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臼杵城攻防戦

 天正14(1586)年11月、薩摩の島津家久を大将とする2万の軍勢が、日向街道(現国道10号にあたる)沿いに豊後へ攻め入る。府内をめざす家久は、背後からの攻撃を防ぐため、2千の軍勢を臼杵城(臼杵市)に差し向ける。この城は、大友宗麟(義鎮)が臼杵湾に浮かぶ丹生島(にゅうじま)と呼ばれる島に築いた天然の要塞である。現在の臼杵城は周囲が埋め立てられて陸続きになっているが、当時は断崖絶壁に囲まれた島であった。
 臼杵城には津久見で隠居生活していた宗麟が、僅かな配下と城下から集まった老若男女とともに籠り、ポルトガルから購入した『国崩し』と呼ばれる大砲で応戦し、島津勢を寄せ付けなかった。大砲の威力で敵が混乱する中、城から打って出た大友勢は、平清水(ひらそうず)、二王座(におうざ)で戦いを繰り広げ、島津軍を追い払う。
 こうして、3日間の戦いを繰り広げた後、島津勢は見張りの兵を残し、徐々に引き上げる。この戦いで、宗麟が心血を注いだキリスト教の建築物や南蛮文化が栄えた町は、灰燼に帰してしまう。

 ※詳しくは、戦記_臼杵城攻防戦臼杵の城下町を散策をご覧ください。

(2010年4月20日作成)


臼杵(丹生島)城址
臼杵市臼杵城址公園内

臼杵城は、大友宗麟が臼杵湾に浮かぶ丹生島に城を築いたのが始まりとされる。丹生島は、干潮時に遠浅で陸続きになるが、通常は海に囲まれた天然の要塞であった。江戸時代には、稲葉氏が臼杵に移封され、臼杵藩5万石の城下町として、明治時代まで栄える。現在は、城の周辺が埋め立てられ、島の面影は無くなっている。

(2010年4月撮影)


大砲(国崩し)
臼杵市臼杵城址公園内

臼杵城祉公園内には、大友宗麟が島津軍を撃退する時に使用したとされる大砲のレプリカが置かれている。本物は東京の靖国神社に奉納されている。宗麟が「国崩し」と命名した大砲はポルトガルから贈られたとも購入したともいわれている。天正14(1586)年の豊薩戦争では、その威力を発揮し、島津軍を驚かせた。

(2010年4月撮影)


平清水(ひらそうず)
臼杵市大字福良平清水

天正14(1586)年の豊薩戦争で、島津軍の攻撃を受けた時、臼杵城の大手口から『国崩し』と呼ばれる大砲が放たれ、菟居島(うさいじま、現在の平清水)の島津軍に命中し、多くの死傷者を出したという。現在の平清水には、三重塔で有名な龍原寺と、その周囲にある光蓮寺、大橋寺と臼杵を代表する寺院が連ねている。

(2011年8月撮影)


二王座の切り通し
臼杵市二王座周辺

臼杵城を取り囲んでいた島津軍は、城内から放たれる大砲の攻撃に驚いて、平清水の陣に逃げていった。逃げ戻る島津兵は、この二王座の切り通しで、吉岡甚吉、利光彦兵衛、吉田一祐らの奇襲を受け、数十名が討ち死にしている。江戸時代には、臼杵藩の城下町として、上級武士の屋敷や寺が立ち並んでいた。

(2010年4月撮影)


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