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1.大内との争いが勃発

享禄元(1528)年、周防(現在の山口県)の大内義興(よしおき)が病死し、嫡男の義隆(よしたか)が21歳の若さで大内氏16代の家督を継ぐ。

大内氏は周防、長門に加え、石見、安芸、豊前、筑前の守護職を手に入れ、西国一の大名を誇っていた。

義隆が父の喪に服している間を狙って、肥前に潜んでいた少弐資元(しょうに・すけもと)が、大内氏から奪われた旧領を回復するため、筑前の大宰府(だざいふ)占領を企てる。

資元は大友氏の後ろ盾を得て、大内義興に父と兄を討たれ滅亡した少弐氏を再興し、少弐氏16代当主になっていた。

豊後の大友義鑑(よしあき、宗麟の父)も、少弐氏と同盟関係にあったので、少弐氏に協力する形をとり、豊前、筑前への出陣を着々と進める。

これにより、しばらく続いていた大友、大内両氏の講和が破綻(はたん)し、豊前と豊後の国境をめぐって両者の間で、再び争いが生じることになる。

豊後の国は、今の大分県から中津市と宇佐市を除いた領域となるので、山香町(やまがまち)と安心院町(あじむまち)が国境地帯となる。

天文元 (1532) 年、豊前侵略を企てる大友義鑑は、大内氏配下で宇佐郡代の佐田朝景(ともかげ)を味方に誘ったが、断られたので、朝景の居城である菩提寺城(宇佐市安心院町大字佐田)を攻撃した。

菩提寺城は落城したが、佐田朝景は堅固な妙見岳城(宇佐市院内町香下、標高442m)に逃れ、大友軍に抵抗し続けた。

佐田氏は鎌倉の御家人、宇都宮氏の流れを汲み、豊前国宇佐郡佐田荘(宇佐市安心院町大字佐田)を本拠地とする国人であり、大内氏が豊前を支配するようになると、宇佐郡代を勤めていた。

先に進む前に、大内氏、少弐氏、大友氏の出自(しゅつじ)について簡単に説明したい。

大内氏は百済(くだら)聖明王の第3王子である琳聖太子の末裔と称し、「多々良(たたら)」姓を名乗り、後に「大内」を名字にしたという。

しかし、周防の地方官僚から勢力を拡大し、周防、長門の守護職を得るまでになったこと以外は定かでない。

「多々良」と名乗ることから、高度の製鉄技術を持った朝鮮半島からの渡来人とも考えられる。

少弐氏は鎌倉以来の名門で、大宰府(だざいふ、九州を治める政庁)の次官といわれる大宰少弐(だざいしょうに)の職を世襲してきた武藤氏が「少弐」と名乗ったのが始まりとされ、豊前、筑前、肥前の守護職も兼ねていた。

大友氏は初代能直(よしなお)が、源頼朝の庶子(妾の子)で、所領の相模国大友荘(神奈川県小田原市)の名をとって大友を名乗るようになったと伝わる。

最近では、能直は古庄能成(ふるしょう・よしなり)の子で、鎌倉の有力御家人である中原親能(ちかよし)の養子となり頼朝の寵愛を受けたことで、頼朝から豊後の守護職を与えられた説が有力となっている。



2.北部九州をめぐる争い

北部九州における大友氏と大内氏の争いは、約150年間続いたが、北部九州と大友氏の関係について、少し述べてみよう。

平氏が亡び、源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、九州は「九州三人衆」と呼ばれる小弐氏、大友氏、島津氏によって治められ、小弐氏が三前ニ島(筑前、豊前、肥前、壱岐、対馬)、大友氏が三後(豊後、筑後、肥後)、島津氏が三奥(薩摩、大隈、日向)を管理するのが通例となっていた。

蒙古襲来で有名な「元寇(げんこう)」では、小弐氏、大友氏を中心とする九州武士団が必死に戦い、蒙古の大軍を撃退している。

しかし、命がけで戦った九州武士団への恩賞は無く、北条氏による権限の縮小を強いられてきた九州三人衆は、元弘3(1332)年の後醍醐(ごだいご)天皇の挙兵に呼応し、鎮西探題を攻めて鎌倉幕府滅亡に貢献する。

建武(1335)2年、後醍醐天皇の建武政権に叛いて九州に逃れた足利尊氏を助けたのが少弐氏と大友氏で、勢力を回復した尊氏は後醍醐天皇の勢力を一掃して京都に室町幕府を開くことになる。

