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神角寺(じんかくじ)の戦い

 大友氏が守護職として豊後に入国したのは、鎌倉時代初期の建久7(1196)年のことである。大友氏が入国する前は、大蛇の末裔と恐れられた大神(おおが)氏が豊後を支配していた。
 源平合戦で、大神一族の緒方三郎惟栄(これよし)が率いる豊後武士団は、九州に逃れた平氏を追い出し、壇ノ浦の戦いで破るなどの活躍をする。平氏が滅ぶと、源頼朝と義経の間で争いが生じ、敗れた義経は逃亡の身となった。惟栄は義経を九州に逃そうとしたが、捕らえられて配流となる。
 頼朝は豊後武士団が義経に味方しているとの口実で、豊後を直轄支配した後、大友氏初代の能直(よしなお)を守護職に任命する。大友氏が豊後に入国すると、大神一族の阿南惟家(これいえ)が高崎山、弟の家親(いえちか)が鶴賀城(大分市上戸次)、大野泰基(やすもと)は神角寺(豊後大野市朝地町)に籠って激しく抵抗した。
 惟家、家親兄弟は討ち死にし、泰基は自害して果てたという。生き延びた大神一族は、大友家臣団に組み込まれ、大友氏を支えていくことになる。

 ※詳しくは、戦記_神角寺の戦い大神氏のルーツと石仏をご覧ください。

(2012年5月20日作成)


緒方惟栄の館跡
豊後大野市緒方町大字上自在

緒方平野の中央に緒方三郎惟栄の館跡がある。惟栄は豊後が生んだ源平合戦の英雄である。源氏に味方して平氏を滅ぼした後、宇佐神宮の焼き討ちと源義経に味方した罪で、上総国沼田(群馬県沼田市)に流される。その後、赦され佐伯に帰ったとされるが、帰る途中、速見郡の山香で落馬して死んだともいわれる。

(2012年4月撮影)


原尻(はらじり)の滝
豊後大野市緒方町大字原尻

緒方平野を流れる緒方川(大野川)には「東洋のナイアガラ」と呼ばれ、「日本の滝百選」に選ばれた原尻の滝がある。滝は緒方惟栄館跡から近く、戦に疲れた惟栄の心を癒していたに違いない。毎年、4月に開催される「チューリップフェスタ」では、周囲の田園がチューリップで満開になる。
(2012年4月撮影)


宇佐神宮
宇佐市大字南宇佐2859

宇佐神宮は全国八幡宮の総本宮として知られる。平安時代には、九州最大の荘園領主であり、武装集団でもあった。源平合戦時、平氏に味方した宇佐神宮は、大宰府を追われた平家一門を守りきれず、緒方惟栄に焼き討ちされる。戦国時代には大友宗麟によって再び焼き討ちされるが、江戸時代に再興され、現在に至っている。

(2012年5月撮影)


小松塚
宇佐市貴船町1丁目

平清経(きよつね)は清盛の孫で、笛の名手として知られる。緒方惟栄に大宰府を追われ、この地にて入水自殺した(享年21歳)。入水したと伝わる駅館(やっかん)川の河口には、小松塚と呼ばれる五輪塔と慰霊碑がある。「小松」の名は清経の父・重盛が小松殿と呼ばれたことに由来する。すぐ近くには小松橋もある。
(2012年5月撮影)


如意山 神角(じんかく)
豊後大野市朝地町大字島田

神角寺は、石楠花(しゃくなげ)寺とも呼ばれ、5月の開花期には多くの見物客が訪れる。鎌倉初期、大野泰基がこの寺に籠り、大友氏の入国に抵抗したという。この戦いで「西の高野山」と称された寺は焼き討ちされ、多くの僧坊が失われた。その後、寺の一部が大友氏により再建されている。
(2012年4月撮影)


二の宮八幡宮
豊後大野市緒方町大字原尻

一の宮、二の宮、三の宮八幡社は、総じて緒方三社と呼ばれる。これらは、緒方惟栄によって創建されたと伝えられる。惟栄率いる大神一族は、平氏を滅ぼした功労者であった。しかし、鎌倉幕府成立後の大友氏入国に抵抗し、一族の多くが討ち死にする。二の宮には、緒方惟栄と大野泰基の霊が祀られている。
(2012年5月撮影)


南陽山 勝光(しょうこう)
豊後大野市大野町藤北

勝光寺は、大友氏2代親秀が父能直(よしなお)を弔うため建てた寺といわれる。初代の能直は豊後守護職に任命されいるが、豊後に下向したという記録は残されていない。庭にある大きな法筐印(ほうきょういん)塔は、能直の供養塔といわれる。寺には、平安時代の寝殿造りの邸宅を偲ばせる風流な庭園が残っている。
(2012年5月撮影)


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