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戸次(へつぎ)川の合戦
天正14(1586)年12月11日、大友義統(よしむね、宗麟の息子)は、島津軍2万に包囲され籠城を続ける鶴賀城(大分市上戸次)を救援するため、対岸の竹中(大分市竹中)に着陣する。大友軍には、豊臣秀吉の命で援軍に来た仙石秀久、長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか)、信親(のぶちか)親子、十河存保(そごう・まさやす)の四国勢が加わっていた。
翌12日、大友、四国連合軍6千は大野川を渡り、戸次の河原(大分市中戸次中津留)で島津軍と激突した。戦いは4時間に及んだ末、島津軍が勝利し、大友、四国連合軍は府内や鶴崎へ敗走する。この戦いで両軍合わせて3千名の死者を出し、長宗我部信親、十河存保、戸次統常(べっき・むねつね)らの武将が壮烈な死を遂げる。
この戦いは、島津軍が豊後に攻め入った中で、最も大きな戦となり、『戸次川の合戦』として後世に語り継がれている。私は国道10号線沿いの古戦場跡を車で通過するたび、遠い四国の地から豊後を救うために送り込まれ、戦死した兵(つわもの)達を偲ばずにはいられない。
※詳しくは、
戦記_戸次川の合戦
と
大野川合戦まつり
、
竹中(たけなか)を歩く
をご覧ください。
(2010年3月20日作成)
(2013年11月24日改訂)
仙石橋
(現在の浜橋)
大分市千代町4丁目
関白秀吉は島津軍の侵略から豊後を守るため、仙石、長宗我部らの四国勢を援軍に送った。これを喜んだ大友義統は、府内の道路を整備して出迎えたという。住吉神社の前を流れる川には、仙石秀久を迎えるための橋が架けられ、仙石橋と呼ばれた。橋は現存してないが、地元で語り継がれている。
(2013年11月撮影)
浄土寺
(じょうどじ)
大分市王子西町
浄土寺は、文亀元(1501)年、大友氏第18代の親治(ちかはる)によって創建されたという。府内に滞在していた仙石秀久は、この寺を宿舎にしていた。境内には徳川家康の孫で、謀反の罪で配流されていた松平忠直(一伯)の廟がある。平成25年11月には、喜永2年(1849)以来の大改修が行われた。
(2013年11月撮影)
鏡
(かがみ)
城跡
大分市大字竹中字中竹中
鶴賀城の救援に向かった大友、四国連合軍の諸将は、鶴賀城を遠くに望める竹中の鏡城に集まり、軍議を開く。この地で、大野川の渡河をめぐり、強行派の仙石秀久と慎重派の長宗我部元親が激しく口論した。結局、仙石の強行によって、渡河が決定された。
(2010年2月撮影)
日渡り橋
大分市大字竹中字中冬田
鶴賀城を救援に来た大友、四国連合軍が、河を渡ったとされる場所に「日渡橋」がある。当時、夜間に大河を渡るのは大変危険なことであった。そこで、連合軍が日暮れ前に川を渡り終えようとしたところから、この辺りを「日渡り(日が暮れる前に渡る)」と呼ぶようになったという。
(2010年3月撮影)
戸次川古戦場跡
大分市大字中戸次字中津留
天正14(1586)年12月、大友、四国連合軍6千と島津軍1万8千が、戸次を流れる大野川の河原(中津留)で激突する。僅か4時間余りの戦いで、両軍合わせて3千名の死者を出すほどの激戦が繰り広げられた。この戦いは、「戸次川の合戦」と呼ばれ、島津軍が豊後に攻め入った中で、最大の合戦となった。
(2010年3月撮影)
十河一族の慰霊碑
大分市大字上戸次字峰
峰にある山崎の台地には、四国の讃岐(現香川県)から大友氏救援のため豊後に駆けつけ、戸次川の合戦で討ち死にした十河在保とその一族の慰霊碑がある。十河在保は、阿波と讃岐二国の国主として君臨した名門、三好一族きっての勇将と云われた。
(2010年3月撮影)
長宗我部信親の墓
大分市大字上戸次字峰
峰にある山崎の台地には、四国の土佐(現高知県)から大友氏救援のため豊後に駆けつけ、戸次川の合戦で討ち死にした長宗我部信親の墓がある。信親は、一代で四国を制覇した長宗我部元親の嫡男で、土佐の国中の人から慕われた武将だったと伝わっている。
(2010年3月撮影)
常忠寺
(じょうちゅうじ)
豊後大野市大野町藤北
常忠寺は大友氏の菩提寺であったが、後に戸次氏の菩提寺となる。この寺には、戸次川の合戦で戦死した、戸次統常の墓がある。統常の母は、夫の鎮連が島津氏に内応したのを恥じ、幼い子供達とともに自害して、後顧の憂いを絶ち、統常に主家大友氏のために出陣するよう迫ったと云われる。
(2013年11月撮影)
白滝橋
(しらたきばし)
大分市中戸次と下判田の間
長宗我部信親の愛馬は、走っているときの毛の揺れが、滝のように見えることから白滝(しらたき)と呼ばれていた。主人の死を知らず、戸次川のほとりで待ち続ける白滝の姿に人々は胸をうたれたという。この話は地元に伝承され、後世、この川に橋が架かると『白滝橋』と名付けられた。
(2013年11月撮影)
竜王山
(りゅうおうざん)
宇佐市安心院町龍王
14世紀初頭、竜王山(標高315m)に山城が築かれ、神楽岳城と呼ばれた。その後、龍王(りゅうおう)城として大内氏に属していたが、大友宗麟に攻められて大友氏に属するようになる。天正14年、戸次川の合戦で島津軍に破れた大友義統が逃げ込んだ城として知られている。
(2013年12月撮影)