南北朝時代になると、豊後の大友氏が北朝(幕府)方として奮闘するものの、九州一帯は肥後の菊池氏を代表とする南朝(後醍醐天皇)方の勢力が優位を占めていた。

北朝(幕府)方は、九州での挽回を図るため、今川了俊(貞世)を九州探題に送り込み、了俊は周防の大内義弘から大兵力の援助を受け、南朝方の拠点である大宰府を奪い返す。

こうして、大内氏は九州進出の足掛りを得ると、筑前、豊前をめぐって、少弐氏と対立することになる。

少弐氏は大友氏に援助を求め、九州で勢力を広げる大内氏に対抗し、各地で戦いを繰り返したが、豊前、筑前を大内氏に奪われ、肥前に逃れていく。

長い間、北部九州は大友氏と少弐氏によって統治されてきたが、大内氏が進出してきたことで大友氏と大内氏の間で争いが始まることになる。



3.豊前より大内軍の侵入

天文3 (1534) 年の春、大内義隆(よしたか)は大友勢に蹂躙(じゅうりん)される豊前国境を制圧するため、陶興房(すえ・おきふさ)を総大将とする兵3千を豊後に向ける。

興房は、先代の義興(よしおき)から仕える重臣で、大内家で随一の智勇を誇り、百戦錬磨の武将と知られる。

義隆は大友軍を撹乱するため、筑後方面から大友義鑑の実弟である菊池義武を使って日田郡、玖珠郡に攻め入り、海からは水軍を使って、国東半島の沿岸を荒らしまわった。

義武は大友義鑑の実弟で、肥後の名門である菊池氏最後の当主(26代)となった人物である。

肥後に勢力を拡大する義鑑は、肥後に大きな影響力を持つ菊池氏の跡目争いに付け込んで、弟の義武に菊池氏の家督を継がせた。

しかし、菊池氏を継いだ義武は、大内義隆や相良氏と同盟を結んで兄の義鑑に反抗するようになる。

大内軍が豊前方面から豊後に向っている知らせを聞いた義鑑は、

「大内軍を豊後に入れてなるものか」

と、声を荒らげながら重臣を集めた。

「豊前国境に大内軍が迫っておる。これより大軍を率いて出陣し、義隆の首を討ち取ってくれようぞ!!」

と、義鑑は出陣の命を下そうとした。

すると、重臣達は、

「大友の本隊は、筑後から攻め入った菊池と大内軍の撃退に向っており、残る兵も国東半島の防衛で手一杯です」

と、大軍の派兵が無理なことを説明した。

「では、地元(速水、国東、杵築)の衆で、なんとか食い止めてもらうか・・・」

と、義鑑が言うと

「では、総大将は誰に・・・?」

と、重臣達に聞かれた。

義鑑は、しばらく考え、

「若いが猛将で知られる吉弘氏直(よしひろ・うじなお)がうってつけじゃ。副将は、経験豊富な寒田親将(そうだ・ちかまさ)がよかろう」

と、国東の屋山(ややま)城主、吉弘氏直を総大将に命じた。

当時、氏直は19歳であったと云われている。

後年、大友宗麟(義鎮)を支えたことで有名な「豊州三老」の一人、吉弘鑑理(あきまさ)は、氏直の嫡男にあたる。

また、孫の鎮信は耳川の戦い(島津との戦い)で討ち死、高橋紹運は岩屋城の戦い(島津との戦い)で玉砕、曾孫の統幸は石垣原の戦い(黒田如水との戦い)で討ち死にしている。

立花道雪(戸次鑑連)の養子になった立花宗茂は紹運の実子なので、氏直の曾孫にあたる。

吉弘氏は、大友一門の中でも最も「死をも恐れぬ凄まじい忠誠心」の一族と言われている。

大内軍の迎撃に向った氏直は、国東、速見、杵築の兵2千8百を国境の大村山(大牟礼山、おむれさん、杵築市山香町大字内河野、標高419m)に集め、大内軍の出方を探ることにした。

