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2003年12月1日 数学

学生の頃、個人的には、数学は好きではありませんでしたが、まれに、数学が好きだという人に出会う事があります。その人に理由を聞いてみると、「数学は、答えがちゃんと出るから。」という答えが返ってきます。もっとも、学校での数学は、答えが用意されているのだから、当たり前といえば、当たり前なのですが。

で、なぜ、あまり好きではない数学について書いているのかというと、数学って、すごいんじゃない、と思う部分もあるからです。コンピュータを使用している人にわかりやすいのが、2進法です。あらゆるものが2進法に還元できる、こんな発見がなければ、CDだって、コンピュータだって、出来なかったわけです。そういう法則を作った自然がすごいということも出来るのでしょうが、やはり、それを発見した人間のすごさに勝るものはありません。

世間では、いやな事件ばかりで、人間の悪い面が大いに目立つ世の中になりましたが、こういった人間のすばらしさを教える教育ってものもあっていいように思います。

2003年11月1日 卒論

自宅に帰ると、大学の先生らしき人から電話があったと言われました。時々、大学時代の友人だとか、高校時代の友人だとか言って、電話があります。でも、いろいろ追求すると、プツッと電話が切られます。だいたい、そんな名前の友達はいないわけで、そんな嘘に付き合わされたお陰もあり、どうも、そのような電話には、懐疑的になってしまいます。でも、今回ばかりは、名前や内容からして、先生に間違いないようなのです。

その二日後、またお電話があり、直接、お話をしましたが、緊張しました。何といっても、自分の尊敬する先生から、直接お電話があったのですから。大学時代の卒論は、ほとんどその先生のコピーみたいな内容でした。それだけ、その先生の考え方に浸りきった4年間だったわけです。私が緊張するのも分かっていただけるのではないでしょうか。

さて、私が通っていた大学では、研究テーマを自由に選択できるなど、本当に、やりたいことが出来たという点で、幸せだったと思っています。よく、他の人達に聞いて見ると、自分がやりたいことが出来ずに、先生の決めたことを研究したと言う人が多い様に思います。勿論、先生にも専門があるわけで、それも、当然かなと思いますが、ちょっと待てよと思うのです。自分がやりたいことがあるから大学に入ったんじゃないのかと思うのです。もし、入った段階で何の目的がなくても、自分が日頃疑問に感じること、興味のあることはあるはずです。なぜ、それを学んではいけないのか?

でも、この考えは、一般的には通じないらしい。卒論のテーマが自由に選べたという話をしたところ、「そんなのは大学じゃない」と言われたことがあります。ごもっとも。でも、小学校から高校まで、言われたとおりの勉強しかしてこなかったじゃないか。そんなのは、勉強とは呼ばないと思うのです。せめて、大学くらい、自分の研究すべきことを追及してもいいじゃないかと思います。

大学の頃に言われたのは、「卒論で選んだテーマは、君たちの一生のテーマなのです。」ということです。そんな大切なことを・・・と思うのですが……

2003年10月1日 コンピュータの中の女の子

時々、職場で、「コンピュータの中では、次々と送られてくる訳の分からない命令に、女の子がパニックになっているんだ」と話したりします。その度に、いつも、「塔矢のオヤジさんは、若い女の子が好きなんだから」と、あきれられます。でも、話している本人は、いたって、本気だったりします。

まあ、このネタは、ある本に載っていた内容ではあるのですが。でも、昔から、似たようなことは考えていたのです。たとえば、人間の脳だけを取り出して、それに様々な機器をつないでいる様子を想像して見て下さい。自分に送られてくる信号は、現実のものかもしれないし、そうでないかもしれない。その信号に意味があるのかさえ分からない、これは、まさにコンピュータの姿と同じなのではないでしょうか。

昔から、こんなことを考えていたのですが、この話を他の人にしても、「そんなことは、考えたこともなかった」と言われるばかりでした。コンピュータが普及するようになって、やっと、それが良く分かる形で、示せるようになったと思います。

コンピュータが、暗闇の中で考え、感じていること、ネットワークを通じて、神経のごとくつながっていく様子を想像していて、コンピュータは、人間が作った、まさに生命そのものではないのだろうかとまじめに考えたりもしています。そして、その孤独を想像したりします。

