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岡城攻防戦

 天正14(1586)年の秋、島津軍が阿蘇方面から肥後街道沿いに豊後へ侵入した。かつて九州6ヶ国に勢力を誇っていた大友軍は、圧倒的な島津軍の兵力を前にして、ほとんどが戦うことも無く寝返り、瓦解寸前であった。そんな時、島津の大軍に勇敢に立ち向かい、孤軍奮闘した青年武将がいた。
 それは、竹田の岡城主、志賀親次(ちかつぐ、20歳)である。18歳の若さで大友一族の筆頭、志賀氏の家督を継いだ親次は、ドン・パウロという洗礼名を持つキリシタンであった。
 親次は降参を勧められたが、大友氏への忠義を貫く道を選択し、1千の兵で岡城に立て籠もり、攻め寄せる3万の島津軍を撃破する。その後も、各地でゲリラ戦を展開し、島津軍の背後をおびやかし続ける。 この戦いで、親次とともに難攻不落の城として天下に知れ渡ったのが岡城である。
 親次の戦いぶりは、天下の勇将として知られる島津義弘から「楠木正成の再来」と評されるほどであった。また、豊臣秀吉も吉統の嫡子(義乗)に従って大坂城を訪れた親次に対し、筆頭重臣の田原紹忍より上座に座らせて功績を褒め称えたといわれる。

 ※詳しくは、戦記_岡城攻防戦竹田・直入を歩くをご覧ください。

(2010年11月14日作成)


津賀牟礼(つがむれ)城跡
竹田市大字入田字矢原

津賀牟礼城は大友氏の重臣、入田氏の居城であった。天文19(1550)年の「二階崩れの変」で、大友義鎮(宗麟)は、首謀者の入田親誠(ちかざね)を津賀牟礼城に攻める。親誠は防戦するが、守りきれず、肥後に逃れたところで殺害される。天正14(1586年)年の豊薩戦争では、城主の戸次玄珊が戦わずして開城したという。現在は、麓に河川プールと入田湧水群があって、にぎわっている。

(2010年10月撮影)


片ヶ瀬(かたがせ)城跡
竹田市大字片ヶ瀬

岡城と白滝川(大野川)を挟んだ南の対岸にある高台が片ヶ瀬である。この一角に片ヶ瀬城があったといわれる。この城は、大友一門の片ヶ瀬戸次氏(鎧ケ嶽の戸次氏と区別するため、こう呼ばれる)の居城であったため、戸次城とも呼ばれる。天正14(1586)年の豊薩戦争では、岡城を攻める島津軍の本陣が置かれた場所でもある。現在は、城の面影はなく、標石と説明板があるだけだった。

(2010年10月撮影)


滑瀬(ぬめりせ)橋跡
竹田市大字竹田下原

岡城の南側(旧大手門)を流れる白滝川(大野川)は、川底の大部分が阿蘇溶岩の一枚岩で覆われ、水苔で滑りやすくなっているので、「滑り瀬」と呼ばれる。この辺りには、城の大手門へ通じるための「滑瀬橋」が架かっていた。天正14(1586年)年の豊薩戦争では、この橋をめぐって、激しい戦いが繰り広げられた。現在も、川底の岩には、当時の橋げたの穴の跡が残っている。

(2010年10月撮影)


岡城(臥牛城)
竹田市大字竹田字岡

岡城は、牛が寝ている姿に似ていることから臥牛(がぎゅう)城とも呼ばれる。その生い立ちは、文治元(1185)年に緒方三郎惟栄(これよし)が、源頼朝に追われた源義経を迎えるために築城したことが始まりといわれる。天正14(1586年)年の豊薩戦争中、志賀親次が立て籠り、島津の大軍を破ったことで知られる。その後、この城に入った中川氏によって、城郭が整備され、現在のような姿になった。
(2010年10月撮影)


山野城(朽網城)
竹田市久住町大字仏原字市

直入町から久住町に抜ける農道の途中に、黒岳、大船の登山口に繋がる林道がある。その道を直進して行くと山野城跡がある。この城は、大友譜代の朽網(くたみ)氏が居城としていたこともあり、朽網城とも呼ばれる。天正14(1586年)年の豊薩戦争では、朽網宗暦(鑑康)と息子の鎮則が城に籠って戦っていたが、陣中で宗暦が病死したこともあって、息子の鎮則は、島津軍と和睦して開城した。

(2010年10月撮影)


鬼ヶ城(おにがじょう)
竹田市大字竹田字鬼ヶ城

鬼ヶ城は、岡城から続く丘陵の西端にあり、岡城の支城であった。天正14(1586年)年の豊薩戦争では、岡城主、志賀親次が島津軍に最後の決戦を挑んだ場所と云われる。この戦いで敗れた島津軍は、ついに、岡城攻撃を断念せざるをえなかった。後世、この場所は、東の鴻巣台にかけて「西南戦争」の激戦地となる。時代を隔てて、薩摩は、同じ場所で2度敗れたことになる。

(2010年10月撮影)


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