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2008年12月1日 秋岡芳夫さん

工業デザイナーの秋岡芳夫さんの著書「工房生活のすすめ」の中に、「こんな仕事を見たのは初めてだ。とても本職にゃあ、こうはいかねえ」という、ある指物師の言葉が出てきます。

これは、趣味で二十年かけて作られた小箪笥を見て発せられた言葉です。その小箪笥を作った人物こそ、秋岡さんご自身なのです。

さらに、秋岡さんは、「ゆっくり作ってることと、楽しみを目的に作ってるのがうらやましかったんでしょう。」と続けています。

私の今までの仕事は、趣味とほぼ同じ内容でした。よくお客さんに、自宅に帰っても仕事と同じようなことをしていると笑われたものです。

私も、秋岡さん同様、趣味としてやっていることについては、時間的な制約を無視して、とことん追求しています。信じられない細部にまでこだわります。その一方で、プロとしてやっていることについては、時間的な制約、コストへの配慮、お客様の要望など、様々な条件を考慮して進めていかなかなければなりません。その制約の中で、ベストを尽くさなければならないのです。

ただ、そのどちらが優れていのるかというのは、問題ではありません。趣味で培った技術は、そのまま、仕事に活かされる事もありましたし、プロとして、シビアに仕事をすることによって、さらに技術が向上したのも事実です。

よく、趣味を仕事にしない方がよいという方もいらっしゃいます。実際、そう感じるときもあるのですが、好きだからがんばれた仕事もあるし、仕事だからこそ視野が広がった部分もあります。

大切なのは、アマチュアの精神を失わないプロであるということなのかもしれません。それは、手抜きをするプロということではなく、プロの仕事をアマチュアの目で楽しく見るということだと思います。

さて、先月からブログをスタートしました。そうすると、このコーナーの存在意義がほとんどなくなるとも思ったのですが、今後は、ブログに書いた内容を膨らませていこうかなと思っています。

2008年11月1日 現在への蓄積

仕事を始めたばかりの頃は、大して仕事も出来ずに、会社で一緒に働いていたアルバイトの学生の中には、あまり私の存在を快く思っていない人もいたようです。会社でも、孤立することがありました。

けれども、それから年月がたち、職も変わるうちに、40歳を過ぎた私は、様々な経験が現在の自分を形作っているという風に感じています。以前の職場で同僚だった人物にも、今までの様々な仕事は、無駄なように感じられるものでも、自分にとってすべて必要だった筈だと言われました。実際、すべての経験が、今やっている仕事の中に活かされていると思います。

若い時には、考えもしなかったことですが、経験をつむということの大切さを、現在、肌で感じています。逆に言えば、若い時というのは、様々なものになる可能性や技能を見につける能力を秘めているのだと思います。

今は、その能力を発揮する時期ですが、もうしばらく経ったら、その能力が落ちないように、今以上の努力が必要になるのではないかと感じています。要するに、老いとの戦いが、既に始まりつつあるのではと思うのです。

40歳代で十分力を蓄えて、更なる飛躍をしたいと思います。

2008年10月1日 失業中

またまた失業です。

色々な事があるものです。

2008年9月1日 厄介な存在

やっかいなのは、「神」という存在です。

そんなものはないと否定すると、とてつもない攻撃を受けるし、神の存在を信じると言えば、それはそれで、問題が生じます。

いずれにせよ、宗教と言うものに懐疑的な私は、宗教を熱狂的に信じる人たちに、これだと言う決定的な説明が出来ないことに苛立ちを感じます。

漠然と思うのは、神という言葉に頼らない方が、ずっと、自然の不思議と言うものを強く感じられるのにということです。無から有が生じ、有から生命が生じ、その生命が、人間と言う種を作り、その人間として、今自分が生きている。

