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2016年12月1日 今という瞬間

最近、ある番組を見てて、「あー、時間というのは、今という瞬間しかないんだな。」ということが、妙に腑に落ちました。

過去も、未来も、人間の頭の中で作り出されたものでしかないのだということを。

まあ、当たり前の話ではあります。

過去のことを覚えていれば、それは、未来に活かせるのかもしれません。

未来のことを考えれば、それも、未来に活かせるのかもしれません。

いずれにせよ、過去を振り返るのも、未来のことを考えるのも、今という瞬間しかありません。たとえ、未来のためにと考えていたとしても、現実には、過去も未来も、現在の私が作り出した幻想にしか過ぎないのです。

そう考えると、今という一瞬の大切さが、いかに大きいのかにも、考えが至ります。実際には、難しいことですが、今目の前にあること、そのことにいかに真剣に取り組むのか、それしかないのかもしれません。

2016年11月1日 ネットの普及

インターネットが一般的に普及し始めた頃考えたのは二つの事です。

一つ目は、自分の作った作品を手軽に発信する手段が出来たという事です。

ネット以前は、作品を作り、さらにそれを展示する場所を確保し、ようやくそれを多くの人(といっても、展示会場に来るごく少数の人)に発表する事が出来ました。

でも、自分でホームページを作れば、手軽に作品を発表できます。見せたいと思う人には、ホームページのURLを教えれば、それで十分です。

それともう一つ考えた事は、正直な意見を自由に書けるようになると言う事です。

それまでの書籍等のメディアでは、広告等の影響もあり、たとえ自分の意見や感想が真実だったとしても、書籍に載った瞬間、広告主に配慮して、広告主に不利な内容は表現が柔らかくなっていました。

でも、ネットでなら、正直な感想を書く事が出来ます。あるいは、探す事も出来ます。

ネットが普及した現在、ネットは思っても見ない方向に進みました。それは、想像以上のコミュニケーションの手段としてのネットの発展、そして、多くの人による監視が行われるネット社会への変化です。

コミュニケーションという点に関しては、初期の頃からメールや掲示板等が存在したので、それが、形を変え、よりリアルタイムに、身近になっているのだろうと思います。実際、初期の頃は、自分の好きなミュージシャンについて、情報交換をする手段として、私もネットを利用していました。そう考えると、想像外というよりは、想像以上にその手段が変化していったのだと思います。

一方、多くの人による監視は、全くの想像外でした。一つの意見に対し、もし、問題点が見つかれば、多くの人が群がり、所謂、炎上という状態が生じるのです。しかも、炎上するばかりでなく、あたかも探偵かのように様々な情報が探り出されます。

国家によるネット社会の管理は、ある程度想像はしていたものの、現在の様な一般の人による監視は、想像すらしていませんでした。

まあ、一種の村社会のネット版と言えなくもないのですが。

いずれにせよ、使い方次第で、非常に便利になったものだと思いますが、新しいものには、想像もつかない事が同時に生じるものだと感じます。

2016年10月1日 引用の是非

テレビ等で色々な議論をしているところを見ていると、「誰々さんがこう言ったから正しい。」と発言する人(例えば政治家等)が多いように感じます。

その様子を見ていて、なんだか違和感を感じたのは事実です。

なぜなら、このような語り方は、答えがすで自分の中にあって、それを補強する材料を外部に求めているからに過ぎないからです。言い換えるなら、自分以外の権威のある(あるいは、あると思われる)人が言っている事を、自分の意見の根拠に利用しているだけなのです。

私自身も、よく会話の中で、ネットではこんなことを言っている人がいる、ある学者がこんなことを言っているという発言はよくしますが、最近では、ネットでライターを名乗る様な人まで、ネット民はこんなことを言っているという風に、あたかもそれが、正しい意見であるかのように書いている始末です。

でも、本当に大切なのは、誰それの意見を引用する事ではなく、それらの意見を検討し、自分自身で考えた意見を述べる事なのではないでしょうか。

昔、誰とは言いませんが、ある芸能人が、意見を述べる時に、自分なりの意見を述べているのを見た事があります。その人の意見は、必ずしも正しいものばかりではありませんが、自分なりに考えて喋っているというのは、その言葉から感じられました。なぜなら、そのひとは、有名な学者の引用等、いっさいしていなかったからです。

なかなか、難しい事だと思いますが、私も、自分でしっかり考える習慣をつけられればと思っています。さらに、それが間違っていたとしたら、ちゃんとそれを認める勇気も持てればと思います。

2016年9月1日 想定外に備えろ

想定外に備える事は、当たり前の様で、難しかったりします。

最近、東北の地震と原発事故に関する映画を見ました。

何処までが現実で、何処からが創作なのかは分かりませんが、色々と考えさせられる映画でした。

個人的に、原発への賛成、反対については何とも言えませんけど、昔、地震等が起きた時に、いかに原発が安全かと言うビデオを見たとき、その映像のあまりの出来過ぎな手際の良さに、かえって違和感を感じたものです。

