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2023年12月1日 竹内アンナ 弾き語り TOUR 2023 atELIER cafe -アトリエカフェ- 11月23日 福岡

11月23日、福岡のLIV LABOで開催された竹内アンナさんのライブの覚書(ほぼ、ライブと関係ない独り言)です。

コロナの影響もあり、竹内アンナさん(以下、アンナさん)のライブへの参加は、前回のツアーが初で、今回は2回目です。ライブ会場のLIV LABOは、以前、Predawnのライブで一度訪れています。

さて、大分を10時40分頃にソニックで出発、途中、事故のため中津で1時間10分ほど足止めとなりましたが、約70分遅れで博多に到着。ライブ会場となったLIV LABOへの経路を確認してから、ホテルにチェックイン。再度、LIV LABOへ移動し、4時頃に到着。まだ、その時間帯では、ほとんど人は来ていませんでした。

しばらくして人が集まり始めてから、スタッフの誘導でチケットの番号順に並び、開場時間の4時30分に会場へ入りました。

LIV LABO自体、それほど大きい会場ではないので、通常の感覚では、前列に行けるであろうチケットの番号でも、結構、後ろの方の座席(スタンディングでなく座席)となりました。それ自体は、会場が小さいのでそれほど気にはならないのですが、今回は、アンナさんも座っての演奏だったので、ライブが行われている最中、アンナさんの顔しか見えないという感じでした。

すぐに移動できるステージに向かって左側、入口近くの座席を確保したのですが、ライブ開始前に、さらにその横に座席が置かれ、一番端の座席とはなりませんでした。

予定通り17時に右手の通路を通ってアンナさんが登場。ライブの開始となりました。

ライブで印象的だったのは、やはり、ギター演奏のうまさです。曲によってギターの可能性を大いに活かしたアレンジを聴かせ、その多様性に舌を巻くばかりでした。

また、弾き語りというキーワードでは決して出てこないというYOASOBIの難曲をアコギ一本で演奏し、会場を圧倒していたのも印象的でした。

そして、今回のライブのハイライトは、アンコール時での出来事でした。アンコールは、楽屋に戻る事なくそのまま本編から移行したのですが、突然、会場の入り口で歌うと言い始めて、アコギを持って入り口前に移動。ライトがスタッフにより準備されたのですが、マイクはどうするのだろうと思っていると、なんとマイクなしでの歌唱となりました。ほぼ目の前での生歌唱に感動しました。演奏後、目の前にいた小学生くらいの女の子(多分、前回のツアーにも来ていた子かな?)の目がキラキラして・・・ということをアンナさんが言っていましたが、これだけの演奏が目の前で見られるのですから、最高のプレゼントとなったことでしょう。ちなみに、今回の衣装がスーツ姿なのをこの演奏時、初めて気づきました。

あとは、グッズの紹介(自分の名前が入っていないので、使いやすいとの説明)、使用しているギターの紹介(今回は、スチール弦とナイロン弦のギターを1本ずつ持参、それぞれの違いを実演を交えつつ説明していました。)等もありました。

2時間弱のライブ、なんとも濃い内容でした。個人的には、WILD & FREEのアコギ・ヴァージョンが聴けたことが良かったと思います。

2023年11月1日 似ているけど

将来、人間に似たヒューマノイドと暮らす未来がやってこないものかとよく考えます。

中身は人間とは全く異なるのだけど、その見た目と、言語を喋ることが、人間との共生を実現させるのではと思うのです。特に、言語を喋るというのは重要だと感じます。実際、外国の方と接する時にも、相手が日本語を喋ることができる、それだけでも、安心することができるからです。

けれども、今の所、小説や漫画などでは、人間とヒューマノイドの仕組みの違いにより、ヒューマノイドが人の心を理解できずに、その事で悩むような場面がよく出てきます。

それはともかく、このところのAIの進歩というものもすごいものがあります。

囲碁の世界を見てもわかるように、人間とは異なる思考法をしているものが、人間以上の成果を上げたばかりか、人間へ影響をも与えているのです。

ポイントなのは、人間とは異なるものであるという事です。

空を飛ぶ方法だって、速く走る方法だって、海を航行する方法だって、どれも人間とは異なるやり方で行われています。(人間は空は飛べませんが。ここでは鳥のような動物を想定しています。)

やり方が違ったて、同じ結果やそれ以上の結果が得られれば良いのです。

つまり、人間と異なる方法で、人間のような生き物(ヒューマノイド)を実現させれば、それはそれで、人間の一種として捉えても良いのではないでしょうか。

さて、どうなのでしょう?