牟礼(むれ)とは、朝鮮半島の古語で「山」を意味するので、大牟礼山は、このあたりで最も大きい山ということになり、山頂から周囲の街道を一望出来る。



4.大友の迎撃作戦

天文3(1534)年4月3日、豊後侵攻をめざす大内軍は、宇佐郡糸口原(現在の宇佐市大字下時枝付近)に到着する。

総大将の陶興房(すえ・おきふさ)は、糸口原に陣を張り、大友軍の動きを探った。

「大友軍は2千8百の兵で、山香郷の大村山に陣を構え、我らの様子を伺っております」

興房は、国境地帯に放った間者(現代のスパイ)から報告を受ける。

「兵力では五分と五分、地の利を考えれば、我らが不利か・・・」

と、つぶやくと、宇佐郡代の佐田朝景(ともかげ)を呼んだ。

朝景は佐田荘の国人で、周辺の地理に詳しく、大友との戦いを良く知る人物であった。

「大村山の大友軍を分散させたいが、方法はあるか?」

興房の問いに、朝景は、しばらく考えて答える。

「豊前街道(現在の国道10号線)を南下して豊後に攻め入ると噂を流せば、街道の立石峠、地蔵峠に待ち伏せの兵を配置するものと思われます」

「そうか、これで、大友軍は3隊に分散するか・・・。ところで、大村山に向う迂回路はあるのか?」

更に興房が尋ねると、朝景は自信を持って答えた。

「難所ですが、我が領地の佐田を通れば、敵の背後を突けます」

「よっし!これで決まった。間者を使って、我が軍が豊前街道から攻め入るとの噂を流せ!!」

こうして、大内軍は、迎撃体制をとる大友軍の裏をかく戦術に決定する。


「大内軍は、豊前街道沿いに兵を進める準備をしております」

大村山に陣を敷く吉弘氏直のもとに、大内軍の動きを探らせていた間者から報告が入る。

氏直は緒将を集め、大内軍を迎え撃つための布陣を指示する。

大友軍の布陣は、次のとおりである。

 ・第1陣(立石峠)― 田北鑑生、木付親実に兵1千人

 ・第2陣(地蔵峠)― 志手泰久、野原昌久に兵八百人

 ・本陣(大村山)― 吉弘氏直、寒田親将に兵1千人

 ・後詰(鹿鳴越)― 大神鎮氏、林鎮治に兵3百5拾人

現在、宇佐市から日出町(ひじまち)に行く場合、赤松峠を越えて国道10号を通るのが一般的であるが、この道が整備されたのは昭和になってからである。

かつては、立石峠と地蔵峠から鹿鳴越(かなごえ)を通る道が、よく使われていた。

旧立石峠は、現在の立石峠(国道10号)が拓かれてから廃道になっている。

一方、地蔵峠は地元の人たちによって整備され、ザビエル街道(ザビエルが山口から府内に向う時に通った道)として、遊歩コースになっている。



5.総大将、吉弘氏直の死

4月6日未明、大内軍は佐田朝景(ともかげ)の先導により、夜陰に紛れて佐田越えの難路を通り、大友の本陣がある大村山(おおむれさん)の麓に到着する。

大内軍が進軍したルートは、宇佐神宮の西を南下し、御許山(おもとさん)と大蔵山(おおぞうさん)の間を通り抜け、米神山(こめかみさん)の西麓を通って、大村山をめざした(県道658号〜県道716号)ものと考えられる。

大内軍総大将の陶興房は本陣を大村山の麓、石河野(いしかわの)に置き、百人の奇襲部隊を密かに大友の本陣近くに潜ませた。

夜明けとともに大内の奇襲部隊が一気に大村山を登り、大友軍の本陣に襲い掛かかる。

不意を突かれた大友軍は仰天し、

「大内軍が、天から降ってきた!」

と言う、混乱ぶりであったという。

「敵は少数であるぞ。ひるむでない!!」

総大将の吉弘氏直は、檄(げき)を飛ばし、混乱した兵を必死で立て直す。

大友軍が兵を立て直し、反撃に転じると、大内の奇襲部隊は、山を駆け下りて退却を始めた。

「敵は、我らに恐れをなして逃げていくぞ。追えー!!」

と、氏直は命じた。

「総大将、追撃は危険でござる。大軍の待ち伏せがあるかもしれませぬ。せめて、立石、地蔵両峠からの援軍が到着するまで待ちましょう」

と、副将の寒田親将(そうだ・ちかまさ)が氏直に進言した。

しかし、総大将の吉弘氏直は血気に逸(はや)り、

「敵は、夜も寝ずに進軍し、疲れておろう。この機を逃しては、勝利はあるまい。このまま一気に叩き潰してくれようぞ!!」

と、大村山の斜面を馬で駆け下り、逃げる大内軍を追撃した。

大将の氏直を先頭に、大内軍を追い立てる大友軍は、雁行の陣(がんこうのじん:雁が群れなして飛ぶ様子を形にした陣形で、突進力に優れるが、消耗戦に弱く、長時間の戦闘では不利となる)となって突っ込んでいった。

