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大友氏歴史年表
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勢場ケ原(せいばがはら)の合戦

 天文3(1534) 年の春、周防(山口県)の大内義隆は、陶興房(すえ・おきふさ)を大将として兵3千を豊後に向ける。これに対し、大友氏20代当主の義鑑(よしあき、宗麟の父)は、弱冠19歳の吉弘氏直(うじなお)を大将とする兵2千8百で迎え撃つことにする。
 大友軍は大村山(おおむれさん)に本陣を置き、豊前街道(現国道10号)の立石峠、地蔵峠に兵を潜ませ迎撃体制をとる。しかし、大内軍は佐田越えの難所を通り、大友本陣の背後にあたる勢場ケ原(杵築市山香町)に迫る。裏をかかれた氏直は血気にはやり、大村山を駆け下りて大内軍に襲い掛かったが、副将の寒田親将(ちかまさ)とともに討ち死にしてしまう。
 初戦に勝ち油断していた大内軍は、後から駆けつけた立石峠、地蔵峠の大友軍の猛攻撃を受け、副将の杉重信が討ち取られ、大将の陶興房も負傷する。興房は必死に体制を立て直そうとするが、弔い合戦とばかりに猛攻撃をかける大友軍になすすべもなく、周防に退却する。
 結果的には、大内軍を追い払った大友軍の勝利だが、軍事的には、両者の被害を考えると「引き分け」といえよう。


 ※詳しくは、戦記_勢場ケ原の合戦山香(やまが)を歩くをご覧ください。

(2011年11月27日作成)


妙見岳城跡(標高442m)
宇佐市院内町香下字妙見

妙見岳(みょうけんだけ)城は、天慶3( 940)年に藤原純友(すみとも)が築いたといわれる山城で、極楽寺城とも呼ばれる。豊前が大内氏の支配下に入ると、大内氏の重臣、杉氏が城代となって、大友軍の侵攻を食い止めたことで知られる。大内氏の後、大友氏の城となるが、大友氏滅亡後の慶長6(1601)年に廃城となる。
(2011年11月撮影)


立石(たていし)峠
杵築市山香町大字立石

現在、宇佐から日出(ひじ)に行く場合、国道10号を通るのが一般的であるが、かつては、立石峠と地蔵峠から鹿鳴越(かなごえ)を通っていた。旧立石峠は、現在の立石峠(国道10号)が拓かれてから廃道になる。勢場ケ原合戦では、田北鑑生(あきなり)、木付親実(ちかざね)が率いる大友軍1千が布陣した。
(2011年8月撮影)


地蔵(じぞう)峠入口
杵築市山香町大字向野

地蔵峠の名は、峠に地蔵菩薩が祀られていることに由来する。現在の赤松峠(国道10号)が拓かれると、この峠は利用されなくなった。現在は、ザビエル街道(ザビエルが山口から府内に向った道)として、遊歩コースになっている。勢場ケ原合戦では、大友軍8百が布陣したといわれる。
(2011年8月撮影)


大村山(標高419m)
杵築市山香町大字内河野

大村山は、大牟礼山(おおむれさん)とも呼ばれ、このあたりで最も大きい山で、山頂から周囲の街道を一望できる。勢場ケ原合戦では、大友軍がこの山を本陣としている。山頂には、この戦いで討ち死にした吉弘氏直(うじなお)と寒田親将(そうだ・ちかまさ)の供養碑がある。
(2011年9月撮影)


石河野板碑群
杵築市山香町大字山浦石河野

大村山の麓にある石河野(いしかわの)には、板碑(いたび)群が存在する。自然に放置されていたので、探すのに苦労したが、なんとか6基の板碑を見つけた。板碑についての詳細は不明であるが、勢場ケ原合戦の激戦地ということもあり、戦で亡くなった兵士を弔うためともいわれている。
(2011年9月撮影)


勢場ケ原一帯
杵築市山香町大字山浦勢場

現在の勢場ケ原は、なだらかな起伏が続く丘陵地で、農業地帯が広がっている。天文3(1534)年4月、この場所で、周防の大内軍3千と大友軍2千8百が激しい戦いを繰り広げている。この場所から北東を望むと、大友軍が本陣を敷いた大村山が見える。
(2011年8月撮影)

杉長門守供養碑
杵築市山香町大字山浦

善神王社の向かい側に、勢場ケ原合戦で戦死した大内軍の武将、杉長門守の供養碑がある。石材は長門守の故郷である山口県から運ばれてきたといわれる。地元では、石に穴が開いている様子が、はなぐり(牛の鼻に穴を開ける)に似ていることから「はなぐり石」と呼ばれている。
(2011年9月撮影)


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