2023年10月1日 知らなかった時代

子供の頃(小学生時代)、1970年代後半には、ビートルズはすでに伝説のバンドでした。カセットテープのCMだったかに、ビートルズもいつかクラシックと呼ばれるようになるのだろうか、という意味のセリフがありましたけど、当時子供だった私からすれば、すでにビートルズはクラシック音楽となんら変わりがない感じがしていたものです。

でも、解散して10年に満たない時代だったことを考えると、当時、「ビートルズなんて」とバカにしていた人も多かったのではないでしょうか。

以前も書いたように、子供時代の自分の感覚と大人世代の感覚のズレというものが気になっています。

最近も、ゴダイゴのギタリスト浅野孝已さんのYOUTUBEでの発言を聞いて、ああ、そうなのかと感じたことがあります。

浅野孝已さんは、昔、ギターの神様、寺内タケシさんに部屋に閉じ込められてギターを弾くように言われたことがあるそうです。そこで、ブルース・ギターのテクニックを駆使した演奏を披露したそうですが、寺内さんが「そんな風にやるのか。」という意味のことを言っていたらしく、同じエレキ・ギターの演奏でも、寺内タケシさんと浅野孝已さんの間には、世代の差があったのだと気付かされました。

エリック・クラプトンなどのブルースから影響を受けているギタリストがよくやるチョーキング(音をなめらかに一音ほどあげる)やチョーキング・ビブラート(一音上げた後にビブラートをかける)などのテクニックは、70年代後半(私が小中学生だった頃)には、ギター雑誌に当然のテクニックとして紹介されていたのですが、そのほんの10年前には、それらのテクニックは、新しく普及したテクニックだったのです。今頃になり、このテクニックの習得いかんで、50年代に活躍したギタリストなのか、それ以降のギタリストなのかを分けるほどのものだったのだと知りました。

ギターを弾かない人にはなんの話やらという感じでしょうが、1970年代の後半には当然のことと思われているものがほんの10年前にはそうでなかったという事実を、大人になった今頃、驚きを持って知ることになったのです。

ということで、私が小学生になる前後の話を色々と調べています。

すると、意外にビートルズの影響が小さいのかもと思わせる事実が出てきたり、ロックンロール誕生期の混沌とした時代というものを知ることができました。

小学校高学年の私にとって、当たり前のことが、ほんのちょっと前には当たり前じゃなかった、それは、実に奇妙な感じです。

2023年9月1日 都会にいる意味

ネット通販が発達し、都会と田舎との物質的な差はなくなったと言う人がいます。

昔は、本屋の仕事をしているのでもないのに、わざわざ東京まで本を買いに行ったことがあります。もちろん、東京に行ったのはそのためだけではありませんが、今では、東京まで行かなくても、ワンクリックで世界中の本が手に入ります。

では、物質的な差が縮まることにより、都会と田舎の差は無くなったのかと言えば、そうではありません。なぜなら、都会と田舎とでは、芸術などに触れる機会、それを体験する機会が、圧倒的に違うからです。

そこで、アーティスト等を田舎に招いて生活を共にし、田舎でもアート体験を・・・という試みがされたりしているのですが。

まあ、それも悪くない。悪くないんだけど、なんだか違和感を感じます。

都会の圧倒的で雑多な情報量、そこで体験できるありとあらゆるアート体験。その中には、必ずしも全ての人にとって素晴らしいと感じられるものではないかもしれないが、その多様性ゆえに、私にとって大切な体験を見出すことができるのです。そしてその体験は、ネットでは決して味わうことのできないものなのです。