まあ、実際に地震が起こってみると、想定外の連続で、それへの対処がいかに難しいのかが浮き彫りになりましたが。

日常生活でもそうですが、出来る限りの準備をするのが大前提とは言え、いかに想定外に対処していくのかが、大切なんだなとあらためて感じたりしました。

それが出来れば、苦労はないのでしょうけど。

2016年8月1日 約20年

最近、約20年ほど前にはまっていたテレビゲームが、リメイクされて販売されている事に気付きました。

その当時の絵をハイビジョンに対応する様にリマスターしていて、その画像の美しさに、ついつい、そのゲームを購入しました。

個人的には、ゲームは時間が掛かるという理由からやらなくなっていたのですが、久しぶりにそのゲームをやってみたいと思っています。

さて、約20年と言えば、ハード・ロック・ギタリストとして有名なリッチー・ブラックモアが、まさに約20年ぶりにロックをやるためにハード・ロック・バンド、レインボーを再始動しました。(ちなみに、現在は、アコースティック・ギターによる、トラディショナルな音楽を中心に演奏しています。)

実際に開催されたのは、3回のみとはいえ、ファンとしては、とても気になるライヴでした。

ただし、現代は、便利がいいもので、それらのライヴ後、すぐにYouTubeに映像がアップされ、そのライヴの模様を確認する事が出来ました。

それらを見た最初の印象は、思っていたものと、あまりにも違っていた事と、いや、そうでもないぞと言う相反するものでした。

いきなり、ディープ・パープルのハイウェイ・スターから始まったライヴですが、その演奏する姿を見ていて、いかにも、アコースティック・ギターを中心に演奏していた人による演奏だと感じました。

これは、約20年前、アコースティック・ギターを中心としたライヴを初めてやった時に、エレキ・ギターをやっている人がアコースティック・ギターを弾いていると感じたのと、ちょうど反対の印象でした。

今回の演奏には賛否があった様で、腕が落ちたと言う人もいれば、これこそブラックモアのプレーだという人もいました。

私の個人的な感想を書くと、ブラックモアの変化に驚きつつ、その変化は、自然なものなんだと感じました。一見、腕が落ちているようにも見えますが、プレーそのものは、アコースティック・ギターをメインにしているときと同じですし、速く弾く事へのこだわりがなくなり(これはインタビューでも述べていました。)、より、一音一音を大切にしているのではと感じました。

約20年と言えば、遠い昔のようにも感じるし、私にとっては、昨日の事のようにも感じられます。今回のライヴ映像を見ていて、リッチー・ブラックモアにとって、この20年は、決して短くはなかったのだと思います。それは、彼のプレーが大きく変化している事から感じられるのです。もし、そんなに変わってないのだったら、きっと、その時間の流れは、違った印象をもたらした事でしょう。

まあ、ロックを中心とした音楽をまた続けて行けば、よりプレーも速くなり、昔の演奏に近づいて行く可能性もありますが、そればかりは、実際にそうなってみないと、想像もつかないものです。

2016年7月1日 なにごとも真剣に

休憩時間にiPadを操作していると、その様子を見ていた人に、「何を遊んでいるのですか?」と聞かれたことがあります。

その時、私は、「えっ・・・」となって、返事に窮してしまいました。なぜなら、私には遊んでいるという認識がなかったからです。

思い起こすと、仕事の関係上、パソコン等を使用する事が多く、空き時間等にパソコンの機能をチェックしたりする事があります。質問された日も、そのつもりでiPadの機能を色々とチェックしていましたが、どうやら、他の人から見ると、遊んでいるようにしか見えなかった様です。

言い訳じみた事を書くと、私には遊びという概念がありません。常に、自分の好奇心を満たしたり、スキルアップをするために行動をしています。それを遊びと捉えられる事は、私的には、違和感を感じます。

百歩譲って、それが遊びだとしても、私にとっては、真剣に取り組んでいる遊びのつもりです。なぜなら、仕事であれ、遊びであれ、真剣にやった事は、必ず自分を進歩させるものだと思っているからです。

以前、書いた事があるように、コンピュータをマスターするためには、子供の心を忘れない事が大切だと思います。子供のような気持ちで、なおかつ真剣に遊ぶ事が、自分のスキルアップへの近道だと考えています。

2016年5月1日 心に残る言葉

本を読んだり、テレビを見ていたりして、心に残る言葉というのが幾つかあります。それらは、自分にとって、身近に感じられるもののこともあれば、まったく自分にとって、思いもしなかったもののこともあります。

