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2007年12月1日 阿久悠さん

作曲家の都倉俊一さんが、作詞家の阿久悠さんの語った言葉として、「今の詩はブログで、僕が作っているのは映画の脚本」だという言葉を、あるラジオ番組で紹介していました。

例えば、尾崎豊さんの音楽を考えていただくと、彼の歌詞に共感持つ、とてつもなく熱狂的なファンがいるわけです。その一方で、私のように、全く尾崎豊さんという人間、そして音楽に興味のない人間もいます。もっとも、尾崎豊さんは、若くして亡くなることにより、伝説として人々の共感を生み出したと言う側面はあります。

尾崎豊さんの音楽を例に挙げるのは、的外れなのかもしれませんが、今の音楽の歌詞は、一部の人たちの熱狂的な共感は得られても、それ以上の広がりがない。100万枚売れれば、その人数分の広がりしかない、そういう面は確かにあるのかもしれません。

個人的には、昭和歌謡の後半、まさに、阿久悠さんの活躍した時代を体験しています。

その一方で、小学生の6年生から洋楽を聴き始めたこともあり、どちらかというと、テレビで流れているような歌謡曲には否定的な面がありました。

とくに、アイドル全盛期の時代へと向かっていた時期でもあり、「洋楽にはこんなにすばらしい音楽があるのに、なぜ日本はこんな状況なんだ」と思ったものです。

ただ、洋楽への思いは、今思えば、ブログ的なものへの共感だったのかもしれません。

洋楽を聴く人は、邦楽を聞く人に比べればずっと少なく、一握りだったわけで、その一握りの中の一人でいることへの安堵感のようなものがあったように思います

ただ、今となっては、当時の音楽を聞くと、自然と歌詞が出てきますし、あらためて、歌詞に注目してみると、阿久悠さんの歌詞は、とてもすばらしいものだと感じます。さらに、阿久悠さんの歌詞には、個人の経験を超越した普遍性のようなものも感じます。

これは、あくまで、ラジオでの都倉俊一の発言を聞いて思ったことですが、もう一度よく、阿久悠さんの歌詞を読んで、そのあり様を考えてみると、面白いかもしれません。

2007年11月1日 社会貢献

以前、私は、 アメリカ人のボランティア活動や慈善活動のことを、偏ったお金の配分の是正のために行われていると書いた事があります。しかし、最近、その考えは、間違えているのかもしれないと思うようになりました。

元々、アメリカ人の方が日本人よりも、社会を大切にしなければという意識が強く、彼らにとって、社会に貢献するということは、自然なことなのかもしれません。

恐らくこれは、誰かが見ているからだとか、自分にとって何らかの利益があるからだとかの意識とは異なるものなのでしょう。

それに対し、日本社会は、社会貢献という言葉を使いつつも、アメリカ人が持っているような意識の域にまでは達していないように感じます。

日本人は、皆が嘘をついているように感じていると書いたことがありますが、社会貢献という言葉を使いつつも、心の根幹では、社会貢献なんてどうでもよいと考えているのではと思ってしまいます。

ただ、日本の社会も、今までの家庭的・下町的?な社会から脱してきているので、根本的に、考え方が変わってくるのかもしれません。もしかしたら、私よりも下の世代の人たちは、より、アメリカ的な社会観を持った人たちが増えるようにも感じます。

いずれにせよ、根拠があって書いているのではなく、なんとなく、そのように感じるだけですが。

2007年10月1日 Second Life

Second Lifeの話題をよく目にするようになりました。テレビで取り上げられるに及んで、いよいよ、本格的にブレイクするのかもしれません。

Second Lifeとは、住民が想像し、構築、所有する 3Dデジタル・ワールドのことだそうですが、個人的には、全く興味がありません。

ネット上で、自分以外のキャラになったところで、何の意味があるのでしょう。空を飛べる、それがどうしたと言う感じです。Second Lifeは結局、現実世界に、もう一つ、やっかいな現実世界を作っているに過ぎないように感じます。

ネット社会に利点があるとすれば、現実社会に満足できない人が、自らの活路を見出せる事だと思いますし、そのように主張する人は他にもいます。

実際、現実世界では満たす事のできない趣味の話をすることができ、普段、他の人に見せる事のできない自分の能力を、ネットでは発揮する事ができます。また、善人として振舞っている日常とは異なる悪の部分をネットで満たす事もできます(ネットとはいえ、犯罪行為はいけませんが)。