ネットの世界の情報量には驚くばかりです。ネットがあるからこそ、知ることができたディープな世界というものもあります。

でもそれは、渋谷に降り立った時に感じる、そこにいるだけでも感じられる、圧倒的な情報量には敵わないし、絶対に、永遠に田舎では体験することもできないことが山ほどあります。

もちろん、田舎でしか体験できないこともあるのは事実です。むしろ、そちらの方が大切だという人もいることでしょう。でも、私個人としては、常に感じていたいのは、都会での体験であり、田舎での体験は、時々感じられれば十分なのです。

ということで、田舎に住む私は、常に愚痴っているわけです。恐らく、田舎にいる限り、永遠に愚痴り続けることでしょう。それこそが、田舎に住むメリットだったりします。永遠に、少なくとも死ぬまでは愚痴れるぞと。

2023年8月1日 非正規でいる意味

最近、非正規として働いて感じるのは、ただ一つです。

結局は、正規社員の給料を守るために自分は働いているんだということです。

昔、同じ職場の非正規社員の人と話をしていた時、「ワーキングシェア」という言葉が出てきました。

要は、非正規社員は、ワーキングシェアの一環として仕事を得ているんだということです。

その言葉を聞いて、私はものすごい違和感を感じました。

仕事をシェアしあうことによって、より多くの人が仕事を得ることができる、一見、非正規の存在は、そのようにも見えますし、とてもありがたいことのようにも感じられます。

けれども、本当にそうなんだろうか。

私が、非正規として働き始めた当初、こう言われたことを覚えています。それは、非正規を雇うことで、大幅に経費が削減されたということです。

その時には、ピンときませんでしたが、後々考えてみて、経費が浮くことによって、自分たち(正規社員)の給料は安泰だということではないのかと感じたのです。

それならばと私は考えます。全員非正規でいいじゃないか。全体の給与を下げて分け合えばいいではないか。それこそが、本物のワーキングシェアじゃないのと。

そうすれば、経費も大いに浮くし、過重労働も解決するかもしれませんしね。

2023年5月1日 影響を受けること

昔、職場での休憩時間に、プロコル・ハルムの「白い影」を聴いていた時のことです。一人で音楽を聴きながら作業をしていたその部屋に入って来た人に、「ダメじゃん、ユーミン。」と突然言われました。

有名な話だとは思いますが、松任谷由美さんは、イギリスのロック・バンド、プロコル・ハルムの大ファンであり、その影響下にある曲が存在することも周知の事実だと思います。ただ、その時は、プロコル・ハルムの曲を初めて聴いた人にもその影響がハッキリと分かるだなとえらく驚いたものです。

それはともかく、世間ではよく、他の人の作った曲に影響を受けて作られた曲に対し、パクリだと、あたかもそれが犯罪かのように言われることが多いように思われます。

実際、他の人の作品をそのまま借用したり、最近では、他の人の作品(この場合は写真作品)をそのまま自分の作品として発表するということもあり、それは当然、非難されるべきものだとは思います。

でも、何もかもを盗作だ、パクリだというのもいかがなものかと私は考えます。というのも、何かを生み出すというのは、ゼロからいきなり100を作るということはあり得ず、少なくとも最初は、誰かの作ったものをベースに、自分なりの工夫を加えて再生産されるものだと思うからです。

実際、ミュージシャンの中には、自身の作った楽曲が他の曲のフレーズをいかに利用したのかを語るインタビューを多く見かけます。ただ、実際に聴き比べてみると、いかに影響を昇華させているのかも分かります。(もっとも、絵画なら、他の人の影響なく作ることが可能なのかもしれませんし、音楽でも、全く不可能というわけでもないでしょうけど。)

いずれにせよ、個人的に問題だと感じるのは、盗作やパクリを非難することよりも、自身の受けた影響を正直に語らないミュージシャンやアーティストの姿勢の方です。

明らかに、他のミュージシャンのアイディアを利用しているのにそれには触れない、他の人に色々と教わっているにも関わらず独学だと言い張るその姿勢には、本当にうんざりさせられます。

