2007.12.21 静かな時間(とき)もいいものです

 今日は、学校の終業式。

 昨日、トキハ前で街頭活動をしました。行き交う高校生の顔は心なしかにこやかに見えました。

 通知表をもらっての子どもたちは、悲喜こもごも。ましてや受験を控えている生徒たちは、焦る事ばかりでしょうが、ほんの少しだけクリスマス、お正月の楽しい冬休みを過ごしてもらえたらと願ってしまいます。

 先週から家の電話の調子が変でした。気がつくと電源が切れています。コードを抜いて差し替えると電源が入るのですが、しばらくするとまた切れています。我が家にはかなりの数のファックスが届きます。「もう、買い換えよう。」とつれあいが買ってくることになっていました。

 そのつれあいが、病気になってしまいました。

 前日に熱が出て、かぜだろうと思っていました。でもお医者さんの診たては、腎盂炎でした。そう言えば、ずっと腰が痛い。トイレが近い。夜、眠れない。と訴えていましたが、議会中で私も慌しくそれどころではありませんでした。

 23年前、高熱と闘いながらどこの病院でも原因がわからずだったことを思い出します。夜中に高熱でびっしょりと汗をかき、何度も着替えさせ、座薬を入れると朝は、体温が35度まで下がりました。あまりの冷たさに「死んだ?」と思うのですが、かろうじて寝息を立てていました。あの時は、もしかしたら未亡人になるのかもしれないと覚悟をしました。10日間家で看病し、やっと旧県病で病気の原因を見つけてもらった時は、天にも昇る気持ちでした。県病から帰る道すがら竹町のショーウインドーに並べられた品々までもが祝福してくれているような気がしました。

今回も、同じ症状が出ていたのに見落としていました。幸い初期症状だったので熱は高くなりましたが、薬や点滴が効き、3日目には下がり始めました。でも絶対安静で過ごしています。

 電話機をまだ買いに行けません。関連機関に連絡をして急用の時は、携帯にかけていただいています。テレビ魔のつれあいが眠っているので我が家はとても静かです。私は、看病しながら原稿を書き「上海クライシス」を読むことに専念しています。

 夜のしじまの中であまりにもたくさんのことがあった一年を一人静かに振り返っています。

清水寺の貫主(かんす)様が書かれた漢字は「偽」でした。来年は「信」にならなければいけません。政府予算の内示が示され、新聞の見出しには「八方美人のばらまき」と書かれていました。もしかしたら、タカがハトのふりをしているのかもしれませんが、国民のしっかりとした目で民意を表現したいものです。

つたないときどき日記を読んでいただいて本当にありがとうございました。どうぞ良いお年をお迎えください。


2007.12.1 秋は来たのかしら

 寒くなりました。皆さんお元気でしょうか。我が家は、小さな電気ストーブで寒さをしのいでいます。

 一ヵ月前、秋田に行った時は、汗ばむほどだったのに東北地方に雪が降っているニュースを見てびっくりしています。

 「四万十(しまんと)式林道」と南国(なんこく)市の「食育」の調査で高知県に行ってきました。

 私は、林業については門外漢ですが、林業問題を学ぶ時はいつもばあちゃんが残してくれた山を思い出します。じいちゃんが村長を辞めた時、旅行に誘われたばあちゃんは「そのお金で山を買って欲しい」と言ったそうです。その山にひいじいちゃんとひのきの苗を植えました。何十年も前のことです。20年以上前にその山に入ったことがあります。これがばあちゃんが残してくれた山。このおかげで私と弟は大学にいくことができた。木漏れ日の美しさに神秘的なものを感じながらそんなことを思いました。履いていった長靴は無残にも底が抜けてしまい、初めて山仕事の厳しさも知りました。50年くらい経った木を切り出すことが理想だそうですが現実は厳しい状況です。木材価格は低く、木を切り出す方にお金がかかるからです。儲からない、危険である、共済費が高い、そんな中で林業従事者は年々減少しています。我が家の山も親戚のおじさんに管理してもらいながらそのままになっています。

 四万十式林道整備では、山に大型重機を入れなくても小さな四駆が入る道を作る方法を考案していました。道を作るために斜面を切り崩す量を極端に少なくし、出た土砂は伐採した切り株と一緒に谷川の法面(のりめん)に盛る。そうすることで切り株から自然に根付いた木の根が雨による土砂の流出を防ぐことができる。何よりコストが低く抑えられる。読むだけでは難しいのですが、現場に行って見てなるほどと思いました。町役場の田辺さんが「助成金なしで林業を成り立たせるには、何度でも入れる作業路が不可欠」と考えられたそうです。現場からでた知恵に感心させられます。

