2004.6.30 「退院しました!〜県立病院の勤務実態観察記〜」
6月15日に入院した時は、この痛みを取ってくれるならと藁おもすがる思いでした。「個室にしましょうか」とたずねられたのですが、「いいえ皆さんと同じ大部屋にしてください」と即答していました。
実は、私が所属している福祉・保健委員会では毎年県立病院のことが論議されます。多くが赤字経営からの脱却についてです。(県立病院と県立三重病院の累積欠損金は88億円)その時に看護師さんのこともかなりひどく言われます。私は、自治労組合員が攻撃されていることに心を痛めていましたのでこの際、外からではなく1人の患者として他の患者さんと一緒に生活しながら病院の中にいられるチャンスを生かしたいと考えました。
24時間点滴は、1週間続きました。トイレに行く時も一緒です。薬の名前はわかりませんが500ミリの大きいやつと150ミリの小さいやつ。深夜眠っている時も終わりそうになると看護師さんがやってきて取り換えてくれます。深夜は、1人で20人ぐらいの患者さんを受け持つそうです。いろいろな個性の方がいましたが、その言動は優しく、ユーモアに溢れていました。県の職員は今自分の名前が入ったIDカードを首から下げていますがその赤い布のストラップには、『奉仕・信頼・進歩』と染め抜かれていました。
勤務実態は、かなりハードだと思われます。勤務明けでも1時間半から2時間引継ぎで帰れません。健康補助食品と即効性のあるドリンクを飲みながら勤めているといわれる方がいました。
私の部屋は、5人部屋でした。皮膚科と胸部外科と心臓血管外科の患者さんがいて、毎日同じ部屋の人が順番に手術を受けていました。研修医の先生を中心に朝早くから夜遅くまで、患者が不安に陥らないように日に何度も顔をのぞかせていました。
食事は、私の口には合わなかったのか正直なところおいしいとは感じませんでした。しかし管理栄養士さんや優秀な給食部の人たちが日に約450食作っています。朝は5時からの仕事だということでした。これが今、議論されているように民間委託されるとさらに厳しい状況が予想されます。
県立病院は、未熟児医療、悪性新生物、循環器など採算が取れにくい部門を引き受けています。行財政改革は避けて通れませんが、民間病院と同じ位置づけだけで論議していってはならないと再認識しました。これからいろいろな機会に伝えていきます。
入院して一週間は、体の右半分のいたるところの神経の痛みに苦しみましたが、10日たってその痛みも消え退院できました。かかった入院費用は、11万3760円。3割負担なので実際は、40万ちかくかかったことになります。帯状疱疹は、雅子さんがかかった病気なので非常に知名度が高く、私は多くの人の理解を得ましたが、誰も平等に病気になります。いいえもしかしたら厳しい生活を強いられている人の方がかかる率は高いかもしれません。請求書を見ながら複雑な思いでした。
7月1日から仕事を再開します。
家族や友人をはじめいろいろな人に支えられた6月でした。
ご心配ご迷惑をおかけしました。
2004.6.17 「帯状疱疹と闘っています」
登下校の小学生たちが水着の入ったバッグを持っている姿を見かけるようになりました。
台風がいくつもやってくるうちに季節は梅雨になり、あと1カ月もすると子どもたちは大好きな夏休みを迎えます。
体の不調に気がついたのは6日前のことです。朝から会議に出ていました。あごのつけねと脇腹にピリピリと痛みを感じました。冷房が効きすぎているんだな、長袖を着てきて良かった、と気にもとめず、体のことなんかよりも今の教育の置かれている状況の厳しさを憂いながら家路に着きました。
その頃は、おなかの筋肉は自分の意志とは無関係にピクピクピクピクと動き、刺すような痛みが出ていました。時間がたつにつれ、痛みは増し、夜はほとんど眠れなくなっていました。
「ストレスだよ」「更年期だものね」とみんながアドバイスしてくださり、マッサージや整体、内科へと通うのですが、状態はひどくなる一方です。この痛みをとってくれるなら何でもする!とすがるような気持ちで、明日は県病に行く、と決心した翌日の朝、腹部に赤い発疹が広がっていました。
お医者さんは一目見るなり、「みごとな帯状疱疹ですね」と言われました。その日から入院しています。
帯状疱疹(たいじょうほうしん)は、子どもの時にかかった水ぼうそうの菌が誰の体にも残っていて、免疫力の落ちた人が神経を伝って出てくるのだそうです。体の右半身か左半身のどちらかに出てきます。個人差があるようですが、あらゆる神経が痛みます。
このところ、あれもしなければ、これもしなければと焦ってばかりで、何一つ充分に仕事ができていなかったのに、なぜ?今?私なの?と落ち込んでしまいます。
2004年度第2回定例会は欠席してしまい申しわけありません。一日も早く元気になって、またがんばります。
どうぞ皆様もご無理をなさらず、ご自愛下さい。
2004.5.31 「どげぇなっちょんの?」
年金未納・未加入議員がまだ次々に出てきています。それだというのに国民の多くが不信感を持っているまさにその時に年金関連法案は成立させられようとしています。
