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2005年12月1日 解釈する能力

小学生の時、右目と左目では、目に入る景色の色が違うという事に気がつきました。今でも、カメラのファインダーを覗く時、右目と左目では、色が異なって見えます。

このことを最近話していたら、左右の目の度の違いではないかと言われたのですが、いずれにせよ、色が違う事に変わりはありません。

一般に、2人の人が一つのものを見ているとき、2人に見えているものは同じだという前提があります。でも、同じものを見ていても実際には違って見えている可能性は大いにあります。同じ赤でも、私の赤と、あなたの赤は違うかもしれません。

ましてや、その赤をどのように感じるのかは、人によってかなり異なっていることでしょう。

その違いがはっきりとあらわれるものの一つがアートだと思います。時々、アートというものが、無理に他の人と違うんだと、奇をてらう手段として使われているようにも感じるのですが、そうではなく、表現した結果が、他の人と違っていて、表現の世界をいっぺんさせる事もあるのではと思います。

ピカソなども、奇をてらっていたのではなく、恐らく、そう見えていたものを表現していたのか、あるいは、そう見えるように、訓練した結果としての表現であろうと思います。

ちなみに、人それぞれの感じ方の違いが、作品の解釈の大いなる弊害になることがあります。ピカソの作品が、最初、友人にすら理解されなかったのは、有名な話です。それで終わらなかったのは、ピカソの作品をちゃんと解釈した人がいたからです。それも、画家ではなく、確か、詩人だったと記憶していますが、ちょっと、記憶があいまいです。

いずれにせよ、違いをきちんと解釈する能力、それも、大切なのだと思います。

2005年11月1日 都市の中の自分

学生の頃、授業が終わって、渋谷の街に向かうときにいつも感じていたのは、都市の中に吸い込まれる自分、都市と一体化する自分です。

いまでも、生活をしていて、何処かの一部であるという意識があります。顔を洗うために水道の蛇口を回す時、車を走らせている時、自分が都市の一部に過ぎないのだと感じます。

都市という巨大な生き物の一部なのです。

これは、都市という枠だけでなく、自然の中にいたって、その中の一部であるという事には変わりありません。

世界の中心で・・・というドラマもありましたが、とにかく広い都市の中に意識を持つ自分が存在する。なんて、奇妙なんだろうと思います。

意識の中で、自分は中心ではあるのですが、都市の中で生きている、あるいは生かされている自分の不思議というものは、実に考えされられます。

先月の続きのような内容です。

それにしても、20年近く前に感じていた事を、今頃こうやって文章化している自分というのも不思議なものです。20年前と昨日とが、同列に感じられるようになるとは、こればかりは、年をとってみないと分からない事でした。

そういえば、この間、大学時代の友人の一人から、メールが来ました。もう、10数年会っていない訳だけど、外見や肉体的なことはさておき、あの頃と精神面では何の変化もない自分にあきれます。相変わらず、人と接するのは苦手だし、人に失礼な事を言って、しまったと思う事も多いしね。

2005年10月1日 好きだった場所、好きだった理由

東京で好きだった場所、好きだった理由はいくつかあります。

まずは、渋谷の街を高台から見下ろした時に聞こえる、「ゴー」という一つの音、うなり。

歩く時に、足に付加を感じながら歩かなければならない、やたらとアップダウンする、坂道。

どこまでも続く街。

様々な美術館。(特に、東京都写真美術館、池袋西武にあった美術館)

東京にいたときには、基本的に、孤独だった様に感じます。勿論、友人はいました。(ここ、大分には、友人と呼べる人はいないし、東京の時の友人がどの様に私の事を感じていたのかも、わかりませんが。)

でも、一人でいることが心地よい街、東京はその様な街だと思います。

実際には、様々な人々、集団、善い行い、悪い行いがあるわけですが、それゆえ、自分の孤独を強く感じられたのかもしれません。

2005年9月1日 仮想世界

私がいつも感じるのは、私達は、いかに仮想化された、幻想の中に生きているのかという事です。

数年前、「人間の脳を取り出して、それにケーブルをつないで、誰か外部の人間によって作られた仮想世界の情報を伝えているとしたら」という仮定の話を書いた事があります。まさに、マトリックスの描いた世界のようにです。

これは、極端な例ですが、現実の世界も、実は、これと大差ないのかもしれません。

自分で考えているつもりでも、その考える材料そのものは、他の誰かによって準備された特定のもの、結果を一つの方向へと導くために用意されたものかもしれません。冷静に考えれば、「おかしい」と気づく事でも、あえてそれにふたをされている可能性だってありえます。

話はそれるのですが、人類は、そのうち、コンピュータに支配されるかもしれません。現在、コンピュータがネットワークで繋がり、それを支配しているのは人間だと考えています。今のコンピュータは、ボルボックス程度のものであっても、100年後、200年後には、人間の知らないうちに、人間の意志をコントロールするものになってしまっていた、というのは、決してありえない話ではない思うのです。

人間は、意志を持って、自分で考え判断している、けれども、本当は、外部からの操作でその意志があらかじめ決められている……戦後の教育を見ていても、その様に感じるのですが、如何なものでしょうか?

