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2019年11月1日 共演

久しぶりに、Deep Purpleが、1969年にオーケストラと共演した演奏をDVDで聴きました。

このDVDには、この作品を作曲したJon Lordによるコメントが収められているということでしたが、今までチェックしていなくて、今回、初めてそのコメントを見ながら映像を楽しみました。

コメントは、音声として入っているのではなく、演奏とともに字幕として画面に表示されていました。コメントが入っていると言っても、演奏開始前の冒頭部分だけで終わるのかと思っていたのですが、全演奏を通して、ポイントとなる部分の解説や感想が述べられていて、実に興味深かったです。

特に、オーケストラとの共演の難しさ、作曲のポイント、演奏が思っていたものと違ってしまっていたりする部分の指摘など、本人の解説がないと見逃してしまっていた部分が多かったのではと感じました。

日本では、オーケストラとロックと言うと、X Japanの名前が挙がることが多いように感じます。海外なら、また、違う人物やバンドの名前が挙がるのかもしれません。

でも、個人的には、やはり、Deep Purpleの名前を強調したいと思います。いやはや、久しぶりに聴いてみて、とても素晴らしい作品だと感じました。

2019年10月1日 レベルの話

私の苦手な事、それは、人に合わせて話のレベルを変える事です。

塾講師などで指導の上手な人は、初めて担当するクラスでも、そのクラスの生徒のレベルを最初に把握し、そのレベルに合わせて指導の仕方を変えるのだとか。

でも、私の場合は、例えレベルの違いがわかったとしても、自分の話のレベルを変える事ができないのです。

まあ、話の上手い人は、自分のレベルを変えることなく強引に自分のレベルに相手を引き込むという事ができるのでしょうが、そのような高等な話術が、私にあるわけはありません。

何れにせよ、相手によって自分の話を変えていくためには、様々なレベルに対応できるだけの多くの知識、教養が必要なのは大前提だろうとは感じます。

残念ながら、私には、一定のレベルの教養しかなく、その教養をレベルに合わせて変換することすら出来ないのです。

2019年9月1日 それぞれの正義

最近、人それぞれの正義があるんだなと改めて感じています。

例えば、会社の経営者なら、「休んでいる暇があるなら、とにかく働け」と思うのかもしれません。

それに対して、会社に雇用されている側は、「そんなに頑張っても、仕事の効率が悪くなり、精神的にも良くない」と思うのかもしれません。経営者の主張は、それこそ、今、多く指摘されている、過重労働の助長につながってしまいます。

正直なところ、経営者のような考え方は理解できないし、ありえないとも思いますが、それぞれの意見を聞いていると、同じ仕事でも、立場によって、こうも違う見方ができるのだなと感じます。それは、どちらが正しいというものではなく、それぞれの立場によって、それぞれの正義があるのだと感じます。

もっとも、時代によって、それぞれの正義も、変化していくものだと感じますが。

2019年8月1日 柔軟性

仕事を何年も続けていると、職場でのスキルは上がり、少なくとも自分は、その仕事ができる人ということになります。

安定した仕事は、自分が何者かというものを保証し、証明している様に感じます。

でも、一旦、仕事を失うと、自分は、何者でもない、さらに、何もできない人間なのだと実感することになります。

今の所、多くの人が体験することはないでしょうが、これからは、流動的な世界が広がっていくと思うので、一定の職に拘らずに、次々に職を移り変わって行く時代が来るのかもしれません。

そうなると、職場が変わるたびに、新たにスキルを身につけて行く必要があります。

もちろん、それまで身につけたスキルは役立つことがあるにせよ、より大切なのは、環境変化に対する柔軟性なのだと思います。

2019年7月1日 歌姫

決まり文句というものがありますが、正直、聞いた瞬間にムッとくることも多いです。

例えば、野球でよく使われる「プロの洗礼」、まあ、勝つこともあれば負けることもある、当たり前のことを、あたかも特別なことのように言われると、なんだかな〜と感じます。

他にも、宇多田ヒカルさんが発言したことでも話題になった、「歌姫」という言葉。やたらと週刊誌や、ネットニュースで使われる言葉ですが、これも一体、何なんでしょうか?

それと同じような言葉で、「女帝」などという言葉が使われます。浜崎あゆみさんは、エイベックスの女帝だとかなんだとか。

他にも、「ギターが泣いている」という表現、演奏の素晴らしさを比喩した表現ですが、聞いていて、使い古された感はあります。

正直、これらのキーワードを使った瞬間に、思考停止をしているのではないかと感じます。他の言葉を考えるのではなく、何となくよく使われる言葉の枠内に収めてしまった、そういうことではないでしょうか。あるいは、その言葉を使うことによって、何かを言ったつもりになっているのかもしれません。

一般の人が使うのはともかく、プロのライターさんが使うのを見聞きすると、すごい違和感があります。まあ、プロのライターさんは、読み手をそれだけバカにしている、そういう可能性もありますが。

2019年5月1日 新しい元号となって

昭和から平成への移り変わりについては、以前、このホームページにも書きました。

あらためてその当時の思いを振り返るなら、改元がいつになるのかわからないという思いと、突然やってきたという驚き、この二つに集約されると思います。

昭和天皇が崩御された時が、ちょうど、大分から東京へ向かう寝台列車に乗っていた時で、横浜駅から下宿に向かい、下宿のドアを開けたまさにその時、その事を告げられ、驚いた事を覚えています。

改元後も、代官山の陸橋に警察がいたりと、しばらくは、緊張感が漂う日々が続いていました。

その当時と比べると、今回の改元は、実にゆっくりとしたものです。いや、実際には、改元のために、様々な準備に追われる人などが多かったと思われるので、それほどゆっくりしたものではないのかもしれません。しかも、妙な事件も起こっているようですし。

