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鶴崎城攻防戦

 天正14(1586)年12月、戸次川の合戦に勝利した島津軍は、そのままの勢いで軍勢を二手に分け、府内の大友屋敷(大分市顕徳町)と鶴崎城(大分市南鶴崎)攻撃に向う。
 鶴崎では吉岡妙林尼(みょうりんに)が、源平時代の巴御前を思わせる武者姿で、僅かな兵とともに守りを固めていた。島津軍は攻めること16回、どうしても城を落とすことが出来なかったので、和睦を申し入れる。妙林尼は城内の食料、弾薬が尽きたこともあり、やむなく和睦を受け入れるが、再び敵を討つ手段を探っていた。
 年が明けて3月、豊臣秀吉軍が小倉に上陸したとの報が入り、島津の全軍に退却の命が下る。出発の前夜、妙林尼は島津の武将を屋敷に招いて大宴会を開き、酒食と美女で歓待し、その隙に、鉄砲を持った伏兵を乙津川(大分市西鶴崎)に忍ばせる。
 翌朝、鶴崎を去る島津軍は、乙津川にさしかかったところで、鶴崎勢の放つ鉄砲の集中攻撃を受け、多数の死傷者を出して壊滅する。妙林尼の計略は見事成功して勝利をおさめた。

 ※詳しくは、戦記_鶴崎城攻防戦肥後領鶴崎で思うをご覧ください。

(2010年4月20日作成)


鶴崎城跡
大分市南鶴崎3丁目

鶴崎城は、現在の鶴崎小学校、鶴崎高校周辺にあったといわれる。鶴崎小学校の校門を入ったところに、小さな標柱と説明板がある。天正14(1586)年の豊薩戦争では、女城主、吉岡妙林尼が島津軍を翻弄し、撃退した場所でもある。江戸時代には、熊本藩の御茶屋(藩主の宿泊所)が置かれた。
(2010年4月撮影)


琵琶の首
大分市大字鶴崎字国宗

鶴崎城は大野川の河口にできた三角州の中にあり、三方が海と河という天然の堀に囲まれた平城であった。大野川と乙津川に挟まれた狭い地域(現在の国宗く天満神社周辺)は、琵琶の首と呼ばれている。天正14(1586)年の豊薩戦争では、鶴崎城を守る兵が、この地に堀や土塁を設け、島津軍の攻撃を防いでいる。
(2010年4月撮影)


乙津(おとづ)川古戦場跡
大分市西鶴崎2丁目

天正15(1587)年3月、豊臣秀吉軍の到来を知って、島津の全軍に退却命令が下される。鶴崎城を占領していた島津軍が、乙津川を渡って退却しようとした時、妙林尼の命で待ち伏せていた鶴崎勢の鉄砲が火を放ち、多くの島津兵が討ち取られた。この戦いは、寺司浜の戦いとも呼ばれている。
(2010年4月撮影)


寺司(てらじ)地蔵尊
大分市西鶴崎2丁目

地元では、乙津川の戦い(寺司浜の戦いともいう)の戦死者をこの地に合葬し、千人塚と呼んだ。ところが、行き倒れ、大火事、疫病が流行したので、千人塚の上に地蔵尊を安置して、大供養を施したという。その後、災難や不幸な事が無くなったといわれている。
(2010年4月撮影)


東厳寺(とうごんじ)
大分市大字鶴崎字国宗

東厳寺は、鶴崎城と琵琶の首の中間点(鶴崎高校のグラウンドの傍)に位置する。この寺には、乙津川の戦いで戦死した島津の武将、伊集院美作守と白濱周防守の位牌と墓がある。墓石群の中に、ひときわ高い石柱が目に付くが、これが両将(伊集院、白濱)の供養塔である。


(2010年4月撮影)
 


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