南国市では、公立の13の小学校と1つの幼稚園すべてで自校給食を行っています。中学校はお弁当持参だそうです。高齢化しているけれど農家の人に棚田でお米を作ってもらい、そのお米を学校で炊飯器を使って炊き上げます。子どもたちは温かいごはんに食欲もりもり。おかずも栄養士さんができる限り直販所に行って、誰が作ったかわかる、安心で新鮮な野菜を朝仕入れて献立に生かしていました。

学校給食会やJAなどの理解を得るのがどんなに大変だったかわかります。10年という長い年月をかけて子どもを中心にした「食育」に取り組んでいることに脱帽です。

 行財政改革の中で、大分では自校給食からセンター方式に変えられています。

それだというのに「地産地消」や「食育」が声高に叫ばれているのですからおかしなことです。「知育」「徳育」「体育」の前に「食育」が重要だと考える私は大きなヒントをいただきました。

 高知県には大切な人が住んでいます。学生時代、アパートの隣同士で励ましながら寂しさを乗り越えてきました。彼女は薬剤師になり、私の知っている三宮君と結婚しました。本当はお土産を持って会いに行きたかったのですが、彼女たちが住んでいる室戸岬は高知市内から2時間くらいかかりそうなので諦めていました。それでも、電話だけしてみました。「どうして早くに連絡しなかったの!」と叱られました。電話の向こうで笑うまっちゃんの愛くるしい顔を思い出し、胸がキュンとなりました。

「大分に絶対行くからね。りゅうきゅうを食べに行くからね。」と言って電話は切れました。

 ホテルで朝食を食べている私の席の向こう側にとても小柄なおじいさんとおばあさんが並んで座っていました。わたしも年をとったらあのくらい小さくなるのかしらと思いながら眺めていました。立ち上がったおじいさんのカーディガンのボタンは掛け違っていました。それをおばあさんが掛け直してあげていました。ホテルは四国八十八ヶ所の一番札所になっています。二人でお遍路さんなのかもしれません。

 高知市内には、夏に咲くサフィニアが植えられていました。


2007.11.3 20回目のお誕生日おめでとう

 やっと秋らしくなってきました。我が家のこの時期は大変です。床カーペットなし。ホットカーペットもちろんなし。こたつなし。エアコンは早すぎる?というわけで二人して「寒いね。」と言いながら縮こまっています。

 愛して止まない横瀬西小学校を泣く泣く退職したのは、ちょうど5年前の11月です。

 今日は、開校20周年の記念式典に呼んでいただきました。

 私が、横瀬西小学校に勤めていたのは、1997年から5年7ヶ月の間です。前任校が格式高い(?)金池小学校だったので、着任した頃は、随分とのんびりした学校だなあと思っていました。でもそこが魅力だったのです。

 個性豊かで愛らしい子どもたちやその保護者の方々と過ごす中で、私は、横西に夢中になっていきました。当時、市内では学級崩壊が起こっていました。でも横西にはそんな兆候は微塵(みじん)もありませんでした。子どもたちにとって何が必要なのか。どんな教材を組んだら夢中になれるかそんなことばかりを考え、私のアドレナリンはいつも全開でした。

 机についての勉強もさることながら昼休みは、有り余る自然の中で思いっきり探検、お掃除名人、下校の時は影送り、いつの間にか平岩タクシー、男らしさ女らしさ、先生の通知表・・・私の宝箱の中から次々と幸せだった思い出が甦ってきます。子どもに何かを教えたと言うよりも子どもたちと創り上げてきた、子どもに教えられたことの方がどれだけたくさんあったことでしょう。

 退職の日、「先生は、おれらと一緒に勉強するより何がしたいんか!」と言われた時のことを思い出すと今でも涙が出ます。

 そんな横瀬西小に帰れる。もうあの子たちはいないけれど、朝からうきうきどきどきでした。

 歴代のお世話のなった校長先生にお会いすると、私は、素のままの自分に戻っていました。体育館で、1年生から6年生までが歌や合奏やオペレッタを発表しました。全校生徒は135人になっていました。少ない人数でよくぞここまで・・・。と感心するばかりでどの学年も素晴らしい発表でした。教職員は子どもたちを管理しすぎず、要所々で関わり、物怖じしないのびのびとした子どもたちの姿が印象的でした。保護者会がおでんややきそばやうどんを販売していました。学校を支える底力に脱帽です。午後からは、地域の方と「ふれあいの会」紙ひこうきやどんぐりごま、エプロンシアターなど14の遊びが繰り広げられ、最後は、子ども太鼓の演奏に拍手がなりやまない中で幕を閉じました。

「競争」から「共創」へ。学校と家庭と地域が連携する中で子どもたちがすくすくと成長していく姿を目の当たりにしました。20年前、横瀬小から分離した時の児童は800名もいました。たとえどんなに小規模校でも地域の中に学校があることの大切さを実感しました。大きくなあれ。たくましくなあれ。優しくなあれ。と祈ります。