それはともかく、改元を前にした、4月30日は、テレビで平成を振り返る番組が流れ、その間に様々な儀式が行われる様子が伝えられています。

基本的に、時代が進むとともに、世界がより良いものになると思っていますが、それにしても、これらの番組を見ていて、平成という時代は、多くの事件、災害があった時代だと、あらためて感じています。

令和が、どのような時代になるかはわからないにせよ、平成より、良い時代になればと思います。

個人的には、年齢的に、令和の次の時代を見ることができるかできないのかのギリギリの年齢ですが、少なくとも、令和という時代を見続けていければと思っています。

2019年4月1日 歳をとること

最近、新作の音楽CDを聴くのが実に辛く感じられます。

好きなミュージシャンであるにもかかわらずにです。

日頃、なるべく新しい音楽に接するようにしています。仕事に行く時には、ラジオで色々なミュージシャンをチェックしていますし、テレビなどでも、好き嫌いに関わらず、色々なミュージシャンが出演をする番組を見ています。

それでも、新作のCDを聞く約一時間は、苦痛以外の何ものでもありません。

子供の頃には、こんなことなかったのにな〜、そう感じながら聴いているわけです。

これが、歳をとるということなんだと思います。

色々な音楽を聴いても感動しなくなったのは、20代半ばくらいからですが、音楽を聴くことが苦痛になるとは、かなりの重症です。

脳の機能低下なのでしょうが、これから、少しばかり抵抗していければと感じています。

2019年3月1日 大切なこと

昔から「夢」という言葉には違和感を感じていました。

そして、仕事をするようになってから、さらにその違和感は大きくなって行きました。

夢を持とうといっても、別になりたいものはないし、あっても、自分の能力とはかけ離れたものだったり。

また、仕事をするようになってからは、他の人の夢に無理やり付き合わされるようなことが多くなり、「夢」という言葉を聞くことすら、嫌いになってしまいました。

仕事をするようになって、20年以上経って、最近考えるのは、自分の夢や自分のやりたい事を仕事に選ぶのではなく、自分が好きでなくとも、自分のやったことが人に喜んでもらえるような事を仕事に選ぶのが良いのではないかという事です。

人に喜んでもらえているのなら、それは、自分に与えられた能力が生かされているという事だと感じるからです。

この事を、中学生や高校生の頃に気がついていればと思います。

大切なのは、夢ではなく、自分の力が発揮できる場を見つける事なのだという事を。

2019年2月1日 感動すること

年齢を重ねるとともに、音楽を聴いても、絵画を鑑賞しても、子供の頃のように感動することがなくなってきました。

実際には、昔から馴染みのある音楽などには、いまだに、感動することがあります。でも、新しく入ってくる情報には、なかなか感動できないものです。

これは、危険な兆候だと感じています。

10年ほど前、iPhoneが発売された時、日本のメーカー、開発者は、「こんなものは売れない。」と思ったそうです。

さらには、「こんなものは、自分達にも作れる。」とも思ったそうです。

でも、実際には、iPhoneの売り上げは、日本の携帯電話の売り上げを大いに上回るとともに、日本では、iPhoneを超えるような端末も作れませんでした。結局、この10年前の判断ミスが、日本の携帯電話業界の分岐点となってしまったのです。

確かに、スペックだけを見ると、日本の携帯電話の方がはるかに進んでいました。

でも、iPhoneと日本の携帯電話を並べて、どちらがワクワクしますかと言われれば、10年前の私は、iPhoneを選んだことでしょう。そして、その選択が正しいことは、この10年の歴史が証明しています。

さて、再度自分のことを振り返って見て、新しい事柄を見て、ワクワクしなくなっている現状を見て、これは、日本が置かれている状況と同じなのだと感じます。

今まで学んできた蓄積はあるとはいえ、新たなものを受け入れることができなければ、私自身の成長はありえません。

これは何とかしなければ、今は、少し焦りのようなものを感じています。

2019年1月1日 興味のあり方

明けましておめでとうございます。

本年もよろしくお願い致します。

本年もまた、紅白を見ながらこの文章を考えたりしています。

今年の紅白は、基本的に、昨年の流れを受けて作られているような印象を受けますけど、細かい演出が色々と見られ、目を離しているすきに見逃していた、なんてことになっている、そのような事が多々あります。

それはともかく、最近、映画館や劇場などに行っていて、芸術のあり方は様々であっても、なんとなく、鑑賞するという点においては、どれも、絵画と対峙している時とあまり変わらないのかも、そのように感じるようになりました。

つまり、映画にせよ絵画にせよ、それらを鑑賞している時には、礼拝をするような感覚になるという点では、共通しているということです。

もっともこれは、ベンヤミンが指摘するところの礼拝の対象としての芸術作品という考え方と同じものなのですが。それに対し、映画の鑑賞と絵画の鑑賞とに違いがあるとすれば、それは、時間的な違いだと思います。

絵画なら、いつ見なければいけないという制約は、全くないとは言わないまでも、ある程度は、鑑賞する人に委ねられています。そう、その場所に行くという制約を除けばです。

けれども、映画は、場所という制約がある上に、上映時間が決められていて、さらに、上映する長さまでも、決められています。

そう考えると、映画での鑑賞者の自由というものは、かなり制約されていると言えるのではないでしょうか。

もっとも、映画作品がDVD化されれば、その扱いは、音楽CDや写真などと同じになり、鑑賞者は、多くの自由が得られるのです。

いずれにせよ礼拝的な視点から、過去から現在までの芸術作品を考察するのは、面白そうだなと感じています。

ということを書いていて気がつくのは、結局、私の興味のありどころは、大学時代と、なんら変わっていないということです。

そんなことを考えつつ、新たな年が素晴らしいものになればと感じています。