多くの方から私の年金についても聞かれるのでここで公表します。
1977年4月〜1977年5月 厚生年金(臨時講師として勤務)
1977年6月〜2002年10月 共済年金(正規教職員として勤務)
2002年11月〜現在まで 国民年金(選挙期間と議員になってから)
従って私は、年金の未納はありません。
つれあいに、年金未納の連絡が最近届きました。昨年転職して次の仕事につくまで2ヶ月間は国民年金に加入していなければならなかったとのことです。
迅速な対応に驚きましたがこれまで社会保険庁がこれくらいきちんと連絡がとれていたら年金不信はここまで広がらなかったかもしれません。制度の曖昧(あいまい)さ、国民への周知の不徹底さにも問題があります。それに年金基金の使われ方にも問題があります。
国会議員の人たちは「多くの議員がそうだから、決して悪意があったからではないから」と自分のせいではないと言っています。しかし、議員だからこそそれは許されないのでは。少なくとも小泉首相のように居直った発言だけはして欲しくはない。と私は思いました。
年金未納がなかったのは私のできが良かったわけではなく、そのことをきちんと教えてくれた学校事務職員の先生がいてくれたからです。今でも自分の身分のことなどでわからないことがあると事務の先生に尋ねています。
そんな事務職員の先生方が今、大変な状況に置かれています。いいえ事務職員だけではなく義務教育の危機が迫っています。
「義務教育費国庫負担制度」という法律があります。子どもたちがどんな家庭に生まれようと、どんな街で育っていようと日本のどこに住んでいようと等しく一定水準の教育が受けられる。そのことを日本は、戦後50年保障してきました。授業料を徴収する公立の小・中学校はありません。教科書も無償です。40人を超えるクラスもありません。
しかし、小泉首相の「三位一体」の改革で約2兆5000億円の義務教育費の国庫負担金の廃止が検討されています。
公立の小・中学校に勤める教職員の給与は国と都道府県が半額ずつ負担しています。総務省はこの「義務教育国庫負担金」を国の負担金から一般財源化することを強く主張しています。一般財源化ということになると国から来たお金を地方自治体が何に使ってもかまわないという形になってしまいます。
今は、どこの自治体も財政難です。義務教育にお金を使う保障はありません。学校の先生の数が減らされ、そのお金が「橋」になったり「道路」になったりするかもしれません。さらに直接、子どもに関わらない学校事務職員と加配の先生を義務教育費から外そうという提案がなされています。それこそが学校のことを何も知らない人たちの考えることです。学校事務職員がいないと学校はまわりません。教科書配布、書類の受入、発送、学校で使う教材の準備等など、事務職員の先生は学校運営を円滑に進めるために絶対になくてはならない存在なのです。
義務教育費の国庫負担金、約2兆5000億円。国がりそな銀行へつぎ込んだお金は約8兆円。
銀行を守るためには巨額の税金をつぎ込む。未来を担う子どもたちには出し渋り。一体この国はどうなっているんだ。と怒りが込み上げてきます。
私は、「義務教育費国庫負担制度」の堅持を強く強く訴えています。
2004.5.6 「つかの間のひとりごと」
新緑が目にまぶしい季節になりました。花はなんでも好きですが樹木では、くすのきが一番好きです。
中学生の時、勉強机の前の窓を開けると板山のくすのきが見えていました。希望や夢を心密かに描く時はいつもそのくすのきを見つめていたからだと思います。
議会の部屋から城址公園のくすのきがみごとです。でも一番かっこいいのは県庁のバス停の前のそれです。機会があったらどうぞ一度ゆっくり眺めてみてください。
今年のゴールデン・ウイークは、大型連休です。テレビのニュースを見ていて成田空港から飛び立つ前にインタビューを受けている人たちが印象的でした。「お父さんに会いにシンガポールに行きます。」(お父さんは、単身赴任をしているのでしょう)「ヨーロッパへ行ってきます」と言うご夫婦は、飼い犬を一泊3000円のペットホテルに預けていました。
年金制度改革関連法案の審議過程、厚生労働委員会での採決の様子は腹立たしく、そして未納議員は続々出てきていますが、苦しい生活の中から絞り出すように月々13300円を払っている人がどんなに多いのかということはテレビからは見えてきません。
わが家は、家を空けることが多く、ペットを飼えないと思っています。以前、小鳥を飼っていたのですが、風邪にかかって死んでしまって以来さらにそう考えていました。
去年の夏、熊本の菊地恵楓園(ハンセン病療養所)を訪れた帰り、道の駅でコッピーを見つけおみやげにしました。小さなびんに水と砂と藻が入っていて、その中に体長1センチほどのグッピーによく似た魚が2匹泳いでいました。持って帰るとつれあいは、たいそう喜び、月に1度の水替えや2日に1度のえさやりを嬉々としてやっていました。小さなびんでは可哀想だと住居をサラダボールに替え、仕事から帰ってくると「コッピーちゃん」と呼びかけ、飽かずに眺めています。しかしあまりに小さな体ゆえにそのうちの1匹が死んでしまいました。