それは、ネットの、本当の意味での利点と言えるでしょう。Second Lifeにも、そういった側面があるのかもしれません。

一方で、ネットと言えば、ネット・ショッピングのようなものを思い出しますが、これは、とても便利なものです。でもそれは、現実にあったものが、形を変えたもので、便利ではあっても、現実のもつ様々な問題も引き寄せてしまいます。

同様に、Second Lifeのようなものも、日常とは見掛けが異なるだけで、普段の生活の延長に過ぎない様に思われます。どんなにキャラクターを演じていても、人と人とのかかわりが生じる以上、現実社会と、なんら変わりないのではないでしょうか。しかも、自分の断片が、ネットをさまよっているわけで、断片ゆえに、さらなるやっかいな問題を引き起こしかねないのではとも思います。

肉体のあるリアル社会で気苦労した上に、仮想のネット社会でまで気苦労したくはない、そのように感じます。Second Lifeをやっている時間があったら、YOUTUBEで、自分の見たい映像を見ているほうが、はるかに楽しいと思います。

もっとも、Second Lifeに登場するキャラクターがコンピュータによる人工知能により作られたものなら、興味を感じるかもしれません。そう思うのは、私だけでしょう。結局、ネットとは、人間をつなぐものでしかないのですから。

2007年9月1日 どこまでが自分なのか?

「オーラの泉」という番組が人気な様ですが、ある意味面白い番組ではあります。

出演者の方が、
「守護霊様が・・・」と言うと
「そんなものはいません」

「前世は・・・」と言うと
「そんなものはありません」

と、なかなか突っ込みどころ満載です。霊があるかどうかの議論は、堂々巡りになるので、ここでは書きません。

でも、もし霊が肉体に宿っていると仮定して、あるいは、少なくても意識というものはあるわけですが、果たして、自分というのはいったいどこまでが自分なのだろうかと思う事があります。

例えば、車を運転している時、目は道路の先を見ています。頭の中では、来月分の「今月の一言」に何を書こうかと考えています。手はハンドルを動かし、足は、アクセルを踏んでいます。

見事なまでのマルチタスクなことに驚くばかりです。

これから、科学技術が進んで、自分の意識(=霊?)というものが取り出せるようになるのかもしれません。けれども、これだけマルチタスクな意識のどこからどこまでを取り出せば、自分の意識なのだろうかと感じます。

頭の中で考えている事だけ取り出せれば、それが自分だといえるのでしょうか。

熱さを感じ、物を見たりする感覚は自分ではないのでしょうか。

そう考えると、意識や霊というものものはいったい何なのかという疑問にいたります。

まあ、幻肢というものもあるので、霊に限って言えば、霊はそれに類するものを持ったものなのかもしれませんが・・・、色々と考えさせられる問題だと思います。

2007年8月1日 人間そのもの、時代そのもの

私は毎月、こうやって、個人的な文章を書いています。

果たしてその事に意味があるのだろうか、と時々思います。以前にも書いたように、プロの書き手から見れば、取るに足らない文章を書き続ける事への疑問を感じるのです。

最近、「フューチャリスト宣言」という本を読んでいて次のように感じました。以前このホームページにも書いたように、ネットによって、個人の全てが残されないのは、確かです。でも、もしかしたら、少しばかりの個人の記録の集まりが、人間そのものを記録し、表現する事になるかもしれないということです。

将来的に、現在のホームページやブログがデータとして残ると仮定して、100年後の人が、2007年現在という時を調べるために、それらのデータを活用し、この時代の人間像というものをイメージするようになるのではないでしょうか。そうすれば、このページも、そのイメージを構成する一部になるのです。

恐らく、2007年という時代は、今までと同様、歴史という形で語られることになるでしょう。でも、歴史が記述する時代とは異なる世界は、ネットに残されたデータによって示されるのかもしれません。

さて、現在は、今まで以上に、個人の文章が氾濫している時代です。個人の日記、個人の考えが、これほどまでに残された事は、なかったはずです。

昔、フランス革命時のある個人の日記が書籍として発売されていて、ぜひ、それを読んでみたいと思っていました。残念なことに、未だに読んでいませんが、聞くところによると、歴史では劇的な時代のように思われている当時も、一般の市民の生活は、その激動とは異質なものだったそうです。