また、自分の好きなミュージシャンを褒めてばかりで、そのミュージシャンが影響を受けた人達に、目を向けようともしない。その姿勢にも、うんざりです。

何かを作ることを、神の言葉のごとく語るのでなく、もう少し素直に語ってもいいんじゃないのかな、そう思います。

2023年4月1日 共通すること

昔、GLAYのライヴの様子をテレビで放映しているのを見て、気持ち悪く感じたものです。それは、見事なまでに、観客が曲に合わせて同じ動きをしていたからです。

子供の頃から、みんなと同じ動きをすることに、気持ち悪さを感じていました。ラジオ体操、高校入学時に体験した、整列等の練習。授業開始時の挨拶。そして、所謂不良と言われた人たちの、服装と態度。

不思議なもので、前者にあげたものは、どちらかと言えば強制されたものです。そして、最後の不良は、自らの意思で行なっていると思われるものです。

でも、そのどちらにも共通しているのは、集団で同じ動きをするということです。

特に、不良と言われる人たちは、世間からは違うことをしていると思われていますが、不良は不良で、一つのカテゴリーに過ぎないように思われて、個人的には、全く共感できませんでした。

子供から大人になり、GLAYのライヴの様子を見ていて、人間というものは、強制されているか自主的にやっているかの違いはあるにせよ、みんな揃って同じことをする事が好きな生き物なんだなと感じたものです。

さて、先日、イギリスのハード・ロック・バンド、Deep Purpleのライヴに行きました。かつてのような演奏は期待できないにせよ、各メンバーの演奏や新加入のギタリスト、サイモン・マクブライドの演奏により、大いにライヴを楽しめました。

オリジナル・ギタリストのリッチー・ブラックモアとも後任のギタリストのスティーヴ・モーズとも違うサイモンのギター・プレイは、Deep Purpleの楽曲に、新しい命を吹き込んでいるようでした。

また、キーボーディストのドン・エイリーとの掛け合いも印象的でした。

ギターの音も大きく、演奏こそがDeep Purpleの要だと感じられました。

そして、演奏ばかりでなく、観客の自由な反応も、大いにライヴを楽しめた要因でもありました。

手拍子をする人もいれば、曲に合わせて踊る?人もいたりと、その動きは様々です。皆がDeep Purpleの音楽を楽しむという共通点はあるにせよ、その楽しみ方は、それぞれ自由なのです。

これこそ、本来ある音楽の楽しみ方だと思うのですが、どうなのでしょうか?

ちなみに、2018年の来日公演も見ていますが、その時には、GLAYのライヴのように、曲に合わせて手を動かしている女性グループがいましたが、それも、そのグループのみで、それはそれで微笑ましく思えたものです。

昔から、人から強制されることと人と同じことをやることが大嫌いな私にとって、Deep Purpleのライヴに参加することは、本当に心地よいことなのでした。

2023年3月1日 電子書籍

以前、漫画の電子書籍の解像度の低さについて書いたことがあります。

音楽については、いまだに圧縮データが主流とはいえ、その圧縮率は低くなり、さらにはハイレゾなどが登場しています。

早い話、時代が進むとともに、音が良くなり、ついにはCDをも超えてしまったのです。

でも、音に関しては、圧縮データとハイレゾを聴き分けられる人がどれほどいるのかは疑問ではあるのですが、それでも、それは正しい変化だと感じています。

それに比べ、電子書籍の方は、上述したように、いまだに低い解像度のままなのです。

パソコンも、電子書籍を見る端末(Kindleなど)も、紙に印刷したのと同等の解像度を持っているにも関わらず、肝心の書籍データの解像度が低すぎるように感じます。

個人的には、音のデータに比べ、画像データは優劣がわかりやすく感じられ、それにもかかわらず、現在の様な低い解像度で、明らかに汚い画像が用いられています。

これは、音楽業界の音に対するこだわり、音楽愛好家のこだわりと比べ、漫画業界のこだわりの低さゆえ・・・とは思えませんが、どうなのでしょうか。

最近、昔所有していて、現在手元にない漫画を、電子書籍で購入しています。

それで気になるのは、やはり、画像の汚さです。

やっぱり、処分しない方が良かったのかなと思わせるくらいです。

それはともかく、電子書籍化された漫画には、諸事情で、以前とは表現が異なる部分(差別的な表現がより柔らかい表現に変わっている)があり、その点は、今の時代の方が昔に比べ良い方向へと向かっているのだと感じさせられます。

2023年2月1日 フィルム・カメラ

最近、フィルム・カメラを引っ張り出して、撮影をしたいなと思い立ちました。

そこで、早速、カメラ屋に行ってフィルムを買おうとしたところ、フィルム一本二千円以上の値札がついていました。

これ、10本分の値段???

