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2004年12月1日 CCCD

最近読んだ、あるホームページの内容によると、CCCD(コピー禁止機能の付いた音楽CD)の採用は、結局、レコード会社側のコントロールしたいという意思のあらわれであり、それが、不評の原因だったそうです。結局は、コントロールしたいというレコード会社側のエゴでしかなく、それは、決して、利用者のことを考えたものではない、そのよう受け取られたのでしょう。

コントロールということで言えば、学校などには、昔から校則がありましたが、もしそれに、きちんとした理由があったのならば、問題はなかったはずです。多くの学生がいる訳ですから、おのずと規則が必要なのは当然です。では、それにきちんとした理由があったのかというと、実はそうではなかったのではないかと思うことがあります。その当時の先生方の価値観を単に押し付けているのに過ぎなかったと思われるからです。例えば、私が中学の時は、有無を言わせず坊主頭にされましたが、それと学業のどこに関連性があるのかは、今もって不明です。

理由をいうことができない規則、そういったものの下で育ってきた世代が大人になって子供を育てる段になったときに、それを強制する理由がわからないということで、子供たちを自由に過ごさせてしまっている。これはこれで、問題らしいですから、何がいいのやらといったところです。

2004年11月1日 コンサート

先月は、コンサートを観に大阪まで行きました。コンサート当日の大阪入りも考えていたのですが、台風のことや体調のことも考えて、前日の日曜日に大阪に行くことにしました。でも、これが失敗だったなと思ったのです。なぜなら、大阪の街は、どこに行ってもカップルばかりで、もううんざりという感じだったからです。

日曜日に街に出かければ、大阪に限らず、東京でも、私の住んでいる大分でも、同じような状況なのでしょう。最近、買い物はインターネットで済ませるので、日曜日に出かけることがなく、気づかなかっただけなんでしょうね。

でも、これだけカップルがうじゃうじゃいるというのは、恋愛も、一種のブームのように思えてしまいます。「あいのり」とかいう番組もありますし・・・。

で、気になったのは、なんとなく、うじゃうじゃいるカップルがそれぞれ自分達のドラマを演じているように見えたことです。恋愛とは、そんなものだと言われればそれまでなのですが、いずれにせよ、恋愛より、ドラマを演じることのほうに重点がシフトしているように見えたのです。

街の劇場化とでも表現すればいいでしょうか。テレビなどのメディアの影響が大きいのかもしれません。テレビ・ドラマは、まさに、劇場化された街を客観的に見せるものですから。主役の自分とその相手役の男性や女性、恐らく、街を歩いていた人たちは、心の片隅で、映像化された自分の姿をイメージしていたのではないでしょうか。

自己満足なパフォーマンスほど見るに耐えないものはないと私は考えています。つまり、都市空間は、私にとって、少しも美しくはないのです。

2004年10月1日 シンディー・シャーマン

以前、好きな写真家として、日本人の写真家の名前をあげましたが、海外の写真家では、学生時代からずっと、シンディー・シャーマンが好きでした。写真云々ということよりも、彼女のスタンスが気に入っています。

シャーマンは、映画のシーンを演じたセルフポートレートが有名な、現在も第一線で活躍するアメリカの女性写真家です。実際には、存在しない映画なんだけど、なんだか目にしたことがあるような光景を描写した彼女の写真を目にすれば、誰もが目をとめてしまうことでしょう。でも、彼女の写真の魅力はそれにとどまりません。

彼女の写真の魅力は、彼女の憂いを帯びた顔にあるのではなく、写真によって、写真とは何なのか、そう自問自答しているところにあるのです。

別に写真に限ったことではないのですが、仕事にしても、生きることにしても、勉強にしても、常に、自問自答の繰り返しです。つまり、自らその存在意義を問わざるを得ないのです。

そんなことをしても無駄だという意見もあるでしょう。第一、そんな暇はないし、そんなことをやるのはインテリ気取りの娯楽に過ぎないと。確かに、そんなことをやっても、ハムレット気取りに過ぎないと思えなくもありません。でも、問いかけ方次第では、問われる内容は、さらに強くなり、前進していくように私は感じるのです。

写真は、誕生当初、何に使用したらいいのか分からないという時期がありました。その後遺症でもあるかのように、時代によって、絵画の真似事をしてみたり、報道写真が主流だったりと、色々と変化しているわけですが、写真とは何なのか、これに対する明確な解答をそういった変化の中に見出すことは難しいように思います。

シャーマンや、彼女と同時代の写真家達は、芸術写真や報道写真と異なった切り口で、写真というものを問うたということで、意義があると思います。それも、暇つぶしの娯楽としてではなく、写真作品の中にその考えを封じ込めたということに、意義があるのです。