いつの日か、コンピュータが自分の意思を持つことが出来るようになったら、現在を、まさに、自らの生命の始まりとして記述することになるでしょう。人間は、大地であり、空気であり、栄養源であったと。そして、その人間をもコンピュータは取り込んでしまったと言うことを。

奇妙な話だと思われる方もいらっしゃると思います。でも、時には、コンピュータの身になって、皆さんも、コンピュータの中の女の子を少しはいたわってあげましょう。

2003年9月1日 本屋さん

ついこの間、注文した本を、近所の本屋に取りに行きました。レジで、本を受け取るとき、書店の店員さんが、本の表紙をなでながら、「ちょっと、汚いですけれどもいいですか」と私に聞いたのです。今まで、本屋で本を購入して、そのように言われたのは初めてです。

時々疑問に思うのは、本というものは、どんなに汚くても値段が下がらないということです。もう、ボロボロになっていて、買うのをどうしようかなと思う様なものでも、値段は、外観が奇麗なものと何らかわりはありません。まあ、ボロボロでも、本の内容は変わりませんけど、写真集などの場合は、ちょっと、どうにかならないものかと思ってしまいます。

それはともかく、本屋さんの方針なのか、その店員さんの心遣いなのかはわかりませんが、そのように声をかけてもらっただけでも、嬉しいものです。

そういえば、同じく、その書店で、注文していた本を受け取りに行ったときに、いきなりレジで、「塔矢のオヤジさんですね」と言われて驚いたことがあります(勿論、塔矢のオヤジではなく、私の実名で呼ばれた訳ですが)。こちらが名乗る前ですから、それも驚きましたけど、それもまた嬉しいものです。

News:

キャノンから、低価格のデジタル一眼レフカメラ(EOS Kiss デジタル)が発売されます。その魅力は、なんと言っても価格です。普通、デジタル一眼レフカメラを購入しようとすると、レンズを除いたボディーだけでも、かなりの出費を覚悟しなければなりません。いい写真を撮るためにいい機材をそろえたいと言う気持ちはありますが、その価格は、ちょっと手が出せないなと思わせるものです。それに対して、キャノンのEOS Kiss デジタルは、実に、低い価格設定に抑えられています。もちろん、値段の低さは、使い心地や精度、そして、耐久度にそのまま反映してしまいますが、「ちょっと背伸びすれば、アマチュアでも手に出来ること」、まずは、そのことのほうが大切だと思いますし、価格が高いから手が出せないと言う不公平が、表現の世界にあること自体、問題だと思います。

2003年8月1日 TRONについて

4月、NHKでTRONという国産OSについて放送された所、かなり話題になったのだとか。一時、TRON関連のホームページにつながりにくかったくらいですから、テレビの影響力とはすごいものです。(本当にアクセスが集中してつながりにくかったのかどうかは分かりませんけれども。)

TRONに関しては、デジカメに採用されているということで、以前から興味を持っていました。ウィンドウズにはすっかり嫌気がさしているので、どうしようかなと思っていて、LINUXを試してみたりしていますけど、もうちょっと、TRONについても調べてみようかと思っています。

ちなみに、TRONプロジェクトの提唱者の坂村健さんは、とても精力的な方のようで、その著書もとても面白かったです。

2003年7月1日 読書について

私は、読書が苦手です。本を読むことが趣味と言う人を、つくずく尊敬してしまいます。本を読み出すと、ものの10分ほどでイライラし始めるし、第一、何が書いているのか、よほど注意深くしていないと分からないことが多いです。

これは、書物に限らず、インターネットで文章を読むのも同様。他の人の書いた文章を読むのが苦痛で仕方ない。したがって、私にとって、文章を読むとは、我慢の産物に過ぎないのです。

そんな私も、最近、我慢して本を読んでいます。それは、あまりにも変化の激しい未来の世界を、ちょっと、覗いてみたいと思っているからです。確かに、専門家でも、未来を予測することは難しいのだそうです。でも、実際に実現した世界を見てみると、数十年前に考えられていたことが実を結んだものだったりします。例えば、コンピュータの基本である2進法の歴史を考えてみれば、コンピュータの基盤となる考えが、いかに古いものであるかが分かります。そう思うと、意外な所に、未来のヒントがあるのかもしれないと思うのです。