一個人の日記ですら、そうなのですから、ましてや、現在の氾濫した情報は、より、現在の全体像をあらわすように思います。

今は、ブログが主流となりましたが、私は、クローズドなホームページに書き続けています。なぜなら、すでに、他の人に読まれることを、あまり想定していないからです。でも、将来的に、この文章が、人間そのものの解析に利用されるようになる事には、大いに興味があります。

2007年7月1日 目は口ほどに

相手の表情を読み取ろうとするとき、どこに注目するでしょうか。

この間聞いた話によると、日本人は目に注目し、外人(アメリカ人のことだと思われます?)は、口に注目するのだそうです。

確かに、日本のアニメは、目が大きいという特徴がありますが、外国のアニメは、目よりも、口の表情が豊かなように感じます。

これは、どこに注目するのかによって、表現の違いが現れた典型なのでしょう。

恐らく、逆も真なりで、同じ絵や写真を見ても、感じることは、日本人と外人とではそれぞれ異なるという事になるのでしょう。

「目は口ほどにものを言い」と言われますが、外国では、「口の動きは、しゃべる内容よりもものを言い」という事になるのでしょうか。

ちなみに、口の大きさも、日本人より外人の方が大きいのだとか。口による表現力の違いによるのかもしれませんね。

2007年6月1日 自分の中のギャップ(2007年6月10日加筆)

自分が思っている自分という人間はいない。

それが分かったのは、仕事を始めてからかもしれません。

「あなたはこういう人間だ」と言われたり、態度で示された時、初めはものすごい違和感を感じました。けれども、何人かの人に同じことを言われ続けていると、自分でも、納得せざるをえなくなります。

ただ、そう思っても、何だかしっくり来ない感じがあります。そう納得してはみても、やはり、自分には、自分で感じる自分というものがあるのです。

でも、いつか、私が死んだ時、「あいつは、こんなやつだった」と言われるのでしょうが、最終的にはそれが自分であり、それだけが自分だという事になります。

私という実体はいないのに、私は存在している。そう考えると、自分が考える自分はやはりいないことになるのでしょう。

それでは、私が他の人を見ていても、同様のことをその他者がが感じているのでしょうか?私が見た他者自身が感じる自分と、私が感じる他者がいる???文章にすると、何だか頭が混乱してきますが。

もしかして、自分が感じる自分と他の人が感じる自分という2つのギャップを埋めるために、精神科医がいたり、スピリチュアルな世界が流行ったりしているのかもしれません。まあ、それだけではないでしょうが。

2007年5月1日 鶏口となるも

鶏口となるも牛後となるなかれという言葉がありますが、最近は、この言葉はどうなのかなと感じることがあります。

意識の中では、自分という人間は、人生の主役であり、そうであるなら、自分の好きなように生きればいいんだと思う事もあります。

その一方で、100年後には、自分という人間は存在しないのであり、私という人間を知っている人もいないわけです。結局、自分とは関係なしに、人間というものは存在し続けています。

個人というものが、あまりに強調されるようになった時代。自分がヒーローになりたい、偉人になりたい、歴史に名を残したい、そう思う人が多いようにも感じます。金銭的なニュアンスも大きいとはいえ、アメリカンドリームもそういった意味合いを含んでいるのかもしれません。

でも、自分は自分の主役ではあっても、結局、人間という単位で見たときに、決して主役ではありませんし、歴史に残るような人間でもありません。そう思ったとき、憧れのアーティストのように生きようとするのは間違えで、むしろ、自分に合った生き方は他にあるのかもしれないと考えるようになりました。

例えば、組織の中で重要な歯車のひとつとして働く、それも生き方としては、一つのありかただし、自分にそれが合っているのなら、それも選択肢の一つとして考えるべきでしょう。

歯車のひとつというと、ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」や、チャップリンの映画を連想してしまいます。それは、組織の否定的側面ですが、組織にしか出来ないこともあるはずです。

小さい頃から、伝記物などをよまされたり、偉大な発明家にあこがれたり、アーティストにあこがれたり、それが目指すべき道のように教えられたし、それ以外は、無味乾燥な社会のように感じたものです。でも、人間の生き方は、もっと多様なのではないか、そんな当たり前のことを感じる今日この頃です。

2007年4月1日 壁を作ること

中学生の時、自分から友人に壁を作ってしまった瞬間を今でも覚えています。なぜそうしたのか、それは自分でも分かりません。でも、それ以降、友人は作らず、自分の世界に閉じこもるようになりました。