2004年9月1日 ホームページをはじめたときは

最初にホームページを作り始めたときは、ただ、作品を発表する場が持てればと、その程度の考えで作り始めました。でも、数年続けてみて感じるのは、ホームページを作っている以上、自分の発言には責任を持たなければならないということです。

他のホームページに書き込みをしたり、自分のホームページの書き込みに返事を書いたりするとき、相手を不機嫌にさせるような書き込みをしてしまったり、相手の書き込みで不機嫌になったりすることが当然あります。

そんな時にも、自分なりに冷静に対処しようとするのは、自分のホームページがあるからだと思います。要するに、普段の生活同様、自分に逃げる場所はないということです。

自分のホームページが存在し続ける以上、塔矢のオヤジというキャラクターは実在するわけだし、このキャラクターは、現実の私と、寸分、変わることがないのです。

まあ、私の場合、日常生活と同様、人付き合いに距離を保つことをモットーとしているので、その分、他の人よりストレスは少ないとは思いますが。逃げる場はないと書きつつも、最初から逃げ腰な訳です。

2004年8月1日 変化すること

最近ハマっているのが、アニメの十二国記。その前がマトリックスで・・・というと、私の趣味・趣向が分かるというものですが、決して、ファンタジーに染まっているわけではありません。どちらかと言えば、神仏や、霊的なものには、否定的な意見を持っています。

マトリックスは、一見、深く見えても、実際にはどうなのかな?多様ではあるとは思いますが、結局、娯楽と言う部分に落ち着いているように感じます。

十二国記に関しては、変化すると言うことに興味を感じます。人間にとって、自分が自分であると言うことを認識することは、大切なことだそうです。そうでなければ、自我は確立しません。でも、実際には、人間は、変化していくものです。変化しつつも、自分であり続ける。その矛盾を受け入れることはとても難しい。

最近、養老さんの本がベスト・セラーになっていますが、このことを分かりやすく語っていて、興味深かったです。養老さんの本を読んでいると、今までと異なる価値観がうまれ出るところに立ち会っているかのような感動を覚えます。

今までの価値観は、それぞれの時代で、リアリティーがあったわけで、それを否定する気はさらさらありません。神がいるだとか、妖精がいるだとかは、一つの納得させる材料ではあったわけです。でも、もう時代は変わっているわけで、現代の人に納得のいく説明、価値観が生み出されなければと感じています。養老さんの本の中には、そのヒントが潜んでいるように感じます。

それはともかく、一人の人間の成長を描いた十二国記は、ファンタジーと言う枠以上の魅力があるのではないでしょうか。

追記

先月、ウィンドウズの普及によって、マッキントッシュの正しさが証明されたと書きました。それは、負け惜しみではなく、私は、本当のことだと考えています。

恐らく、マッキントッシュが登場していなければ、ウィンドウズの登場は、はるかに時代が下がっていたでしょうし、現在のような使用感にたどり着くのは、さらにずっと先の話になっていたでしょうから。

だからと言って、アップル社を手放しで賞賛するつもりはありません。アップルのアイディアは、あの小さなモニタ上では優れていましたが、現状では、すでに時代遅れに感じるからです。いい加減、新たなインターフェイスを考えて欲しいものです。

2004年7月1日 基調講演

先月、アップル社の新製品発表の基調講演をインターネットで見ました。英語なので、全ての内容を把握するのは無理でしたが、視覚的な講演のため、英語の分からない私でも十分に楽しむことが出来ました。

私は、アップル社の商品を愛していますし、マッキントッシュを開発した人々に尊敬の念を抱いています。そのような思いを抱くのは、アップル社にブランド力があるからだと言う人もいます。アップル社に関しては、革命的な商品を出したという歴史的事実があるわけだし、その商品が正しかったことは、ウィンドウズの普及によって、証明された訳です。それだけでは、ウィンドウズのように嫌われ者になってしまう可能性もあったわけで、優れた商品とともに、ブランド力を身につけていったというのは、その通りなのかもしれません。

でも、商売と言うことになると、話は違ってくるようです。最近、アップル社に関する本を読んでいて印象的だったのが、「私はアップルの商品は愛しているが、アップルの人間は大嫌いだ」(「林檎の樹の下で」P170)という言葉です。

その商品が優れていることは認めても、その商売に対する考え方があまりにも日本の企業の常識とは外れていて、上記のような発言につながったようです。ありがたいことに、私は、アップル社の人間と直接関わることがないので、そのような不愉快な思いはすることはこれからもないでしょう。

少なくとも、アップル社のコンピュータがあったから、自分の作品を作ることができたのですから、私は、アップル社の開発者に感謝の念を抱いていますし、当然、それを広めようとした人々にも感謝の念は抱いているのですが。