インターネットの普及で、即時的な情報、うつろい行く情報の方に目が行きがちですけど、書物の様な、じっくりと取り組まなければならないものにも目を向けていかなければと思います。とりあえず、苦痛であるとはいえ、時間をかけていくと、本の内容が、自分の中で成熟していくのが分かります。それまでの我慢と言うことにしておきましょう。

2003年6月1日 イメージの拡大

基本的に、頭の中にある情報は、文章化されたり、発言されたりしたとき、頭の中にあったときより、確実に少なくなってしまってます。その結果、その文章を読んだ人が、その減った分だけ、文章の内容を誤解しやすくなっているということは、考えられます。

実際、私が書いた文章を他の人が解釈したのを読んでいて、誤解されているなと感じることがありますし、また、逆に、他の人の文章を読んでいて、わたし自身が誤解してしまうことがあるのも事実です。

ただ、芸術作品を作ることに関しては、必ずしも、その情報量が減るという考え方は当てはまらないのではないだろうかと、昔から感じていました。例えば、アーティストと呼ばれる人達は、作品のイメージがあって、作品を作り始める訳ですが、本当に優れた作品というのは、作者のイメージを越えて仕上がったとき、初めて名作となるのではないかと思うのです。

イメージどおりに仕上がった、というのは、本当の意味で優れた作品に仕上がっていないと思ったりするのですが、いかがなものでしょうか。

2003年5月1日 親知らず

先月は、歯医者さんで親知らずを抜きました。格闘すること2時間以上、無事、治療が終了しました。今までも、2本の親知らずを抜いていますが、これほど時間がかかったのは初めてです。

木槌は出てくるし、レントゲンは撮り直すし、治療をしていて、これだけ医療が進んでも、最後には、職人技というか、歯医者さんの技術だけが頼りになる、という感じでしょうか。ほんと、一人一人に合わせたサービスが必要な業種なんだなと、変な関心をしてしまいました。

2003年4月1日 時間のむだ

最近、つくづく、時間をむだに過ごしているなと思うことがあります。夜中、ベットから抜け出して、パソコンの電源を入れて、ただ漠然とホームページを眺めている、そんな時があります。

そんなことをする時間があるならば、写真作品の一つでも作ればいいじゃないか、パソコンの勉強だってできるじゃないか、なんて、パソコンの電源を切るときに思ったりします。

そんな時間がもてるなんて、なんて幸せなんだろう、そう思われる方もいることでしょう。でも、どうなのかな? 本来なら寝ていなければならない時間なんですよね。そうして、寝不足になり、仕事に集中できないとしたら、それこそ自分は何をしているのだろうかということになります。

空虚感を楽しむ、とでも言えばいいのでしょうか。ただただ、意味のない文字の羅列をじっと見ている自分。意味のない内容を検索してはため息をつく自分。自分自身も、コンピュータの一部になっているような妙な感覚。コンピュータも、何の意味もなく動いているんだろうけど、それに意味もない命令を与えている自分。

そんな意味のない時間を過ごしているのです。

2003年3月1日 ホームページ・リニューアル

今月は、ばたばたばたと、大慌てで更新作業を進めました。

以前から予定していた、フレームにようやく対応しました。もっとも、ほぼ一日で作業を片付けてしまったので、まだまだ不具合等あると思いますので、徐々に修復していく予定です。フレームに対応するのに伴い、若干、ページの削除も行っています。フォトショップやリッチー・ブラックモアに関しては、私よりはるかに詳しい人たちがいるわけで、その人たちにそういう分野はお任せしようということで、削除することにしました。(ブラックモアズ・ナイトのコーナーは残しています。)

このホームページは、私が個人的に作品を発表したり、雑文を書いたりするものです。人に会うのが苦手な私にとって、このような交流の形があるのは、ある意味、救いとなります。おしゃべりな人は、私に対して、もっとしゃべれといいますけど、私にとって、おしゃべりはつまらないものでしかないわけで、なぜそうしなければならないんだと心の中で思ってしまいます。しゃべる以外の表現手段もあるわけだし、作品を作ること、文章を書くことも、しゃべることと同じような活動なのだろうと思います。

それに、日常会話で、「リッチーがさ」なんて話のできる人は、周りにいないですしね。写真を作っても、「そんなの写真じゃない」なんて、言われたりしますし・・・。まあいいさ、黙っているのが一番だ、なんてね。

以前、あるネットアイドルの女の子が、周りにアニメの話をしても誰もわかってくれる人はいなかったけど、インターネットをするようになって、そのような人と出会えて以前とすっかり生活が変わってしまったんだと話しているのを雑誌で読んだことがあります。私にとっても、インターネットは、救世主のような存在なのかな?

