ときどき日記


2012.9.27 校歌が歌えた!

 日中はまだ暑さが残っていますが、朝、夕の風は、すっかり秋です。

我が家にもお隣にも「彼岸花」が咲きました。不思議な花です。春にあった細長い葉を夏の時期にすっかり枯らして、お彼岸が近づくと茎だけが伸び、花を咲かせるのです。自然環境を変えてしまっている人間を無視し、嘲笑っているのではないかしらと思うほどまっすぐに咲き続けています。

第3回定例会が9月20日に終りました。質問しなかった私は、議案調査以外に時間が確保できるのでは・・・と考えていましたが、意見書の調整や会派内の調整、議員定数問題に時間をとられ、終ってしまうと疲労だけが残ってしまいました。2年半前に自分の中に確かにあった心が萎えてしまっていることに気づきます。

 でも、議会を離れた活動で元気をもらいました。

世界アルツハイマーデー街頭活動

 「認知症の人と家族の会」で毎年ビラ配りをしています。今年は大勢の方が参加されました。家族の会の方、施設関係者の方、行政の方、おそろいのワンピースを着た愛らしい子どももいました。ビラ配りを経験したことのない人には、結構しんどい作業なのですが、「世界アルツハイマーデーです!」「どうぞビラを呼んでください!」「ご協力をお願いします!」と声を出し、用意された1000枚以上のビラが1時間足らずでなくなりました。通行されている人のなかには、自分の抱えている介護の問題を相談されている姿も見受けられました。

 家族の会の方々と昼食をとりました。この会の魅力は自由に今の問題や抱えている課題を話すことができるところです。言いたくなければ何も言わなくてもかまいません。私の番が来て、この2年、会に参加できていなかった間の母の変化、私以上に母を支援し続けている妹へ思いを伝えました。途中から涙が止まらなくなりましたが、心を開ける大切な場所にいられる幸福を感じました。

二つの小さな体育祭

 今までも何度か綴ってきましたが、大分中央高校と二豊学園の体育祭、スポーツ大会が9月21日(金)と22日(土)にありました。

二豊学園は、今年から竹中中学校と竹中小学校の分校として教育部門は、大分市教委の管轄になっています。市教委からの来賓者がいなかったことは残念でしたが、例年通り、保護者の方、兄弟姉妹、送り出した中学校の先生方、県の福祉保健部の方、地域の自治委員さんや体協、おまわりさんまでいらしていて大盛り上がりでした。16種目の競技に子どもたちは出ずっぱりで、へとへとになるのですが、日頃から野球とバトミントンで体を鍛えているので、少しもよろけません。組み体操は圧巻でした。先生方が子どもの個性を生かし、場に応じた素晴らしいアナウンスが会をさらに盛り上げてくれました。ちょっぴり照れながらかっこつけながら、でも10代の子どもらしさで一杯のスポーツ大会に関係者の方々の日頃のご尽力を痛いほど感じました。

 大分中央高校は来年の3月2日に閉校になります。働きながら学ぶ定時制高校の役割を終えます。私は、「今年1年間、しっかり見つめ、支え、盛り上げていきたい。」そう自分に言い聞かせてきました。

 体育祭のスローガンは「輝き続ける大分中央」でした。開会式の時は、4年生16人と教職員15人、来賓が6人でした。今年の競技は例年になく凝りに凝っていて準備にも競技にも時間がかかりました。8種目を行う中で順次かけつけてくれた卒業生が大勢参加してくれ、閉会式の時には130人くらいの人になっていました。

 開会の時には、照れを隠すためにかっこつけていた団長たちが、最後は大声で声を掛け合い、皆を招集している姿が印象的でした。あんなに良く動き働く高校の先生を初めて見ました。

 私の後ろには、開校当時に通っていた卒業生の方が座っていました。もう60代になられていると思われます。閉会式で校歌が流れてきました。「50年ぶりに聞いたのよ。歌えるかなと思ったけれど校歌を歌えたの。」と嬉しそうに教えてくださいました。