すると、目の前に、大内の大軍が現れた。

大村山を駆け下りた大友軍は、まんまと大内軍の誘いに引っかかった。

大内軍は鶴翼の陣(かくよくのじん:大将を中心に鶴が羽を広げた形になり、両翼の間に入ってきた敵を包囲、せん滅することを目的とした陣形)で、待ち受けていた。

両軍は石河野一帯で、激しい戦いを繰り広げる。

最初は、総大将の氏直が自ら先頭に立って兵を指揮していたこともあり、大友軍が優勢だったが、徐々に、数に勝る大内軍が優勢になり、両翼から大友勢を取り囲むように迫る。

このままでは、全滅しかねないと悟った氏直は、

「敵の本陣めがけて、突き進めー!!」

と、檄を飛ばし、中央突破をめざす。

「我は、大友の総大将、吉弘氏直なりー!!」

「大内の大将、陶興房殿、出会えー!!」

と、叫びながら、大内軍の本陣をめがけて、馬で駆け抜けた。

この様子を、遠くから見ていた興房は、

「まだ、若いのう・・・、この興房を相手に戦うには、10年早いわ!」

と、つぶやいて、

「敵の大将を射落とせ!」

と、大内の弓隊に命じた。

氏直は、弓矢の攻撃にもひるまず、刀で矢を払いよけながら、興房の目の前に迫った。

その時、氏直の乗る馬に矢が命中して馬が倒れ、氏直は、馬から転げ落ちる。

「弓で馬を攻撃するとは、陶興房は天下一の卑怯者なりー!!」

「興房、出てきて正々堂々と勝負しろ!!」

と、大内の本陣に向って叫んだ。

と、同時に、大内勢は氏直めがけて矢を一斉に発射した。

雨の様に降り注いだ矢は、氏直の身体を無数に突き刺し、針ねずみのようになった。

これを見た家臣の広瀬裕則(やすのり)が、馬から飛び降り、氏直を背負って救出しようとした。

しかし、裕則も矢の餌食となり、ニ人とも討ち死にしてしまう。

大友軍の副将、寒田親将は、

「総大将の首を敵に渡すでないぞ!!」

と、全軍に檄を飛ばし、自らも槍で防戦しながら駆け寄るが、大内軍の猛攻の中、大奮戦ののち戦死してしまう。

大友軍は、大将、副将が討ち死にし、総崩れとなる。

敵の大将を討ち取ったことで、勝利を確信した大内軍は凱歌を上げて一息入れた。



6.大友の弔い合戦

昼頃になると、立石(たていし)峠、地蔵(じぞう)両峠を守っていた1千8百の大友軍が本陣の救援に駆けつける。

しかし、時既に遅く、吉弘氏直、寒田親将が討ち取られた後だった。

田北鑑生を中心とする救援部隊は、総崩れになっていた本陣隊と合流し、弔い合戦とばかりに、大内軍に猛攻をかけた。

大内軍は勢場ケ原(せいばがはら)まで退き、兵を立て直し、応戦したが、新手の大友軍に攻め込まれ、総崩れとなる。

大内軍は副将の杉長門守(重信)が討ち死にし、大将の陶興房も負傷した。

興房は負傷しながらも、敗残の兵をまとめ、大友軍の追撃を逃れて、豊後高田の海岸から船で周防に退去した。

この戦いは、大友氏、大内氏の争いの中で最大となり、死者は大友軍283名、大内軍358名と云われ、負傷者を含めると相当な数になろう。

現在、大村山の頂上には吉弘氏直、寒田親将などの供養碑があり、また山麓にある数十基の板碑(いたび)は大内方の供養塔といわれている。

結果的には、大内軍に甚大な被害を与え、豊後から追い払うことが出来たので、大友軍の勝利と言えよう。

しかし、被害の規模(大将の吉弘氏直と副将の寒田親将が討ち取られた)を考えると、軍事的には「引き分け」とする意見が多い。

この戦いの後、大友、大内氏は足利幕府の仲介を受けて和睦し、両者の争いはなくなったが、偶然にも大友義鑑、大内義隆とも家臣の謀反により討たれることなる。

そして、豊前、筑前は義鑑の後を継いだ息子の宗麟(義鎮)のものとなり、北部九州は宗麟を中心に、大内氏の跡を継いだ毛利氏、少弐氏に取って代わった竜造寺(りゆうぞうじ)氏が絡んで、新たな展開をむかえることになる。



作成 2011年11月27日 水方理茂


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