この広い中で1匹では、寂しいだろうとえさ袋に書かれている販売元に申し込みをしました。遠く新潟県から宅急便の車に乗って2匹のコッピーがわが家にやってきました。
「長旅で揺られて疲れているからしばらくこのままで」とはつれあいのことば。私は、早くサラダボールの中に入れたくてたまりません。2日たってやっと許可が出て、びんからボールへ移動させました。驚きました。体長が全然違うんです。家にいた方が倍以上に大きくなっていました。それは例えるといわしといさき位の違いです。そして多少は、予測していたものの以前からのコッピーが新人を追いかけはじめました。このままでは新人がストレスで死んでしまうかもしれない。私たちは気が気ではありませんでした。なわばり争いのような追いかけは、次の日の朝まで続きました。でもそれ以後ピタリと止みました。
今は、広いボールの中を3匹が自由に泳いでいます。
大きいものだけが勝ち残るのではない。大きいものもそうでないものも仲良く暮らしていける。魚の世界がうらやましいです。でも、最初のコッピーがあんなに大きくなったのはサラダボールに移したからでしょう。びんの中で育ったらあそこまで大きくはならなかったと思えます。「小さな島にはぞうは育たない」と誰かが言っていたのを思い出しました。
大型連休にどこにも出かけず家にいて一人考えたことです。
わが家のコッピーちゃん
 |
 |
2004.4.12 「私の甥っ子たちの春は…」
春に生まれたせいか一年中で春が一番好きです。わが家の駐車場にまで道路を隔ててある公園のさくらが舞い降りてきます。春の宵の中にいると私にも何かができるのかもしれないと思えてきます。
しかし、今年の春は、とても悲しい春でした。弟夫婦が離婚をしました。単身赴任を終え、やっと埼玉で家族4人が暮らせると知らせが入ったのは、昨年の2月。でも、突然離婚をきりだされました。私が、そのことに気づいたのは、昨年の6月でした。以来10カ月、私たちができる最大限の努力をしてきましたが、状況は好転しませんでした。15歳と18歳になる甥っ子二人は、弟と家に残りました。
私に子どもができなかったから弟のところにできた長男は、わが家の宝物でした。「孫ができ家族がみんな母になり」と18年前、亡くなった父が初めて歌を詠みました。
下の子が、川崎病にかかり、両親が清瀬の病院に行きっぱなしになった時、上の子はまだ小学2年生。何とか励まそうと毎日、ひらがなとイラスト入りのはがきを書きました。
夫婦の間のことは、肉親でもわかりません。今は、弟も妹も幸せになってほしいと願っています。ただ、子どもたちのことは心配です。今年から東京の私立に通うようになった下の子は、朝、6時半には、電車に乗らなくてはなりません。朝は、起きれるだろうか。朝ごはんは食べているだろうか。みんながお弁当を持ってきているなかで、1人だけパンを食べている姿を想像すると胸が痛みます。
教員をしていた時、クラスには何人も1人で子どもを育てているお父さんやお母さんがいらっしゃいました。「一緒にがんばろう」と励まし合い、成長を喜び合い、時には涙したけれど決して充分じゃなかったかもしれないと今になって気づきます。
私と弟は二つ違いです。けんかばかりして育ちました。口ではいつも私が勝つけれど腕力では負けていました。昨年の10月に会った弟は、今まで見た中で一番穏やかな顔をしていました。そして「俺ってそんなに悪い夫だったのかな。普通だと思っていたんだけどな」と語り始めました。私は、「誠心誠意心を込めて話し合って」としか言葉を返せませんでした。
今年の春休みに「ばあちゃんのおいしいみそ汁を食べに帰っておいで」と子どもたちを大分に帰しました。つれあいといろんな所につれて行き、思い出をたくさんつくりましたが、最後まで下の子から笑顔は見られませんでした
「晩御飯もう食べた?」と時々埼玉に電話をかけます。本当は、夜も眠れないほど心配でたまらないくせに「これからの時代はね、男も身辺の自立。食べることぐらいできなくちゃ女に捨てられる時代になるんだからね。家の中が少々汚くてもかまわないんだよ。自分の食べたいものを作るのよ」とつい励ましてしまいます。子どもにとって親は、二人しかいません。だれも親の代わりはできません。子どもたちが自分たちは愛されて生まれてきたんだ、と感じられるように、そして両親を大切に思えるように、そして何よりも自分を大切にできるように、私たちは支援をしていくことしかできません。
男3人とオス犬の大和(やまと)との生活は、きっと波乱万丈(はらんばんじょう)でしょうが、負けるんじゃないぞ、貴方たちは決して独りぼっちじゃないぞ、と見守っています。
イラクで人質になった3人の方々と家族の苦しみを思います。ブッシュの傲慢(ごうまん)さから始まった戦争にすべては起因しています。3人の方々と家族にとって絶対に悲しい春にしてはならない。そのために私に何ができるのかを考えています。 |