 閉校は悲しいことです。でも、ここで学んだこと、支え合う仲間がいること、信じてくれる先生がいることを忘れないでくださいね、と願います。

 教育界も政界も議会も課題山積です。

でも、ストレスに負けずにやっていこうと自分に言い聞かせています。


2012.9.4 夏が終わっていきます。

 子どもたちの夏休みが終わってしまいました。

 長い40日以上は、あっという間のような気がします。

 学校に勤めていた時は、平和授業を終えると「夏休みもあと何日・・・」と指を折って数えていました。子どもたちは、どんな夏休みを過ごしたのでしょうか。

 海の事故、交通事故に遭った子どもたちがいました。関係者の人たちがどれだけ心配されていたかと心を痛めていましたが、幸いにもICUに入っていた子どもも意識が戻りリハビリを始めたとお聞きし、安堵しました。

高校生の中には、「夏休みはなかった。」と言う人もいたでしょう。受験勉強やスポーツ、文化活動に追われていた人も多いと思います。

 平岩純子後援会で初の企画をしました。

「後援会に入ってくれている人たちと親睦を深めよう!」と昨年から声が上がっていました。役員の方々が何回も集まって話し合いを持ってくださり、8月26日に日帰りの研修旅行をすることが決まりました。

 目的地は、八丁原地熱発電所、やまなみ牧場でお昼ご飯を食べ、九重“夢“ 大吊橋を渡ります。参加者は、36名でした。

 役員さんが作ってくれた名簿の中には、私がお話をしたことのない方もいました。「うまくいくだろうか。」と前日の夜は眠れませんでした。

 バスの中でご挨拶をし、つれあいが盛り上げようとクイズを準備しました。

八丁原の地熱発電所に行くのは、私は2度目です。発電のメカニズムがようやくわかりました。自然エネルギーへの関心が高まっている時ですので、県外者の方も多く、説明会場は満杯でした。

 やまなみ牧場では、食事のために長い列ができていましたが、予約をしていたのですぐにテーブルに着くことができ、役員の配慮に感謝です。

 みんなが楽しみにしていた「夢つり橋」は風のために封鎖されていました。

救急車やレスキュー車、パトカーも来ていたので、もしかしたら事故があったのかもしれません。

 帰りのバスの中で皆さんが感想を述べてくれました。

 「楽しかったですよ。」「また来年も参加します。」と言っていただき、ホッと胸をなでおろしました。

 夏休みの間、学校訪問をしました。

 ある小学校に伺った時に、玄関に立派な七夕飾りがありました。笹の葉に飾りをつけたものではなく、あの仙台の七夕祭りと同じものでした。

「どうして?」と訊ねてみると、3月11日の東日本大震災の後、仙台からお母さんの実家に避難していた小学生がいたそうです。1年たって、仙台に帰るときに、学級のみんなで仙台の学校に寄せ書きをしました。そのお礼に立派な七夕飾りが届いたそうです。

 飾りの下に短冊がいくつもついていました。

「外で遊べることが、今、とても幸せだと思っています」

「普通に学校に行けることがうれしいです」

「今、私がここにいて、笑っていられることがうれしいです」

「今、みんなが揃っていることが、うれしいです」

そんな短冊があります。読んでいて胸がいっぱいになりました。

 

 「プロメテウスの罠」を読み返しています。

 政権が滅びても放射能はなくならないとわかります。

 先日、お母さん方と学習会を持ちました。

「世界を変える」ことはできないけれど、「世界に変えられない」ようにしましょうと話し合いました。


2012.8.19 再び東北へ

 お盆も終ってしまいましたが、残暑の厳しい日が続いています。皆様お元気でお過ごしでしょうか。

 今年のお盆は、勤務日と重なり我が家では普段通りの日となりました。スーパーでオードブルやおさしみや果物などたくさんの食材を買っている方の姿を見ると少し羨ましく思いました。昔なら実家や嫁ぎ先に帰り、家族で集まってその日を迎えていました。今は両方の親に支援が必要となりそれもままなりません。日本中でそんな家族も多いのだろうな・・と自分がその立場に立って気づきます。