話は変わって、最近、「電車男」をテレビでもやっていて、面白いですね。私はヲタクではないですけど、まあ、それほど遠からずという面もあるかもしれないな~という印象です。趣味の面でなく、人間関係に関してはね。

2005年8月1日 Macintosh購入

新たにアップル・コンピュータ社のPowerBook G4(ノートパソコン)を購入しました。今回は、購入時のエピソードを書きたいと思います。

購入は、地元の電気店だったのですが、購入時に確認したのは、新しいOSが入っているかどうかでした。ちょうど、マッキントッシュのOSが新たにタイガー(Mac OSX 10.4)になった所だったので、それが入っているかどうかを確認したのです。

店員さん曰く、「インストールされているOSは前のヴァージョンで、新しいOSをインストールできるCDが付属」しているとの事でした。

おかしいなと思いつつ、それならOKということで、購入を決め、金額を支払ったのですが、持ち帰る前に箱のなかを店員さんが確認した所、なんと、そのCDが付属していなかったのです。

すぐに、「1980円で新しいOSを購入できるサービスがアップルで行われている。」と言われ、そのまま購入して帰ろうとしたのですが、こんどは、そのサービスがパソコンを購入したその日までだったというオチがつき、なんだか、ギャグみたいな一日でした。

販売店さんの名誉のために言っておくと、そのお店は、マニアな方にはなかなか評判のよいお店なんですけど、たまたまその在庫に関して、勘違いをしていたように感じます。

さて、ウィンドウズ全盛の今、マックを購入する事は、お金の無駄のようにも感じます。何と言っても、私の場合、仕事の都合もあり、ウィンドウズも使わないといけないし、インターネットを使用していると、ウィンドウズに対応したサービスの方が多く、他の人には、ウィンドウズを購入するようにすすめることが多いです。

でも、マックは手放せません。ハードに関しては、どのメーカーのものにも不満があり(コストダウンのため、丈夫さ、データの安全性に不安があるため)、マックだろうがソニーだろうが、何処でもいいと思っています。その一方で、OSを含めたソフトに関しては、やっぱりマックがいいと感じます。それは、勿論、慣れというものもあるのでしょう。

そして、それ以上に感じるのがマックが持つブランド力だと感じています。マックのエピソードを書いた本まで購入させてしまう魅力、これが何よりも、大切なのだと思います。

マックのような優れたものが売れるとは限らない、同様の話は、歴史上、幾らでもあります。個人的には、優れたハード、ソフトの話を聞く方が、大してよくないんだけど、売上は良いという話を聞くよりも好きなのですけど、セールスの大切さ、運のあるなしなど、そういった面の大切さを、最近は感じるようになりました。

追記:

実際に色々と使用していて、自宅のパソコンを全部Macに変更しようかと考えています。普通にインターネットやデジカメを使用するのなら、マックの方がはるかに使いやすいように感じるからです。WindowsもXPになって、かなり使いやすくなっているし、次のWindowsもなかなか期待できそうなのですが、直感的に使えるのは、やはり、マックの方だと感じます。それにしても、無料のパソコン講習にせよ、NHKのパソコン講座にせよ、Windows主体の内容は、どうにかならないものでしょうか。

2005年7月1日 必要な資質

ある俳優さんが、俳優になるのに必要な事はという質問に答えて、

「自分に才能があること。」

「恥を沢山かく覚悟があること。」

の2つをあげていました。

職場には、先月から新しいアルバイトの女性が入って、私が色々指導するわけですが、正直言って、私の方が冷や汗をかく事が多く、何年やっても、恥をかく事が多いなと感じています。

少しはベテランになってくれば、余裕を持って作業が出来るのではと思うのですが、そうではないようです。

自分の才能に対しても、疑問に感じる事があるので、このまま続ける事がいいのかどうかと考える事もあります。

一生がこんな調子なのでしょうか。

さて、仕事は生きるために必要なものではあるのですが、生きるために生活を犠牲にしたり、自分の体を犠牲にしたりと本末転倒な状態になっているのはいかがなものかと考えたりします。色々考えますが、まあ、いずれかは決断の時は訪れると思います。それにしても、日本の政治家は、変な決断ばかりしているように思うのは、私だけなんですかね。大切なのは、決断をする事ではなく、より正しい決断をする事のはずなんですが・・・。

2005年6月1日 自分探し

夜、車を走らせていると、様々なお店が目に入ります。「昔、こんなに沢山お店があったかな」と思うのですが、どうなのでしょう?