学生生活を送っている間、どうしても彼らと私という感じがあり、それになじむ事ができなかったのも、自分の世界に閉じこもった原因だと思います。

もっとも、大学の頃は例外でしたが。というのも、大学は、まさに個人の自由が許される場でしたから、それぞれの個人と、私という個人が、上手い具合にバランスが取れていたように感じます。

大分に戻ってからは、やはり、自分の世界に浸っています。したがって、今は、この大分には友達と呼べる人がいない状態です。でも、それでかまわないと思っています。

結局、基本的に、一人で居ても平気ですから。

ただ、一人でいるということは、おのずと自分で限界のラインを引き下げているという事なのかもしれません。例えば、何かをクリエイトしようとした時には、一人で考えるより、他の人と作業したほうが、自分の可能性は大きく広がるかもしれません。

まあそれは、何かをクリエイトするという場合であって、自宅に居る時にはあまり関係のない話だと思います。

やはり一人が快適だし、それがそれほど苦痛ではありません。

さて、友達がいないというと、なんだか悪い事のようにも感じられたのですが、最近、そういった人がいても、別に問題ないじゃないかと思えるようになりました。別に、開き直ったわけでなく、それが私が選んだ世界であり、それはそれでそういう人もいるということです。

ちなみに、大学の頃が例外なのは、次のような理由からかもしれません。どうも、中学・高校生の頃も仕事をはじめてからも、目の前にいる人たちが、本当の彼らであるように感じられないのです。何か、嘘をついているように感じられます。大学のときだけは、それが感じられなかった・・・そのように思うのですがどうなのでしょう。

いずれにせよ、その嘘の姿は、私を不快にします。

2007年3月1日 アートについて

最近、アートという言葉にうんざりしています。

あ~、勝手にやってくれ。そういう気分です。

自己表現だと言われても、その苦悩をしか感じない作品は、見ていて疲れるだけです。

苦悩の末、突き抜けたところにこそ、優れた表現があるはずです。ところが、苦悩する事自体が、アートであるかのような物言い、う~ん、どうなんだろう。

それともう一つ、これは以前書いたことなのですが、作品を作った作者が、あまりに、自分の作品が可愛いがため、「あれはダメ」、「これは認めない」みたいに主張するのもうんざりさせられます。

作品は、出来上がった時点で、作者とは別の個性でしかない、そう思う私からすれば、作品が可愛くて仕方のない人の気持ちは分からない。

作者から離れて、どれだけ優れた解釈を生み出せるのか、作品の価値は、その部分にあるはずです。

それなのに、ここは変えるな、こんな解釈は許せない、勝手に流用するな・・・、あまりにばかげている。

作者ほど、最低な作品解説者はいない。そのようにも、私は感じます。

ということで、かなり頭にきた状態で書いているのが、今日の文章です。(わざとですが)

本当に、最近、アートというものに飽き飽きしています。アートというものを、特別扱いする事への嫌悪感もあります。

確かに、他の仕事に比べ、リスクが高いのは確かです。

でも、それが、アートと呼ばれるものを他より優れたものみたいにいう理由にはならないと思います。

最近、ラジオでミュージシャンが話しているのを聞いていても、普通に、サラリーマンが話しているのと同じように感じます。なんら、アーティストと呼ばれる人と、そうでない人に、話の内容の違いを感じないのです。

ただ、話として面白いかどうかだけ、それが耳を傾けるポイントです。

(追記)

この所、著作権の期間を延長しようという話が出ています。それに関して、色々とホームページを見ていると、なかなか面白いし、「へ~、そうなのか」と思う事も多いです。

外国では、著作権の期間が50年から70年に延長されています。日本も、恐らく、それに合わせる事になるでしょう。

でもそれは、法律的な問題、経済的な問題で決められたものです。作品を作る側の人の中には、自分たちの家族の生活のために、延長は当然だという考え方の人もいます。(それにしては、長すぎると思いますが)

それはそれとして、作品は、最終的には、作者とは異なる生命を持つものなのだと思います。親と子供の関係に近いという側面もあるのかもしれませんが、それでも、親と子供は別人格だし、親の思い通りに子供がなるわけではありません。

作品が作者から突き放された所で、どれだけ輝くのかが大切だと思います。

2007年2月1日 写真について

先月、テレビ番組「情熱大陸」で、カメラマンの梅 佳代さんが紹介されました。今、若い人たちを中心に人気のある、注目のカメラマンだそうです。その番組で、彼女の作品を見ていたとき、ふと気が付いた事があります。