 8月7日〜9日まで福島県の三春町、宮城県の石巻市、岩沼市に調査に行ってきました。調査内容は、「安定ヨウ素剤」「震災がれき」「防潮堤」です。

7月に宮城県知事から直接大分県知事にがれきの受け入れのお断りの連絡があり、大分県でのがれき課題は一旦なくなりました。「まだ、震災がれきの調査が必要ですか?」と問われそうですが、6月に東北に行った時は、陸前高田市も石巻市も行政の方が忙しくされていて、比較的がれき処理にめどたっていた気仙沼市だけしか伺えませんでした。今回は、石巻市議の千葉さんのご尽力でお話を聞くことができました。

 朝日新聞に連載されている「プロメテウスの罠」をお読みになっている方も多いと思います。

 町独自の判断で「「安定ヨウ素剤」を住民配布し、服用させたのが三春町です。

 マニュアルでは、原子力災害が生じた時、大気中に放射線ヨウ素が放出されると、それにより内部被ばくを起し、甲状腺に影響を与えます。特に幼い子どもほど影響を受けやすく、15年くらいたって発癌することがあります。それを防ぐのが「安定ヨウ素剤」です。服用するのは、40歳未満の人。特に幼児や新生児、妊婦さんを優先させるとしています。効果があるのは1日だけです。配布については、国の原子力災害対策本部の指示があった場合、県知事が判断をして住民に対して安定ヨウ素剤を配布し、服用を指示するようになっています。

 地震が起こった3月11日、三春町に他の地区から着のみ着のままで逃げてきた(多くの人が原発事故も知らず、警察官の「東に逃げろ!」の呼びかけで逃げてきた)人が増えていきました。翌日には避難所は8か所になり、日赤による炊き出しが始まりました。二日後の3月13日に大熊町から逃げてきている人が持っているものが「安定ヨウ素剤」というものだと知りました。でもそれが何なのか、どう扱えばよいのかもわからない状況でした。テレビも天気予報も見られない中でインターネットを使って情報収集し、大急ぎで県から取り寄せました。本来なら県知事の指示を待つのでしょうが、その時点で県庁自体が壊滅状態なので、町の判断で行ったということです。

薬は手に入ったものの、いつ飲ませればよいのか、どうやって配ったらよいのか、どう説明をしたらよいのか、緊迫した中で、吹き流しを使って風向きを調べました。自治区ごとの区長に集まってもらって説明しました。錠剤を赤ちゃんに飲ませるために砕いたり水に溶いたりしました。そして最も有効な日が3月15日だと位置づけ、対象者約7200人のうち95パーセントの人に渡すことができました。

 安定ヨウ素剤を配るという決断は生易しいことではなかったと思います。副作用を心配する人もいたかもしれません。実際、K医師会からはクレームが来たそうです。未だに県の対応は冷たいようです。

 しかし、保健婦さんがこう言われました。「服用させずに、将来子どもたちの体にもしものことが起こったら・・・」「不安な人は飲まないということができる。でも渡さなければ飲むことができない。」

5日間の話をお聞きしながら、胸がドキドキし、手に汗を握る、涙がこぼれそうになるような時間を過ごしました。小さな町の役場で、上司が真剣な論議をしている、それを固唾をのみながら部下が聞いている。そして「よし!やろう!」と決断した後の職員の一体感。

 三春町は海岸側に位置していません。県の中では中通りです。ですから原発立地の恩恵も受けていません。合併もしていないので、何でも自分たちで判断しなければなりませんし、県と意見が対立することもこれまで何度もあったそうです。

 総務課長さんがこう言われました。「町役場の人間と町の人々が近い関係にあります。みんなこの町の出身者です。三春町は自由民権運動発祥の地です。」

 梅と桜と桃の花が咲く町だから、三春町と言うそうです。この小さな町の大きな英断に脱帽です。

 玄海と伊方に挟まれた大分県でも参考にしなければならないことをたくさん学びました。

 千葉市議に案内されながら石巻市を見て回りました。北上川の堤防が決壊したことも被害を大きくしていました。東日本一の水産加工が壊滅状態です。学校の5割が被災し、人口も2万人減少しています。気仙沼では「三日間、おにぎりが1こずつでした」と言われていましたが千葉市議は「3日間、クッキーが2枚ずつでした。」石巻市は、三春町と反対に合併によりエリアが大きくなっています。周辺部の職員の3分の1が海岸部に集められていたことも、結果として厳しい現実を生んでいました。「仮設に住むのは2年が限度だと思う」と自身も被災し、民間のアパートを借りて住んでいる千葉市議の言葉の重さを感じました。