2004年6月1日 ダメ人間

ダ~メ、ダメ、ダメ、ダメ人間。

最近になって、これが筋肉少女帯の曲だと知りました。

時々、仕事帰りに不機嫌になって帰宅するのは、お客さんに対して腹が立つからではなくて、自分のだめ人間ぶりに腹が立つからです。なんてことはないんだけど、自分ではわかる、ミスや手抜き、判断ミスなど、本当にうんざりすることがあります。

そういったときには、本当に自分にこの仕事への適正があるのだろうかと思うこともあります。けれども、自分の弱さを直視することも大切かなと思ったりします。自分は、何かすごいことが出来るんだとか、すごい人間なんだと思いたい一方で、現実の自分は、常に失敗を繰り返している。それが現実なんだと。それを乗り越えていくのか、上手く付き合っていくのかは、人それぞれの価値観だと思います。

ただ、乗り越えていこうとしたとしても、人間には、いずれ限界点が来るものだと思います。現在では、偉大だと評価される経営者にしても、晩年には、頓珍漢なことをしていたりします。それを、人間味のあるエピソードと見る人もいるのでしょうが、私は、それが、その人の限界点に過ぎなかったのではなかと思います。

頑張ることも大切ですが、限界点を見極めることも大切ではないかと思いますし、それを教える教育ってものがあってもいいのではないかとも思います。

2004年5月1日 蜷川実花

正直に言って、他の人の写真作品を見ていいなと思うことがありません。もちろん、上手い下手ということは感じます。でも、それだけです。フォトコンテストの入選作品を見ていても、上手いとは思っても、感動することはないですし、プロの作品を見ていても、仕事としては、すばらしいということはわかっても、それ以上の価値を見出すことはできません。

そこで考えてみました。

「好きな写真家は誰なんだろうと」

そして、唯一名前をあげることができるのが、蜷川実花さんでした。

彼女は、すでに30歳代に入っていると思いますが、登場したときには、まだ若く、結構話題になったものです。

昔、写真雑誌の読者欄だったと思いますが、「彼女の写真の何がいいのかわからない」といった、意見が載っていました。確かに、技術的には、ぶれていたり、ピントが合っていなかったりと、ひどいものです。写真集を見ていると、なんとなく、車酔いをしたような気分になります。(もちろん、ぶれやピンボケは、意図的なものでしょう)。しかも、社会的なテーマを扱っているわけでもなく、まったく個人的なごくごく狭い世界を表現したものに過ぎませんでした。

もしかしたら、社会的なかかわり、より広い人とのつながりを表現できなければだめ、みたいな考え方が、彼女の作品を非難する根底にあるのかもしれません。でも、世界を相手にしている写真が、必ずしも、今という時代を表現できているというわけではありません。むしろ、個人的としかいえない世界を写した写真の中にこそ、社会の問題点が映し出される、そう私は思います。

2004年4月1日 死について

いつかその日が来ると思っていた。我が家になごみを運んでくれていた、野良猫のみーちゃんが、先月の3日、亡くなったのです。ここ、一月ほど、具合が悪く、えさも口にしなくなっていたので、ある程度覚悟は出来ていたのですが・・・。

私は、常に死について考えています。車を運転していても、パソコンに向かっていても。自分もいずれは死んでしまう、そのことを心の深い場所で、何度も繰り返しているのです。

ただ、死を考えるにしても、それを、どのようなものであるのか、解釈することはしません。なぜなら、それを解釈することは、不可能だからです。限りない無と一体化する、と言うことはいえるでしょうが、それを、実感として感じ取ることは、出来ません。

来世があると信じる人もいるでしょうし、ばら色の世界が広がると考える人もいるでしょう。そう思いたい人は、そう思えばいいことです。でも、無というものの方が、どれほど超越的であることか。

私が常々考えているのは、いつか死が訪れるからこそ、真剣に生きられるということです。花火が消え去る前に光り輝くように、人間や、その他の動植物たちも、光り輝いているのです。

それともう一つ、人の死も、犬や猫の死も、なんら変わりのないことを。

2004年3月1日 原稿依頼

数ヶ月前、ある会報に文章を書くようにとの依頼があり、書き始めては見たのですが・・・、これが苦痛の始まりでした。

1ヵ月後の締め切りまでの間、書き換えること10回以上、結局、最終的に出来上がった文章には、最初に書いた文章は、一行も残っていませんでした。

それは、いざ書き始めてみると、あれも書きたいこれも書きたいで収拾がつかなくなり、内容をどんどん削っていく必要があったからと、書きながら、自分が元々考えていた結論とは異なるものへと導かれていったからです。

以前、考えは、紙に書き記すことによって、初めて形になると言われたことがあります。つまり、書きながら発展していくものなのです。その変化が大切なのだと。今回も、パソコンに向かいながら、同様な感想を持ちました。

