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2018年12月1日 ブームはチャンス

現在、クイーンとそのメンバー、フレディー・マーキュリーを中心とした伝記映画、「ボヘミアン・ラプソディ」が大ヒット中です。

昔からのファン、以前ファンだった人、洋楽に興味のなかった人、若い人等、ありとあらゆる層に評判が良い様です。映画を配給している会社ですら、予想のできなかった大ヒットです。

さて、ブームになると、雑誌、テレビ等で特集が組まれていて、多くの人が目にすることになるのですが、正直、その質には疑問を感じることがあります。

全く知識のない人に関しては、それほど影響はないのかもしれませんが、放送されている内容を見ていると、それほど力を入れて作っていないなと感じさせる番組が多いように感じます。

よく使われる映像に合わせて、バンドの歴史を振り返り、コメンテーターがコメントを述べる。もちろん、それだって、大変だと言われればそうなのかもしれませんが、見ている方としては、なんともつまらないものです。

まあ、ブームになると、どうでも良い番組等が増えるのは仕方ないのですが、そうした中にも、実は、丹念に作られた番組はあるはずだし、そうした中から、貴重なインタビューや、それまで日の目を見なかった映像、写真等が出てくる可能性もあるので、その点に注目をしています。

クイーンのブームは3度目だそうですが、こう言ったブームの時期にこそ、質の高いインタビューや発掘音源等が出てくる、まさにチャンスなのではないでしょうか。

そう言った優れた情報を見極める目というものも必要なのだと思います。

2018年11月1日 響 -HIBIKI-

映画「響」を見ました。

もともと、漫画を原作としたこの映画、欅坂46の平手友梨奈さんが主演だということで話題になっていましたが、興行成績はいまいちだという声もあるようです。

それはともかく、15歳でデビューする天才小説家、鮎喰響(あくいひびき)の破天荒な行動と周りの人々の反応、そして、恐ろしいほどに純粋な響を描いたこの映画を、個人的には、なかなか面白いなと感じました。

内容がないと言われれば内容のない映画でしたけど、それでも、響以外の小説家の生き様等、それはそれで興味深く描けていたのではと思います。

そもそも、内容がないというのであれば、日々の生活だって、この映画のように意味のないものかもと感じたりします。日々というか、人生そのものに意味がないと感じるのです。

でも、この映画のように、人々は生きて、何かを生み出そうとしているのです。

もっとも、小説家に関しては、個人的にはあまり知らないし、日々、生み出される小説には興味はありません。多くの人にとってもそうなのでしょう。小説家に限らず、写真家などを見ても、そうです。何かを生み出しているが、それは、どこか遠くでのお話です。

そのようには思っているのですが、この映画のように圧倒的な天才には出会って見たいと考えたりします。

完全に打ちのめされるような天才に。

まあ、その天才を見極める目が自分にあるとは思えませんが。

2018年10月1日 レコード

最近、レコードが再評価されています。

個人的には、単なるブームだと捉えていますけど、CDよりも音質が良いという人がいたりするのを見ると、もしかしたら、ブームを超えて、レコードと言うメディアもこのまま定着し続けるのかもしれません。

ただ、アナログは暖かみがあって、デジタルは冷たいと言う比較の代表選手としてレコードを取り上げることには、違和感を感じています。

レコーディングに携わっている人の本を読んでいると、デジタルの音が軽く聴こえるのは、デジタルに移行する時期に、ちょうど、その様な音が好まれるようになったからだと言う指摘がありました。

また、アナログは、どうしても音の高音域が弱くなるので、それを見越して明るめに録音をしていたそうですが、デジタルになってからも、その方法で録音されていたため、どうしても、高音域が強調され、暖かみのかけた音になっていたのだそうです。

その一方で、レコードは、低音域を強くしすぎると、レコード針がレコードの溝から飛んでしまうため、思ったほど、低音域を強調できないと言う問題があったそうです。

レコード礼賛が続く今、デジタルの可能性がきちんと語られることがないことは、実に不公平だし、レコードの弱点が語られることがないことも、これもまた、不公平なことだと感じます。