 石巻のホテルでは、建設関係の方がたくさん宿泊していました。

 シャッター通りになってしまった商店街で開いていた居酒屋で夕ご飯を食べました。働いていた若者は今年二十歳になるそうです。「友だちがまだ一人見つかっていません。どうしても死んでしまったと思えないんです。」

 東北にボランティアに行った友人が「何もできないけれど、決して忘れない。それが今の自分にできること。」と昨年言いました。

 決して忘れない。私たちにできることをこれからも続けていく。この悲劇を再び繰り返さないようにしていく。そう自分に言い聞かせています。


2012.8.6 暑さの中で

 今日は、67年前に広島に原子爆弾が落とされた日です。

 学校では、「平和授業」が行われています。

 朝、テレビで広島の平和式典を見ました。「核と人類は共存できない」と改めて感じています。もう二度と広島・長崎そして福島の方々のような被災者が出ないことを祈りました。

 子どもの頃、同級生にMちゃんという女の子がいました。学校に行く時はいつも一緒です。Mちゃんは、ときどき機嫌が悪い日があって、なぜだかわからないけれど、私にきつく当たることがありました。喧嘩の苦手な私は、理由を聞くこともできず、言い返すこともできず、じっと彼女の機嫌が良くなりいつもどおりに接してくれる日を待ちました。先生や母に相談することもできませんでした。小さな小さないじめだったのかもしれません。大津のいじめ事件からいろいろなことを考え続けています。まだ言葉で表現することができない状況ですが、もう少しまとまったら書くつもりでいます。ただ、子どもたちが昔以上に追いこまれている。コミュニケーション能力や自己表現力をつける前に、いろいろな競争の中で追い詰められているとも感じています。デンマークの千葉先生が言った「日本は大人からの子どもへのいじめをまず無くさなければいけません。」が心にずしりときています。

 7月24日に団地のお祭りがありました。私は女性部と車座の会に所属しているので、朝から大忙しでした。稙田の火群まつりも重なり、雨とラッシュを警戒しながらでした。

 女性部の有志で新作の踊りを披露しました。夜の練習になかなか参加できずに今年は断念しようと考えていましたが、みんなにおだてられて僅か2回の練習で参加しました。体を動かしみんなと仲良くなれるって楽しいことです。

 8月4日〜5日に大分支部の先生方と諫早干拓の現状と課題、雲仙普賢岳の災害、菊池恵楓園にハンセン病回復者の方々の課題を伺いに出かけました。

諫早干拓

 以前は佐賀県側からギロチンによっての干潟の喪失や漁業不振を聞いていましたが、今回は長崎県側の意見を聞きました。

 諫早市は人口14万人、長崎県で3番目に大きな市です。埋め立ては、よそから土を持ってきますが、諫早干拓は諫早湾に溜まった熊本からの肥沃な土壌が干潟を作り、そこから水を抜いて行われています。江戸時代から50年に1度ずつ進められてきました。有明の干満の差は2.5メートルあります。大潮と重なると海より陸の方が低くなり、毎年のように水害に苦しんできたそうです。昔は、いつでも逃げられるようにとどこの家にも軒先に小舟が取り付けられていました。

1枚が8ヘクタール以上の畑で、国の土地をリースする形で環境保全型の大規模農業が行われています。地下にパイプを通し水はけを良くしています。ミネラル分の豊富な土で米以外の野菜を作っています。ギロチンの堤防には排水溝があり締め切りではないと言われていました。この地域の人たちは開門に反対しています。