今回は、それらの言葉の幾つかを書いてみたいと思います。

まずは、アップル社のCEOだった、スティーブ・ジョブズの言葉です。

彼は、様々な言葉を残していますが、最近公表されたテレビのインタビュー映像を見ていて、実にジョブズらしいなと思ったのは、「私は自分が正しいかにこだわらないタイプでね 成功すれば何でもいい 多くの人が知っているが−−− 私は何かを強く主張していても反対の証拠を見た途端180度意見を変える そんなのは構わない 実際私はよく間違うが最後の決断が正しければいい」というものです。

個人的には、昔から、自分の意見にこだわりを持ち、頑固なまでに意見を変えない人に好感を持っていました。でも、私も色々な経験をしたこともあり、今は、このインタビューの発言にむしろ好感を持ちます。仕事にせよ、日常生活にせよ、相手の意見の方が正しいと感じれば、それを受け入れた方が、実際には上手くいくということが何度もあったからです。

そうは言っても、自分の意見を変えることには、若干の抵抗があることは、今でも否定できません。やはり、自分の方が正しいと思いたいし、自分のこだわりを捨て去るのも難しいと思いますから。

次は、中学生の頃からファンであるリッチー・ブラックモアの言葉です。

リッチーはよく、三大ギタリストの一人とまで言われたエリック・クラプトンのことを評価しないような発言をしています。でもこの発言の真意は、クラプトンと同様に優れたギタリストなのに、注目されていない人が多くいることを示すためだったようです。

その他の発言でも、自分が成功したのは、自分の才能ゆえではないと発言しています。「あの頃(1960年代〜1970年代)は才能のある人間はごまんといた。だが才能はあっても成功まではいかなかった。私は運がよかっただけだ。」

どちらかというと、人を見下すことの多いと言われるリッチーの発言とは思えない、驚きの発言だと思いました。

成功した人の多くは、自分の成功した理由に、いかに自分が努力をしたのか、夢を追い続けたのかをあげることが多いように思います。そんな中、彼のように、自分以外の才能に溢れ、それでいて成功に至らなかった人について語る人は多くないように感じます。

最後は、漫画家で、テレビにもよく出演している、蛭子さんの言葉です。

彼が出演しているテレビを見ていて、決して尊敬できるようなタイプの人ではないと感じることが多いにせよ、彼の、友達などはいらないという発言は、とても興味深く感じます。実際、友達だと思っていた人に裏切られたり、ひどい場合には、殺されてしまったりした例を見ていると、彼の言葉はとても深いものがあるのではと感じまています。

さて、上記の三人の言葉は、時には意外であり、時には納得のいくものだったりします。いずれにせよ、私の心には、大いに響いた言葉です。

2016年4月1日 哲学の誕生

とある本に、哲学が生まれた理由というものが書かれていました。今回は、その本に書かれていた事を元に書いてみたいと思います。

道徳等は、割合とその地域だったり民族に共通の価値観という事になります。宗教等もそうなのでしょう。それに対して、哲学は、様々な民族の価値観を超えて、全人類に共通する価値観なり考え方を提示するものです。

では、なぜその様な考え方が生まれたのかと言うと、ポイントになるのは、国際社会という事になりそうです。

それぞれの民族がそれぞれの土地で暮らしているのなら、その民族内独自の考え方があれば十分です。

けれども、国際社会となり様々な民族が交流するようになると、お互いの価値観や考え方等の違いに嫌でも気付く様になります。さらに、それらの違いにより、摩擦が生じる様になります。

そうした時に、お互いの共通の価値観を見出し、円滑にやり取りできるようにしようとする、もしくは、そこまで行かなくても、単純に、疑問として、共通の考え方というものがないだろうかと考えるようになるのではと思われます。

それが、哲学というものの誕生のきっかけとなっている様です。

まあ、哲学というものは小難しい事をやるものでしかないという認識しかない人が多数とは思いますが、こうやって、その成立の理由を知ると、哲学の意義を考えたり、あるいは逆に、哲学への批判というものが出来るのではと思います。

2016年3月1日 新たな印象への上書き

最近、「1998年の宇多田ヒカル」という本を読みました。

CDが最も売れた1998年にデビューした4人のシンガー(宇多田ヒカルさん、椎名林檎さん、aikoさん、そして、浜崎あゆみさん)について書かれた本です。

作者のインタビューでも触れられていたのですが、興味深かった点は、その熱狂の時代にデビューした4人について、いまだにその当時のイメージでとらえている人たちがいるという指摘でした。

つまり、1999年や2000年頃で彼女たちのイメージが止まっている人たちが多いというのです。けれども、実際には、彼女たちは、形を変えながら、今も最前線で精力的に活動しているというのです。

私自身は、aikoさんのファンで、他の3人については何とも言えないですけど、少なくとも、aikoさんについては、その指摘は当てはまっているなと感じています。

aikoさんは、他の3人に比べれば、大ブレークした訳でもなく、大きな現象になった訳でもありません。でも、売上という点では、他の3人より少し遅れたとは言え、2000年頃にピークを迎えています。