一般的には、感覚的に捉えられていることで語られることが多いのですが、それが真実を見る目を曇らせるということは困ったものです。今のレコード・ブームというものも、少なからず、その様な面が、ブームを押し上げているのかもしれません。

2018年9月17日 ちょっとした愚痴

新しいiPhoneの発表を見ていて、着実に進歩していくアップルのあり方に、常に驚かされます。

その一方で、削られていく外部接続端子、置き去りにされていくMacや、あまりにも高額な商品が中心となっていることに、違和感を感じているのも事実です。

アップルのシンプルへのこだわりは、ある意味、感心するとともに、その勇気に驚かされます。でも、よかったのになぜなくなるんだというものもあります。例えば、電源を供給するMagSafe、接続する端子を減らそうとしている意図は理解しても、そこまで削るのかなと思ってしまいます。

iPhoneが毎年新機能を搭載して大々的に発表されるのに比べ、パソコンであるMacの扱いは、何となく中途半端になってしまっているのも問題です。ラインナップが何となくすっきりしないし、いつになったらアップデートされるのやらという製品もあります。

Macに関しては、すでに成熟した製品だからという見方も出来るのかもしれませんし、すっきりしないラインナップは、iPodがそうだったように、ばっさりと打ち切られる日が来るのかもしれませんが、iPhoneがMacの代替にならない以上、今の状況はどうしたものかなと感じています。

Mac自体高いと言うのは、昔からのことで、ある程度仕方のないことだとしても、購入する製品が増えていることの方が問題なのかもしれません。昔なら、デスクトップとノートを買って終わりだったところが、さらに、iPadも買って、iPhoneまで購入ということになると、もはや、その金額は天文学的なものとなることでしょう。

ということで、アップル製品との付き合い方を考え直す時期が来たのかなと考えています。アップルの製品が素晴らしいことは認めるし、今後も、そうである限りは購入していくと思います。そうなら、自分に必要なのは何なのかをしっかりと考えていく必要があると思います。極端な話、iPhoneとUbuntuだけにするとか、今までとは考え方を変えていく必要がありそうです。

今回は、ほぼ、愚痴の様な内容となっていますが、近い未来に、この愚痴が陳腐なものになる日が来ればと思います。

2018年8月1日 変化しないことについて

勉強のテーマ、というと大げさなのですが、日々疑問に思うことは多々あり、それらの中には、勉強のテーマのきっかけになるものがあるのではと思います。

よく、明治維新以降、日本は大いに変わったということになっています。実際、明治維新へと至る歴史的事実は、ドラマの大きなテーマとなることが多いです。この変化を比較することで、現在の日本を知るヒントが得られるのではと思います。

また、第二次大戦以降というのも、大きな変化があった時期だと思います。

戦争時代に子供だった人から、大人の言うことが、一日で変わってしまったことに、大人への猜疑心が生じたことや、一日で、価値観がこうも変わるのかとショックを受けたことが語られます。この変化を起こさせた人間の心理も勉強のテーマにはいいでしょうし、その変化自体も勉強のテーマになることでしょう。

個人的には、写真が誕生したことによる変化を勉強していたので、『変化すること」には、とても興味があります。

でも、最近感じるのは、明治維新を経過しても、変わらなかった日本というものはあるだろうし、敗戦以降にも、変わらなかった日本というものもあるのではと思うようになりました。

まあそれが、日本のよき伝統であるのか、悪しき習慣であるのかはともかく、変わらなかったことそのものも勉強のテーマになりうるのだなと、当たり前のことを考えたりしています。