雲仙普賢岳災害

 22年前の普賢岳の噴火を想い出していました。火砕流が流れた水無川、土石流で埋まった民家をジオパークにしていました。

 地震、津波、大水害、火山噴火の跡の惨状はみな同じです。その後に訪れる人々の落胆と絶望。よくぞここまで回復したものだと感じました。

菊池恵楓園

 2001年、熊本地裁で原告勝訴が言い渡されました。私たちは、2003年に恵楓園を訪れています。

 その時、蝉しぐれの中で社会と隔離するために建てられた2.5メートルの壁を見ました。そこに空けられていた穴。その穴から一緒に連れてこられた子どもたちはどんな気持ちで外の景色を見ていたのだろうと苦しくなりました。信号機がない道路や回復者の方々が利用するスーパーや理髪店、長屋のような住居には、花や野菜が作られていました。お元気な方々もいて、お話を伺うことができました。

10年経って、皆さんが高齢化しています。主のいなくなった住宅は草が生え殺伐としていました。その後に起きた黒川事件とホテル廃業、その後に起こった逆差別は、ここで行われてきた反人道的な悲しいできごととハンセン病が正しく理解されていないことを露呈しました。

 職員が使っていたところが、2005年から資料館になっています。多くの中学生が訪れています。広々とした緑豊かな園内は学校の遠足にも利用されています。無認可保育園も園内にできています。子どもたちの姿を見ることは、断種や堕胎を強制され、自分の子どもを持つことを許されなかった人々に明るさをもたらしていると信じています。まさに百聞は一見に如かずの二日間でした。

 

 暑い日が続いていますが、どうぞ皆様お元気でお過ごしください。

 私は、「脚下照顧」でやってみようと思います。

 明日から東北に行ってきます。


2012.7.22 もしも・・・はありえない

 いつも忙しくしていて、1つの仕事や行事が終わると、次が待っていて、ゆっくりとものごとを考えて、節度ある大人としての行動が取れているのかわからなくなっています。

 今日は、がんと闘いながら静かに人生を終えられた方のご葬儀に参列しました。

お会いすると丁寧で優しい言葉をいつもかけていただいていました。

喪主であるご長男が、お父様が生前用意されていたお別れの言葉を最後に披露されました。そこには感謝と遺していく奥様を宜しくお願いいたしますと、書かれていました。優しい笑顔を想い出しながら、その見事な最後の迎え方に感心しています。「人は、自分の生き方が最後に表れるんだね。」と一緒に行ったお隣の奥さんと話しました。

 午後、時間が空いたので「夢甲子園」を見ていました。大分西校対杵築高校の試合でした。早い時期に6点を入れた西校が勝つだろうと思っていたら、追いつかれ、延長になりました。そこで放送時間が来てしまい、今、パソコンで速報を見たら杵築が10対7で勝っていました。杵築高校は大喜びでしょうが、西校はまさかの展開だったと思います。

 朝、先輩が「家で採れたよ。」と真っ赤なトマトを持ってきてくれました。

感謝、感謝。

 その時「ボランティアに行こうかと考えたんだけれど、おばさんはダメだって。6時間も作業しているうちに熱中症になったら迷惑だから・・」と言われました。昨日も夕方、下郡のところで竹田に行ったボランティアバスが3台続けて帰って来ていました。「ありがとうございます。お疲れさまでした。」と頭が下がります。自治会の回覧板にもボランティア募集が出ていましたが、やはりおばさんはやめた方が良いのだと思いました。

 それよりも、「福島の子どもたちを大分に呼ぶ活動の義援金に協力しようよ」と話し合いました。対象は別のものですが。

 金曜日に「伊方原発再稼働をさせないように」「四国電力との直接協定を」と申し入れをしました。知事は野田総理が来県していたので生活環境部長との話し合いです。

 もしもの時の話が続きました。もしも伊方原発が被災したら、もしも放射能が流れ出たら、もしも風向きによって大分に来たら、もしも、もしもの話をしながら気分が悪くなってきました。もしものことなんてあってはいけないのです。

『エネルギー環境に関する選択肢』のパブリックコメントを出しましょう。

8月12日までです。


2012.7.10 デンマークの報告E

 先週、大分県北部地域が大雨に見舞われ、由府市、中津市、日田市を中心に激震災害が起こりました。雨は瞬く間に河川の警戒水位を超え、河川の氾濫や土石流で家屋の全壊、半壊、浸水で多くの方々が被災されました。寸断されえぐられた道路、橋げただけが残った河に架かる橋、水につかった田畑・・・を見て、一気に襲った水の威力に恐怖を感じます。