そう思い、何度も値札を見返しましたが、当然のことながら、値札が変わるわけではなく、その日は、購入を諦めて帰りました。

さて、フィルム・カメラを使用する理由として、「荒れた描写」だったり「仕上がりが想像できない」だったりをあげる人がいるようです。

ただ、フィルムの歴史を考えると、デジカメが誕生した時には、フィルムは十分枯れた技術であり、一般に言われるフィルムのイメージと現実とは大きなズレがあるようです。

少なくとも、デジカメ登場当時、描写に関しては、デジカメより捉える光の範囲、階調等は、フィルムの方が優れていたのです。

また、プロのカメラマンに言わせると、撮影した段階で、仕上がりは分かっているのであり、仕上がりが想像できないということはないそうです。ましてや、偶然、いい画像に仕上がってラッキーなどということもないそうです。

いずれにせよ、過去を現在より劣ったものとして見返すのは如何なものかと感じたりします。

新しい技術が登場し、それが優れたものであることは当然だとしても、フィルムやレコードなどの昔の技術には、長年の蓄積があるということ、それぞれの良さがあるということも忘れてはならないと感じます。

2023年1月1日 謹賀新年

いつもの様に、紅白を見ながらこの文章を書いています。といつもは書いていましたが、ボーッとしていて、いつの間にか紅白は終わっていました。と言うことで、ゆく年くる年を見ながらこの文章を書いています。静かに流れるナレーションには、景気の後退、脅かされる平和についてのコメントがあり、昨年は、大変な一年だったなと感じます。

---1月3日に追記---紅白に関しては、始まるまでは、「なぜ、この人が出るのか」などなど批判的な声もあったようですが、放映後には、それが賞賛の声に変わっていました。視聴率はともかく、今回はまとまりがありつつ、変化も感じさせる内容だったと思います。---追記終了---

さて、私には、現在、二つのテーマがあります。その一つは、昭和への回帰です。それは、私の趣味趣向の全てが、昭和に形作られたからです。極論すれば、私にとって、平成以降の時代は、必要がないのです。

昭和への回帰と言っても、昭和がいい時代だったとは思いません。まだ戦争を引きずっていた昭和50年代、エレキ・ギターが不良の象徴と思う大人世代(戦争体験者達)と、エレキ・ギターがごく普通に存在するものと思う子供世代(戦争未経験な日本の若者達)の間には、明らかに意識の断絶がありました。

また、差別だって、パワハラだって、セクハラだって、それらが当たり前だったのが昭和という時代です。

平成生まれの人が、「昭和の方が自由だった」と言っているのを聞いて、自分の知らない時代というものは、自由なものに感じられるのだなと思いました。恐らくそれは、今の時代にないものを過去に投影しているだけなのでしょう。

それはともかく、決して良い時代だったとは言えないにせよ、その時代に私という個性が作られたのは間違いなく、戻りたいとは思わないまでも、もう一度、その時代を振り返りつつ、自分がやるべきことを考えていきたいと思っています。

二つ目のテーマは、これからの社会についてです。

あるドラマで、中学生達が「2020年に戻りたい」と語るシーンがありました。コロナによる影響を正面から描いたそのドラマでの中学生達の思いは、多くの若者達や、そして、大人達にも共通しているものだと思います。多くの人にとって、もし、戻れる時があるとすれば、憧れとしての遠い過去ではなく、よりリアルなものとしての2020年頃なのだと思います。

でも、現実には、それはありえません。私個人としては、むしろ、コロナによって変わってしまったこの社会がどのようになるのかを見つめ続けていきたいと思います。