2012.8.19 再び東北へ
お盆も終ってしまいましたが、残暑の厳しい日が続いています。皆様お元気でお過ごしでしょうか。
今年のお盆は、勤務日と重なり我が家では普段通りの日となりました。スーパーでオードブルやおさしみや果物などたくさんの食材を買っている方の姿を見ると少し羨ましく思いました。昔なら実家や嫁ぎ先に帰り、家族で集まってその日を迎えていました。今は両方の親に支援が必要となりそれもままなりません。日本中でそんな家族も多いのだろうな・・と自分がその立場に立って気づきます。
8月7日〜9日まで福島県の三春町、宮城県の石巻市、岩沼市に調査に行ってきました。調査内容は、「安定ヨウ素剤」「震災がれき」「防潮堤」です。
7月に宮城県知事から直接大分県知事にがれきの受け入れのお断りの連絡があり、大分県でのがれき課題は一旦なくなりました。「まだ、震災がれきの調査が必要ですか?」と問われそうですが、6月に東北に行った時は、陸前高田市も石巻市も行政の方が忙しくされていて、比較的がれき処理にめどたっていた気仙沼市だけしか伺えませんでした。今回は、石巻市議の千葉さんのご尽力でお話を聞くことができました。
朝日新聞に連載されている「プロメテウスの罠」をお読みになっている方も多いと思います。
町独自の判断で「「安定ヨウ素剤」を住民配布し、服用させたのが三春町です。
マニュアルでは、原子力災害が生じた時、大気中に放射線ヨウ素が放出されると、それにより内部被ばくを起し、甲状腺に影響を与えます。特に幼い子どもほど影響を受けやすく、15年くらいたって発癌することがあります。それを防ぐのが「安定ヨウ素剤」です。服用するのは、40歳未満の人。特に幼児や新生児、妊婦さんを優先させるとしています。効果があるのは1日だけです。配布については、国の原子力災害対策本部の指示があった場合、県知事が判断をして住民に対して安定ヨウ素剤を配布し、服用を指示するようになっています。
地震が起こった3月11日、三春町に他の地区から着のみ着のままで逃げてきた(多くの人が原発事故も知らず、警察官の「東に逃げろ!」の呼びかけで逃げてきた)人が増えていきました。翌日には避難所は8か所になり、日赤による炊き出しが始まりました。二日後の3月13日に大熊町から逃げてきている人が持っているものが「安定ヨウ素剤」というものだと知りました。でもそれが何なのか、どう扱えばよいのかもわからない状況でした。テレビも天気予報も見られない中でインターネットを使って情報収集し、大急ぎで県から取り寄せました。本来なら県知事の指示を待つのでしょうが、その時点で県庁自体が壊滅状態なので、町の判断で行ったということです。
薬は手に入ったものの、いつ飲ませればよいのか、どうやって配ったらよいのか、どう説明をしたらよいのか、緊迫した中で、吹き流しを使って風向きを調べました。自治区ごとの区長に集まってもらって説明しました。錠剤を赤ちゃんに飲ませるために砕いたり水に溶いたりしました。そして最も有効な日が3月15日だと位置づけ、対象者約7200人のうち95パーセントの人に渡すことができました。
安定ヨウ素剤を配るという決断は生易しいことではなかったと思います。副作用を心配する人もいたかもしれません。実際、K医師会からはクレームが来たそうです。未だに県の対応は冷たいようです。
しかし、保健婦さんがこう言われました。「服用させずに、将来子どもたちの体にもしものことが起こったら・・・」「不安な人は飲まないということができる。でも渡さなければ飲むことができない。」
5日間の話をお聞きしながら、胸がドキドキし、手に汗を握る、涙がこぼれそうになるような時間を過ごしました。小さな町の役場で、上司が真剣な論議をしている、それを固唾をのみながら部下が聞いている。そして「よし!やろう!」と決断した後の職員の一体感。
三春町は海岸側に位置していません。県の中では中通りです。ですから原発立地の恩恵も受けていません。合併もしていないので、何でも自分たちで判断しなければなりませんし、県と意見が対立することもこれまで何度もあったそうです。
総務課長さんがこう言われました。「町役場の人間と町の人々が近い関係にあります。みんなこの町の出身者です。三春町は自由民権運動発祥の地です。」
梅と桜と桃の花が咲く町だから、三春町と言うそうです。この小さな町の大きな英断に脱帽です。
玄海と伊方に挟まれた大分県でも参考にしなければならないことをたくさん学びました。
千葉市議に案内されながら石巻市を見て回りました。北上川の堤防が決壊したことも被害を大きくしていました。東日本一の水産加工が壊滅状態です。学校の5割が被災し、人口も2万人減少しています。気仙沼では「三日間、おにぎりが1こずつでした」と言われていましたが千葉市議は「3日間、クッキーが2枚ずつでした。」石巻市は、三春町と反対に合併によりエリアが大きくなっています。周辺部の職員の3分の1が海岸部に集められていたことも、結果として厳しい現実を生んでいました。「仮設に住むのは2年が限度だと思う」と自身も被災し、民間のアパートを借りて住んでいる千葉市議の言葉の重さを感じました。
石巻のホテルでは、建設関係の方がたくさん宿泊していました。
シャッター通りになってしまった商店街で開いていた居酒屋で夕ご飯を食べました。働いていた若者は今年二十歳になるそうです。「友だちがまだ一人見つかっていません。どうしても死んでしまったと思えないんです。」
東北にボランティアに行った友人が「何もできないけれど、決して忘れない。それが今の自分にできること。」と昨年言いました。
決して忘れない。私たちにできることをこれからも続けていく。この悲劇を再び繰り返さないようにしていく。そう自分に言い聞かせています。
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