NIJIIRO Photo Gallery

2022年12月1日 写真について

これ程までに、写真や動画が撮影された時代はないのかもしれません。

昔は、カメラを持っているだけで、「オタク」だと、レッテルが貼られ、そのレッテルづけに不愉快極まりない感情を抱いたものですが、今はむしろ、カメラを持っていない人はいない時代です。そう、スマホや携帯電話についたカメラをです。

そして、そのカメラで撮影されるのは、他の人が見たらどうでも良い写真、いや、失礼、完全に私的でありかつ時代を写す写真なのです。

個人的には、それらの写真が、数十年後、数百年後も残り続け、20世紀や21世紀という時を分析する素材になるのでは、そう、思っていました。実際、ホームページ等を保存しているインターネット・アーカイブというものがあるくらいですから。

しかし、私の考えは、正しくないのかもしれない、その様に最近、感じる事があります。

それは、大量に撮られた写真が、写真を撮影した人が亡くなった途端に、一瞬で消去される、その様な時がやって来る可能性があるからです。

インスタグラムやその他、SNSなどにアップロードされている写真も、更新がなくなってしばらくたってから、消去されていくものだとしたら、結局、20世紀から21世紀に大量に撮られた写真の大半が失われてしまうことになるのです。

私的には、それらの写真が、報道の目的で撮られた写真とは違い、新しい時代を表す資料となるといいなと思っていたのですが、さて、その様になるのかどうかは、今後数十年のインターネットのあり方次第な様な気がします。

ちなみに、このホームページのデータも、インターネット・アーカイブに残っています。でも、ずいぶん昔のデータのみで、最近のデータは、残念ながら残っていません。はてさて、その理由は何なのか、知りたいものです。

2022年10月1日 必要なもの

最近気がついたのは、私に必要なものは、1977年から1990年までに集約されているという事です。

聴いている音楽も、読んでいる本も、この時代のものだけで十分なのです。

逆に言うと、これらの時代以降のものは、なくても別に困らないのです。

ここ数年、読まなくなった本を処分したりしてきました。

まだまだ、多く残されていますが、色々と処分してみて、本当に必要なものは何なのかを見直す事ができました。

それが、上に挙げた年代のものだったのです。早い話、手放して見て、「しまった」と思うもののほとんどが、その期間に購入したものだったのです。

と言う事で、最近、処分したものの中で必要なものを、また、買い戻しています。例えば、NHKで放送されていた「ギターをひこう」(1970年代〜80年代に放送)のテキストなどです。

ものを減らすための断捨離が、自分を見直す結果となり、ものを購入する基準を再発見することになるとは、思いもよらぬことでした。

ちなみに、1990年以降大いに発展したコンピューターに関しては、例外ということで。1977年から1978年にはアップルのApple IIを紹介する記事を見て興味があったにせよ、中学生の私に購入できるわけもなく、コンピューターは、私にとって、ちょっと遅れてきた青春といった感じです。

2022年9月1日 音楽の聴き方

音楽を聴くのが儀式だった時代、40年前はそんな時代だったと思います。

現在と比べ、テレビの音楽番組は多く、ほぼ毎日の様に放送され、それを見ていたわけですが、それだけでは十分ではなかったのです。なぜなら、そこには私が聴きたいと思っていた音楽がなかったからです。

その十分ではない部分をラジオが若干埋め合わせてはくれましたが、それでも、聴きたいと思う音楽がいつでも聴けたわけではありません。

ということで、週に一回、土曜日になると、レコードをステレオにかけ、その前に正座して(ちょっと大袈裟)、自分の聴きたい音楽を聴いていました。A面が終わると、それをひっくり返してB面を聴き、それも終わると、ターンテーブルからレコードとり、またレコード・ジャケットにしまい込む。

