NIJIIRO Photo Gallery

2014年11月1日 子供時代

子供の頃を思い出すと、あまり良い思い出はありません。

いじめられたとか、ひどい目にあったとかそう言う意味ではありません。

子供の頃の邪悪な自分(あるいは他の人)と言うのを思い出すと、何とも言えない思いになるのです。

言ってはいけないことを言って、人を傷つけたり、(私ではないですが、)虫を殺したりひどいいたずらをしたり、いじめに近い様な事をしてみたりなど、その時の状況を思い出すと、なんて人間はひどい生き物なんだろうと思います。

もちろん、そう言う経験を通じて、こう言えば人が傷つくからやってはいけないとか覚えていったのですが。

でも、大人になった今でも、子供の頃の邪悪な自分と言うものが根底にあって、仮面をかぶって生きているだけなのではないかと思ったりします。

最近、この様な考えが頭を巡って離れません。

2014年10月1日 判断力

年齢を重ねるとともに、あちこちにがたが来ているのを感じます。

見た目以上に、体の内部は老朽化が進んでいる様です。

最近見たギター雑誌に、デビュー45周年を迎える、ギタリスト荘村清志さんのインタビューが載っていました。

一時、テクニックが落ちていっていた事について、以前も語っていましたが、今回のインタビューでも、その事に触れられていました。

40歳を過ぎたあたりから、指の動きが重く感じられる様になり、そのため、しばらく、演奏が楽しめない状態が続いたそうです。けれども、軽いタッチで弾く様になってからは、テクニック上の問題を克服し、現在では、演奏を楽しむ事が出来る様になっているそうです。

個人的にも、肉体的な変化を感じています。(もちろん、プロのレベルとは大きく異なる形で。)そればかりでなく、最近、判断力の衰えを感じる様になりました。

ここ1年ほど、以前なら絶対にしないミス、勘違い等が、増えている様に感じます。

パソコンに関する事ですら、思いもよらぬ判断ミスをする事があります。

年齢を重ねると、若者の感覚についていけなくなるのだろう、その様になるものだとは思っていましたが、どうも、そればかりでなく、物事を考える柔軟性、判断力そのものが衰えていく様です。

その辺りをどう克服するのかが、これからの課題となりそうです。

2014年9月1日 物語

1970年代、日本での洋楽シーンは、雑誌の影響力が大きく、そこからもたらされる情報が、ヒットを左右していた様に思います。私が、ディープ・パープルに興味を持ったのも、多かれ少なかれ、雑誌の影響があったのは否定できません。

例えば、クラシックとロックを融合した壮大なハード・ロックという音楽への解釈、または、リッチー・ブラックモアの数々の奇行など、雑誌によってもたらされた情報は、子供の頃の私を惹き付けるのに十分でした。

もちろん、ディープ・パープルのファンであり続けているのは、1970年のライヴ音源を聴いて、衝撃を受けたからなのも事実です。でも、きっかけは、音楽とはあまり関係のない物語としてのディープ・パープルなのは、間違いありません。

大人になり、その様な自分のあり方に、注意しないといけないと、時々感じています。なぜなら、どうしても、物語に惹き付けられる自分と言うものが常にいるからです。

緻密に組み立てられた物語をいかに排除するのか、それが今後の課題だと感じます。

2014年8月1日 写真

写真において厄介なのは、写真というものは、どの様な解説をつけるかによって、いくらでも解釈を変える事が出来るという事です。

写真は、現実を写しているが故に、そこにあった現象ばかりではなく、その場での被写体の心情までも写してしまっているという誤解を生じさる傾向がある様に思います。

実際には、その写真を写した人の心情を解説と言う形をとることによって反映させているだけなのですが。

もう一つ、写真にとっての厄介なのは、被写体が無限に選べないと言う事です。肖像権だの道徳的に問題があるだの、これも、現実を写すが故に引き寄せられる問題です。

写真の本質は、そこにあったと言う事を示すのに過ぎないのに、あまりに、現実との結びつきが強いが故に、人の心を乱す結果になってしまいます。

ある映画を見た後で、この様に考えたのですが、いずれにせよ、常々、写真の本質と言うものを考えるとき、いつもこれらの問題にぶつかってしまいます。

2014年6月1日 ドキュメンタリー

最近感じるのは、ドキュメンタリーにとって、最も重要なのは、編集する前の素材なのではないかと言う事です。

テレビなどで、芸能人のドキュメンタリー・ビデオを見ることは、実に面白いと思います。例えば、人気のテレビ番組である「情熱大陸」などは、ついつい、見入ってしまいます。

でも、時々感じるのは、ドキュメンタリー・ビデオ(あるいは番組)などは、面白くはあっても、それは、編集した人の意図が面白いだけなのかもしれないと言う事です。

ドキュメンタリーの元になった映像が手に入ったとしたら、もしかしたら、それが何時間あったとしても、実に興味深く見続ける事が出来るのかもしれません。そして、完成したドキュメンタリー・ビデオとは全く異なる印象を受けるかもしれません。なぜなら、元になった映像には、より多くの事が写り、伝えているかもしれないからです。

その一方で、音楽に関しては、編集する前の音源を聴いても、それは、ファンとして楽しみではあっても、音楽として楽しむのとは違う様に感じます。

例えば、Deep Purpleの名盤Machine Headのマルチトラック音源(ギター、ドラムなどの音を別々に聴く事が出来る)が手に入ったとしたら、それは、ファンとしては嬉しいし、細かな演奏の分析にも多いに役立つと思います。