例えば、2000年に発売されたセカンドアルバムの「桜の木の下」や2001年に発売されたサードアルバムの「夏服」は、それ以降のアルバムと比べると、より多く売れています。

そのためか、aikoファンではない人に、「aikoさんの楽曲で好きな曲は何なのか」と聞くと、たいていは、セカンドアルバムあたりの曲を言う人が多い様に感じます。

確かにこの時期の楽曲は、その当時にしかない雰囲気があり、私も好きなのですが、個人的には、aikoサウンドが確立し花開いたのは、2003年の「暁のラブレター」以降だと考えています。

はやい話、サードアルバムあたりで止まっている人たちは、本当の意味でのaikoさんの魅力に気付く事なく、今に至っているという事になるのです。

さらに言えば、ここ数年のaikoさんの大きな変化は(曲調の変化、アレンジの変化等)、全くスルーされているように思うのです。

実際、現在、まさに進行形の大きな変化の中にあっても、マンネリだと指摘する人もいるくらいですから。

ともかく、かたくなに変化を拒んでいるかのように見えるaikoさんですら、変化してきているし、さらに今、大きく変化をしようとしている事に気付かない事は、実にもったいない事だと感じます。

2016年2月1日 変わらなくても

大きな変化と言って思い浮かぶのは、江戸から明治への変化と言う事になると思います。

それまでの、日本の独自路線を捨てて、世界標準へと変化した時代です。

そのことは、大いなる進歩として、今でもドラマなどで劇的に演じられたりするのですが、個人的にはどうなのだろうと思う部分もあります。それは、その後の日本の歴史や世界の歴史を見て思うのです。

例えば、明治以降の日本の歴史は、戦争の歴史であり、太平洋戦争後の今でも、日本は、直接的には戦争と離れた立場を取っていますが、実際には、世界中で戦争や紛争が起こっている訳で、それとは無関係でいる事は出来ません。

明治への転換は、実に印象的な出来事であるとは言え、戦争という一点のみで考えれば、とても褒められたものだとは思えません。だからといって、そのまま江戸時代が続けばよかったのかと言えば、それもどうなのだろうとも感じます。ただ、その閉ざされた空間で、平和が保たれていたというのはある訳で、江戸時代と明治以降のどちらがよいのかを天秤にかけた時、戦争がない方が良いに決まっていると考えたりもします。

ただ、個人的には、進歩を信奉していますし、技術面、人間関係においても、江戸時代より現在の方が良いに決まっています。

そう考えたとき、戦争から距離を置くためには、世界標準にこだわらず、江戸時代がそうであったように日本独自の路線を模索するのもありなのかなと夢想したりもします。まあ、歴史も何も知らない無知な人間の夢想にしか過ぎないのですが、他の国から独立し、世界標準には振り回されない独自な路線を歩める国づくり、その様なものがあっても面白いのではと感じます。

まあ、あまりに現実離れした話ではあるのですが。

2016年1月1日 あけましておめでとうございます

明けましておめでとうございます。

本年もよろしくお願い致します。

今年も、昨年同様、紅白を見つつ、このホームページに書く文章を考えながら年を越しました。昨年の音楽界は、余りトピックスのない年でしたが、紅白の方は、それなりに工夫している点に感心しています。

紅白は、様々な批判があるとは言え、最もベースとなる部分は変えずに、その他の部分では、色々と工夫しているのではと思います。「この歌手がなぜ出るんだ〜?」という意見は絶えないし、私もそう思いますけど、まあ、それは、私が子供の頃からの事ですので。

さて、昨年の一年は、変化について考える一年でした。

徐々に訪れていた体への変化が、一気に大きな変化として感じられるようになったからかもしれません。

その一方で、物事への考え方は、なかなか変わらないものだと思っています。ただし、変わらないながらも、注意すべきポイントというものは見えてきたように思います。それは、他の人の意見に耳を傾けるという事です。

正直な所、聞いてすぐ反感を覚える意見というものがあるですが、それに対して、どうなんだろうと一歩下がって意見を聞き直してみるという事は大切だなと感じています。そして、それを客観的に見るという事が、さらに大切な事だと感じています。

世の中、保守だ革新だと言う事で対立していたりするもので、それは、その人が持つ資質や体験によって決まっている様ですが、そう言った立場を横において、まずは、自分でよく考える必要があるように思うのです。

私自身は、単に、どっち付かずの人間です。よく、ああいえばこう言うと言われるような人間ですから。それはさておき、いずれの立場にせよ、一歩下がって意見を聞く事は、私にとって難しいにせよ、大切な事なんだなと思います。

この一年は、その点を注意しつつ過ごして行きたいと思います。