お店が増えたということは、仕事も増えたということでしょうか。でも、そのお店の多くはチェーン店で、働いているのはパートさんやアルバイトがほとんどなのかもしれません。

なんだか、世の中えらく変わったものだと思います。

これからは、誰がやってもいい様な、いつでも人材の交換のきく様な、そんな仕事が増えていくだろうという人もいます。実際の所はわかりませんが、外から見ていると、その様にも感じます。

その一方で、他の人とは交換のきかない自分探しというのが流行ったりしています。本当の自分は、幽霊のごとく、自分の体から遊離している・・・訳はないか。

さて、時々感じるのは、私が勤めているような小さな会社は、同じ職種のチェーン店が進出して来たら、ひとたまりもないなということです。大きな会社に勤めたいとは思わない私ではありますが、大きければ大きいなりのメリットもあり、特に技術面、お客さんへのサービスと、格段の差を感じたりします。私自身は、努力はしているつもりでも、単に、同じ場所でぐるぐる回っているだけ・・・なのかもしれません。

2005年5月1日 会うはずのないものが

福岡の天神を歩いていると、前方から髪の毛を真っ赤に染めている女の子が歩いて来ました。その姿を見て、何だかほほえましく感じました。

彼女の個性的な姿に対し、私の方は、背広を着て、ネクタイを締めた、いかにもサラリーマン風の姿なのです。まさに、出会うはずのないものが道のど真ん中で出会ったような、シュールな光景です。もっとも、私はといえば、ネクタイを締めたのは、何年ぶりだろうか?という、感じなのですが。

果たして、彼女は、何を考えて髪を染めているのだろうか?

自分は、こんな人間なんだ、こんな風に見てもらいたいというのが、髪を染める理由かもしれないし、単なる気分転換かもしれません。

本当の理由は分らないにせよ、10代や20代前半の人達は、学校のような、企画化された社会に反抗?して、自分でいろいろ工夫し、自分らしさを主張したくなるのかもしれません。

でも、もしそうならば、私はこう思います。「どうでもいいことだ。」と。

自分は自分だし、外の世界は外の世界、それだけのことです。街に出てまで自己主張するのは、私の興味の範疇には、すでになくなっているわけです。

むしろ、街に溶け込んで、自分の個性を出来る限り出したくない、そう考える自分を再認識した天神での小旅行でした。

さて、先月は、アレルギーの症状が喉に出て、やる気も大いに減退してしまいました。お医者さん曰く、余りに症状が長引くので「めずらしいな~」。この文章を書いている今現在も、調子は万全ではない感じです。まあ、そのうちに治るさという感じで、しばらく過ごそうと思います。

2005年4月1日 天神小旅行

先月、出張のついでに、福岡の天神に立ち寄りました。

15年ぶりでしょうか。

最初は、何処を歩いているのか分らず、ちょっと戸惑いましたが、しばらくすると、どうにか、昔の勘を取り戻すことが出来ました。

でも、何だか昔と違うんですよね。昔感じた空気感、光、それらとのずれがあるのです。

昔、渋谷を歩いていると、街が段々と変容していくという夢を見たことがあります。数年後、実際に渋谷を歩いていて、同じような体験をしたわけですが、今回の天神訪問も同様なように感じました。

で、しばらく歩いていて思ったは、街そのものも変わっていますが、一番変わったのは、自分自身なのかもしれないということです。

明らかに、自分の視線に違いがあるように感じるのです。勿論、年齢的な違いというのもあるのでしょうが、とりあえず、その視線の違いが、街をよそよそしくしているように思います。この続きは、来月。

今月から、会社の業績不振を受けて、従業員が一人、会社をやめることになりました。彼女には、新しい世界での活躍を祈るばかりですが、将来への夢を抱くことの出来ない会社というのは、勤めていても、情けないものです。実際の業績不振もそうですし、将来への期待、夢というものを持てないことに、もっとも大きな問題を感じます。とりあえず、今月から、正社員は私一人になります。

2005年3月1日 グローバルスタンダード

グローバル・スタンダードという言葉があります。

では、グローバル・スタンダードのグローバルの基準となるのは、一体何処なのだろうかという問題があります。

昔、久米宏さんが、日本のサッカーは、ヨーロッパのどこかの国の○○流のサッカーではなく、「日本流のサッカーしかないと思うんですけどね。」とコメントをしていたのを覚えています。

