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大友戦記 鶴崎城攻防戦
合戦展開図(ここをクリック!!)
1.島津軍3千が攻撃

天正14(1586)年12月12日、戸次川の合戦で勝利した島津家久は、伊集院美作守久宣、野村備中守文綱、白浜周防守重政に兵3千を付け、大野川下流にある鶴崎城の攻撃に向わせた。

そして、自らが率いる本隊は敗走していく大友軍を追って、府内へ向う。

鶴崎城(現在の鶴崎小学校、鶴崎高校周辺)は、吉岡宗歓(長増)が大野川河口の三角州に築いた平城である。

城は別府湾、大野川、乙津川という自然の堀に囲まれ、唯一の陸地も琵琶の首と呼ばれる細い陸地があるだけの構えになっている。

大野川と乙津川に挟まれた高田輪中と鶴崎デルタの地形が琵琶の形をしており、現在の国宗(くにむね)天満宮あたりが琵琶の首にあたる。

城主、吉岡甚吉(後の統増)は、母である妙林尼(みょうりんに)の

「この城は母に任せ、そなたは大殿(大友宗麟)をお守りせよ!」

と言う命に従い、臼杵城に駐在していた。

甚吉の父、鑑興(あきおき)は、耳川の合戦(島津軍と大友軍が日向で戦い、大友軍が大敗した)で戦死している。

祖父の宗歓は臼杵鑑速(あきすみ)、吉弘鑑理(あきまさ)とともに豊州の三老と敬称され、大友氏の最盛期を支えた。



2.琵琶の首の戦い

城を預かることになった妙林尼は、鎧(よろい)の上に陣羽織(じんばおり)、額に鉢巻(はちまき)、手には薙刀(なぎなた)という格好をし、源平時代の巴御前(ともえごぜん)を思わせるような装束(しょうぞく)で島津軍を迎え撃つ準備をする。

