2005.9.12 私たちに問われているものは?
夜、うちに帰り着くと、居間のテーブルの上にメモ用紙が置いてありました。「しょうゆ大6 みりん大6 30分つけこむ」と書いてあります。何を漬け込むのかしら。と冷蔵庫を開けて見るのですがわかりません。そうこうしているうちに自治会の役員会から帰って来たつれあいが「ごめん。ごめん。今から準備をするから」と言ってマグロのブロックを取り出しました。40分後にまぐろ丼が出来上がりました。かなりのおいしさでした。
衆議院が解散になって、私の周りもにわかに忙しくなり、食事の準備がどうしても最後になってしまいました。
本当なら8月の終わりから9月にかけて、横浜港で輸入食品の野積みの様子や、公害問題の原点を探りに足尾銅山に行く予定でした。三重県の高次脳機能障害者支援の学習にも出かけるはずでした。それらがすべてキャンセル。キャンセル料を払う時、小泉さんに払ってもらいたいと怒り心頭でした。
週末からつれあいが作ってくれた献立は、ナスとピーマンと豚肉の味噌いため、塩さば、マグロ丼、かぼちゃの味噌汁、のろけているわけではありませんが、つれあいの自立ができていくことだけは、今回の解散での収穫です。
今回の衆議院選挙に対する考えを少し綴(つづ)ります。
国会での郵政民営化関連法案の審議の様子、衆議院での可決、参議院での否決、そしてまさかの解散。その後、自民党執行部の反対票を投じた議員へ「刺客」を送り出すドタバタ劇、そんなことをおもしろおかしく扱うテレビ放映を見せられながら、またしてもなんと言う国に生まれたんだ。民主主義はどこに行ってしまったんだ。と憤(いきどお)っていました。言葉で表現できない嫌悪感を抱いて生活をしていました。
とりわけ男女共同参画と謳(うた)いながらまるで政治の調整弁のように女性を立候補させています。そしてそんな官僚、エコノミスト、カリスマ主婦、大学教授たちが、口をそろえて「小泉総理を全身全霊でお支え申し上げます」などという姿からは、おぞましいものすら感じてしまいました。
「郵政民営化をはじめとする改革をすすめるのかそれを止めるのか」と小泉さんはいつも叫んでいます。でも構造改革という耳障りのいい言葉で小泉内閣が4年4ヶ月なにをすすめてきたでしょうか。
大人社会は、所得格差、社会的格差が広がり、「勝ち組、負け組み」の競争社会に変質してしまいました。大企業は、リストラし放題。完全失業者は、300万人。不安定な身分の非正規労働者は1500万人に膨(ふく)れ上がっています。経済的理由を主にした自殺者が3万人以上という数字が続いています。私は、この3万人という数字を見るたびに、小泉政権によって殺された人たちだと思ってしまいます。
働く世帯の収入は減り続け、今では、生活保護基準以下といわれる年収200万円以下の世帯が、17%にもなっています。
知り合いのお母さんは、一人で子どもを育てています。昼間の仕事だけでは将来が不安だからと夜、居酒屋でアルバイトをしています。そんな生活を7年近く続けています。
一人で暮らすお年寄りもふえてきました。ガスを使って調理することは危なっかしいからとお弁当をとって食べています。1回につき700円のお弁当。市が半分補助をしてくれます。本当は、昼と夜と2回とって食べたいけれど、年金生活でぜいたくはできない。1回だけとって昼と夜に分けて食べているそんな厳しい生活を強いられているお年寄りがいます。
今回の選挙費用で国から大分県に来た国庫支出金は8億円です。日本全体で800億円だそうです。私たちの税金がもっと有効に使われたらと残念でなりません。
162回通常国会には「障害者自立支援法」という法案が提出されていました。名前はまことしやかなのですが、応益負担という制度を盛り込み、例えば、月額6万円くらいの障害者年金をもらっている人が、自立をするためには8万円手出ししなければならなくなる内容でした。親元を離れてどんなに小さくてもいいアパートを借りてヘルパーさんに支援してもらいながら自立をしたい。そう願う障害を持つ人たちに「生きていくことはできませんよ」と突きつけるような法案でした。衆議院が解散になったので廃案になりましたが、厚生労働省はすぐに提出してくるでしょう。
成果主義、自己責任、がんばり続けなければ、人は、生きていけないのでしょうか。弱い立場の人を切り捨ててしまうそんな社会をだれが望んでいるのでしょうか。そして大人社会だけではなく、子どもたちまでもが点数だけではかられる狭い学力観にたって、競争、競争へと追い立てられています。そのことがどうしても許せないことです。
小泉政権は、郵政改革の次は、農協改革、農地制度改革に手をつけるでしょう。地域から役場がなくなり、学校がなくなり、郵便局がなくなり、農協がなくなる。そして平和憲法にも手をつけるでしょう。
「なんとかしなければ」とあせりつつ、しかしじっくりと一人ひとりが身のまわりから「小泉さん流テレビショー政治」にだまされない目を養(やしな)っていかなくてはならない、と思っています。
2005.8.10 永六輔さんが読む“反戦の詩”
永六輔さんの講演会がありました。永さんは、その時に同じ詩を4回朗読されました。あまりに素晴らしかったので少しでも多くの人に読んで頂きたいと願い、ここに記します。
笠木 透
私たちは無告の民です。
あの戦争で最もよく協力した私たちは、最も大きな犠牲を払いました。
その言葉にもならないほどの苦しみを誰に告げることができたのでしょう。
戦前戦中、「お国のために」と叫んで、私たちを導いたえらい人たちは、私たちの声を聞こうとしたことが一度でもあったのでしょうか。