同様に、経済の世界では、グローバル・スタンダードでないといけないんだと言う人もいますけど、結局は、日本には日本流の経済形態しかないように感じます。勿論、アメリカはアメリカ流、フランスはフランス流です。

自分達の考え方をグローバルだといって、他の国に入っていくというのは、大航海時代同様、大変失礼な態度だと私は感じています。同様に、ある一つの国の有り方をグローバルだといって採用しようとする考え方もおかしいのではないかと思います。

それぞれの国には、それぞれの国に適した、経済活動があるはずだし、生き方があるはずです。

他の国を見て、見習う必要があると思えば、見習えばいいだけの話です。他の国が誤っていると思えば、忠告すればいいのであって、それを押し付けたりするのは、傲慢以外の何者でもないでしょう。

もし、アメリカ流が好きなら、その好きだと思っている個人がアメリカに移住すればすむだけのこと。イチロー選手などのように。

私は、日本が好きだから、日本から出ることはないでしょうが、問題なのは、無意味にグローバルというものを追いかけるだけで、向かおうとしている先が不透明なことです。

このところの、ライブドアの動きを見て、こんなことを思ったわけです。ライブドアは、私も利用しているし、ライブドアが販売しているソフトも購入して使っています。それはともかく、新旧の戦いのように言われている部分もありますが、高々数十年の歴史で、旧世代に入るというのは、長い歴史から見たら、なんてことなんだろうと感じます。堀江さんだって、あと20年もすれば、旧世代になるんだろうしね。

2005年2月1日 十二国記

自分のことをおろかであると認識することは、難しいことだと思います。

昔、ソクラテスの著書(書いたのはプラトンですが)を読んでいて、なんとなく納得のいかない部分が多いなと感じたものです。恐らく、今読んでも、ソクラテスの主張には納得できないことは多いかもしれません。では、なぜいまだにソクラテスの著書が読まれるのかというと、恐らく、自らの立場を示したからではないでしょうか。つまり、自分がおろかであるということに気づき、それを全ての出発点に据えたことです。

最近見ている、アニメの十二国記にしても同様です。

普通の女子高生だった女の子が、選ばれてある国の王になる。その王になる過程で彼女が知るのは、自らが馬鹿であるということです。

自分が馬鹿だという人は結構います。でも、それは、学校の成績が悪いとか、頭が悪いとかいう話です。それに対し、この物語の場合、自分自身が物を知らないと言う事に気づき、そこを物を知る出発点に据えているのです。前者と後者は、似てるようでいて、大きな違いがあるように感じます。

自らの愚かさに正面からぶつかる勇気、それをもつことは、とても難しいことだと思います。私自身、この文章を書きながら、それをすることは無理だと感じているのです。とりあえず、この歳になって、ようやくソクラテスの偉大さが分かりかけているような気がします。

最近、自分を振り返って見ても、「私はこんなことが出来る」と自慢をしたがっているのではないかと思うことがあります。実際、他の人に、「自信満々ではないですか?」と、言われることもあります。でも、自分が愚かだから、あるいは、何も知らないからこそ、学び続けるわけだし、それは、一般には偉いといわれる学者であれ、こうやって、インターネットで雑文を書いている自分であっても、変わりはないのかなと感じます。

2005年1月1日 10年後を見据えて

明けましておめでとうございます。

今年も、このホームページをよろしくお願いいたします。

これからの10年を考えると、自分にとって、大切な10年になるように思えます。

今のところ、衰えを感じることはほとんどないのですが、これからの10年が、今と同じであるという保障はどこにもありません。

あるクラシックギターのプレイヤーが、40代になってからのテクニックの衰えが心配だったと自身のホームページで語っていました。もちろん、練習方法などを工夫して、それを克服して行ったそうですが、個人的には、新たなことを学ぶのに今まで以上の努力が必要になる可能性は感じています。

もっともこれは、私が存在し続ければという前提があります。存在は、いつ、失われるかは分からないからです。でも、失われるまでは存在し続けるわけで、存在し続けて、50歳を迎える日が訪れるかもしれません。

これも、最近聞いた話ですが、五木寛之さんが、「50歳になると、今まで見えなかったことが見えるようになる」という意味のことを話していました。どうも、年を重ねることに、否定的な見方になりがちですが、これからを楽しみにしたいと思います。

さて、こんなことを書いてみたのは、近い未来すら想像できない今という時代、ちょっと先の事を考えるより、もっと先の事を楽しみに待ちたいと思ったからです。

残念なことに、年齢を重ねるとともに賢くなるより、醜さばかりが増して行くのが人間というものかもしれませんが、もしかしたら、そうした自分でも、それまでと違った何かを感じるときが来るのかもと思いたいのです。