それを毎週繰り返し、1年間、同じアルバムを聞き続け、1年経ったら、新譜を購入して、それをまた繰り返す。

今考えると、なんと贅沢な時間だったのかと思います。

音楽を聴くためだけに時間を割いてじっくりと聴くわけですから。まあ、田舎暮らしですし、行きたいライブも開催されませんから、それが、聴きたい音楽を聴く、唯一の手段だったわけです。

それが今では、こうやってパソコン作業をしながら、そのバックで音楽を流したり、車を運転しながら音楽を流したり、好きな音楽で常に満たされている訳ですが、昔ほど、集中して聴いている、その様には感じられません。

大量の音に満たされるのが幸せなのか、少ないながらもじっくりと音楽に耳を傾けるのが幸せなのか、そのどちらかが優れているという話にはならないと思いますが、少なくとも、音楽に向かう姿勢は大いに変わってしまったなと実感する今日この頃です。

2022年8月1日 体力と見た目の話

体力的な問題や見た目の問題で、好きたことややりたいことができないという事はあるものです。

BEGINのヴォーカリスト、比嘉栄昇さんが、Deep PurpleやLed Zeppelinが好きだけど、ああいう風には歌えないんだという意味のことを語っていたことがあります。(いや、あれだけお上手ならと思うのですが・・・・・・)

また、山下達郎さんも、体力があればハードな音楽をやっていたという意味のことを語っていました。

それらは、持って生まれたものによって、やれることには制限があることを意味しているのだと思います。たとえ、本来の自分の好きなことややりたい事であったとしてもです。

体力的な面はもちろん、見た目というのも影響があるように思います。

私が昔(大学生の頃)、楽器店でエレキ・ギターを見ていた時、影で店員さんが、あんな奴が店でエレキを見ているとバカにしたような口調で話しているのを聞いたことがあります。

まあ、実際、私の見た目は、ロックとは程遠い、今で言えば、オタクな見た目(あるいは、糞真面目なサラリーマン風の見た目)なのは否定しませんが。(ただ、私について、しばらく付き合って見て、ロックを聴いている理由がわかったと言われたことがありますが。)

それはともかく、体力や見た目が、心の中の自分とズレがあるというのは、結局は、どうしようにもならないのだと思います。

ということで、私の最終的な結論は、エレキ・ギターでクラシック音楽を演奏する事によって、ロックと自分の見た目を融合するということでした。

2022年7月1日 素朴な歌唱

最近、私は淡々と歌うシンガーが好きなんだと気づきました。

ハード・ロックを聴くので、感情を込めて歌う声の大きなシンガーが好きだと言いたいところですが、声が大きいと言うよりイアン・ギランの様な超人的なシンガーも好きだと言うだけで、本来は、それとは真逆のシンガーの方が好きなのです。

そう気がついたのは、初期の頃は好きだったのに、段々と聞かなくなって行ったシンガーがいたからです。

例えば、昔はよく聴いていたブラックモアズ・ナイトです。

ハード・ロック・ギタリストのリッチー・ブラックモアによるプロジェクトであるこのバンドは、デビュー時にはほぼ素人のキャンディス・ナイトがヴォーカルを担当しています。

初期には、あまり上手くない・個性がないなどとよく言われていましたけど、私個人としては、彼女の純朴な歌い方をむしろ好意的に見ていました。でも、彼女がシンガーとして成長するとともに、平坦な歌い方から抑揚のある歌い方に変わり、なんとなく、聴く回数が減っていきました。

また、遠い昔で言えば、中森明菜さんもそうです。デビュー当時は、どちらかと言えば、平坦な歌い方をしていたのに、シンガーとして成長するとともに、抑揚のある歌い方へと変化するとともに、彼女の思いが歌に強く現れるようになり、段々と彼女の歌を聴くことはなくなりました。ファンにとれば、それこそが彼女の魅力になるのでしょうが、個人的には、何か違うなという感じになっていったのです。

八代亜紀さんの言った言葉として、感情を込めずに歌う方が、多くの人が感動すると言うものがあるそうです。

歌い手が淡々と歌うことによって、聴く側が自分の思いを込めやすいのだとか。

ああ、なるほどと思いました。歌手の思いというのも曲の魅力となるのは確かですけど、聴く人によって様々な思いが込められる歌い方によって曲の魅力がより引き出されるというのもあるのかも知れません。