 心からお見舞い申し上げます。東日本の大震災を教訓に各地でボランティアが組織され、迅速な支援が行われていることに頭が下がります。

 すぐにでも現地に伺いたいところですが、知事や国会議員が行くと、予算の筋道がすぐに立つのですが、私たちがまとまって行くことは、状況調査や復旧作業をされている関係者の方々の手を止めることになり、かえってご迷惑になるので、今は控えています。

 1階が浸かったり、グラウンドに土砂が入ってきたりしている学校が数校ありますので、時間を見つけて個人的に伺おうと計画しています。

 7月8日に、『福島の子どもたちの支援と福島原発被曝者援護法制定を考える学習会』を県民クラブの有志(玉田・尾島・馬場・原田・守永・三浦・平岩)で持ちました。

 新潟市議の中山均さんに来ていただいて、チェルノブイリ事故後のウクライナの状況やこれから私たちが取組んでいくべきことを提案していただきました。

 実行委員会形式でずっと準備をしてきましたが、当日参加者が少なかったらどうしよう・・・と正直不安でした。でも、会場には50名以上の方来てくださいました。これから、『福島原発震災情報センター・大分支部』を設立しようと考えています。そのための準備もできました。

 中山市議の話の中で、

・旧ソ連で汚染の厳しいところでは、病気を持たない子どもはいない。

・放射能に関する極端に異なる意見(例えば、100ミリシーベルトは大丈夫だとか、関東から逃げないやつはバカだなど)に中途半端な知識や理解が議論を混乱させている。

・チェルノブイリの事故後、多くの子どもたちの健康被害が出ていたのに公的機関がそれを認めたのは、10年後のことだった。

・これからやるべきことは、非汚染食品を送る活動、福島の子どもたちに一時  的でも放射能の心配のない所で過ごす経験をさせてあげること、支援法の充実・具体化、自主避難している人たちへの支援。

 先週、パンダの赤ちゃんが生まれて、日本中がその話題で持ちきりでした。

パンダの赤ちゃんの命と同じように、それ以上に福島の子どもたち、妊婦さん、 日本中の人の命を大切にする社会を作らなければならないと思います。放射能に対する知識があるとかないとかに関わらず。

 デンマークの報告も6回目になりました。帰国してからすでに3カ月近くが過ぎ、随分時間がたってしまいました。この間、がれきの調査に行き、大飯原発再稼働、民主党の分裂といろいろなことが起こりました。

 デンマークから帰って来て、つくづく思うことは、日本は、民主主義がしっかり根付いていない国だったということです。自由、平等、公平、公正、博愛、連帯、共生を言葉では理解しているけれど、実感していないし実践できていないのだと自分自身を振り返っています。違う意見の人の言葉に耳を片向ける、その上で自分の意見をきちんと伝える、徹底的に話し合うことが大切だと思います。何より欠落しているのは主権在民の意識だと思います。けれども、毎週、総理官邸の周りを取り巻いている人々のニュースが報じられるたびに、まだまだ捨てたものではないのかもしれない・・・。とも感じます。

 何よりも教育する上で、競争させることに主眼を置くのではなく、大人が意識改革をしながら本当の国民教育を確立していかなければならないのではないでしょうか。

 今日は、デンマークの町並みと食べ物をご紹介します。

 ヨーロッパの町は美しいです。それは、看板がないから、電線が地中化されているから、そして古い建物を大切に保存しているからなのかもしれません。(煙草の吸殻は、いたるところに落ちていますが)時間がゆっくりと過ぎていくように感じます。きっと10年後に行っても同じ風景がそこにあるのだと思います。食べるものは、日本が一番です。長く日本の食材で料理を作り、食べ続けたせいかもしれませんが、繊細な味覚の料理はありませんでした。ただジャガイモだけはおいしかったです


「ホテルの裏の小道」


「ホテルの表通り」


「スーパーのデニッシュパン 約240円」


「青リンゴは10個で360円」


「デージーを古株に植えて」


「街ゆく人を楽します窓辺の花」


「学校の花壇で見つけた珍しい花」


「伝統料理は、サーモンのムニエル」


「会議の時にはいつも果物やパン」