これ以上の神秘があるだろうかと思うし、そこに、神が介在する余地は無い様にも思うのですが・・・。

さて、先月は、更新をすっかり忘れていました。今の仕事が、自分にとって、あまりに厄介な状態なので、疲れがたまっていると言うこともあります。

ぼちぼち、考え直すタイミングが来ているようです。

2008年8月1日 更新なし

更新なし

2008年7月1日 共感すること

学校の勉強は、意味がないんじゃないかという意見もありますし、その通りだと感じることもあります。その一方で、学校で習う内容は、人間にしか理解できないことなんだと感じることもあります。

結局、学問というものは、世界の真理ではなく、人間にとっての真理でしかなく、それに共感できるのも、人間でしかないのかもしれません。人間という種がこの地球上から失われてしまったとき、人間が築いてきた学問そのものも失われてしまうのでしょう。例えば、モナリザをありがたがって美術館に飾ったりしているのだって、人間という種がいなくなれば、それは、単なるものとしての価値しかなくなるわけです。

そう考えてみると、なんとなく空しささえ感じてしまいますが、その一方で、人間にしか出来ないことを知ることの大切さや学問の存在意義を見出せるように思います。

2008年6月1日 洋楽離れ(先月の続きです)

昔、友人の一人に、「ビートルズを聴いて、何でグループサウンズみたいなサウンドになるんだよ。」

と、言われたことがあります。

まったく、同感するしかありません。

だからこそ、私も、洋楽をず~っと聴いていいたわけです。

水で薄まらない、パワーのある音楽を聴きたいと思ったら、それしか選択肢はありませんでした(いや、反論はあるでしょうが)。洋楽は、英語が分からないので好きじゃないと言う人もいましたが、言葉よりもサウンド、そう思い続けていました。

でも、その思いが、日本にある素晴らしい音楽に背を向ける原因になっていたのは、もったいないことをしたと思っています。

最近は、昔テレビで見ていたアーティストのDVDにも、興味が沸いています。もちろん、その当時聞いていた洋楽とは異なるけれども、素晴らしいものであることには変わりありません。

日本と言う風土で育った音楽、確かに強力な個性は薄まってはいますが、それは、洋楽を基準に考えるからこそ、そう思うだけなのかもしれません。もっと、純粋な目で、接していければと思います。

2008年5月1日 マーティ・フリードマン

マーティ・フリードマンは、アメリカのヘヴィ・メタル・バンド、メガデスのギタリストでした。と、書き始めると、あたかも私がマーティやメガデスについて詳しいかのようですが、実際には、雑誌で彼の名を目にして、テレビでその音楽を少し聴いた程度です。

日本では、もともと、ヘヴィ・メタルの人気がないこともあり、一部の人たちを除き、ほとんどの人が、私と同じ程度の知識だと思います。最近、マーティがテレビに頻繁に出演していて、彼が日本に住んでいること、想像以上に日本語が上手なことに驚きを感じました。

さらに、驚いたのが、彼がメガデスを脱退した理由として、J-POPをやりたかったからと語ったことです。

それを聞いて、素直な人だなと感じたと共に、勇気のある人だとも感じました。

一般に、あるジャンルを確立したミュージシャンには、一つの音楽を追及してほしいと求める傾向があるのではないでしょうか。ミュージシャンも、それに応えるかのように、一つのスタイルで成功すると、そのスタイルを貫くのが普通だと思います。

それに対し、自らの多面性を認め、それに素直に従うことは、批判の元になりますし、実際、それが素晴らしいものであっても、認められない場面があると思います。さらに、自分の気持ちに素直であること、その気持ちに向かってチャレンジし続けることは、その分、大変な思いをすることも意味しています。

個人的には、そういったことを楽しむことは、出来ないだろうなと感じます。だからこそ、マーティのような人に、感心するわけです。

もっとも、マーティに関しては、最近の彼の活動しか知らない人にとれば、彼のマルチタレント的な側面こそ、彼らしく感じられるのでしょうが、どうなのでしょう?

2008年4月1日 入学式

昔、大学に入学した時、「高校の方が授業が楽しかった」や、「予備校の先生の方が教え方が上手かった」などの声を良く聞いたものです。今の新大学生の人たちは、どうなのでしょうね?