2018年7月1日 生きる意味について

自己実現こそ、生きる意味なのだと主張する人がいます。

確かにその様にも感じられます。少なくとも、学生の頃は、その様に感じる瞬間もありました。

でも、大人となり、社会に出てみると、生きる意味を自己実現に求めることは、無理な話だと感じられるようになりました。

なぜなら、社会に出ると言うことは、何らかの組織に所属することであり、そこで行われる仕事とは、他の人の夢を実現させるもの、それをサポートするもの、その様に感じられたからです。

よくある社訓もそうでしょうし、ある会社がやっていたように、社長が自らの考えを述べたビデオを従業員に配って、そのレポートを書かせるというのも、その顕著な現れだと感じます。言い換えるなら、生きる意味とは、社訓やビデオの内容に表された他の人の考えを実現することにあり、そこには、自己実現の入る隙間はないのです。

今も日々仕事をしていて、ここにあるのは、自己実現ではなく、他人の自己実現に手を貸しているだけだと感じることがあります。そう感じるのは、その他人にとって、その人の自己実現だけが問題であり、その実現を目指すことこそが、社会の一員になるということなのです。

その様に考えると、今の社会と、戦争をしていた頃の社会は、それほど遠くはない、その様にも感じられます。

話が飛躍し過ぎかもしれませんが、戦争は、究極の他者への奉仕であり、今ある社会のあり方というものも、程度の差こそあれ、同じなのではないでしょうか。

最近、その様に感じられます。

2018年6月1日 技術の進歩

今現在、iPhoneなどを使っていて、もう少し若い時にこのようなものがあったら、どんなにかよかっただろうかと考えることがあります。

昔から、Sonyなどから、小さなパソコンは販売されてはいました。でも、現在の使い心地と比べると、雲泥の差があります。

百歩譲って、それらの小型パソコンを購入したところで、それほど意味があるとは思えません。なぜなら、当時は、インターネットを屋外で自由に使うことが出来なかったからです。

振り返ってみて、子供の時に見た基盤むき出しのボードコンピューターなどから始まって、個人で使用するコンピューターは、大いに進歩しましたが、その進歩は、まさに牛の歩のごときに感じられます。なぜなら、そのボードコンピューターからiPhoneまでの隔たりは、30年ほどあるからです。

まあ、長く生きていてよかった、と前向きに捉えることも出来ます。でも、もう、初老となる自分にとっては、その便利なiPhoneが老眼等で使いづらく感じる今手にしても、その歓びは、半減してしまっているのです。

つくづく思うのは、技術の進歩というものは、一気に行われるものではないということです。

まさに、一歩一歩、牛の歩のごとく進んでいくものなのです。

一度、ブレイクスルーが起これば、全体が一気に、そのレベルまで進むため、技術革新というものは、すごいスピードで進んでいるように感じられますが、コンピューターの世界を見ていると、実は、すごいゆっくりとしたものなのです。

iPhoneを前にして、そんな当たり前のことを感じています

2018年5月1日 音楽の楽しみ方

音楽の楽しみ方は色々あります。

私は、自分の好きなミュージシャンが影響を受けた人の演奏を聴くことも、音楽を聴く楽しみとしていますが、どうも、色々な人の話や反応を見ていると、そうでない人の方が多いように感じます。

昔は、自分の好きなミュージシャンが名前を挙げたミュージシャンのCDを買って、聴き比べたり、ラジオで演奏が流れると、それを懸命に聴いたりしたものです。

もちろん、好きなミュージシャンがカバーした曲のオリジナルを聴くことも、楽しみの一つでした。

今では、YouTubeなどがあり、それが簡単にできるようになって、いい時代だとも感じています。

でも、多くの人たちは、自分の好きなミュージシャンは最高だけど、それ以外は、どうも興味がない、その様な感じなのです。

今では、昔の音楽をすぐにチェックできるのにも関わらず・・・です。

まあ、よく言えば、今を生きているその瞬間を楽しんでいる、そう考えることも出来るのですが、あまりにも、幅の狭い楽しみ方だなと感じたりもします。

もっとも、音楽をそこまでして楽しむ必要すらない、そう言うことなんだと思います。極論を言えば、音楽などどうでもよく、その人そのものにしか興味がないのかもしれません。