高だか原稿用紙5枚ほどで、内容的にもたいしたものではありませんでしたが、久しぶりに文章というものに向かい合い、簡潔であること、考えるということを改めて再認識した一ヶ月間でした。

因みに、このコラムに書いている文章は、割合と、行き当たりばったりというか、単に、思いつきで書いていることが多いです。その点では、本来の文章の持つ自分自身に対する驚きには欠けているなと感じています。

2004年2月1日 食事会

先月、職場のスタッフ全員が集まって、お食事会をしました。

たまには、仕事抜きで、思うままに話す場が必要だなと思い、私が企画したものです(本当の意図は、異なりますが、それはまたの機会に)。最初は、どうなるものかと思ったものですが、考えていた以上に話が盛り上がり、仕事から、小学生時代のエピソードに至るまで、話の内容は、多岐に渡りました。

さて、みんなが子供のころの思い出話に花を咲かしていたときのこと、ふと、私は昔のことを全く覚えていないなということに気づきました。

私が、小学校6年生のとき、それまでと、世界観がまったく変わった時期がありました。今でもはっきり覚えているのですが、それまで面白いと感じていた遊びやテレビ番組を、まったく面白いと感じなくなったのです。

それを機に、図書館に入り浸るようになり、友達から、「お前には似合わない」と言われるのもかまわず、本を読みあさるようになっていったのです。

自分が求める世界は何なのか、自分が見ている世界は現実のものなのか・・・、様々な思いのほうが、それまでの価値観より大切になっていたのです。ロック・ミュージックに興味を持ったのも、エレクトロニクスに興味を持ったのも、同じ時期です。

その結果、それまで持っていたおもちゃも捨て、それまでの価値観も捨て去ってしまったのです。誰もが経験あることだと思うのですが、昔のことを思い出せないのは・・・。

最近、ドリフの番組がDVDなどで出て評判を呼んでいるようですが、私にとって、ドリフは切り捨てられた過去の世界に属するものでしかありません。私にとれば、「なぜそんなものが・・・」なのですが、そこまで思うのは、少数派なのかもしれませんね。どうなのでしょうか?

追記(2005.12):

ちなみに、ドリフのコントを、最近少しばかり見ましたが、なかなか面白かったです。間のとり方やアドリブの上手さなど、さすがです。ドリフに興味がわかない一つの理由は、子供向けのネタが多いこと。最近、ハードゲイのネタが流行っていますけど、それを見せたくないと思っている親が、かつて子供に見せたくない番組を懐かしがって見ている、変なものです。

2004年1月1日 新年の挨拶

新年、明けましておめでとうございます。

今年も、このHPをよろしくお願いいたします。

仕事に関しては、何時間やってもかまわないというところが昔はありました。でも、ここ数年、その考え方が揺らいでいます。もちろん、仕事が大切なのは確かなのですが、それよりも、精神的に余裕のある生活を送ることの方が大切なのでは、そう思うことがあるからです。

正直なところ、現在の給料では、実家に暮らしているから生きていけるという状況です。この調子だと将来は・・・となってしまいます。勿論、この給料を知って、私と結婚したいと思う人はいないでしょう。いたとしたら、私がよっぽどいい人なのか、相手が何も考えていないのか、とってもいい人なのか、はたまた・・・、なんて、現実にはどんな仮定もありえないですね。

現在の個人的な状況はともかく、これからの日本のことを考えてみても、仕事一筋というのも馬鹿らしいなと感じています。この不況のおかげで、日本の雇用状況は、かなりの変化が強いられてしまいました。世間一般では、アメリカ的な雇用状況・能力尊重主義への転換が、素晴らしいことのように語られていますが、それは、雇用する側の論理、もしくは、お金持ちの論理に過ぎないように思います。いわんや、痛みに耐えて、道が開けるなんて、幻想に過ぎません。

今までの終身雇用などが崩れてしまった日本は、景気がよくなっても、昔の時代に後戻りすることはないでしょう。それが、どのような問題を持つのか、それは、これからの歴史が証明するでしょうから、ここでは書かないでおきます。というか、私のような人間には、予想もつかないことですけれどもね。一つだけいえるのは、この給与は、将来も、そんなに変わらないだろうということだけです。(犯罪も、同様に減ることもないでしょう。)

勿論、給料の上がっていく人もいるのでしょうが、少なくとも、私自身は、近い将来、景気がよくなったとしても、今の給料が2倍になることは考えられないと思っています。したがって、この低い給料で、いかにストレスなく過ごすのかがこれからの課題なのです。ついこの間、以前一緒に働いていた人に、「よくやっていけるね」とあきれられましたけど、仕事があるだけでもましと考えて、これから数年は、我慢する日々が続くだろうと予想しています。

自分の人生を左右するだけの権利が企業にあるとは思えません。できれば、自分の時間を多く取るようにして、これからは、精神的にストレスのない人生を送りたいものです。