それは、彼女の作品は、彼女自身がその時何を感じ、何を考えているのかを見事に切り取っているという事です。彼女自身の視線を、瞬間的に捉えているのです。

写真を撮る時、被写体の気持ちを捉えようとする人もいます。また、写真を撮った後に、その時自分の感じた思いをもとに、写真を加工する人もいます。

でも、写真が写真であるその根本は、写真を写したその瞬間に、カメラマンその人そのものが封印されることなのかもしれません。瞬間的に感じ、それを封印する事こそ、写真にとって大切なのではないでしょうか。そう考えると、写真を撮った後の加工も、実は、写真が写真であるためには、単なる妨げでしかないということになるでしょう。

写真を始めた頃から感じていたのは、写真に対する違和感です。それは、絵画とは異なる質感にあるのか、それとも他に原因があるのだろうかとずっと考えてきました。

そして、先月、テレビを見ていて気がついたのが、写真家そのものを写真に感じることが、写真への違和感につながっているという事です。

例えば、絵画だって、描いた人そのものであり、感じたことを表現している事には違いありません。でも、絵画の場合には、製作する過程で、様々な思考が入り込みます。その人が直感的に感じたものや瞬間をその作品はあらわしてはいないのです。すなわち、、絵画は、一瞬で描けるものではないがゆえに、思考がより勝ってしまうのではないでしょうか。もちろん、写真でも、加工すればするほど、思考が入り込み、写真の写真らしさは失われてしまう事でしょう。

梅 佳代さんの写真に感じる彼女という人間、それは、私という人間とあまりに違いすぎる、そのように感じるのですが、もし彼女が画家で、絵画で何かを表現していたとしたら、それほどダイレクトに彼女という人間を感じることはなかったでしょう。

彼女の彼女らしさとは、直感的に感じ、捉える事だと思います。それは、写真的であるということでしょう。

それに対し、じっくり考える私という人間は、写真的ではないということになります。

さて、先月は、書くネタに詰まって困りましたが、今回は私が感じた、ごくごく当たり前の話です。こんなの当たり前じゃん、と思う方も多いと思います。でも、大切なのは、私自身が、実感を伴って感じることです。

「あっ、そうなのか・・・」、そのように感じるのは、気持ちのいいものです。

写真は、被写体の気持ちも写さないし、加工される事をも拒絶している。写真が写しているのは、カメラマンの人間性そのものであり、それは、写真そのものでもある。

2007年1月1日 新年を迎えて

明けましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いいたします。

先月の続きを書こうかと考えていましたが、続きを考えていると、あまりに頭にくることが多く、冷静な文章が書けそうにもないので、違う話題にする事にしました。

2006年の最後は紅白を見て、今は、さだまさしさんの新年の番組を見ています。

去年も見ていました。

さて、新年を迎えると、今年はいい年になるといいなと思ったり、占いを見て、今年の運勢を気にしたりします。

運勢とは異なるのですが、人生という事で言えば、それは、あらかじめ決められているようにも感じます。結局、自分の持つ心と体という制約が、自分の人生を限定しているように思うのです。

実際には、外的要因が大きいとはいえ、ある選択肢が現れたとき、どちらを選ぶのかは、自分が持つ資質というものが大いに影響するのではないでしょうか。つまり、自分が持つ精神的・肉体的制約が、自ずとその答えを導いてしまっているのです。そういった意味で言えば、人間の人生はあらかじめ定められているのではと思います。

年齢と共に感じるのは、精神的な面より、肉体的な面の与える影響の方が大きいのかなということです。学生のころは、心と体は分離したもので、心こそ、自分の中心的なものだと考えていましたが、今ではむしろ、心と体が不可分なのは勿論の事、もともとの影響力としては、体の方が、大きいようにも感じます。

体という事で言えば、筋肉質であるのかないのか、病気になりやすいかなりにくいか、そして、見かけも大きな影響があるように思います。私は、子供の頃から痩せた体型ですが、もし、筋肉質な体型だったら、きっと、異なる人生を歩んでいた事でしょう。

まあ、これは、選択する選択肢が異なってくるという事を意味しているだけで、その選択によってもたらされる結果(=運勢)がいいのか悪いのかまでは、分からないわけですが。

ちなみに、私は輪廻というものを信じてはいません。でも、もし、生まれ変わって、同じような外見、同じような考え方を持っていたら、また、同じような人生を歩むんだろうなと思います。