その是非はともかく、そう言う音楽への接し方があるんだと、最近、納得しているところです。

2018年4月1日 あらゆるものを疑え

新たな年度を迎え、新社会人として、それまでとは異なる世界に入る人たちもいることでしょう。それは、それまでの経験とは、全く異なる経験をすることを意味するのではないでしょうか。

私自身、学校を出て、一般社会へと出て行くことによって、それまでと異なる価値観を目の当たりにすることになりました。

私は、社会人となって二十数年ほど過ぎましたが、そこで得た教訓が三つあります。

それは、まず、挨拶をよくする人を疑え。

二つ目は、腰の低い人を疑え。

三つ目は、すぐ謝る人を疑え、ということです。

一般的には、社会人として、もっとも必要とされるマナーになるのですが、どうも、悪徳企業の方が、これらのマナーを、気持ち悪いくらい守る傾向がある様に思われるのです。

この数年、ブラック企業なるものが話題になることが多いですが、私も、その様な企業に入ってみて、彼らがどれだけ悪いことをしても何とも思っていないのか、そして、過ちを指摘されると、気持ちいいくらい謝るのに、何も反省をしていないのかを目にしてきました。

まあ、子供たちは、それを見て、大人になどなりたくないと思うのでしょうが、子供の世界も、大人とは違う意味で、とんでもない世界なのですが。

それはともかく、この様なことを書くのはひねくれていると思う人もいるでしょう。

でも、これは、一つの真実なのだと私は考えています。

2018年3月1日 自分の体なのに

「50歳になると、今まで見えなかったことが見えるようになる」という五木寛之さんの言葉を、以前、このホームページに書いたことがあります。

実際、その年齢をこえてみると、今まで見えなかったことが見えるようになったかどうかは分からないけれども、今まで感じなかったことは感じるようにはなったなとは思っています。

それは、最近、自分の体なのに、自分の体ではない様な感覚があることです。

50代でない人にも分かりやすい例を挙げると、一番分かりやすいのは老眼でしょう。40代を過ぎた当たりから、徐々にそれを感じ始めたりはするのですが、何となく、気のせいかもしれないと感じたりもしていました。

でも、50代を過ぎると、それが、気のせいでもなんでもなく、現実なのだということを、嫌でも思い知らされます。

そしてそれは、今までの自分では考えられないことでしたし、自分ではどうしようもないことでした。

実際のところ、老眼は、自分の体ではないという感覚とは、ちょっと違う例かもとは思うのですが、いずれにせよ、様々な変化が体に起こり、それは、自分ではコントールすることすら出来ないことなのです。

「自分の体なのに、どうして言うことをきいてくれないのだろう。」

「これは本当に自分の体なんだろうか?」

その様に毎日感じているのです。

これからは、その様なことがどんどんと増えていくのだろうと思います。

2018年2月1日 ヘヴィ・メタル

ある人が、ハード・ロックやヘヴィ・メタルを演奏している人たちは、髪の毛を伸ばしたり、高い音域の声を出したりして、女性になろうとしているんだ、という趣旨の文章を書いていました。

なかなか面白いことを言うものだなとその文章を読んで思いました。

実際、長く伸ばした髪は、女性的だし、甲高い声は、それこそ女性の専売特許の様なものです。

でも、ハード・ロックをよく聴く私は、それとは違う風にも感じています。

確かに長く伸ばした髪の毛に関しては、女性的ではあります。私も、それに関しては認めますけど、むしろ、女性という性別を目指すというより、単に、男性とは違うものへなろうとしているように感じています。ただ、髪型に関しては、髪を振り乱しながら歌う様は、絵になるとともに、単純にかっこいいだけという気もしないでもないです。

