飯塚城跡
国東市国東町安国寺(国東小学校) 飯塚城は田原氏4代の貞広が築城して約30年間、田原氏の居城であった。現在、城跡は国東小学校の敷地となっている。田原氏は大友初代能直の庶子泰広が豊後国東郷の地頭職を与えられ、国東郡田原別府に定住して田原氏を名乗ったのが始まりである。田原氏は大友一族の中で最大の勢力を誇り、大友氏を凌ぐほどの勢いを示していた。しかし、戦国大名として権力を集中しようとする大友本家と常に対立するようになる。
太陽山 安国寺 国東市国東町安国寺2245 安国寺は、建武4(1337)年頃に足利尊氏が、後醍醐天皇をはじめ南北朝争乱の戦死者の菩提を弔うために全国に建立を発願したことに始まる。国東市の安国寺は、応永元(1394)年に田原氏能(うじよし)が足利義満の命を受けて建立したと伝えられる。ここには、国の重要文化財に指定されている足利尊氏の坐像が安置されている。これは、尊氏の彫刻として最も古く、中世の俗人彫刻の代表的な作例として貴重な文化財である。
箕崎(美濃崎)海岸 杵築市大字狩宿美濃崎 明応3(1494)年、田原親宗は国東郡より動員した2千の兵で府内を攻撃するが失敗する。そして、撤退する途中、安芸郷の箕崎(現在の杵築市美濃崎)で討ち死にする。この地は、別府湾を一望にできる海上交通の要地であり、親宗の府内攻撃の際も、ここから多数の軍船が出動し、兵站基地的な役割をしていたものと思われる。現在でも美濃崎漁港があり、漁業や水産加工業が盛んである。
大友政親の墓(海蔵寺跡?) 臼杵市戸室 大友氏16代の政親は、15代親繁の長男として生まれた。妻は大内政弘の妹で、嫡男の義右を生んでいる。家督を義右に譲った後も、後見人として権力を維持する。明応5(1496)年、現将軍の義澄と前将軍の義材の争いに巻き込まれた親子は対立し、両方とも急死する。政親は赤間関で大内義興に捕えられ、長門の舟木地蔵院にて切腹させられたといわれる。享年53歳であった。生前の遺言で、ここ(父親繁の近く)に葬られた。