2022年6月1日 記憶

ここ数年の記憶が曖昧になっています。

何年何月何日と書くとき、つい、「2020年」と書いてしまいます。

今は、2022年なのに。

令和も何年だったのか? と思い出せない時もあります。

ここ数年のコロナの影響があるのでしょうか。

あるいはまた、生活環境の変化(職場の場所が変わった)があるのでしょうか。

何れにせよ、私の中では、2020年で暦が止まっています。

そう言えば、多くの人と出会いましたけど、顔も名前も覚えられません。

マスクをしていることが影響しているのかもしれません。

私の前には、無個性な人たちがいるだけです。2年前に出会った人たちのことは、時々思い出すのですが。

2022年5月1日 情報源

子供の頃(1970年代後半、小学生でした)、洋楽を聴くようになっていた私の生活において、音楽雑誌とラジオ、そしてテレビは重要なウェイトを占めるようになっていました。というのも、それしか情報源がなかったからです。

特に、「ミュージック・ライフ」に代表される音楽雑誌は、洋楽の知識を得る最も重要な手段でした。

そういうこともあり、当時読んだ記事は、いまだに強く記憶に残っています。1980年のレインボーの来日公演等々、とにかく、雑誌から得られる知識が私の全てでした。

けれども、雑誌には欠点があり、初めて紹介されるミュージシャンに関しては、その音を確認する手段がなかったのです。いきなりレコードを買うわけにはいかないので、それを補うためにラジオの洋楽ヒットチャートをよくチェックしていました。

テレビも勿論、重要な情報源の一つではありました。でも、テレビには、出演する人たちが限られているという問題がありました。それでも、「ヤングおー!おー!」ではジャーニーを初めて見ていますし、「レッツゴー・ヤング」ではチョッパー奏法(今は、スラップ奏法と言うのが一般的らしい?)を初めて知ることになりました。また、「ヤング・ミュージック・ショー」では様々な海外のバンドのライブを見ることが出来ました。動くDeep Purpleを初めて見たのは、まさに、「ヤング・ミュージック・ショー」でした。

そんな情報に飢えていた私は、中学生になり、転勤に伴い田舎に引っ越すことになるのですが、そこは、なんとラジオが聞こえない(聞こえずらい)地域で、ラジオを前に涙したことを覚えています。私が田舎嫌いになった一つのきっかけでもあります。

それはともかく、最低でも雑誌から音が聴こえれば、私の望みは、半分叶ったようなものだったのですが。

それから数十年を経て、私の望みは異なる形で実現されることとなりました。

昔、影響力のあった雑誌の影響は大幅に縮小し、その代わり、インターネットが普及したからです。(日本の出版不況は、雑誌の低迷に原因があるという人がいますが、どうなのでしょうか。)

インターネットの良い点は、最新の音楽ばかりでなく、時代を超えて情報を得られる点です。

昔気になっていたミュージシャン、自分の好きなカバー曲の原曲(若い人たちは、この様な聞き方には興味ない様ですが)、全く知らないミュージシャン・・・いずれにせよ、色々な音楽を聴くことができるのです。それも、ワンタッチで。

雑誌から音が出る・・・様にはなりませんでしたけど、画面をクリックすれば(またはタッチすれば)、知りたいことが調べられ、音楽をチェックできる。その様な時代が来るとは・・・驚き以外の何物でもありません。

2022年4月1日 恋愛について

今回は、3月まで放映されていたテレビドラマについて。

最近、人気漫画をテレビドラマ化した「ミステリと言う勿れ」を楽しく見ていました。それは、ミステリー要素を軸としながら、現代の様々な思想、研究を反映した主人公「久能整」の発言(疑問と思うこと)を面白く感じたからです。また、オリジナルを元に、ドラマ用にうまい具合にまとめあげているとも感じました。

