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大友氏歴史年表
神角寺の戦い
玖珠城攻防戦
高崎山城攻防戦
姫岳の合戦
御所の辻合戦
勢場ケ原の合戦
二階崩れの変
門司城攻防戦
多々良川の合戦
耳川の合戦
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鶴賀城攻防戦
戸次川の合戦
鶴崎城攻防戦
石垣原の合戦
御所の辻合戦

 応仁の乱、明応の政変で室町幕府の権威が失墜していく中、大友氏は『御所の辻合戦』を契機に守護大名から戦国大名への道を進むことになる。
 『御所の辻合戦』については、宇佐・永弘文書に「大友親治が、両方で5百人ほど討たれた御所の辻合戦に勝利することで、不穏分子を鎮圧した」と、わずかな記述があるのみで、戦った相手の名前や場所なども含めて、不明な点が多い。この合戦は、大友氏の運命を変える大きな出来事であったが、天文19年の『二階崩れの変』とともに多くの謎に包まれている。
 南北朝以来、大友氏の家督は氏継系と親世系で交互に継承されていたが、15代親繁は自分の家系で継承していくため嫡男、嫡孫に家督を譲る。ところが、家督継承に不満を持つ大聖院宗心、大内氏、それに前将軍(義材)と新将軍(義澄)の争いが絡んで政親、義右父子が対立し、両者とも急死してしまう。この急死によって大友家中は混乱するが、政親の弟である親治によって平定される。こんな状況の中で、御所の辻合戦が起きている。
 今回は、残された資料が少ない中で、明応5(1496)年に起きた『御所の辻合戦』の真相に迫ってみました。 是非、ご覧ください。

 ※詳しくは、戦記_御所の辻合戦日田のおひな祭りをご覧ください。


(2015年7月20日作成)


日田城(ひたじょう)
日田市北豆田慈眼山公園

中世、豊後日田郡を治めていたのは、郡司を代々務めていた日田大蔵氏であった。大蔵氏は日田城を居城とし、日田氏を称するようになる。日田氏は南北朝〜室町時代にかけて、奉公衆(将軍直属の軍隊)となり、守護職の大友氏と肩を並べるほどの勢力を持っていた。文安元(1444)年、大蔵系日田氏は一族による家督争いで血脈が絶えた。その後、大友氏より養子を迎えて再興したが、その大友系日田氏も6代で絶えることになる。

(2015年3月撮影)


飯塚城跡

国東市国東町安国寺(国東小学校)

飯塚城は田原氏4代の貞広が築城して約30年間、田原氏の居城であった。現在、城跡は国東小学校の敷地となっている。田原氏は大友初代能直の庶子泰広が豊後国東郷の地頭職を与えられ、国東郡田原別府に定住して田原氏を名乗ったのが始まりである。田原氏は大友一族の中で最大の勢力を誇り、大友氏を凌ぐほどの勢いを示していた。しかし、戦国大名として権力を集中しようとする大友本家と常に対立するようになる。

(2015年3月撮影)


太陽山 安国寺
国東市国東町安国寺2245

安国寺は、建武4(1337)年頃に足利尊氏が、後醍醐天皇をはじめ南北朝争乱の戦死者の菩提を弔うために全国に建立を発願したことに始まる。国東市の安国寺は、応永元(1394)年に田原氏能(うじよし)が足利義満の命を受けて建立したと伝えられる。ここには、国の重要文化財に指定されている足利尊氏の坐像が安置されている。これは、尊氏の彫刻として最も古く、中世の俗人彫刻の代表的な作例として貴重な文化財である。

(2015年3月撮影)


箕崎(美濃崎)海岸
杵築市大字狩宿美濃崎

明応3(1494)年、田原親宗は国東郡より動員した2千の兵で府内を攻撃するが失敗する。そして、撤退する途中、安芸郷の箕崎(現在の杵築市美濃崎)で討ち死にする。この地は、別府湾を一望にできる海上交通の要地であり、親宗の府内攻撃の際も、ここから多数の軍船が出動し、兵站基地的な役割をしていたものと思われる。現在でも美濃崎漁港があり、漁業や水産加工業が盛んである。

(2015年3月撮影)


大智寺(だいちじ)
大分市金池町

この寺は、嘉慶元(1387)年に大友氏11代の親著によって創建され、大慧寺(おおえじ)と呼ばれていた。その後、明応2(1493)年に17代の義右が改修し、大智寺と改名される。明応5(1496)年、義右は27歳の若さで病死するが、「父親の政親に毒殺された」という噂もある。大智寺は義右の菩提寺とされるが、墓は見当たらない。天正14(1586)年の島津軍の府内侵入の際、多くの寺社が焼き払われる中、幸運にも戦火を免れている。
(2015年4月撮影)


大友政親の墓(海蔵寺跡?)
臼杵市戸室

大友氏16代の政親は、15代親繁の長男として生まれた。妻は大内政弘の妹で、嫡男の義右を生んでいる。家督を義右に譲った後も、後見人として権力を維持する。明応5(1496)年、現将軍の義澄と前将軍の義材の争いに巻き込まれた親子は対立し、両方とも急死する。政親は赤間関で大内義興に捕えられ、長門の舟木地蔵院にて切腹させられたといわれる。享年53歳であった。生前の遺言で、ここ(父親繁の近く)に葬られた。

(2013年4月撮影)



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