でも、その音源を常に聴きたいと思うかと言えば、それは、違うと感じています。

やはり、最終的にマスタリングしたものこそ完成であり、ずっと聴き続ける事が出来るものなのです。あくまで、マルチトラック音源は、その解釈を補足するものに過ぎません。

まあ、音楽は元々意図的に作っていくのだから、完成したものこそ重要なのは当然です。それに対し、ドキュメンタリーは、素材を一つの解釈でまとめあげたものであり、実際には、違う解釈でいくらでもまとめあげる事が出来るのだろうと思います。

2014年5月1日 楽しむ事

最近、少し、ギターを弾く事が楽しくなっています。

といっても、ピアノで言えば、バイエル程度のテクニックで、ウロウロしている状態なのですが。

でも、音楽の面白い点は、バイエルクラスのテクニックでも弾ける「Let it be(のイントロ)」の様な名曲がある点です。

個人的には、昔から演奏されていた様な曲(民族音楽やルネサンス時代の音楽)にとても魅力を感じています。テクニック的には素朴でも、音楽として十分楽しめるからです。

テクニックを身につければ、それだけ表現の可能性も広げる事が出来ることでしょう。実際にはテクニックがある事が前提の曲もあります。Deep Purpleの曲をテクニックのない人が演奏すれば、どれだけ悲惨な事になるでしょうか。

とりあえず、よりテクニックを身につける様練習を続けるとは言え、とにかく、今あるテクニックで音楽を楽しんでいこうと思います。

2014年4月1日 次元

以前、ある番組で、坂本龍一さんがあるミュージシャンのよさがわからないと言っていました。

それを聞いて、「歌詞が良い」とか言って、一生懸命坂本龍一さんを説得している人がいましたが、恐らく、音楽を語ると言う意味で、この二人は全く別の次元を見ているのだと思いました。

もちろん、歌詞は素晴らしいのでしょうけど、歌詞だけを見て、音楽的な面は全く見ていない、もしくは、見る力がないのだと感じました。少なくとも、坂本龍一さんのレベルでは。

最近、坂本龍一さんの出演されている音楽番組を見ていて、坂本龍一さんはこんな事を狙って曲を作っているんだと知り、当然の事ながら、その次元の差に驚かされました。

一応、音楽が好きで、いろいろ聴いてはいますけど、私が聴いているのは、表面的な事だけなのかもしれません。もっと、音楽の知識があれば、違った視点から、音楽を楽しむ事が出来るのでしょう。

2014年3月1日 変化しない事

先月は、変化する事について書きましたが、今回は、変化しない事について。

人と言うのは、なかなか変化しないものだなと感じる事があります。

どんなに議論しても、自分に都合のいい意見だけを採用し、そればかりでなく、自分に都合良く意見をねじ曲げて、自分の意見の正当性を主張したりする人がいます。その様な人を見ていると、人間って変化しないものだなと思うのです。

本来、学ぶと言う事は、新しい事を知って、自らを変化させていくものだと思います。でも、ある程度人間として自分の意見や立場が確立すると、新しい事を学んでも、自らを変化させる事が難しくなる様です。

民主主義が、議論をしたあとで、最終的に多数決で結論を得るのも、結局、説得しても自分の意見を変えない人がいるから、仕方ないので多数決で決めているのかもしれません。意見を変えない人に限って、話し合いが大切と言ってたりしますが、極論を言えば、話し合いで解決するなら、多数決なんて必要すらないでしょう

まあ、脳には、「確証バイアス」と言うのがあって、自分が持っている世界観と一致する意見のみを探そうとする傾向が元々あるそうなので、まずはそれを認識して、考える事が大切なのかもしれません。

2014年2月1日 変わりつつある事

人って、そんなに変化するものではないという風に、漠然と思う事があります。いつも、同じ様なミスをするし、同じ様な言い訳をしたりします。

でも、最近、社会における自分の役割やあり方は、自分のちょっとした心掛けによって、変わるものなのかもしれないと思う様にもなりました。

人付き合いの苦手な人が、突如として、社交的になったりする事はないにせよ、ちょっとずつの変化が、数年後には、大きな変化として現れている、そんな事があるのではと思うのです。

50歳を目前として、この辺りの感じ方が、変わりつつあります。

2014年1月1日 あけましておめでとうございます

明けましておめでとうございます。

本年もよろしくお願い致します。

(などと言いつつ、実際にはお正月気分が抜けた1月末に文章を書いたりしています。)

昨年の年末は、いつもの様に紅白を見て、年を越しました。ずいぶんとグダグダな紅白でしたけど、自分の好きな曲は聴けたし、面白い部分もあったので、これはこれでよかったのではと思ったりしました。

新年を迎え、いつもの様に神社参りに行きました。

iPod touchで神社の周辺を写真に撮ったりしましたが、前世代のiPod touchなので、カメラの画質が悪く、あとで、どうしかものかと思ったりしました。画質の事を考えると、そろそろ、デジカメの購入を考えないといけない様です。

さて、写真を撮るよりも、その時の現実に目を向ける方が大切だ、なんて意見もあります。実際、カメラに夢中で、目の前で何が起こっているのかを見る事が出来なかったと言う事はあるものです。少なくとも、何が起こっているかはわかっていたとしても、わざわざ、液晶画面越しに、物事を見る必要はないと言う意見も、分からないではありません。

でも、個人的には、写真を撮る事によって、自分の中で永遠に残る風景や時間もあると思います。写真に撮ったからこそ、道ばたでたまたま出会った猫の事を覚えていたりしますから。10年以上前に撮影した写真に写った猫の姿を見ると、その日の天気や気持ちまでもありありと思い出されます。

今年は、意識して、写真を撮ってみたいなと思います。花粉症でなければ、もっと、外での撮影が楽しめるのでしょうけど。