個人的には、高校でまったく勉強していなかったし、予備校でも、それほど感動的な授業を受けなかったので、上記のような感想は持ちませんでした。第一、高校の先生も、予備校の先生も、先生としてはプロであっても、本当の意味での、私の求める内容に対するプロではない、その不満がありました。

大学の授業はつまらないという人もいましたが、大学の先生は、本当の意味での、その科目に対するプロである、まさに、学問を担っている人たちであるということを考えると、その授業を受けられることは、最高の贅沢だと私は思います。

実際には、自分の勉強したいと思うことと、教授や助教授(准教授)の専門が異なり、授業に出るだけ無駄だという場合もありますが、もしそうなら、勉強したいことは自分で勉強し、その勉強に役立ちそうな専門的なことだけを聞きに、大学にいけばいいという考え方も出来ます。

いずれにせよ、大学は、本当の意味での学問への第一歩になると思います。

さて、個人的にも、今までの職を辞めて、4月から、まったく新しい環境で過ごしています。学生の頃と違って、新しい環境に変わることは、大いなるストレスとなる場合もあります。ぼちぼちやっていこうと思います。

2008年3月1日 卒業式

卒業式の季節になりました。

個人的には、卒業式に、それほどの思い出はありません。というか、時間がたつと、忘れていくものだなと感じます。思い出そうとすれば、色々なことがあったように思われますが。

例えば、小学校の卒業式の練習をしているときですが、次の様なことがありました。

壇上に上って、卒業証書を受け取り、壇上から降りようとしているとき、そばにいた先生から、いきなり殴られたのです。

「何を笑っているんだ!」

先生は、すごい剣幕です。

練習をしている私は、いたってまじめにやっているつもりでしたが、先生は、私がふざけていると感じられた様です。

この件は、不思議に感じられたのですが、しばらくすると、私の記憶から消え去っていました。

最近、テレビを見ていたとき、人間は緊張すると口角が上って、笑っているように見えることがあるという説明がありました。それを見て、はたと小学生のときのこの事件を思い出しました。恐らく、練習に緊張した私は、口角が上って、笑って見えていたのかもしれません。

本当に、そうだったのかどうか、あまりに昔のことなので、定かではありませんが、表情と心の中というのは、必ずしもイコールではない、その点には興味を感じます。プロにとれは、分かることとはいえ、素人は、表情だけで判断するのは、危険なようです。

2008年2月1日 ネットの可能性

プロのライターの中には、インターネットに存在する、ほとんど価値のない雑文を苦々しく思っていることだと思います。

当然、ライターの人たちは、編集者の人たちや、読者たちの目によって、鍛えられているのは事実です。私も、自分の仕事に関しては、仕事を通じて鍛えられた部分が多くあると思っています。

ただし、活字として出版されるものは、実に限られたものでしかないというのも事実です。

例えば、私は、イギリス人ギタリストのリッチー・ブラックモアのファンで、中学生の頃は、「ミュージック・ライフ」などの洋楽専門誌に載っている数ページ足らずのインタビューを、穴が開くほど読んでいたものです。

でも、いくら洋楽専門誌とはいえ、インタビューは、かなりの部分が編集され、マニアックな内容はほぼ皆無という状況でした。

ところが現在、インターネットを見ていると、演奏や機材に関して、今まで知ることの出来ない情報であふれています。その情報を提供しているのは、プロのライターではなく、一般のファンなのです。

もし、インターネットが存在しなければ、極々狭い範囲で、すごく詳しい人がいるというだけで終わったかもしれません。

もちろん、プロのライターの書いた文やインタビューも、彼らの探究心を補う重要な役割をしていることは、見逃してはならないでしょう。

印刷物だけでは、十分ではなく、インターネットの世界が補完していくことによって、人間の知は、より豊かになっていくように思います。

さて、今回は、「今月の一言」のみの更新です。インターネットを利用している人にとっては当たり前のこととはいえ、人によっては、ネットの可能性に否定的な人もいるようです。個人的には、すべての出版物がネットで検索出来る様になる事が理想なのですが、それは、現状では無理なことです。それならば、出版物とネットの世界をうまく使い分けるしかないようです。