吉岡の精鋭部隊は、息子の甚吉に従って臼杵城に駐留しており、この城には僅かな兵と地元の百姓を含めた老若男女しか残っていなかった。

妙林尼は自ら指揮して百姓に鉄砲を教えこみ、武家の女には薙刀で武装させた。

城の周りには二重、三重に堀や柵をめぐらし、敵の侵入口には落とし穴を設け、その中には竹の切り口を上向きに立てるという周到さであった。

島津軍は高田方面から北上し、琵琶の首で待ち受ける高田の徳丸一党と地元の百姓で編成する部隊と激突した。

一気に攻めかかる島津兵の姿が、突然目の前から消えたと思えば、落とし穴に落ちて慌てふためく有様であった。

その上から、鉄砲が一斉に狙い撃ちにし、撃退する。

琵琶の首での戦いは、味方にも死傷者が出たが、大勝利であった。

守りが厳しく、攻めきれないと思った島津軍は、体制を立て直すため、対岸の種具(たねぐ)山に退いた。



3.敵の攻撃に耐える

「城とは名ばかりの平地、堀も柵も俄か造りの構えで、決して破れない守りではないぞ!」

「しかも、城主は女と云うではないか、たいした策があろうはずも無かろう。一気に踏み込んで、攻め滅ぼしてくれようぞ!」

島津軍は意気込んで攻めかかったが、妙林尼の機略によって阻まれ、城を落とすことが出来ないでいた。

その攻撃は、16回にも及んだという。

妙林尼は戦いにおいては陣頭で指揮し、寒夜には自ら酒を配り、兵士の労をねぎらって、味方の士気を上げていた。

そんな中、数名の家臣が妙林尼の前に進み出て、

「これまで、良く戦い勝利してきましたが、多勢に無勢・・・。この辺で和睦しては如何かと・・・」

妙林尼は顔色を変えると、目をむいて、

「汝ら、なんと臆病ぞ!!」

と、持っていた太刀を抜くや否や、その家臣の目の前に突き出した。

これに、家臣達は恥じ入り、畏縮して退いたという。



4.一旦和睦し、歓待する

その後、戦いは膠着(こうちゃく)状態のまま、幾日か経た。

島津の三将は吉岡家譜代の家臣、中島玄佐、猪野道察に使者を立て、和睦を説いた。

中島、猪野の両名は島津軍から出された和睦を受け入れるよう妙林尼に勧める。

「わかりました。受け入れましょう」

妙林尼の怒りを予想していた両名は、この言葉に耳を疑った。

この時、城中の食料、弾薬も残り少なくなっていた。

妙林尼は、一旦和睦し、再び策をこらして敵を討つ手段を探ろうと考えていた。

和睦が整うと、妙林尼は侍女と供に城を出て、城下にある家臣の屋敷に移る。

入れ替わりに、島津軍が城に入城した。

城を出た妙林尼は、これまでの態度を一転し、島津兵をもてなすことに専念する。

伊集院美作守、野村備中守、白浜周防守らの諸将を自邸に招き、美食、美酒で饗応し、若い女には勺をさせ、歌や舞などでもてなした。

長い間、国許を留守にし、妻と離れて戦いに明け暮れていた諸将達は、久しぶりに味わう女との営みに、心も体も腑抜けにされていった。



5.送別の宴

天正15(1587)年3月、関白秀吉軍20万が小倉に上陸したとの知らせが入る。

島津軍の総大将、島津義久より、本国での戦いに備えるため、豊後に駐留する島津の全軍に退却の命が下った。

鶴崎に駐留した島津軍も薩摩に引き上げるための準備を整えた。

伊集院、野村、白浜の三将は、妙林尼邸を訪れ、

「明日、ここを出発するが、御身は如何されるか?」

と聞くと、妙林尼は、

「大友家に背き、貴君等と深く交わった我等は、ここに残れません。我が配下共々、召し連れて下さいませんか?」

と、答えた。

これを聞いて、三将は喜び、配下の者に籠(かご)を手配させた。

その夜、妙林尼は美酒、美食と美女をはべらせ、三将を歓待する。

鶴崎での最後の夜を楽しんだ三将は、千鳥足になりながら邸を後にする。

妙林尼は玄関に出て、姿が消えるまで見送ると、配下の兵達を集め、命を下す。

「かねてより伝えていた時がきた。一刻も早く乙津川の周りに兵を忍ばせよ!」

150名余りの兵が、この時が来たとばかりに、闇に散っていった。



6.寺司浜(乙津川)の戦い

明けて3月8日、島津軍は兵を連ね、3ヶ月間駐在した城を出て、乙津(おとづ)方面に進んで行った。

すると突然、藪の中から一斉に、鉄砲の音が炸裂した。

これを合図に、竹薮に隠れていた鶴崎勢の老若男女が一斉に島津軍に襲いかかる。

これに驚いた島津軍は我れ先にと逃げ出した。

すると背後から、

「亡き夫の無念を晴らすのは、この時ぞ・・・。一兵たりとも、逃がすでない!!」

と、妙林尼が日向後家(耳川で島津との戦いで戦死した武将の妻)と呼ばれる未亡人の一団を率いて、薙刀で襲いかかる。

昨夜まで妖艶を振りまき、島津の兵を歓待していたのが嘘のようであった。

島津軍は西方の寺司(てらじ)の浜に追い込まれ、追いつ、返しつつの戦いが行われた。

島津兵の多くが討ち取られ、大半は川の流れの中で浮いたり、沈んだりして、溺死する者も多かった。

この戦いで、伊集院美作守、白浜周防守を含む3百名以上の島津兵が戦死した。

野村備中守はかろうじて逃れたが、胸に弓矢を受けた傷がもとで、日向の高城にて死亡したという。

妙林尼は、翌9日、敵将の首63個を臼杵の宗麟のもとへ送った。

臼杵城では宗麟をはじめ、一同が妙林尼の忠義と働きを褒め、喜んだという。

後に関白秀吉もこれを聞いて大いに感激し、妙林尼に一目合いたかったらしいが、果たされずに終わったという。

その後、妙林尼の消息は歴史上からは消えているが、豊後女の恐ろしさは、後世まで語り継がれている。



作成 2010年4月20日 水方理茂

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