ただ、違和感を感じたのは、どちらかと言うと恋愛要素の少ない原作に、恋愛要素(風呂光聖子巡査の久能に対する想い)を追加していた点です。

その点は、ネットでも指摘する人がいたようですが、私も、このドラマに恋愛要素は本当に必要なのか? と見ていて思いました。

音楽にしても、テレビドラマにしても、映画にしても、恋愛をテーマにしたものは多いと思います。それは、恋愛が多くの人々の関心事であり、ストーリーとしても面白くなりやすいからだと思います。

普段生活をしていても、若い男女が数名集まると、確かに、そこには恋愛ドラマが生まれたりするし、恋愛がみんなの関心事だったりするのは事実です。

でも、恋愛以外にも語ることがあるのではないのか、そう私は思うのです。今回のドラマの場合、元々、恋愛要素がなくても十分に面白いものに恋愛要素を追加することによって、原作の魅力が削がれているように感じられました。

一方、NHKのよるドラ「恋せぬふたり」は、恋愛をこれまでと異なった視点で描いていて、とても興味深いドラマだと感じました。

他の人に恋愛感情を抱かない、性的に惹かれない人たちを描いたこのドラマは、恋愛をテーマにしつつ、これまでの恋愛ドラマでは描かれなかった内容を、コメディー要素を絡めながら扱っていて、恋愛ドラマに常々違和感を感じる私でも楽しめるものでした。

さて、このところ面白いなと感じたテレビドラマは、「ミステリと言う勿れ」、「恋せぬふたり」、「ゴシップ」、「ハコヅメ」、「イチケイのカラス」等々々。

中には、恋愛要素ありきで成立していドラマもありますが、いずれも、それがなくても十分面白いドラマだと感じます。

参考ホームページ

2022年3月1日 夢のまた夢

昔々、子供の頃(1970年代〜80年代)、ミュージシャンのライブに行くというのは、夢のまた夢のお話でした。

特に、海外のミュージシャンは、東京〜大阪間でしかライブを行わないことも多く、日本で開催されているにも関わらず、どこか、遠い国での出来事のように感じたものです。

そして、ライブ後、2ヶ月ほどたって、ようやくそのライブの様子を雑誌で知ることとなるのです。(まあ、写真とライターによる記事だけですけど。)

同じような思いをした人は、田舎暮らしをしていた人には、多かったのだと思います。八神純子さんのライブの時だったか、子供の頃には行けなかったからとファンから言われたという話題がライブで出ていました。

大人になり、特にここ数年は、なるべく行きたいライブには行くようにしていました。特に、子供の頃から聞いているミュージシャンに関しては、声の出るうちに、指の動くうちに見ておかなければという思いもあります。全盛期は過ぎているとはいえ、憧れのミュージシャンは、いつまでも、憧れなのです。実際、数年前に行ったディープ・パープルのライブでは、しばらく涙が止まらなかったほどですから。

でも、このコロナの状況となり、なんだかまた、子供の頃と同じ状況に逆戻りしたように感じています。

感染対策がしっかりと行われるようになり、ライブは行われるようになっているのに、移動に制限がかけられているため、行きたくとも行けないのです。(職場へ迷惑をかけるかもしれないので、自主規制している面もあります。)

そうなるとまた、昔のようにライブの開催を他人事に感じられますし、本当に、行われているのだろうかとすら感じられたりします。

結局、田舎に暮らすというのは、こういうことなんだと思います。いつも東京〜大阪間で起こった出来事を、指をくわえて見ていなければならないような。

[追記]

よく、田舎暮らしを推奨する番組を多く目にするし、田舎暮らしが好きな人もいるとは思いますが、私はそうではないのだなと、この歳になり、ひしひしと感じています。小学生の頃、東京で出版された雑誌を見ながら、なんとなくそうなんだろうなと感じてはいましたが、いまとなって、その時の直感は正しかったのだと思います。