2008年1月1日 平成20年

新年明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いいたします。

平成も20年目を迎え、時の流れのはやさにあきれるばかりです。今回は、20年前の思い出について書いてみたいと思います。

昭和から平成へと移り変わろうとしていた頃、私はまだ大学生でした。

天皇が崩御された時間、私は、実家から東京へ向かう寝台車に乗っていました。もっとも、寝台車の中では、その事実に気づくこともなく、横浜で寝台車を降りました。下宿について、そのドアを開けると同時に出てきた下宿のおばさんに、初めて天皇崩御の事実を伝えられました。

友人たちの間では、天皇が亡くなられたら、大学は休みになるのでないかという噂もあったので、すぐに大学へ、翌日の授業の確認に行きました。大学近くの交差点に着くと、写真撮影をしている学生らしき人たちが数名いました。今のように、誰でもカメラを持っている時代ではありません。恐らく、大学の写真サークルの人たちか、写真学校の学生なのでしょう。昭和から平成への転換の日を記録しようとでもしていたのだと思います。(2008年5月1日:最近見たNHKの番組で、写真学校の学生への課題として、昭和から次の元号への転換の時期を記録するというものがあったそうです。当時の学生も、おじさんとなっていたのが、時間の流れを感じさせました。)

大学で、授業が通常通り行われることを確認した私は、そのまま渋谷へと足を運びました。今思い出しても奇妙なのは、その日の渋谷は、静寂に包まれていたということです。いつもと変わらず、人であふれてはいたのですが、その中を軽やかに歩く私にとって、音という圧力が感じられなかったのです。パチンコ店からすら、音は聞こえませんでした。ただ、その日は曇りだったためか、音がないことに違和感を感じることはありませんでした。

あと、その日の思い出として残っているのは、下宿に帰って友人から電話があり、大学が通常通り行われるという話をしたことです。

それにしても、昭和から平成にかけての数ヶ月は、なんだか不思議な空間に満ちていました。

大学の同級生の落語を見に行っても、いつ亡くなられるのかというピリピリとした空気が流れていましたし、平成になったらなったで、線路の上にかかっている鉄橋に警察がいたりと、いやでも、緊張感が強いられました。もちろん、テレビでの容態の放送も奇妙に感じられました。大学時代は、あまりテレビを見なかったので、あまり覚えていませんが、その時期のテレビ放送も、奇妙なものだったそうです。

この時期の友人の言葉で印象に残っているのは、「天皇がベッドの上で死ぬのが許せない」というものでした。

当時、政治にまったく興味がなく、まして、天皇制度そのものについても無関心だった私には、「ふ~ん、そのような考え方もあるのか」という印象しかありませんでした。もっとも、大学内には右翼と左翼が存在し、彼らが対立していたということは、分かっていましたが。

平成になった1989年は、私にとっても思い出深い年となりました。写真生誕150年目であるその年に、カメラを購入して、写真撮影を始めたからです。もともと、複製技術に興味のあった私にとって、写真は、避けて通れない技術の一つでしたから。ただ、私にとっての写真のイメージは、複製芸術というより、スティーグリッツの写真のような、どこか古臭いものでした。ベンヤミンの言う写真と、私が個人で感じる写真は、どこか、ずれのようなものが最初からあったのです。そのあたりは、また、来年にでも書いてみたいと思います。

さて、今回は、長々と思い出話を書いてみました。これは、大学時代の友人たちに向けて書かれたものでもあります。

個人の思い出は、個人にとって重要ではあっても、その他の人にはどうでも良いことです。でも、私という個人がいる限り、それが意味を持つことに変わりありません。また、同じ空気を生きてきた人たちにも、ある程度の意味があるのかもしれません。

ホームページも久々にリニューアルしていますが、これまでのスタンスは変わることはないと思います。