アメリカ軍が上陸した沖縄で、ソ連軍の戦車が迫る北満(中国東北部)で、原爆の焼け野原で、国は私たちを助けようとしたことがあったのでしょうか。
私たちは、いざというときに、たよりとするところを持たず、ただオロオロと逃げまどうしかない無告の民です。
多くのものは家族を失い、茫然自失のどん底で、のたうちまわり、はいずりまわって生きのびるしかなかった無告の民です。その子どもたちです。
それでもこの国を捨てなかった。それでもこの国が好きで、この国を愛してきた。
なんという愚直、なんという純朴。わがことながら、笑ってしまいたくなるほどの、愛すべき人間性。
だが、その心根を この国は卑劣にも、再び利用しようとしている。
私たちはその意図を許すことができません。
私たちは学んだのです。あの戦争を止めることも終わらせることもできなかった、私たちの無力さと無惨さを。
私たちは心に刻んだのです。もうどんなことがあっても、戦争はしない。
私たちの手は、銃を握るためではなく、箸や鉛筆をもつためにあるのだと。
2005.7.23 人工林と流木と鉄砲水
7月8日から10日まで東京に研修に行っていました。つれあいと夜に電話する中で「とにかくすごい雨なんだ」と聞き、また家が漏るのかなと心配していましたがまさかこんな鉄砲水が出て、被害が大きくなるなんて思ってもいませんでした。次の日のテレビのニュースで日田、九重に甚大な被害が出ていることを知りました。
帰ってきて、すぐにでも現地に行かなければとも話し合いました。私たちが伺うと、土木事務所の方々が対応してくれます。一番忙しい時に仕事の手を休め、対応していただくのはしのびないと判断し、少し時期をずらして、1週間後に被災地に行ってみました。
九重地域
県道で7箇所道路が削られ、全面通行止めになっています。みんなに親しまれてきた緑生い茂る涌蓋(わいた)山に2本爪を掻いたような白くなった線がはっきりと見えます。そこから流れ出た木々と土砂が橋の欄干にかかり、行き場のなくなった水が田畑に流れていったことがわかります。土砂に浸かった田んぼでは収穫は難しいと思いました。これからこの田をもう一度水田に戻すのにどれだけの苦労があることかと胸が痛みました。
石原川現場
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筋湯温泉
温泉街の中を通るだらだら坂に鉄砲水が出ました。道沿いの旅館を襲った土砂は取り除かれ、4日後には、再開した店もあるとのことでしたがどんなに情けない思いで水を流し続けたことでしょう。消毒の匂いがしていました。旅館の主は、川の法面(のりめん)を埋めている野面(のずら)石とコンクリートの割れ目を指摘していました。川には皮を剥がれた杉の木が根っこをつけたまま転がっていました。山には伐採したままで残されている木が多くあり、それがまた流れてきたら同じことの繰り返しだとも伝えてくれました。お客さんの自動車も水に浸かりその補償問題も課題です。
上津江町
大雨洪水警報が出されたのは夜中の2時30分です。市役所の人が役所にたどり着くので精一杯だった。避難勧告を出しても真っ暗な中、バケツをひっくり返したような雨の中で高齢者が避難できたかどうか・・・と苦しい胸のうちを語ってくれました。土砂に埋まった家は片付けられ、ユンボが炎天下の中働いていました。ここでも人が亡くなったと思うとデジカメのシャッターをなかなか押せませんでした。
上津江町の被災地
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被害総額は約63億円。激震災害として知事も最優先で復興に取り組んでいくことを伝えられています。私は、林業のことは専門家ではありませんが。戦後、針葉樹林ばかりを植えてきた林業政策にも問題があったのではと感じています。杉を植え、ヒノキを植え、でも木材価格の低迷する中で、間伐、枝打ち、下草狩りは行われず、山は荒れてしまっています。国内の60パーセントは人工林で、その49パーセントは杉だそうです。林業工事の後、管理されていない山が被害を大きくしています。竹田の大洪水は1991年でした。植えて15年くらいの山は一番不安定だと書かれていました。花崗岩の山に杉、ヒノキを植えていて良かったのだろうかと素人ですが考えます。
風が通る、陽が入る杉林を作っていくことが急務だと思います。一人で山を守っている、汗水流して働いている林業家が大事にされなければこれからもこんな悲惨なことが繰り返されるようで不安でなりません。
祖母のことを思い出しました。祖父が村長を辞めた時、東京見物にでも行こうかと誘われた祖母はこう言ったそうです。「東京には行かなくていいからヒノキの苗を買ってください」そう言って、買ったヒノキの苗をひいじいちゃんと一緒に山へ植えたそうです。私が生まれる前のことです。山は親戚の人が管理してくれています。そんな山のおかげで私たち兄弟は、大学まで出してもらったのだと思います。
結婚してしばらくした頃、「自分のうちの山を見ておきなさい」と言われ、つれあいと母とで山に行ったことがあります。下草が刈られ、上に伸びる木々の間から陽がさしている光景は、神秘的でした。ばあちゃんが守り続けてきた木をいとおしく感じました。もうあれから20年の月日が流れています。あの山はどうなっているのかしらとこのごろ考えています。
昨年、災害時に着るユニホームを購入しました。昨年2回、今年1回着て被災地に出かけています。もうこの服を着なくてもいいようにと願わずにはいられません。 |