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大友氏歴史年表
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石垣原の合戦
高崎山城攻防戦

 高崎山(大分市)は野生猿の自然動物園として有名であるが、今から約650年前の南北朝時代、この山で激しい戦いが繰り広げられたことは、あまり知られていない。
 南北朝時代の九州は、懐良親王(かねよししんのう、後醍醐天皇の第16皇子)を擁立する菊池氏らの南朝方が優位を占めていた。そんな中で、豊後の大友氏は北朝方として孤軍奮闘し、高崎山は九州における北朝方の拠点になっていた。
 大友氏8代の氏時(うじとき)は、別府湾を見渡す高崎山の頂上に城を築き、南朝方の大軍を幾度も退けている。応安4/建徳2(1371)年には、大友氏10代の親世(ちかよ)が立て籠もり、数ヶ月に渡る南朝軍の攻撃を防ぐ。親世は高崎山を降りて反攻に転じると、九州探題の今川了俊(りょうしゅん、貞世)とともに九州から南朝勢力を一掃していく。
 その後、永正13(1516)年に朽網親満(くたみ・ちかみつ)が大友氏に叛いて籠城、天正14(1586)年の島津軍の侵入では大友義統が立て籠もったりしたが、大友氏の豊後追放とともに廃城となる。

 ※詳しくは、戦記_高崎山城攻防戦高崎山のお城に登ろうをご覧ください。

(2012年12月28日作成)


高崎山
大分市神崎

高崎山は大分市と別府市の境界にあり、別府湾にせり出すようにそびえ、野生猿の自然動物園として有名である。標高628mの山頂は、四方を見極めることが出来ることから、別名「四極山(しはすやま)」とも呼ばれる。高崎山に築かれた城は、約60年に渡る南北朝時代の動乱期に、九州北朝方の拠点になっていた。
(2012年12月撮影)


大友氏時の墓(吉祥寺跡)
別府市乙原3648

別府ラクテンチの傍に「史跡・吉祥寺跡及び開山塔」の説明板がある。その奥に吉祥寺の開山塔と大友氏時の供養塔がある(写真左が開山塔、右が氏時の供養塔)。大友氏8代の氏時は、北朝に味方して、肥後の菊池武光率いる南朝軍と激しく戦い、幾度も高崎山城で菊池軍を迎え撃った。
(2012年12月撮影)


柞原(ゆすはら)八幡宮
大分市大字八幡987

豊後大友氏は、鶴岡八幡宮を篤く崇敬した源頼朝にならって柞原八幡宮を信奉し、氏神とする。
南北朝時代、南朝方に味方した大友9代の氏継(うじつぐ)は、弟の親世(10代)に敗れ、豊後を去る前に柞原宮を参拝し、家名の安全を祈願している。
(2012年12月撮影)


大友親世の墓(瑞光寺跡?)
大分市六坊北町6

大友氏8代の氏時は、嫡男の氏継に9代の家督を譲り、引退する。しかし、氏継が南朝方に奔ったため、次男の親世が10代の家督を継ぐ。親世は九州探題の今川了俊に協力して九州から南朝勢力を一掃することに貢献する。また、南北朝の騒乱で荒れた寺社の修復や町の復旧に尽力し、大友氏中興の祖といわれている。
(2012年12月撮影)


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