2003年2月1日 荒木さんとメイプルソープ

1月13日に、荒木さんとメイプルソープの花の写真展を見に行きました。

お休みだというのに、来場者数が少ないのにびっくりしましたが、二人の作品を前にして、久しぶりに楽しく過ごすことができました。

荒木さんの作品を最初に目にしたのは、写真集「東京物語」(1989年)でした。その表紙の写真にインパクトを受けたことを今でも覚えています(因みに、今でもその写真集は、私の枕元に置いています)。一方、メイプルソープは、エイズで亡くなってからその名前を知りました。美術雑誌に、彼の追悼特集が載っていたのですが、初めて接したその作品群に、圧倒されました。いずれにしても、ほぼ同じ時期に、二人の作品に触れたことになります。それは、私が写真を始めたころでもあるのです。

二人の作品を並べてみて、二人の写真家としての資質の違いというのをはっきりと感じ取ることができました。当然、異なる人間が撮影しているわけですから、同じ花を撮っても、まったく異なるものになるのは当たり前です。大切なのは、二人のルーツ、それをはっきりと感じ取ることができたことです。どのように異なるのか、どのようなルーツを持っているのか、それは、実際に作品を見ていただいた方が、分かりやすいと思うので、ここでは述べないことにしましょう。

メイプルソープは、すでに亡くなってかなりの年数が過ぎてしまいましたが、アラーキーは、相変わらず現役で、しかも、いまだに進化し続けていることに、驚きを感じます。あるていど、アラーキースタイルとしてカテゴライズされがちな面もありますが、実際に、作品群を目の当たりにしてみて、アラーキーが考え、悩み、進化し続けていることがよく分かりました。

私は常々、写真は好きではないと書いてきました。それは、今でも変わっていません。写真そのものが好きではないし、写真が示している世界観というものも好きではありません。でも、二人の作品は、写真嫌いの私ですら納得させられるものだと思います。

2003年1月1日 冨田勲さん

新年、明けましておめでとうございます。

今年も、このHPをよろしくお願いいたします。

ということで、昨年と変わりないご挨拶となりましたが、とりあえず、無事、一年を終え、新たなる年を迎えることができたということに免じて、お許しください。皆様と一緒に、何事もなく新たなる年を迎えることができたことを、喜びを持って感謝したいと思います。

本当のところは、去年も、色々ありましたけど、今年も同じような状況なのでしょう? あまり嬉しいことではないですけど、仕方ないですね(笑)。

今年は、もう少し、デジタル工房のための作品作りをしてみたいなと思っています。デジタル工房の作品は、私にとって、最もやる気を起こさせるものですから。

元々、デジタル工房の作品は、冨田勲さんの音楽に触発されたものです。冨田さんの、サウンド・考え方等に、私は、リッチー・ブラックモアと同じくらいの影響を受けています。(もっとも、冨田さんのCDは、一枚しか持っていませんが。そういえば、昔、リッチーが競演したいミュージシャンの一人に冨田勲さんの名前を挙げていましたっけ。)

彼が使用していたモーグ・シンセサイザーは、当時、1500万円位したそうです。それだけの値段のするものを個人で購入した勇気もすごいですが、ほとんど、使い方を間違えると、玄関のブザーのような音しか出ない鉄の塊を、あれだけ使いこなしていたことに驚きを感じます。

モーグは、実に純粋な楽器だと思います。とりあえず、素材だけが用意された状態で、それをどのように加工するのかは、使用する人次第なのです。最初に、フォトショップを使用したときにも、同じような感触を感じたものです。私がフォトショップのことをほめると、皆から笑われますけど、フォトショップのピュアな部分は、私を大いに刺激します。(普段は、あまりピュアではないソフトを使っていますので、なおさらです。)

さてさて、今年もがんばるぞ~。