
梅雨がなかなか明けず、九州各県で集中豪雨の被害が報告され、胸を痛めています。
 昨年までの7月なら学校で汗をダラダラかきながら子どもたちに「プールに入るよ。もうちょっとがんばろう」と声を掛けていたのに、今年からそういうわけにはいきません。
 議会棟はエアコンが効きすぎていて夏物の服では凍りついてしまいそうで、春物を引っ張り出して通勤しています。省エネ・節電と叫ばれながら一体どうなっているのかしらと不思議に思います。

 7月18日に議会で初めて一般質問をしました。「学力検査の問題」「30人以下学級や複式学級の解消」「障害者支援」についてです。
 県教育委員会は、今回の補正予算で11月に小学校5年生と中学2年生に全県一斉の学力テストを実施する事業を打ち出しました。いわゆる学力テストは、たくさんの問題を持つもので文献や先輩の話によると、1960年池田内閣の高度経済政策を支えるための政策テストとして世に出てきたのが学力テストでした。
 子どもたちの基礎・基本定着状況の把握のためと言われながら検査結果の扱い方によっては学校を混乱に巻き込み、テスト結果の数字が一人歩きし、子どもの全人格が点数で評価される危険性もあると訴えました。しかし、タイミングよく別の議員からテスト推進論が出て、翌日の合同新聞が大きく取り上げた次第です。
 測定可能なものだけを学力ととらえることに私は不安を抱いています。
 いずれにしても子どもたちが点数だけで評価されテスト競争に追い込まれたり、学校の主体的で創造的な運営が疎外されないようにがんばります。

 「イラク特別措置法」が23日に参議院を通過しそうです。
 イラクは全土が戦場と化していて、昨日も誤爆によって家族を失った婦人の泣き叫ぶ姿がテレビに映っていました。そんな所に自衛隊が出かけていって、命が守られるのでしょうか。わが身を守るために人を傷つけずに帰ってこれるのでしょうか。もしもの時には1人1億円が支給されると聞きます。
 今週の日曜日に駅前で反対のための座り込みをしました。バスに乗っている人がチラリと見てくれるだけです。ビラ配りもしましたが、誰も危機感を持っているとは思えません。駅前の商店会長さんが「私はイラク特別法に反対です。応援します」と声をかけてくれたのが、印象的でした。
 座り込みをしている時に初めてセミの鳴き声を聞きました。
 今年は厳しい夏になりそうですが、がんばりましょう。

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