毎日、毎日、毎日、渋谷の街並みを思い起こしながら。

2022年2月1日 はやいもので

はやいもので、2月になりました。月日はどんどん過ぎていきますが、変わり映えをしないのが自分と出版業界です。

電子書籍元年と言われたのも遥か昔、私個人としては、電子書籍の存在は実にありがたいなと感じつつ、電子書籍化されていない書物は相変わらず多く、仕方なく紙の本を購入しています。

電子書籍登場当初は、レコードがCDに置き換えられたように、紙の本が電子書籍に置き換えられればいいなと思っていましたが、現実には、CDのようなペースでは置き換えられませんでした。

また、音楽は、過去の作品がCDとして発売されましたが、それも、書籍の世界では、ないとは言わないまでも、絶版となったままの本の方が遥かに多いのではないでしょうか。

それはもちろん、音楽と文字をベースとした書籍との違いがあるので仕方ないのですが。元々再生する機械が前提となる音楽と比較して、そのような機械が不要な書物をわざわざ電子化することに、その必要性を感じない人もいることでしょう。また、書籍の方が、時代と共に陳腐化される内容のものが多いという面もあるでしょう。良い内容なのに、時代に合わなくなってくるのです。音楽も、歌詞の内容が陳腐化すると言う面はあるにせよ、その点は、メロディーの素晴らしさや、その音楽が人それぞれの思い出と共にあることによって陳腐化を防いでいる面があるのかもしれません。

いまだに電子書籍化されない本が多くあるのも困ったものですが、電子書籍端末に最適化された本が出ないというのも、どうなんだろうと感じています。

雑誌を電子書籍化したものは、10インチくらいの電子書籍端末でも快適に読めるとは言えないように感じます。

それなら、最初から電子書籍端末に合わせたフォーマットの電子書籍が出てきてもいいように感じます。もっとも、スマホに最適化した漫画はあるようですが。そもそも、漫画は、電子書籍端末と相性がいいように感じますけど、なぜ、解像度が低い、圧縮率が高い(圧縮をかけた時のノイズが気になります。)のでしょうか。

ということで、日々、電子書籍に対するストレスは解消することなく、過ぎていくことになりそうです。ちなみに、音楽と異なり、電子書籍は、個人の所有物にならないということも不満です。本当に、どうにかならないものかと感じます。

コンピューターから見れば、音楽も文章も、単なるデータなんですけどね。それなら最初から電子データの形で販売してくれた方がありがたいのですが。もっとも、それこそが、コピーなどの問題を生み出す元凶なのでしょう。困ったものです。

2022年1月1日 謹賀新年

いつもの様に、紅白を見ながらこの文章を書いています。今回の紅白は、サプライズを挟みつつも、手堅い作りになっているなと感じています。ふざけ過ぎず、硬くなり過ぎずというところでしょうか。まあ、個人的には、歌を聴ければそれでいいのですが。

さて、ある漫画を読んでいた時、その漫画の主人公が、映画などではよく、成功へと至る過程を、音楽と次々と切り替わる映像で短くまとめてしまっていて、その過程をきちんと描いていないという意味のことを言っていました。本当は、成功へと至る努力をしている姿が一番面白く、一番大切なのにです。

私も、映画を見ていて、同じ様なことを感じていました。

ただ、これは映画の中のことだけなのではなく、実は、日常生活においても同じなのではと感じています。

実際、結論のみが知りたいと言われることは多いですし、そこへ至る方法を考える時間が与えられることはあまりありません。

ということで、知りたいと思う気持ちや努力を阻止されることによるストレスを解消するために、日々何かを調べているのが、私の休日の過ごし方になっています。

よく、他の人には、休みにはパソコンをしていますと言うことが多いのですが、実際には、パソコンを使って何か疑問に思うことを調べていると言うのが正確なところです。ですから、私の疑問に感じていることがわかるのであれば、別に、パソコンでなくても良いのです。

ということで、今年も一年、色々な謎を探求していければと考えています。それこそ、私が生きている意味なのですから。