甲高い声に関しては、人間を超越したもの、そう言ったものへのあこがれの表出ではないかと感じています。

レッド・ツェッペリンが登場した当時、ヴォーカルのロバート・プラントの突き抜ける様な高音と歌い方に、多くのアマチュア・シンガーが挫折したと言う笑えない話がありますが、そのヴォーカルに果敢にチャレンジした人たちは、まさに、神への挑戦をした、そう言っても大げさではないのかもしれません。

演奏に注目してみても、やたらと速く演奏したり、大音量で演奏したりと、とにかく、人間の限界への挑戦のように感じられます。

いずれにせよ、何か超越したものへの憧れ、それがハード・ロックを演奏したり聴いたりする原動力となっているように感じます。

2018年1月1日 生き生きとさせるもの

明けましておめでとうございます。

本年もよろしくお願い致します。

本年もまた、紅白を見ながらこの文章を考えたりしています。

今のところ、昨年の様なグダグダ感はなく、若干のトラブルがありつつも淡々と進行が進んでいる様な印象を受けます。裏側では、その様な印象とは異なる事が行われているのでしょうが。まあ、最後には特別枠もありますから、この文章を書きながら、紅白を楽しみたいと思います。

それはともかく、最近は、あまりホームページの更新をしていません。それは、書くことがなくなったというより、単に、書くことをさぼっていたからです。そもそも、人間の脳というのは、常に何かを考え続けなければならないそうです。その様な説を持ち出すまでもなく、毎日、よいことであれ悪いことであれ、色々なことを考えています。そうした考えの中から、今回も一つ、文章を書いてみたいと思います。

子供の頃、シンセサイザー(楽器)というものを知りました。それは、小学校6年生頃(昭和50年代)だと思います。よく読んでいた科学雑誌に紹介されていたのです。

その雑誌には、壁一面に広がる機械(シンセサイザー)と、一人の男性の写真が載っていました。その男性こそ、日本を代表する音楽家「冨田勲」さんでした。

その時に、初めてシンセサイザーというものを意識したのですが、その当時はすでに、歌謡曲の伴奏にシンセサイザーは使われていたので、その音を聴いていたはずです。そう、ビヨーンとか、ブ、ブ、ブみたいなサウンドを。

ただ、その雑誌を見た私は、シンセサイザーというものを、どんな音でも作り出せる魔法の楽器として捉えてしまったのです。

しかしそれは、もちろん大きな誤解でした。

実際、何年も経てシンセサイザーというものを操作してみると、そこにあるのは、とても楽器の音と言えないものでしたし、さらには、どんな音でも再現できる魔法の楽器というものからは、ほど遠いものでした。

もちろん、80年代以降、サンプリング技術の普及により、現実の音とシンセサイザーの音をミックスすることにより、とてつもなくリアルな音が作れるようにはなっていました。でもそれは、シンセサイザー単独であらゆる音を作り出すと言う思いからは、大きくかけ離れたものでした。

大いなる失望を感じつつ、シンセサイザーをいじったりしていたのですが、ある日、ミニ・モーグなどの初期のシンセサイザーを使用している演奏を聴いていた時、その無機的な音が、実に生き生きと聴こえることに気がつきました。

そう、単にドならドを「ポーン」と押さえただけならば、その音は、単なる無機的な電子音でしかありません。でも、名手の手にかかると、その無機的な電子音を使って実に生き生きとしたメロディーを生み出すことが出来るのです。音は、どんなに無機的であれ、奏でられることで、初めて音楽となるのです、もちろん、冨田勲さんは、多重録音を駆使して、全く異なるアプローチで生き生きとしたオーケストレーションを実現していましたし。

そう思うと、シンセサイザーによるリアルなサウンドの再現というものは、実に意味のないことなのだと思えるようになりました。あくまで、どの様な音楽を奏でるのか、それを念頭に置いて音作りをすることの方が、大切なのです。

まあ、その様なことをこの所考えていたのですが、いずれにせよ、生かすも殺すも人間次第なのだと感じたりしています。

さて、昨年は、個人的には最低な一年でしたが、今年がよい年になる様、過ごせればと思います。