 10年前、子どもたちとプールの横にタイムカプセルを埋めました。あと10年したらそのふたを開けます。それまで元気でいなければと思います。

 おとといの夜、友人と「腹が立つことはあっても、涙が出ることがない。私たちって感受性が鈍ってきているのかしら・・・」と話し合いました。今日は、子どもたちの姿、無償の愛で支えている大人たちの姿に私の感性は揺さぶられました。

 12月14日午後1時、一般質問をします。原稿書きで苦しんでいます。でも、気負わず、てらわず、素直な思いを僅か6500字に込めます。この7ヶ月間にお会いした人たちの切実な思いを訴えていこうと心に誓いました。


2007.10.22 「いぶりがっこ」と「きりたんぽ」の秋田へ

 朝、晩だけ寒くなりました。金木犀の甘い香りに秋を感じながら、日が暮れるのも段々早くなってきて、何だか物悲しさを感じてしまいます。

 来年の「チャレンジ!大分国体」は9月27日から始まります。障害者の「チャレンジ!おおいた大会」は10月11日に始まります。もう1年を切ってしまいました。
 私の所属する福祉保健生活環境委員会の委員長が参加できなかったので、副委員長の私は、代理で秋田国体と障害者スポーツ大会に出席しました。
 1回目は、定例議会が終わった次の日でした。ばたばたと準備をしたので、洗顔石鹸やチークを忘れて行きました。涼しいかも・・・と思っていた秋田でも残暑の厳しさにびっくり。私たちが泊まったホテルは、トイレ、バスは共同でした。駅前通りは、各県の選手団で賑やかです。県庁の職員さんも140人くらい視察に来ていま す。めじろんのマークに出会うとほっとするのが不思議でした。職員の方は、開会式や競技だけでなく、雨が降った時の対応、シャトルバスの運行、人の流れ、お弁当までチェックしなければなりません。国体の時は、宿泊は、民泊と2つの料金制度に設定されるホテルとなります。お弁当も共通献立のものになります。
 開会式で最も注目したのは、子どもたちの参加体制です。マスゲームに強制的に組み込まれていませんようにと、来年のことを考えながら気になってしようがありませんでした。しかし、いくつかの小学校から高学年の代表児童の参加だけでした。開会式前演技では、秋田の豊かさが古代から現代にかけて表現されました。小野小 町、竿灯(かんとう)、なまはげが登場し、暮らしている人のぬくもりが感じられ、すがすがしい気持ちになりました。
 大分のようなホテルラッシュもなく、簡素な「身の丈国体」だと感じました。
一番驚いたことは、町の中にほとんどごみが落ちていないということ。「おもてなし国体」だとも思いました。



 2回目の秋田行きは10月12日からです。
 大分空港のロビーには、県庁の人、社会福祉協議会の人、友人のおつれあいさん、一緒に風船バレーをした人と知っている人が大勢いました。
 わずか2週間しかたっていないのに、秋田の気温は6度に下がっていました。
激励会で「平岩先生!」と声を掛けられました。知っている選手はいないはず・・・と思いながら振り向くと、そこには一緒に勉強した松田君が14年前と変わらない笑顔で立っていました。彼は、毎年、1月5日の自分の誕生日にはがきを書いてくれていました。でもこの4年間途絶えていました。「先生が公職選挙法に触れて、迷惑 がかかってはいけない」そう考えて出すのを止めていたそうです。いじらしくて涙が出ました。400メートル陸上で3位に入りました。そして、大分県選手団のムードメーカーも務めていました。


 国からの地方交付税削減で、県の財政は厳しいものがあります。「おおいた国体」予算は切り詰めて切り詰めて運営され、多くの関係者が、毎日夜遅くまで準備をしています。大分空港で青森県の六ヶ所村へ視察に行く友人に出会いました。私が「秋田に行くの」というと「何しに?」と問われました。まだまだ国体に対す る意識は県内にはありません。県民参加の国体になるようにどうすればいいのかしらと飛行機の中でうつらうつらしながら考えました。

 「いぶりがっこ」は、燻製にしたたくあんです。いぶりとは燻すこと。がっこは大根のことだそうです。まず、大根を燻製にしてそれから漬け込みます。口に入れると燻製のにおいが先ず先に来ます。それからたくあんらしい歯ごたえを感じます。私は、「きりたんぽ」を過去3回食べたことがあります。そんなにおいしいものじゃないと思っていました。でも4回目にして「うまい!」と感じました。どちらも冬の長い秋田の保存食だそうです。大分では何をおもてなししたら良いのでしょうか。